ディアボロスの恋人



 美しいものはこわい。きれいだからこわい。
 それには、触れたら壊してしまうかもしれないから――という理由が付随することもある。でも今回の場合、そうではなかった。ただ、もっとシンプルな恐れがあるのだ。警察機構で末端も末端の仕事をしているアレクサンドラは食堂の片隅で怯えながら昼食を摂っている。何故って、美しいものはこわいし、きれいなものはこわいからである。
「――わかっているのか、おまえ。先日のストラスバーグの件もそうだが、元を正せばアヴィニョンのだな――」
「――ソイツはとっくにカタがついたぶんだろう、坊や。なんだ? 同じ事を何度もグダグダと、いつからテメェの脳味噌には綿が詰まるようになった。大体テメェはいつもいつも――」
(ああ……ほんと、ダメだ……)
 アレクサンドラはもう喉に通らなくなったスープを飲むことを諦め、スプーンをトレーに戻した。
 状況が状況だから、トレーに落ちたスプーンの金属音にさえぞっとしてしまう。でもそれは仕方のないことなのだ。アレクサンドラは恐る恐る、怯えたように食堂の隅を伺う。美しいものが――あの彼が――なんだかよく知らないがものすごく犯罪経歴の凄そうな男と口論をしているのだ。それも生やさしい口げんかではない。彼らは今にも互いの胸ぐらを掴み合いそうな激論を交わしていて、だというのにあの人は鉄面皮のような無表情を貼り付けている。
 あの人……カイ=キスク本支部長といえば、このパリ支部、いや、国際警察機構全ての人員の中でもトップクラスの美貌と人徳を誇る有名人である。その上、弱冠二十三歳という若さにしてもうすぐこの組織全体のトップになるのではないかと目されているのだ。だというのに彼は決して驕らず、どんな相手にも礼儀を欠かず、柔和な笑顔で挨拶をさえしてくれる。かく言うアレクサンドラも、配置初日の彼からの激励ですっかりやられてしまった者の一人だった。それから密かにすれ違っては彼の方を目で追いかけ、整った優しげな相貌に溜め息なんぞ吐いていたのだ。
(それがどうよ、今日は。あんな顔してるところ、今までに見たことがない)
 途切れることなく男と言い合っているカイの方をちらりと見て、すぐにアレクサンドラは皿の中の冷え切ったスープに視線を戻した。彼の無表情が先ほどよりもっと張り詰めて徹底したものになっていて、とてもじゃないが直視していられなかったのだ。あの人は顔がきれいだからすごむと余計にこわい。きれいなものが、しかし人らしい感情をのせず、人形みたいな顔をして冷たい声で糾弾をしていたら、誰だってその光景に畏れを抱くに決まっている。
 ……そう、人形みたいな顔、だ。まさしく。肌が陶磁器で出来た、精緻なフランス人形のような。その例えが自分の考えたものながらぞっとせず、アレクサンドラは知らずに息を呑む。
 しかし……それとやり合っている男の方も大したものだ。そんな人形みたいな彼と真正面から対峙しているというのに、顔色一つ変えないのだから。アレクサンドラが見た限り、男はカイの怒りに全く萎縮した様子もなく、むしろカイを詰り返していた。聞き耳をたてずとも耳に入ってくる会話の内容からして彼ら二人は旧知の知り合いであるらしいが……それにしたってこの動じなさはただごとではない。
 いかにも無頼漢といった風体のその男は、そもそも、警察機構内部の、それも職員用の食堂にいていいような風貌をしていなかった。大柄で身体に傷も多いところを見るに、腕利きの賞金稼ぎか何かなのだろう。しかし賞金稼ぎとカイが知り合いというのもおかしな話である。だとしたらふたりは、取り締まる側と取り締まられる側に分かれ、あんなふうに言葉を交わす理由もないと思うのだが。
「なんだ、ああいうのを見るのは初めてか」
 アレクサンドラが口を閉ざしてうんうん唸り出すと、それを見かねた隣席の先輩が困ったように笑いかけてきた。はあ、実は、などと答えれば、先輩はそうかあ、なんて頷き、肩をすくめて見せる。
「その、自分はここに配属されてまだ二ヶ月でして……」
「ああ、そりゃ道理で。まあでも、慣れるよ、いずれ。あのお二人はいつもあんな調子だからな。顔を合わせればまずカイ様がああなる」
「先輩、あの賞金稼ぎか何かっぽい男のこと、知ってるんですか」
「まあな。有名人だよ、ここいらでは」
 首を傾げるアレクサンドラに、先輩はやはり苦笑したまま「彼は元聖騎士団でカイ様の部下だった男だ」と告げた。
 聖騎士団。あの、人類を守護し、ギアとの百年戦争を終わらせるための旗頭となっていた組織。カイ様に暴言を吐いているあの男が聖騎士……なんて柄にはとても見えなかったが、なるほどそれなら、二人が旧知の仲であってもおかしくはない。
 けれど、それとカイが鉄面皮になることにどのような関係が? 更に膨れあがった疑問にアレクサンドラは首を捻る。確かにカイは、弁明の余地のない犯罪者などを相手にした時は一切容赦のない厳しい裁きと眼を向ける。でもあの男は……いや、そりゃあひどい悪人面をしているとは思うが……お縄に掛けられていない以上、カイが情けをかけない対象であるようには思えないのに。
