欠損するコッペリア



 我慢していたのだ。
 ああ、そうだ。我慢をしていた。

 聖騎士団にやって来てから、我慢をしない日というものはソルの中に存在していなかった。堅苦しい集団生活はとかく我慢の連続をソルに強いた。自由気ままな風来坊のように百年以上生きて来たソルにとって、聖騎士団というのは、苦痛をありったけかき集めた針のむしろのような場所だった。
 その中でもとりわけ我慢ならなかったのが例の子供だ。あの、純真無垢がそのまま子供の形に縒り合わせられたかのように無知な子供。度を過ぎたものを与えられ、そのくせ必要なことは教えられず、人間としてまともに発達しない代わりに偶像として完成されそうになっていた、人型の何か。
 あれと出会ってからというもの、ソルは毎日辛抱強く彼から目を背けようとした。誰も矯正してやれなかった人形を、クリフの思惑通り人間に造り替えてやろうと思ったら、途方もない労力を割かねばならないことは明白だ。だから我慢した。見て見ぬふりをした。いくら周りの人間共が彼を崇めようと、神の似姿として扱いたがろうと、或いはただの兵器として運用したがろうと、努めて無視を決め込んだ。人間になりきっていない子供がそのうちすり切れて死んでしまったとしても、ソルの知ったことではない。与り知るところではない。関係がないのだ。だから放っておけばよかった。
 向こうから来たところで適当にあしらって追い返せばいい。ソルにはそれが出来たはずだ。
 そうしなければいけなかった。もう二度と大切なものは作らないとあの日からずっと、そう心に決めていたのだから。
(なのにどうしてこんなことになってる)
 身体とは裏腹に冷え渡った内なる声がソルを責め立てる。衣類をはぎ取られ、あられもない姿を晒してベッドに転がされている意識のない子供と、その上にまたがる大人。しっちゃかめっちゃかになったシーツには生臭い体液が広がり、性行為の後を示唆している。白濁の中に滲んだ赤色に目がいき、それが彼の皮が切れて流れ出した破瓜のしるしのようなものだったと思い出して、眩暈がしてかぶりを振った。
 今更のようにせり上がってくるないまぜの感情を喉元で堰き止め、ソルは低く呻く。
「せめて俺を誹れよ、クソったれが」
 伏せられた瞼の奥に填っている双眸が映し出していた色をうまく思い出せない。ただ、覚えているのは、この子供が行為の最中一度もソルへ憎悪を向けなかったということだけ。


◇◆◇◆◇


 執着されていることは承知していた。何しろあれほど無碍にあしらってもめげずに食い下がり、何度も繰り返しやってくるのだから、そこにはソル個人への理由が介在しているのに間違いない。ただそれが、陽性の感情だとは考えていなかった。彼という少年は、義務感と、それから自分自身の定めたルールを逸脱する不埒者としての嫌悪感で、ソルに向き合っているものだとずっと考えていた。
 だから少し意外だった。戦場で追い縋ることがあっても、彼の方から、「あなたの部屋へ行きたい」と言われるような事態があるなどと想定していなかったのだ。
「あなたのことが知りたいんです」
 連日の出撃が重なり、流石に気疲れが出てきた頃のことだ。判断力が鈍くなっている自覚があったソルは、やや声を潜めて呟いた彼に、まずどうしてかと理由を訊ねた。
「その……今日も、ソル、あなたは、わたしを叱ったでしょう。すごく頭ごなしに。……いえ、そのことは別にいいんです。あなたの意見がわたしと食い違うことはもう諦めていますので。ただ、出来ればそういうことは減らしていきたい。ゼロには出来なくても、二回、三回、ぐらいにしていきたい。そのために……わたしはあなたを理解したい」
 不甲斐ない己を恥じるようなところはあったが、顔つきは真面目で、言葉にも他意がない。ぎょっとして疲れた頭を振った。記憶が正しければ、ソルはカイに気を許されるほど良い人間としては振る舞っていなかったはずだ。
