生者の列聖



 オヤジが昔から嫌いな言葉がいくつかあって、そのうちの一つが、カイをかみさまとか、そういうものみたいに扱う言い方だった。


「カイ様はお美しいわ。神様みたいね」
 イリュリアの第二連王が治める領地、その端っこにある酒場。店の見やすいところに設置された大型モニタが、国営放送を映し出している。オレはげんなりしながら画面に目をやった。画面の中では、よそゆきの笑顔をべったり顔に貼り付けた「他人」が、耳触りのいい言葉ばっか並べ立てて、胡散臭い演説をしている。
「またかよ……」
 心底いやな気持ちになって、でも、その後に続く悪態は呑み込んだ。これもいつものことだけど、酒場の中はカイの味方っていうか、シンパで満ちあふれていた。オレが知る限りイリュリアの国民は「カイ様」とかいうのが例外なく大好きで、それこそ、神の教えと同列にするぐらいの勢いで「カイ様」のお言葉を守るのが好きだった。
 二一八六年。四歳になったオレは、オヤジに預けられた頃よりずっと、イリュリアという国が嫌いになっていた。オヤジと旅をする中で、貧困地域とか、紛争地帯、世界中にまだ残っているそういう「聖戦の爪痕」みたいな土地を見てきたせいかもしれない。オレがかつて暮らしていたパリ――今は第一連王の国土になってる――は、母さんがあんましオレを外に出したがらなかったから見てないっていうのもあるけど、「爪痕」の地区と比較すると比べるのも残酷なくらい、裕福で恵まれていて、まるまると肥え太った豚に似ていた。
 第一連王が治める土地の肥え方は、そのまま、第一連王という「なにか」が世界中から享受している称賛やきれい事の結果みたいだとオレはいつも思っていた。第二連王や第三連王が治めるエリアは、それでもまだ豚よりはマシだったからだ。多分、治めている人間の色が出てしまうのだ。
 きれい事だけで出来上がった絵空事の都市群。
 オレがイリュリア第一直轄区に感じる率直な感想がそれだ。
「ねえ。聖戦の頃は、幼い身体で立派に戦って。そして今は世界の王様だなんて、本当に、絵本に出てくる英雄のよう。いつかお会いしてみたいわ。出来ないかしら。なんだか、私達とは住む世界が違う方のようで」
「年明けの謁見の日は、バルコニーで民衆にお手を振られるそうよ」
「まあ。貯金してイリュリアまで旅行へ行こうかしらね。一生に一度ぐらいは、私も旅行をしてみたいものだわ……」
 あーあ。
 オレは聞こえないようにそっと溜め息をついて、グラスの中に残った溶けかけの氷をストローで弄んだ。
 これだから嫌だったんだ、イリュリアに足を入れるのは。第二直轄区だってのに誰も第二連王の話なんかしてない。みんな国営放送を見て、遠く離れて行けもしない首都、硝子の城とその中に住んでいる幻想の王様にばかり想いを馳せている。
 第一直轄区には意地でも近づかないオレだけど、オヤジの仕事の都合とか、そういうので通らなきゃいけない時は、第二直轄区と第三直轄区に滞在することがままある。でもその度にオレが思うことはいつも同じ。「やっぱ来るんじゃなかった」。「アイツが治めてる場所じゃなくたって、イリュリアはきもちわるいところだ」。
 多分それは、オレが、みんなが話している「カイ様」に、同じぐらいの夢を見ていられないからなのだった。
 オレはアイツのことをみんなよりはいくらかそばで見ていたことがあって、だというのに、みんなよりよっぽどアイツから遠く離れていた。第一連王カイ=キスクは、オレの人生における他人だった。アイツはいつもやつれた顔でオレを上から見ていた。母さんにろくに礼も言わず、注文ばっかつけて、また家の外へ行ってしまう。いやだ、行かないで父さん、そんなふうに思ったのも最初の一瞬だけ。すぐにオレは違う考えに取り憑かれ始める。オレはもう、二度とアンタの顔も見たくない。
『間もなく、このイリュリアという新しい国が生まれてから三年の時が経とうとしています。聖戦から数えて十年です。百年前から減少し続けていた人口グラフは現在緩やかな回復を続けており、聖戦を知らない子供達も増えました。であるからこそ、私はそれを尊び、同時に、聖戦の悲惨さを後世に伝えていかねばならないと強く考えます。みなさん、私は……』
 画面の中で長ったらしい演説を続けている男が大仰に手を広げる。すると画面の向こうの民衆が感極まったように声を上げる。
