偶像崇拝




 ――かみさまがもし人型の偶像をおつくりになられたとして、そうしたら、それはきっとかれのような姿をしているでしょう。


 騎士団にきてすぐ耳に挟んだその噂に、ソルはあほらしい、とばかりに胡散臭そうな溜め息を吐いて煙草を咥え直した。団員達の間でまことしやかに囁かれているその噂話には、決定的なミスがいくつか含まれている。まず神はいない。ので、神が人型の偶像を作ることもない。だから「ヤツ」も決して人の形をした神の偶像などではない。神の子でもなんでもない、あれはただのわきまえを知らないクソガキだ。
 だというのに、何故そんなことを、口々に噂されてしまうのか。
 そのことを問うと、クリフは答えず、代わりに控えていたベルナルドが「戦場へ出向けば嫌でもわかりますよ」と小さく言った。それが何かどうしようもなく不吉な符号のようで、その晩ソルはいつもより余計に酒を含み、そうして朝になって、まだわだかまりを抱えたまま出撃を待っている。
「俺が見た限りじゃ、本当に普通の、ちょっとばかり頭がいいだけの子供だったがな」
 初日の顔合わせではミドルスクールのキッズのような顔をして思い切り人を指さしてぷんすか拗ねていた有様だし、それから三日ほど、修練所やら図書室、食堂、果ては裏庭、あらゆるところで何故か彼と遭遇したが、規律大好きなお子様といった感じで、喜怒哀楽の表現も豊かな、本当に普通の少年だった。幼くして親を亡くし、その顔も覚えていないと聞いたが、クリフが保護者代わりをしてくれているから、と特に自分の境遇に不満を持っている様子はない。ひとつ気になることと言えば妙に聞き分けが良すぎることだったが、これもことソルに関してだけは、他の物事とは真逆でいつもつっかかってきていた。ぱっと見た限り、彼は元気で健康な十五歳の男の子だった。人間らしく振る舞い、どこにでもいる聖戦の最中に生まれた命としてそこを歩いている。


◇◆◇◆◇


 むごい有様だった。
 初めて聖騎士団の、集団の歯車の一つとしてギア殲滅戦に参加したソル=バッドガイが、唯一心の底から絞り出した感想はそれだけだった。初陣はさほど本部と距離のないチューリッヒへの軽い遠征で、被害度数はさほど重度ではなく、小型のギアが群れてぞくぞくわき出ているという、ソルにとってはさりとて難しくもない戦いだった。
 ただ一つだけソルの目に異様に映ったのは、この戦闘の指揮権を持っている少年がとった、とても正気とは思えない行動と、それを誰も咎めることのない集団の異常だ。
 全体にある程度の指揮を出してすぐ、彼は単身で最も被害の激しい激戦区へ走り出した。指揮官がひとりでだ。そんなやり方、どんな戦術書にもおよそ書いてあるとは思えない。そしてその後を、言い渡された命を守って他の騎士達が進んで行く。ソルは驚き、手近な騎士に「誰かヤツを追わねえのか!」と叫んだが、それに対する答えは驚くほど簡素なものだった。
「我らが追えばカイ様の足手まといになります。無論保険は掛かっていますし、それで十分です」
「馬鹿野郎が! どんなに戦力として評価されてようが、ヤツは指揮官でその上子供だ! あんなの一人で放っておいたらいつか死ぬに決まってるだろうが!」
「しかし、カイ様は特別です」
「ああ?!」
「カイ様は我々とは違います。あの方は――天使なのです。我々に与えられた、聖戦における最後の切り札です。あなたも見ればそれがわかる」
「……クソッタレが!」
 話にならない。そう判断し、胸ぐらを掴み上げてやりたい衝動を堪えてソルはカイを追って駆け出す。向かった方角はわかる。ギアの匂いが最も色濃い場所だ。花の香りに惹かれる蝶々のように、彼はまっすぐ迷いなくそこへ走っていった。そのことを、空間に残留する雷の法力がソルへ示している。