 それなのに他意なく、友人であるかのように、自分と相容れない他人の部屋を訪れたいと申告するこの少年の気が知れなかった。だって恐ろしくはないのか。おまえが申し出たその男は、決して友好的な存在ではないだろうに。おぞましくはないのか。おまえは一度だって、その男に力で敵ったことがないだろう。
「今、俺を理解したい、なんぞと抜かしたのか、坊や」
「ええ。何かおかしなことでも」
 おかしなことばかりだ。げっそりしてそう返してやると、なぜ? と彼は首を傾げる。
「テメェが俺を理解したいと願ったところで、俺はテメェに理解されたくなんかねえよ」
「でもわたしは理解したいです。それで、理由には、十分じゃないですか?」
「そこまでは百歩譲ってもいい。だが何故、信用さえしていない男の部屋に上がりたがる」
「信じたいからです。それから、赤の他人ほど離れている人でもない」
 ぎょっとしたまま、胃袋が引っ繰り返るような気持ちになった。価値観が違いすぎる。性善説の申し子みたいだと思った。この少年はあまりに無知に過ぎる。
 悪意を向けられたことがないのか? この歳まで生きて来て、一度も? 
 そんなことはないはずだ。団員達は概ねカイに好意的だったが、中には疎んでいる奴もいた。圧倒的に少数派だが、カイのことが嫌いな奴はゼロではない。ただ……確かに、実害が及んだことはないだろう。そういう少数派が行動を起こすより先に、宗教化した多数派がそれらを全て叩き潰してしまうからだ。
 だからか。こんなふうに、無防備な真似をしでかしてしまうのは。そう思うと、納得はいかないが理解は出来た。この少年はまだかたちをもった悪意を知らない。純粋な殺意はいやというほど理解しているのに、それらに結びつく感情的なプロセスを理解出来ていない。ひとが、ひとに、悪意を抱いたとき、どのような手段が実行されるのかを、まったく知らない。
 それ故の無知。純真無垢。愚かしさが首を絞めることになろうとは夢にも思っていない、綿菓子で脳味噌が出来た少女の如き無謀。
 それがたまたま、今回はソル相手に向けられているだけで。
「信用したいから、な。ならテメェは、信じたい人間全てに、んなこと言って回るつもりかよ」
「さあ、わかりませんけど。こんなに相互理解が難しい人、はじめてなので。でも同じような人が現れたら、そうするのかもしれません」
 同じようなことを、どんな人間にもしでかすのだ、こいつは。
(世間知らずも大概にしろよこのクソガキ)
 ひどく凶暴な心地だった。こいつは他の誰にでも同じ誘いを掛けられるという考えがソルの頭をいっぱいにして、凶悪な考えをけしかける。現実を教えてやるんだ。汚いものを見せつけてやれ。思いっきり汚してやれよ。もう二度とそんな甘ったるい考えを抱けないようにな。そうすれば多少は世の中を知るだろうさ。そのついでに……二度とソルへ関わろうとも思わなくなるだろう。一石二鳥だ。
 でも同時に、ろくでもない憶測も脳裏を過ぎる。もしもう、この子供が、世の中の醜きをそうと認識出来ないようになっていたら? 十分に有り得る話だと思った。こいつは見目が綺麗だ。うまいこと騙して、無知をいいことに、好き放題食い物にしている輩が一人もいなかったとどうして言い切れる。
「一言だけ忠告しておくが、俺の部屋っつうことは、即ち俺のテリトリーだってことだぞ」
「え? ええ。例えばあなたの部屋がどんなに汚かろうが、勝手に掃除をしようとは思いませんよ。許可を取ってからやります。心配いりません」
「……そうかよ」
 ぴっちりとした制服の下に隠れている肌を思い、その上に薄汚れた傷痕を重ね合わせて、歯を食い締めた。確かめなければ。確かめ、もう二度とそんな真似をしようとも思えなくしてやらなければいけない。