 宗教家の演説と一緒だ。昔どこかの村で見かけたオッサンと村民が、ちょうどこういう関係だった。オッサンをお縄にかけて警察に突き出した後、オヤジは、「新興宗教の教祖ってのは、どうしてああ人を言いくるめるのが上手いんだろうな」というようなことを言っていた。まったくだ。オレも同感。人を熱狂的にさせるのが天才的にうまいやつが、宗教を作り出す。
 オレが思うに、この世界で一番デカイ宗教があるとしたら、そのトップはカイだ。
 聖皇庁と聖皇は、昔からずっとある。今の聖皇ハピヌス七世とかいうオッサンは、まあ確かに人気があるらしいけど、あのオッサン自身が一人で信仰を集めているわけじゃない。みんなが祈ってるのは「聖皇庁」っていう昔からある枠組みに対してで、聖皇はその顔役をしているだけというか、本質ってやつが、多分ハピヌス七世にはない。だから聖皇はそう長くないスパンで代替わりするし、シンボルであるはずの聖皇が違う人間になっても、みんな何とも思わない。聖皇はみんなが祈っている対象じゃない。
 でも、イリュリアの場合はどうだろう。
 第二直轄区にいても聞こえてくる話は第一連王のことばかり。いや、第二連王は、第三直轄区での第三連王より人気あると思うけど、どんぐり同士を比べるのもばからしいぐらい第一連王の人気は図抜けている。世界中の人々はイリュリアという国を褒め称えるし、いい国だ、この国が好きだ、みたいなことを言うけれど、その語尾には必ず「カイ様」がつく。うんざりするのも嫌になるぐらい。
「オヤジは嫌がるけど、これじゃほんとに、アイツは神様と変わらねえだろ」
 オレの知ってるアイツは神様でもなんでもなく、オレどころか母さんの願い一つまともに叶えてくれなかったけれど。
 世間様が見ているカイは、たぶん人間じゃない。政治家……システムですらない。全知全能を司る万能の偶像。世界が終わる日が来たとしたら、世界中の人々が詰めかけ、群がり、どうか我々をお救いくださいと自分勝手な願い事を投げつけられるような、そういう存在。
「……。自分が人間扱いされてないんじゃ、子供なんか育てられなくて当然だぜ」
 オレはストローに口を付けて残っていたぬるい水を飲み干した。オヤジがわざわざ第二直轄区に来ている意味も、酒場の客がみんな国営放送を見ている理由も、実際のところオレはちゃんと理解している。……今日はイリュリアの建国記念日なのだ。
 ――オレがあいつに棄てられて、もう三年が経ったってわけだ。


◇◆◇◆◇


 オヤジはしょっちゅう自分のことを化け物だっていう。俺は人間じゃねえからな、みたいに口にする。いや勿論、オレとオヤジしかいない場所でだけど。でもホントに、マジで毎日言ってんじゃねえかってぐらい、すぐそういうことを言い始める。
 オヤジはギアだ。母さんはギアと人間のハーフ。そんな母さんと人間の間に生まれたオレはクォーターギア。混じりもののオレと混じりっけのないオヤジ。オレがオヤジのことを羨ましがると、オヤジは必ず、オレの頭にげんこつを落とす。
 オレたちは流れの賞金稼ぎとして身を立てているから、当然、同族にあたるギアを討伐して身銭を賄っている。でもオレはそれに関して複雑な考えを持ったことはない。オヤジが狩るギアはどいつもこいつもまともに言葉が通じず、辺り一帯を暴力で恐怖に陥れていて、交渉の余地がない。だから仮にソイツがギアではなく人間や他の動物だったとしても、同じように危険だからと賞金を懸けられていたことに間違いはないだろう。賞金稼ぎに回ってくる討伐依頼はみんなそうだ。話が出来るギアは国際警察機構が穏便に始末して、そうじゃないやつに懸賞金をかけてるらしい。
 そういう意味じゃ、現代のギア狩りはただの掃除屋みたいなもんだと思う。
「ホントにイリュリアに行くのかよ、オヤジ。それも第二第三の直轄区じゃなくて、第一の……そのうえ首都だ。オレははっきり言って嫌だ。気が進まないとかじゃなくて、マジで嫌」
「ああ? 何度も言わせんな。カイの方が呼び出して来たんだ。ヤツがSOSを出すのはかなり珍しい。テメェがカイを嫌ってるのは百も承知だが、俺はカイの頼みは聞いてやることに昔から決めてる」
 キャンプを組み、火を囲むように腰を落ち着けてオレは再三の質問を投げかけた。お尋ね者の張り紙を見つけてから随分歩いて、着実にイリュリアへ近づいている。第二直轄区域にはもうとっくに入っていて、このペースでいけばそう遠くないうちに第一直轄区域へ入るだろう。