 そしてソルは、辿り着いた先の廃墟で彼らが天使と呼んだものを見た。
 追いついた頃には、辺り一帯は瓦礫と血の臭いで埋め尽くされていた。ギアが流す血は、元がふつうの生き物だから、当たり前に赤い。それらの生々しい鮮血に囲まれるようにして少年が立ち尽くしている。右手に血まみれの剣を携え、嘘みたいに青く晴れ上がった晴天を見上げ、身体じゅう、返り血に染めていることにまるで気がついたふうもなく。
 その様にソルは、天使には人の心がわからないのよ、と昔誰かに囁かれたのを思い出した。
 天使は人とは違うもの。ただ、神の命を実行するためだけの手足。そこに人間らしい感情などないのだ、と聖書を手繰りながら誰かは言った。天使にとっては神の命が絶対。それだけが天使達の正義だから、彼らは無感情に、無慈悲に、なんの躊躇いもなく、時として人の都を滅ぼす。熾天使が幾度となくそうしたように。背徳の街が手をくだされたように。
 たとえ神の下した命がごく一面的な正義だったとしても、天使の行動理念には何ら関係しない。
 そういう意味では、団員達が彼を天使と呼ぶ理由が、ソルにも理解出来るような気がした。
「人が他を敬うのは、同時に畏れを抱くからだ。また同時に、自分は仇なさぬ、御身の下である、とアピールすることで矛先を逸らしあわよくばその庇護下に入ろうとする。浅はかだが、己を守るための本能としては悲しいぐらいに正しい。神が己を敬うものを滅するのなら、教会で賛美歌なんぞ誰が歌う」
 立ち尽くしている少年は人の形をした兵器そのものだった。ソルは彼に歩み寄りながら、胸中ではじめに彼を「兵器であれ」と呪った誰かを罵倒する。誰だ。一体誰が、そんな真似を。ただ一人の人間が彼を兵器にしたわけではない、ということはなんとなくわかっている。だがそれでも罵らずにはいられなかった。こんな子供を戦地へ立たせ、あまつさえこんな光景を生み出すような偶像へ仕立ててしまった世界がこの上なく呪わしい。
 その一端を、少なからず自分が担っていることをソルは知っているから。
「……ソル?」
 物音に気がつき、少年がこちらへ振り返る。頬にも例外なく血が飛散し、黙っていれば人形と見まがうほど美しい顔面が台無しになっている。だが何より酷かったのは、彼の表情だった。今目の前にいる少年の顔にはおよそ感情というものが一つも宿っていない。そこにあるのは、ただ少年の形をしているだけの、機械だ。
「これを」
「はい」
「テメェ一人でやったのか」
 訊ねると、彼はこくりと頷いた。団の中で最も年若い彼が先陣を切って飛び込んでいき、それを誰も咎めず、補佐もしに来ないような、そういう状況については一つの疑問も抱いていないようだった。
「そうです。わたしが」
「それは何故だ?」
「何故? おかしなことを――聞くんですね。だってこれらはギアですよ。殺さなきゃいけないものです。わたしが殺せば、仲間が、人が、死なずに済みます。それにわたしにはそれが出来るんです。そのための力があるのだから、やらなきゃ」
「嫌だと思ったことはないのか」
「……ほんとに、変なひとですね、あなた?」
 ありませんよ、と否定をするものが、昨日食堂で嬉しそうにイチゴを囓っていた少年と同じだと信じることが、すぐには出来そうにもなかった。あまりにも目の前にいる彼からは人間性が剥離していて、欠如しすぎて、不完全だった。うつくしい少年の姿形を保っているだけ不気味だった。人でないものが、そう、例えば天使が――人の皮をかぶって人のふりをしているのに似て、ぞっとしない。
(だがコイツは、人間だ。れっきとした。俺みてえな化け物とは違うはずだ)
 きっと彼は知らないのだ。子供は夜一人でトイレへ行くのを怖がったっていいし、命をかけることを、恐れていい。命を摘み取り続けることへ躊躇いを感じていいし、たまにはわがままを言って、世界が自分の思い通りにならないからといって、拗ねたって構わない。でも彼はそれを知らない。子供に許された傲慢も自分がまだ子供であることも、忘れようと務め、己の手で、どこかへ置いてきてしまった。
 そのたび心ない天使に近づいて、兵器と化し、しかし誰もそれを咎めない。
 誰にもそれを止められなかった。
「返り血くらい、気にしろ」
 肩に手を起き、唇を近づけ、頬に付着した血液を舐めとる。錆び付いた鉄の匂いが鼻につく。ひどくまずい。だがそれは当然のことなのだ。これは彼が殺した命の果て。己が兵器であることを悲しまない、機械的な殺戮の答え。
「あ、ちょっと、何して。不衛生です。ギアの血なんか口に入れて、お腹でも壊したらどうするつもりで……」
「なあ、坊や」
「多分毒は含まれていないと思いますが……って! ぼ、坊やって、なんです、その!」
「坊や、次からは俺も連れて行け。一人で行くな。指揮官が突っ込んで、死んだら、どうする。誰がそのあとの指揮を執る……」
「…………。本当に、変なの……」
 人でない己が、人であって欲しい、と誰かに願うのが、この上ない傲慢だということはわかっている。けれどそれでも、ソルは彼の皮膚に滲む血を拭うことを止めなかった。クリフが自分を呼んだ理由がきっとここにある。この少年を、カイ=キスクを、聖戦から守ることが、あの老人が己に求めた対価なのだということを嫌と言うほど理解している。