 これは必要なことなのだ、と自分に言い聞かせた。自分がしなければいずれ誰かが汚す。いやもう既に汚されているのかもしれない。その上で、無知を選んでいるのならひっぱたく。汚れ仕事は得意だ。辱めるならこの手でやる。他の誰にも譲ってやるものか。


 その夜枕を持って部屋を訪れたカイはまるで警戒したふうもなく、下着姿のソルを見ると「寝間着ぐらい着てくださいよ」と顔をしかめた。幼女が「パパ、やめてよ」と悪意なく言う姿に似ている。枕を指さすと「これが変わると寝付けないんです。一人だとなおさら」と小首を傾げさえする。何の躊躇いもなく、友人でもない男のベッドで寝ることを、カイは既に決め込んでいた。
「で、具体的に何をして俺を理解するつもりなんだ」
「あなたの話が聞きたいな。人となりを知り、生い立ちを知るのが、理解への第一歩でしょう?」
「他人の過去を覗き見するのが理解の一歩なのか? 初耳だな」
「そ、その言い方は……。いえ、そうですね。わたしはあなたに語れる過去がありませんから、あなたの生い立ちだけ訊ねるのは不公平かもしれません。……実を言うと、うまい方法はわからないんです。だからもし知っているなら教えてください」
 無警戒に寄ってきて、ソルの隣に腰掛ける。あまり上等ではないベッドのスプリングが軋んだ。そのままぴとりとくっついて、真剣に悩み始める。もしかしてカイは女児のお泊まり会のようなものを、親睦を深める手段として想定していたのではないだろうか。ふとそんな考えが過ぎったが、それ以上にソルの決意は固かった。
「じゃあ脱げ」
 素っ気なく言うとカイは瞬きをしてソルを見上げた。
「服をですか? ここで?」
「そうだ。裸の付き合いとかいう言葉が、あるだろ、確か」
「それ、お風呂のことですよね」
「細かいことはいい。それとも、何か服を取れないような、やましいことでもあるのかよ」
「な――なんですかその、小馬鹿にしたような言いぐさ! 別にないですよ。ここ最近は、大怪我もしていないし。人に隠さなきゃいけないようなことなんか、ありません」
 ちょっとばかり自尊心をくすぐってやると、すぐむっとした顔つきになって本当に脱ぎ始める。あまりにもあっさりと了承され、驚いたのはソルの方だった。そういう期待をされているのか? それとも本当の本当に無知なだけなのか? 混迷する思考が、次第に露わになる肢体へ引き寄せられる。カイは張り切って寝間着を脱ぐと、簡単に畳んでベッドの隅へ置き、何故かソルに向かって胸を張った。
「ほら。まあその……だいぶ……あなたに比べると見劣りするかもしれませんが……そこは成長途上なので。……あの、もしかしてですけど、わたしのこと、女かと疑ってました? 思えば大浴場で一緒になったこともありませんからね……」
 傷一つないなめらかな皮膚を晒し、一転して所在なさげに目を泳がせる。女と疑っていたことは別にない。クリフはカイを少年だと言ったし、どうやら気付いていなかったらしいが、浴場ですれ違ったことぐらいはある。
 何もかもちぐはぐでとんちんかんだ。どうしていいかわからなくなって、ソルはカイの胸を撫でた。くすぐったそうに漏らされた吐息は、あまり色気のない健全なものだった。
「もっと汚れてるもんかと」
「失礼な。この部屋に来る前にシャワーぐらい浴びてます」
「……坊や、自分が何言ってるのかわかってんのか?」
 散々こねくり回していた思考が、大義名分が、ぐちゃぐちゃにもつれて融解し、圧縮されていく。どろどろになった汚泥は一つの明確な指針だけを残して固まり、ソルの背中を蹴り飛ばす。
(何を気後れしてるんだ)
 今更後戻りなんか出来ない。恐らく、本当に、まだ汚されていないことはわかった。でもそれはこれまでの話だ。これからの保証は誰もしてくれない。いつ誰に傷を付けられるのかわからない。一生構ってやれるわけじゃないのだ。それにいつかは置いて行く。やるなら……今しかない。
「まあ、いい……」
