傷痕、獣の飢えすさび



「ソル?」
 冷えた床に横たわり、天井を仰いでカイは躊躇いがちに彼の名前を呼んだ。執務室や自室と違い、カーペットが敷かれていない剥き出しのフローリングは酷く堅い。でも背中に感じる威圧感みたいなものは、床の硬さだけが原因ではないだろう。逃げ場がない、という状況がカイにそういった感情を強いているのだ。
「その……どうした。急に……」
 恐る恐るもう一度訊ねるが、答えはない。自分の上に覆い被さり、床へ肢体を縫い止めている男は獣のような荒い息を吐き、何かに耐えるようにカイを見ている。ではこれは何らかの発作による衝動的なものか。カイは彼から視線を動かさぬままに思案した。ならば答えがないのも無理はない。何か一つでも言葉を発してしまえば、そのあとの抑えが効かなくなってしまうと、辛うじて残された理性で考えているのだ。
 ――床に押し倒すところまでやっておいて今更何を躊躇うことがあるんだ? そう思わないでもないが、昔と違ってお互いに身軽ではなくなってきているから、彼なりに気にしてくれているのだろう。何しろカイがもう少し若かった頃など、自宅に押し入ったソルがカイの了承を待ったことなど一度もなかった。彼はいつも勝手にやって来て、勝手に床やソファにカイを転がし、勝手に事を進めたがった。明日も仕事があるのだと喚いてもお構いなしにだ。
 カイは素早く、己の予定を確かめる。今ならいくらか、時間に余裕があるだろう。返答を待つようになったソルと、受け入れる余裕が出来たカイ。少しは二人とも大人になったのかなあなんて朧気に思い、自分を組み敷く男の腿に手を伸ばす。
「いいよ。おいで、ソル」
 布越しに筋肉の張り詰めた腿をさすってそう言ってやると、ソルは少しだけ驚いたように目をしばたかせ、しかし間を置かずに指をカイの顎へ伸ばした。
 顎をつまみ上げ、持ち上げさせるとソルは保っていた距離を一気に縮めてカイの唇に噛み付いた。キスも上手に出来ないなんて、お預けを喰らい続けて飢えた犬か何かか? そう詰ってやりたくなるぐらい口づけは普通に痛かったが、普段はもう少しマシな段取りを踏む彼がここまで性急な行動に出るのだ。冗談抜きで待たされすぎて飢えすさんでいたのだろう。文句はぐっと喉の奥へ押し込んで続きを促す。「早く舌を入れろ」。そう口にする代わりに、こちらにはその用意がある、と先に舌を出してみせる。
 交わりの手順を忘れたように唇にむしゃぶりついてきていたソルは、その仕草でようやくそういった行為を思い出したらしく、一度口を離すと間髪入れずカイの口腔へ舌をねじ込んだ。久しぶりのまともなキスからは血の味がした。噛み付いているうちに唇が切れて、カイの下唇から流れた血がそのまま流れ込んでいるのだった。
「っ……ぁ……おまえ、な……!」
 キスは好きだし、互いの息を吸い尽くそうとするようなそれも決して嫌いではない。しかし自分の血の味はちょっといただけない。それぐらいは抗議しておこうとぐいと顔を離し目線で訴えてみるが、聞き入れられるそぶりはなさそうだった。ソルの瞳が獰猛な色に染まっている。こうなってしまうと、この男はちょっと手がつけられない。猛獣と同じなのだ。首輪から繋げられた鎖などすぐに壊してしまう。
「カイ」
 やっとのことで彼の口から出た名前を呼ぶ声にぞくりとしたものがカイの背筋を駆け上る。ああ、駄目だな。胸中で独りごちるとカイはやむなく彼の制御を早々に諦めた。この声で名前を呼ばれるともう駄目だ。その直前までどんなに怒っていても、つい何もかもを許してしまう。
「テメェの、その、皮膚に。痕をつけたい。これ以上俺に我慢なんざさせるな」
「一応、訊くんだな」
「答えろよ。イエスか、ノーか、どちらか一つだろうが」
「はあ……ずるいぞ、おまえは……」
 答えなんか決まり切っているとわかっていてこんな質問をするのだ。そういう、十年以上前から変わらない彼の悪癖が、けれど愛おしい。
 ソルの顔に手をやり、会話のために少しだけ離れていた頭を引き寄せる。耳元に口を付け、空いた方の手で見せつけるようにケープのボタンを外しながら小さな声で囁く。
「イエスだ。その代わり、手短にな?」
 その答えにソルは満足気に頷くと、カイの手を払いのけ、慣れた手つきで服を脱がせ始めた。



 中途半端に服を着た状態のまま、出すところだけ出されて、このままだと背中が痛いと抗議をすると乱暴につまみ上げられる。そのまま放り出すようにソファに投げ落とされ、どさりと横たわった。