 そこまで考えたところで、アレクサンドラのとりとめのない思考を遮る大きな音が食堂じゅうに響き渡った。
「――ざってえ。戯れ言はそこまでにしておけ、坊やが。虫の居所が悪ぃのは自由だが、俺の行動をテメェに拘束される謂われまではねえよ」
 その声は、敢えて、ざわつく食堂全体に言い聞かせようとしているようなそういう調子だった。今までカイだけに向けられていたものが聴衆全てへ向けた宣告に成り代わり、聞け、者共、というような引力がそこに含まれているのだ。
 これには、アレクサンドラも振り向いて確かめずにはいられなかった。それからはっとして見渡すと、アレクサンドラだけではなく食堂中殆どの人間が彼らをじっと注視しているではないか。無数の目がひとつの方向を見つめ、息を呑んだり言葉を失ったり、それから僅かに黄色い声が上がったりしているのだ。
 聴衆の視線全てが集中し終えた頃には、押し問答に堪りかねたらしい男が、ただでさえ悪い目つきを一層凄ませてカイを壁に押しつけているところだった。横から覗き見たその悪人面たるや、その晩はもう寝付けなくなってしまいそうなほどだ。そんな凶悪な顔が、鼻と鼻が付いてしまいそうな至近距離でカイに見せつけられている。アレクサンドラはひっという情けない叫び声を喉の奥に押し殺した。自分がカイの位置にいたら、きっと失禁してしまっている。
 当のカイはと言うと、流石に失禁こそしなかったものの相当呆気にとられたようで、そこではじめて、人間らしい血の通った表情をほんの少しだけ見せていた。フランス人形の仮面が剥がれた彼は二十三歳のおとこのこの顔をさらけ出し、しかしそれもすぐに密着する男によって誰にも見えなくなる。
「な……なにを……」
 らしくもなく言葉をたじろがせ、彼の身体は男から逃れようと隙間がある方へ動いていた。
 だが男がそれを許すはずもない。カイの肩を手で掴み取ると強引に押し戻し、とうとう逃げ道の全てを塞いで鼻と鼻が付きそうだった二人の距離を縮め、アレクサンドラの位置からは、カイの耳とうなじぐらいしかもう見えなくなってしまう。
「おい、ソル、おまえ一体なにをして…………う、うわ!」
 そうしてあたりの人間が皆息を呑んだ瞬間、カイがへんな声を上げた。
 その声にアレクサンドラは思わず目を覆ってしまう。何か見てはいけないものが、そこに現れるような気がしたからだ。しかし好奇心には勝てず、指と指の間にかろうじてものが映るくらいの隙間が残り――
「それとも――本当に――されてえのか? 坊や?」
 ……その僅かな隙間にショッキングな映像が過ぎり、今度こそアレクサンドラはしっかりと目を覆って俯いた。
(いま、のは……)
 それからしばらくの間、アレクサンドラは動くことが出来なかった。
 残された聴覚にはその後もいくらかの遣り取りが入って来ていたが、それらは全て意味を成さない記号の羅列となり、右から左へと流れていく。アレクサンドラの脳内にはただ、垣間見た光景が繰り返され続けているのだ。男が唇をカイの耳元に近づける。カイは逃れようとするが、それを逞しい手で押さえつけられ、叶わない。そうして逃げ場を塞いだところで、男は……。
 男は……カイの耳たぶを、噛んだのだ。
 血が流れたわけではない。カイの上げた声も、痛みからくるそれではなかった。甘噛みだったのだろう。だからその光景はマーキングじみていたし、それ以上に獣の補食に似ていた。
 ひょっとすると、恋人達が口づけを交わす現場よりもずっとずっとあの甘噛みの方が生々しい。アレクサンドラは男が彼を捕食するその瞬間を目にしてしまったことを酷く後悔していた。目に映った捕食間際の男の目は、けだものが群れに向かって獲物の所有権を宣言しているのと同じ眼差しをしていたのだ。それはとても原始的で、ゆえに恐ろしく、おぞましいほど……。
(ああ……だから、ほんと、ダメなんだって……)
 アレクサンドラが再び顔を上げるのには、それからたっぷりと数分の時を要した。その頃にはもう食堂は何事もなかったかのようなざわつきを取り戻していたし、男とカイもとっくに姿を消してしまっている。かぶりを振った。まるで全てが夢なのだと言われているようだった。この場の誰もが、夢だったらいい、と思っているだろう事は明白だった。
 けれど。
 アレクサンドラは首を振る。瞼の裏にはまだ、あのなまなましい捕食が焼き付いている。男はカイの首に爪を掛け、カイは為す術なく喰われた。うつくしいものはこわい、と声に出さずに唇の中で反芻する。捕食の光景はうつくしかった。しかしであるからこそおぞましいほどにきれいで、アレクサンドラは最早口を付ける気が二度となくなってしまったスープの前で身を竦ませていた。






・・・・・・・・・・・・・・・・・

ソルは「足腰立たなくされてえのか?」なんて耳打ちしてるのですが、そんなこと聞いた日にはやることは決まっていますよね、みたいなオチ。