 尤もらしい理由を並べ立てて深呼吸をすると、ソルは下穿きを残して裸になったカイを性急な手つきでベッドに転がす。「ソル?」カイが素っ頓狂な声を上げる。危機感を覚えているわけではなかろう。単純な疑問の声だ。
「今からテメェを犯すから、あまり人を不用意に信じるとろくな目に遭わねえってことだけは覚えて帰れ」
 だからなるべく手短に、現実を突きつけてやれるよう言葉を選んだ。カイは目を見開いてじっとソルの顔を見ている。既に居たたまれない。けれど、とソルは今一度自分に言い含める。カイの性善説を咎めるにはこうするしかない。


◇◆◇◆◇


 何がいけなかったんだろう。目の前に差し出されたものをぼんやりと眺めながらカイは自問自答した。というより、この人は、何をするつもりなのだろう。
 彼が発した単語の意味はわかる。辞書に、あまり良くない用例と共に並んでいるやつだ。それから法律の本にも載っている。刑法の一つとして、カイはそういった言葉を見た。強姦罪。同意を得ないまま性的暴行を働く、というのが、犯すという言葉とほぼ同意義だったはず。
(あなたを理解したい、と言ったことが、そんなに我慢ならなかったんだろうか)
 つらつらとそんなことを考えているうちに、ソルが自分のそれを扱いて――乱暴な手つきでカイの口を開かせると、その奥に突き込んだ。口の中で急激におかしな味が広がる。今まで食べたことのない味。苦い。咀嚼しろと言われたら、ちょっとしんどいような。
「ふ、むぐ、ぅ、ぐ……」
 苦みは口中いっぱいに広がり、カイの味覚を滅茶苦茶にする。舌の上に芯を持った肉の重たい感触が乗る。口腔内を埋め尽くさんとする物体に息苦しくなり、鼻からきれぎれに息を漏らすと、ソルが自嘲気味に笑んだ。
「ひでぇ顔だな」
 鼻で笑うような調子だったが、あんまり、本気には思えなかった。確かに今のカイは酷い顔をしているのかもしれなかったが、彼がそうして嘲笑っているのは、決してカイのことではないだろう。
(……、ひどい顔をしているのは、ソルの方じゃないんですか?)
 自分の口に外性器を突っ込んでいる男をまじまじと見る。息苦しくて、苦くて、変な気持ちだけど、これを噛み千切ってやろうだとか、吐き出したいだとか、そういう気持ちになれないのは、多分彼がしている表情のせいだった。
 歯を立てないようにして舌を逃げさせると、何を思ったのか頭を鷲掴みにされてゴンと奥まで突き直される。これは流石にしんどくて、うっとくぐもった声を漏らすと、彼は更に暴力的に喉奥を小突いた。
 それから何度か出し入れをすると、飽きが来たかのようにぱっとソルはその行為を止めた。取り出された男性器はカイの口へ突き入れる前と比べて随分膨張して脈打っており、グロテスクに勃起しきっていた。
 物珍しくて、カイは自分を犯していた肉棒を他意なく目で追う。自慰行為さえしたことのないカイにとって、それは純粋に目を惹く光景だったからだ。
 じっと見られていることに気がついたソルが不可解な顔をしてカイと自分の下肢を交互に見比べる。彼が不思議がっているから答えようとしたのだがうまく言葉が発せず、そこではじめて、口の中にへんな感触が残っていることを自覚した。
「あ……あの。見ていたのは、げほっ、珍し、……からで」
「ハア……?」
「む、むせました。それで……つい。でも……どうしたんですか、ソル。これが、あなたの知っている、他者を理解する方法なんですか」
 それを訊ねると、ただでさえ酷い顔をしていたソルは更に暗澹たる顔つきになった。こいつ正気か、と顔に赤文字で書いてあった。ちょっとむっと来て、へそを曲げる代わりに唇を尖らせる。
「わ――わたしだって、知らないことがあるという自覚はしています。ソルの方が人生経験が豊かだということも理解している。だから……私の知識では、恐らくあなたの口にした言葉は強姦の意味ですが、実はもっと別の意味合いがあるのかもしれないって……」