 この男に労りというものは平素から期待していないが、余裕のない時のソルはいつもに輪を掛けてひどい。ソルの目を覗き込み、カイは諦めるように息を吐いた。言っても無駄だ、これは。好きにさせた方が早いし、彼にそうされるのは嫌じゃない。
「あんまり……痕は残すなよ……」
「約束は出来ねえな」
「誠意を見せてくれ、ということだ。努力しました、というところは。シンでも出来るぞ」
「……ああ?」
「真ん中が抜けたけど七の段の最後は言えた。かけ算の話だ。なんだ? 嫉妬でもしたのか?」
 くすくす笑いながら手招きをしてやると、意趣返しと言わんばかりに思い切り鎖骨の近くに噛み付かれた。
「痛っ、この、言ったそばから、もう!」
 啄まれるなんてかわいらしい行為ではない。やはり今日のソルは猛獣だ。とびきり凶悪なやつだ。あちこちに噛み痕を残し、歯形を付け、俺のものだ、という所有の印を刻みつけていく。噛み痕を残せないと不安なのだ。カイが十五歳の時から同じことをしているのだから、それはもう、彼の魂に根ざした根源的な欲求であるのに違いない。
「ん……」
 首筋を舐められ、太い指先で乳首をこねられ、鼻から甘ったるい息が漏れた。散々噛み付いた後だからか、首筋を舐める時は、歯を立ててしまわないように気を遣っていて、余裕がない素振りを見せる割には理性が残っているみたいでおかしい。
 もしそれを彼の成長と呼ぶのなら、カイの方は、ソルのせいで、一体どれくらい大人にならなくちゃいけなかったんだろう?
「いいのか、そんなので?」
 たくしあげられたインナーをつまんで小首を傾げる。ケープはもう部屋の隅へいってしまったけれど、カイも、ソルも、まだ下のファスナーさえ降ろしていない。それさえも億劫に感じているのなら、おまえのそれは降ろしてやろうか。耳元で囁くと勝手にしろなんて言う。
「そうか。じゃあ、おまえのは私が降ろすから、私の方は、おまえに任せるよ」
 言いながらファスナーに手を掛け、ゆっくりとズボンをずりおろす。何らかの信条によって下穿きをつけていない彼の肉体がすぐに露わになる。布地の中から零れ出てきたものに、カイは口を閉じて笑いを噛み殺した。
「……何がおかしい」
「いや? 諸々の性急な行いもこれじゃあ仕方あるまい。うん。実にひどい。いやひどいな、これは」
「そういうテメェはどうなんだよ」
「それはおまえが自分で確かめればいいだろうに」
 やや困難だったがぐるりと態勢を入れ替え、既に上を向いて自己主張を始めていた彼の男性器を手に取り、舌を伸ばした。液が滲み始めていて苦い。でも慣れ親しんだ味でもある。
 勃ちあがりはじめていたとはいえ、本調子ではなかった陰茎が舐め上げるごとに質量を増していく。一通り舐めしゃぶったところで咥えようと口を開くのと、カイのズボンが降ろされ、下穿きも剥がれて乱暴に指を突っ込まれたのが丁度同じタイミングだった。
「――ぅあっ!?」
 思いがけない衝撃に身が竦み、弾みで喉の奥に固く反りたったソルの先端が当たる。反射的に噛み付いてしまいそうだったところを必死に堪え、一度口を離した。しかし息を吸って言ってやろうと思っていた反論の言葉は、続く行為に打ち消される。
「おい、ソル、ソ……ぁ、ふぁ、や、やめ……」
「あれだけ誘っておいてやめろはねえだろ、いくらなんでも」
「で、でも、心のじゅんび……」
「そうか? こっちはもう、準備出来てると思うんだがな」
 後口を広げようとする粗野な指がどんどん増えていく。三本ほど入れたところで、指先は前立腺の裏を重点的に刺激し始めた。カイが弱いところを知っていて、一切手を緩めたりせずそこばかり狙い撃ってくる。ソルの大体全てを許容しているカイにとって、三番目ぐらいに我慢ならないのが、カイの「ちょっと待って」や「今はいやだ」とか、「もっとやさしく」を聞き入れてくれないところだ。もう何年もそうだし、分かってはいても、いざその瞬間になるといつもちょっとばかりむくれてしまう。
 優しく出来る時はちゃんと配慮が出来る男だから余計に優しいセックスをしてくれないのがむかつくのだとわかったのが二十三歳の時で。
 でもやっぱりこの男のそういうところが好きで、ひどくされるのが本当は嫌いじゃないと気がついたのは、いつの頃だったか。