◇◆◇◆◇


 これでいいのだ、とソルは引き留める腕を振り払って独りごちた。これでいい。これならもう、ソルがするべきことは何もない。
「……貴様ッ! 貴様のような男に……神器を使う資格などない!」
 激昂する少年は、人間らしい、剥き出しの感情を露わにし、ひどく利己的な理由で怒りをそこらじゅうに振りまいている。ソルを見る彼の瞳は感情的に燃え上がり、彼が今、自分自身のために剣を握っているのだということがはっきりと示されている。礼儀として剣を掲げ、ソルは一つ息を吐いた。やるべきことは終わった。もう心ない天使はいない。命を奪うための兵器も、正しいとされたことを実行するだけの機械も、どこにも。
「俺のここでの役目はもう終わりだ。これ以上、坊やの子守りはたくさんだな。うんざりだ――テメェもそうだろう? 悩みの種がなくなってせいせいするだろうさ。もう二度とテメェは俺の奔放さに腹を立てなくてすむ」
「そんなことは問題じゃない! この、一つでも戦力を手放したくない時期に神器まで盗み出そうという男を私が見逃せると思うのか。それを許せるわけがない」
「は、何が許せねえってんだ? なあ、坊や!」
 彼が本当に許せないのが何に対してなのか、彼自身、薄々勘付いているはずだ。組織を棄てていくことよりも、神器を持ち出そうとしていることよりも、何より許し難いのは、きっとソルが彼を裏切ることについてで。
 翻ってその怒りが、誰に言われたものでもなく、彼自身の心から生み出されたものであるのだと、この上なく確かに指し示している。
「選べ。道を開けるか、くたばるか。別に俺が寝返るわけじゃない。俺は俺で勝手にギアを殺す。お互い、やることは何も変わらない。俺がいなかった頃と、何もだ。違うか?」
「違う――違う、全然、何も、貴様はわかっていない……!」
「なら、何が違うのかは、俺がいなくなった後にテメェの胸によく聞いてみるこったな。生きてりゃどこかで会うことも、またあるだろうよ」
 封炎剣を振りかぶる。咄嗟に差し込まれた剣に軌道を阻まれ、金属同士がぶつかり合う鈍い音が響いた。カイは今にも泣き出しそうなひどい顔をしていたが、それはあの日チューリッヒの廃墟で見たものよりよほど好感の持てる表情だ。なまなましく、血が通っていて、傲慢で、驕りたかぶり、愛らしい。
 わがままを言ってもいい、とソルは短い共同生活の中で彼に教えた。戦いに身をやつしても人間でいられるよう、珍しく、親身になって誰かへ与えた。それはいつも形のないものだったが、どこにも行くな――なんて言って喚くようになったのだから、多分それで良かったのだろう。
 炎を撒くと、それに呼応するように必死になって雷が走ってくる。それらをいなし、距離を詰め、王手を掛ける。軽く首の後ろを叩いてやると、カイは気を失い、剣を握りしめたまま地に崩れ落ちていく。それを途中ですくい上げて柱にもたれかけさせ、ソルは彼の耳の中に秘めた言葉を囁いた。