「ねえよ。俺は正しく強姦の意味合いでテメェを犯すと言ったんだ」
「……あれ? じゃあ、これ、いけないことなんじゃないですか?」
「だろうな」
「狼藉を働くつもりで悪事に手を染めたと認めるんですね、ソル=バッドガイ?」
「なんだよその、事務的な口調は。ここは、もっと取り乱すとこだろうが。俺はテメェを穢そうとしてると宣言したんだぞ」
 なんだかうまく会話が噛み合わない。確認を取ろうと一つ一つ訊ねていくと、途中でソルは怒りとも嘆きともつかぬ様子で顔を真っ赤にして、カイを睨んだ。彼がどうしてそんな顔をしなければいけないのかカイにはわからない。だって彼は……したいことを、したいようにしているはずではないか。いつも――今だって。
「怒れよ。嫌々と駄々をこねて、非難がましく喚けよ。嫌悪感ぐらい、今ので抱かないのか、坊や」
「あなたが自覚して悪事に手を染めるのは悲しく思いますが……」
 カイが淡々と返すとソルはとうとう腹に据えかねたようにかっとなって、仰向けに転がっていたカイの身体をうつぶせにひっくり返した。お前の顔は見たくないと言わんばかりの勢いだ。
「テメェは」
 ソルの口調は苦々しげだった。
「いつでも正しい事を言えばいいと思っていやがる。更に言えば、テメェの信じる『正義』が本当に正しいのか、吟味さえしないまま」
 それから彼はカイの尻に手をやり、間を強引に割り開いて、排泄口に指を掛けほんの僅かに皺を伸ばすような手つきを見せてから、まったく別のものをその場所へ勢いよく宛がう。
「いいか。世の中には理屈の通らねえ理不尽があるんだ。坊や、どうやら無自覚らしいが、テメェはいつその標的になったっておかしくない。わかれよ。世の中、テメェみたいな頭の固いお利口さんばかりじゃねえんだ、くそ!」
 そうしてソルの吐き出すような叫び声と共に、カイは身体が真っ二つに引き裂かれでもしたのかというぐらいの痛みを味わった。
(え、あ、――な、に、)
 痛い。とにかく痛い。理由はわからないが痛い。あまりに痛すぎて、頭の中が真っ白に弾け飛んで、ただ痛覚しか自覚出来ない。
 鋭い痛みが身体の中心線を真っ直ぐに駆け抜けていったかと思うと、鈍い痛みが通った後にじわりと広がって残る。痛みが酷すぎて声さえ出ない。何が起こっているのかわからない。
「痛いか? 痛ぇよな。痛いって泣けよ。やめてくれと懇願しろ。それさえもわからないのなら――ソイツは、テメェの、無知のツケだ。無垢の代償だ。言っただろ、俺は坊やを犯す、と」
 犯す。その言葉だけがクリアになってカイの頭に響く。姦淫。性行為。男同士で? 昔読んだはずの、学術の面から生殖活動について綴られていた本の内容を必死に思い出そうとした。でもそれでは彼がカイを犯す理由がわからない。仕方ないので次の理由を求めて法律書の内容を手繰る。強姦罪を犯した人間は何故そういった行為に及ぶのか。その理由は、確か……
「そ、ソルッ」
「ああ?!」
「あなた、ッ、わたしに、欲情……し……」
 痛みを押し殺してのカイの言葉は最後まで続かなかった。ソルがカイの頭をベッドに押し込んで、その後の言葉が、派手に軋んだスプリングの音に埋もれてしまったからだ。
 その後は、二人ともろくに言葉らしい言葉を発しないまま、ぎしぎしと安っぽい音を立ててスプリングを軋ませ続けた。
 痛みが強すぎて最初は知覚出来なかったものの、ずっと続けていたので徐々に、ソルが何をしているのか感触でわかるようになっていった。痛み以外の感覚を取り戻して最初に覚えたのは手ひどい圧迫感。腹の中に何か大きな異物が潜り込んでいる感触。それが恐らく、ソルの男性器なのだろう。入っている場所は、ソルが指を伸ばした場所からして、排泄口からその奥……直腸。そんな場所に入るものなのだろうかと疑問を覚えたが、事実入っているのだから、すごく痛いけど不可能ではない。
(……本当にわたしに欲情したんだろうか?)