 しばらくの間、声が出ないようにソルの陰茎を口に含み、入りきらなかった部分に指を添えてちろちろ舐めていると、不意に指が引き抜かれてぽっかりと穴が空く。同時に、ソルが腰を上げて口の中のものも消えてなくなった。そこにあったはずのものがどこにもいなくなってしまった空虚感がカイの胸に去来する中、ソルが身体を動かし、カイの真上に顔を出す。
「なあ、もう、いいだろ?」
 雄の欲望を剥き出しにして、そう最後の確認を取ってくる貪欲な表情に、カイは頷いて彼の身体を抱きすくめようと手を伸ばした。
 まだ閉まりきらず、余韻に浸るようにはくはくと震えていた肉の入り口に男根の先が当てられる。あつい。さっきまで口に咥えていたものと同じはずなのに、それよりもっと熱く感じる。触れた先から身体が溶けてしまうのではないか、と、情事の時にいつも思う。
 カイがぼんやりとそんなことを考えながら見つめていると、何かの準備をするようにソルが小さく息を詰める。
 そうしてその次の瞬間、ずぶりと音を立ててカイの中へソルのものが侵入をはじめた。
「っ……!」
 がちがちに膨張したソルの男性器が持つ質量は、先ほどまで慣らすために入れられていた指三本とは比べものにならない。何年も前に一度……性急すぎて潤滑の助けになるものが結合部から切れて流れ出したカイの血しかないようなのを一回やりかけて以来、準備には気を遣うようになってくれているが、それでもやはり痛みの方が上回る。痛い。カイは歯を食いしばって最初の衝撃に堪え忍んだ。あつい。苦しい。灼けてしまいそう。
 でも、好きだという気持ちがその全てを上回って、早く奥まできてほしい、と密着する雄の肢体を抱きしめる。
「ぅ、あ、ソル、」
 性器が胎内に埋まりはじめると、行為に慣れ切った身体が反応し、内壁が迎え入れるように蠢いた。はやく。もっとはやく、と腸壁がひくついて陰茎を食い締める。ああ、キスをしてほしい。うまく言葉にする余裕が無くてきれぎれとした声でつたないおねだりをすると、彼はまず腰を強く動かしてぐっと身体を詰め、それから唇に自分の口を合わせてくる。
 キスをして背中をさすられ、なだめられるようにして身体を重ねた。ソルが身体を進めるごとに腹部に感じる圧迫感は増していったが、ここまできてしまうと、もうそんなことは些細な問題に過ぎなかった。ぎちぎちに詰まっていることへの息苦しさは裏を返せばこれ以上ないほどに繋がっていることの証明に他ならない。今この瞬間だけは世界じゅうにふたりきりで、身体の境界線が曖昧になり、一匹のけものになり下がる。
(あ……出そう……)
 ぴったりと全てが収まったところで激しい抽挿に移り、荒くなってくる呼吸にカイは背筋を駆け上がるような感情の高ぶりを感じた。ソルはまだご満悦に至っていないようだったが、こればかりは致し方あるまい。絡み合う舌先で「ごめん」の形だけ作って、感覚に身を任せる。出したい。出して気持ちよくなりたい。でも、そんなささやかな願いは叶わない。
「誰が、一人で勝手にいって良いなんて言った」
 急に離されたソルの口から冷ややかな台詞が落ちてきたと思った時には、カイの性器の根本を彼の大きな手のひらが握り込んでいた。
「あ、なんで、ゃ、ぁ、あっ――!」
 射精が出来ない状態にも関わらず、身体は知っている通りにドライオーガズムに到達する。びくびくと身体が跳ね、行き場のない快感が身体中を駆け巡るのに情けない喘ぎ声ばかりを漏らした。口の端から涎が垂れて、つうと流れ落ちていく。だが、カイが絶頂を迎えた姿を見せてもソルは腰を止めない。自分本位の抽挿を繰り返し、まだ震えているカイの身体を掻き抱く。
「いじわる……!」
「テメェが悪い」
「なんで、ふぁっ!?」
「俺を置いて一人で行こうなんざ百年早いんだよ」
 舌なめずりをして、人の悪い笑みを浮かべながらソルがカイの耳を舐めた。自分だけ先に気持ちよくなってカイの中で果てたことは数え切れないぐらいあるくせに、カイだけ一人で気持ちよくなろうとすることを彼は絶対に咎める。わがままで、傲岸不遜で、自分勝手。まるで彼の戦い方みたいに。でもその中で、ちゃんとこちらを見て彼なりに気にしてくれていることも知っているから、それだけで悪し様には罵れなくなってしまう。
「どうせおまえは、私の許可なんか取らず中にぜんぶ出すのに」
「好きだろ、出されるの」
「……。それは、まあ。じゃあ……いつ出してくれるんだ」
「そうだな。いつ出されたい」