 男性器は、突き入れたかと思えばずるりと引き出され、そしてまた奥めがけて挿入され、という一定の動きを繰り返している。肉を食い破るように(実際、皮膚が切れた痛みはあった)動いていた最初と比べると、出し入れももう随分スムーズだ。
(……本当に?)
 激しい痛みから解放されてしばらく後、何とも言えない感覚がじわじわとカイの肢体を満たし始める。痛ましい行為はまだ続いている。痛覚が麻痺したのか。ふとそう思った。痛すぎて、脳内麻薬がそれを勝手に中和してしまったのだ。だから代わりの感覚が這いずり回るようにカイを浸しはじめている。
(……あんなに、自分に言い聞かせるような顔をしていた人が、本当の本当に欲情して私を襲うものだろうか)
 エンドルフィンに支配されゆく中でゆるやかに喪われていく思考を必死に手繰り寄せた。こんな状況でも考えごとをしようとしたのは、たぶんベッドに顔を押し込められる直前に見た、ともすると泣きそうなくらい偽悪的なソルの顔が原因だった。あんな顔をして、自分を非難しろと叫ぶ男が、自己中心的な快楽を得るためだけにこんなことをするとは思えない。よしんば実行に移ったからには多少の気の迷いもあったとして、しかし理由がそれだけなら、出会って数ヶ月も経ってから急に手を出した理由がつかないのだ。
(あなたは自分を悪い人間だとすぐに言いたがるけど)
 本当に悪い人間だとはどうしても思えない。けれど今のカイには、そこから先の答えを見つける時間が残されていなかった。程なくして、単一的な言葉たちがカイの脳裏を埋め尽くす。
 あつい。きつい。おおきい。くるしい。かたい。ソル。いっぱい。ぎゅうぎゅう。きもちいい……
「カイ」
 それまで黙りこくって荒い息を吐くばかりだったソルが、急に小さな声でカイの名前を呼んだ。今まで一度だってそんな姿を見たことはなかったが、きっとそれは、彼が神に懺悔を請うときの声音と同じだと思った。祈るように恨むように呪うように許されたがって彼は十四歳の男の子を呼ぶ。
「テメェを汚すのは、俺だけでいい」
 どくり、と身体の奥深くで何かが脈動した。それが終わりの合図だった。間もなくマグマが噴き荒れるように勢いよく液体が放たれ、どぷり、ごぽり、とカイの身体を満たす。ただでさえぎゅうぎゅうだったところに更にしたたかに体液を吐き出され、意識は限界を迎え、朧になる。
(明日……朝礼、間に合うかな……)
 自分ではない男が身体を埋め尽くす感触を味わったまま、カイは意識を手放した。


◇◆◇◆◇


 瞼を見開き、目覚めた身体は清潔なシーツの上に横たわっていた。
 狼藉を働かれたはずの肉体は記憶の中の姿と正反対にさっぱりしており、着慣れない寝間着に包まれている。倉庫に備蓄されている、誰でも自由に取って来られる麻の寝間着だ。この服はあまり肌触りがよくないし、一緒にリネン素材のものも置いてあるから、カイは自ら好んでこちらに袖を通したりはしない。
(……。だれが?)