 また鎖骨に噛み付く。よく見ると、あちこち噛まれた痕の一部は皮膚が食い破られ、じわりと赤いものが滲み出始めている。ああ、これは、しばらく残るな。快楽でぼんやりとする思考の隅でそんなことを考えた。昔一回文句を言ったこともあったけど、この男は血を舐めるために痕を付けているところもあると知って、二度と文句を言わなくなった。
「答えろよ、カイ」
 滲んだ血を舐め取ったからか、ソルの唇はいつにも増しててらてらと赤くぬめっているように見えた。或いは、それはずっとしていた口づけのせいなのかもしれなかったが、そんなことは、どうだっていい。
「今、すぐ。……全部」
 そうか、と頷くとソルは一層深くカイを抱きしめ、出会ったばかりの頃みたいに触れるだけのキスをして、カイの中にありったけ、熱いものを吐き出した。



「それで、原因は?」
 べたべたになった身体をシャワーで洗い流し、着替えのボタンを留めながら訊ねた。物事には須く原因が存在する。となればソルがカイを襲うのも偶然ではなく必然なのだ。でもその理由がわからない。確かに最近あまり時間が取れなくて、こういうこともしていなかったけれど、それだけであんなに飢えるものだろうか。
「さあな」
 なのにソルははぐらかして答えてくれようとしない。カイはちょっとむくれたふうに唇を尖らせ、ふうん、と気のない返事をした。教えてくれないのならば考えるしかない。カイは長年の付き合いゆえにソルの気持ちに精通している方である。根気よく記憶を探っていけば、何かは掴めるはずだ。
 しばらくはお互いに無言だった。カイは順序よくボタンを留め終え、バスタオルでまだ水っけの残っている頭をわしわしと拭く作業に移る。しかし何だろう。時節柄、何らかの衝動が起こるとか? でもここ数年の記憶と合致しない。なら月が関係しているとか。人体と月の満ち欠けの相関性にはなかなか馬鹿に出来ないものがある。しかし昨日確かめた限りでは新月だったはず。生き物を興奮させるのは満月の時だし……
「……あ。もしかして……いやまさか……」
 そうしてたっぷり時間を掛けて頭を拭き終わった頃、カイは一つの答えに思い至る。
「ソル」
「……なんだ」
「昨日、私と軽く手合わせをした後、ずっとシンに戦い方を教えていたけれど」
「ああ」
「もしかして……そのせいか。運動をして……昂ぶったものを、昨日は発散しないまま溜めていたから」
「…………まあそうかもな」
 ソルはそっぽを向いて小さく答えた。
 昔々――カイがまだ子供だった頃、二人は同じ宿舎に住んでいたから、そこそこの遠征の帰りにはいつもカイがソルの部屋へ通っていた。あれだけ暴れ回ったあとは、お互いにたまる、という名目で。実のところカイはそれほど性的欲求が強いわけではなかったのだが、ソルの秘密の顔を独り占め出来るのが嬉しくて彼の元を訪ねた。
 ソルとのセックスは遠征の後だけのものではなかったが、遠征後の行為は普段とは趣を異にしていて、彼は飢え荒んだ獣のように事を進めたがった。とにかく手っ取り早く気持ちよくなりたがっていた。カイはソル以外とのセックスを知らなかったから、そういうものなのだろうと理解してそれを享受した。
 聖騎士団が解体され、再会した後も状況は似たり寄ったりだった。カイも忙しいとはいえ今ほど不自由な身ではなかったから、ソルが望む時には大体お預けをせずにいつでも好きなように出来た。だけど王の身になってそれも変わった。ちょっとした運動の後、じゃあセックスをしよう、と言い出すことがさしものソルにも出来なくなったのだ。
「おまえはかわいいな」
 そのことに口を押さえてふふ、と笑うと憮然とした声が返ってくる。
「ハア? そりゃテメェのことだろう」
「いや、自分で言うのも何だが、私がかわいかったのは十四歳くらいまでだ。そのあとは鼻持ちならないクソガキだのなんだの、どこぞの無法者がよく言ってくださったものだが」
「鼻持ちならないクソガキであることとその形容は両立するんだよ。少なくともテメェに対してはな」
 ずかずか歩み寄ってくると、カイが頭に掛けているタオルを邪魔だとばかりに放り投げ、ソルが顔を近づけてくる。カイが笑っていたからなのか、いつの間にかソルも何か企んでいるようなにやついた笑みを浮かべている。
 カイは彼の背に手を回した。それからカイの下肢に触ろうと伸びてくる不埒な手は追い払い、キスをするとあだっぽく囁いた。

 ――これ以上の続きは、おまえがもう少し良い子に出来たらだぞ、ソル。