 覚束ない頭で起き上がり、光が差し込んで来る方へ顔をやった。普段は寝る前に締め切るようにしていた窓が数センチ開いている。そこから入り込んでくる風がカーテンを揺らし、次いで、僅かに髪を揺らした。なんだか窓の景色がいつもと違う気がする。ぼんやりした調子のまま揺れた髪へ視線を動かすと、静かに寝入っている誰かの横顔が目に入った。ぼさぼさして跳ね放題で、髪質の堅そうな――でも意外に長い茶色の髪に覆われた、誰かの。
(ソルだ)
 その瞬間カイは全てを了解し、瞬きと共に息を呑み込んで心臓の位置を掻きむしった。
 そうだった。昨晩カイはソルの部屋を枕持参で訪れ、彼と親睦を深めようとしたもの、いきなり押し倒され、ものすごい痛みを味わい、彼に犯されたのだ。
 そんな状況にも関わらず、あろうことかカイの横で堂々と寝息を立てているのは、確かに、カイを襲った男に違いない。彼はなんだかひどい顔をして自虐的に笑いながら、カイの無知を糾弾した。カイの純真を罵倒した。カイの無垢を嘲笑った。そうしてカイの純潔を引き裂き、カイの正義を謗った。
 それなのに昨夜のカイは、彼をちっとも悪いと思えなかった。いや、悪いことはしている。彼は自覚的に悪事を働いた。団の規則にも、刑法にも違反している。けれど悪人だとは思えなかったのだ。その理由を見つける前に、昨日は意識を失ってしまったのだけれど……
(……あ、わ、わかった。わかった……)
 今朝はすぐに答えが見つかって、カイはかあっと顔を赤くする。
 ソルの行為は最初から矛盾していた。悪意を持ってカイを犯すと言ったわりに、彼はずっとつらそうな顔をしていた。何かを酷く恐れているようだった。そもそも、カイがソルの部屋を訪ねたいと言った時に真っ先に警告をして寄越した。彼の言動は根底にある良心に基づいている。
 だから、べっとりと体液を吸い込みぐちゃぐちゃになったはずの寝具を取り替えたのも。どろどろになったカイの身体を清潔に拭き取って、わざわざ新品を補充して麻の寝間着を着せたのも。むっとする匂いが立ちこめていたであろう室内の換気をしようと寝入る前に窓を少し開けたのも……全てがこの男の仕業だ。
 カイを強姦し穢すのだと宣ったのがこの男なら、カイを気に掛けて守ってくれたのもこの男で。
 胸を掻きむしったままカイは寝息を立てる男の顔を眺めていた。彼という存在のことを理解するためにこの部屋を訪れたのに、余計に謎が増えてしまった。彼が何を見ているのかまったくわからない。何を望んでいるのかなんて知りようがない。何を願っているのかさえ、何一つ、理解出来ていない。
「……何百面相してやがる」
 頬を薔薇色に染めたままあわあわしていると、男の目が緩慢に見開かれ、あの赤茶色の瞳が覗く。非常にばつの悪そうな顔をしていたが、声音は低くどすが効いている。
「ソル! 起きたんですか」
「ああ……まあな」
「それじゃ、聞きたいことがあるんですけど」
 そう告げるとソルは途端にげっそりした顔つきになり、自虐的な声を漏らす。
「言ってみろ」
「ええ。それで結局、ソルはわたしに欲情したんですか?」
「――ハア?」
 だがそのげんなりした顔はすぐに唖然の表情に取って代わられてしまった。


 元々抱えていた罪悪感が大きすぎたのか、訊ねられたソルは詳らかにカイへ告白をした。まず彼は乱れたベッドを整えてカイを清めたことを認め、次に、性行為に及んだ理由を洗いざらい吐いた。
「つまりソルは、わたしが……その、そういった行為に手を染めていないか、心配だったんですね?」
「そうとも言える」
 ソルはそっぽを向いて頷いた。
「更には誰の部屋でも夜に訪ねられるとか言う。その時点で殆ど我慢の限界だった。坊やの常識は偏りすぎている。テメェは誰にでも気軽に股を開く阿婆擦れかもしれねえと思うと気が気じゃなかった」
「でも確かめてみたらそういうことはなかった」
「今はまだな。いつそうなるかわかったもんじゃない。なら今のうちに汚してやりたいと思った。そうして、二度とそういう行為に及ぼうとなんぞ思えなくなれば儲けものだ。ついでに鬱陶しいガキも俺の傍から消える。……流石に、見損なっただろ。俺に構おうともう思えなくなるくらいは」
「え? それは……別に」
「……なんつった?」
 ぎょっとした声と共に名状し難い化け物でもみたかのような眼差しを向けられる。心外だが、ソルの中にある理屈はわかる。強姦された被害者はふつう加害者を許さない。
「だって、目が覚めてからわかったんです。わたしはソルのことが好きなんだ。だからあなたのことを憎みませんし、謗りません。書類を出さなければ、怒りますけど。あなたを理解したいと思ったのも、部屋へ行きたかったのも、本当の理由は、それだったのかなって」
 カイの言葉を聞き終えたソルは、今度こそ信じられないものを見るように瞬きを繰り返し、挙げ句の果てに自分の頬をつねり、顔をしかめると次にカイの頬をつねった。つねられた頬は痛かったが、昨晩カイが覚えた痛みに比べたらどうということはなかった。
「……坊や、自分が何言ってるのかわかってんのか?」
 ぼそりと漏らされた台詞は、昨晩事に及ぶ前に聞いたものと一字一句違わない。
「わたしだって、先に肉体的な行為に及んでから自覚するのは、心が置いてけぼりになっていたみたいで恥ずかしいですけど……」
「いや、そうじゃない。は……やっぱりテメェは歪だ。恐らく頭がおかしい。狂ってるとさえ言える。常識が欠如した挙げ句倫理観が欠損した人間未満だ」
「なら、ソルがわたしを人間にしてくださいよ」
「…………まっぴらご免だな。……と言いたいところだが」
 普段はぷりぷりすぐ怒るくせに、これだけ好き放題言われても怒らない。その様に、我慢の限界を迎えた原因を思い出してソルはかぶりを振った。どこまで行っても、カイ=キスクという少年は無知で無垢に過ぎ、性善説の申し子だった。価値観がひととして歪んでいる。幸いなことにカイを騙して玩具にしている阿呆はいなかったようだが、かといってこのまま放っておくには後味が悪い。
「どうやら、ソイツが俺の責任らしい……」
 この子供をほったらかして、いつか後悔をするのはソルだ。
 大切なものは二度と作らないという取り決めを一時的に棚に上げ、ソルは溜め息を吐いた。カイがちゃんと人間になるまでは、守るべきものの中にこの少年を入れておこう。神器を持ってここを出て行く時まで。ソルの長い人生全体で見ればほんの瞬きの間のことだ。それぐらいなら、大丈夫だろう。
「面倒見るのは、坊やがまともな人間になるまでの間だけだからな」
「本当ですか?」
「少しだけだ」
「じゃあ、その間にちゃんとした性行為の手順を教えて貰わないと」
「……は?」
 突拍子もない言葉がカイの口を突いて出て、ソルの溜め息がどこかへ消える。思わず詰るような声が出てしまうが、当のカイはというといたって真面目な顔をして更にとんでもない台詞を口にする。
「だってソル、結局あなた、わたしに欲情したんでしょう? あんなに痛いのはもう嫌です。私も協力しますから、まず、その……そういうこと、ちゃんと教えてください。ソル以外と間違いを起こさないために……」
 流石に最後の方は恥じ入る調子だったが、それにしたってあんまりだ。やはりこの子供は価値観が歪んでいる。純真すぎて狂っている。ソルはぞっとしない心地でカイの身体を引き寄せ、下肢の中央に恐る恐る手を遣るとこわごわ訊ねた。するとカイは裏表のない元気な声で「それが自慰はしたことがなくて」と首を傾げたのだった。