 それを思うほど陰鬱な気分になって、オレは何度もこのことを訊いてしまう。けどオヤジの答えはいつも同じ。
 そのことに堪りかね、とうとうオレは、いつもより強い口調でその先を糾弾した。
「アイツの頼みは聞くって……なんでだよ。オレを預かってくれたのは嬉しいけど、それだけでめちゃくちゃでかい貸しじゃん。この上まだ貸しを作ってやるとか、お人好しにもほどがある。オヤジはアイツになんか弱みでも握られてんのかよ」
「貸しを作るためにテメェを預かってるワケじゃない、阿呆が。ついでに、弱みを握られるほど下手打ってもいねえ」
「じゃあなんで!」
「カイは人間だ。人間には限界がある。神様でも化け物でもないやつは、なんでもかんでもは出来ねえ。なら誰かが手を差し伸べてやらねえとな」
 オヤジはオレのキレ気味の言葉を全部受け流し、目を細めると、煙草に火を点けた。
 オヤジが煙草を吸う姿を見ると、いつも、「テメェは煙草に文句つけねえんだな」と笑っていたことを思い出す。煙草に文句を付けていた相手が誰なのかなんてのは訊くのもあほらしくて、オレはただ口を噤む。
 煙草だけの話じゃない。オヤジとオレの旅路、オレたちの生活には、どこかにずっとアイツの影がちらついている。オレが勝手にそう感じているだけなのかもしれないけど――まるで亡霊のように、オレとオヤジの間にその影が付きまとう。
 オヤジのする昔話には殆どと言っていいぐらいアイツが出てきて、オヤジの動作の一々には、アイツの指先が纏わり付いている。
「オヤジにとってあいつはなんなんだよ……」
「人間だ。それ以上でもそれ以下でもない」
 苛々して独りごちると、耳のいいオヤジはオレの独り言を聞き流してくれず、煙草を咥えたまま、おきまりの台詞を返して寄越した。もういいよ。そういうの、聞き飽きた。人間、人間、人間か。オヤジはホントそればっかりだよな。自分のことを化け物呼ばわりするのと同じぐらい、カイのことを人間扱いしたがる。
 その度オヤジはいつも祈るような顔をする。
 普段は気にならない煙草の匂いが、いやに鼻についた。
「ああ、そうかよ。オヤジはいつも言ってるよな。自分は化け物だって。ギアは化け物なんだろ。なら母さんも化け物で、オレだって化け物だ。なのに――アイツは――カイは、人間だから、仕方ないって言うのか。何もかも!」
「ああ、そうだ」
「……! あんなに、神様みたいに言われて、なんでもかんでもやってるくせに、子供一人育てられなかったのは『人間だから仕方ない』のかよ。オレを棄てて国と民衆を取ったアイツは、オレから見ればよっぽどオヤジなんかより――」
「シン」
 鋭く、重く、低い声で名前を呼ばれて思わず身が竦む。目を合わせられないまま「なんだよ」と精一杯言い返そうとして、でもそれより早く、オヤジの平手がオレの頬を打った。
 オヤジはどうも手が早い人種みたいで、割としょっちゅうげんこつで成敗しようとしたり喧嘩両成敗が行きすぎてしまうきらいがあったけど、この平手はそれまでに喰らったどんな制裁よりしんどかった。あまりにしんどすぎて、痛いという言葉も出ない。ただ、赤くなった頬がじんじんして腫れ上がっていくこと、そうさせたオヤジの目が、いつもよりキツイ色をして、オレを真っ直ぐ見据えていること、それらが、声も出せないぐらいの恐怖をオレに覚えさせたのだ。
「シン。ならテメェは、ますますカイに会うべきだな。テメェももう随分でかくなった。昔よりは話も出来るだろう。もしカイがテメェの言うとおりのろくでなしなら、俺はそんな糞野郎の子供なんか何をされても育てねえよ。
 ……ああ、そうだ。俺は化け物でディズィーとテメェも化け物の血を引いている。その中にあってカイだけが人間だ。……カイだけは人間じゃなきゃなんねえ。神様でも化け物でもなく。天使でも悪魔でもなく。人間が人間のまま、その道を選んだんだ。だから俺はカイの選択を尊ぶ」
 あいつだけは人間だと口にするオヤジの顔は、やっぱり、笑っちまうぐらい、祈るような面持ちだった。そうでなきゃいけないと自分に言い聞かせている節があって、でもその理由もこれだけ言葉を重ねられればわかってしまって……オレは息を呑む。
 世界中みんながカイを神様みたいだという。
 世界中みんながカイを神様にしたがる。
 カイはきっと、それを拒まないだろう。神様と同じことをしろと言われたらはいと頷き、神様になれと言われたら喉を掻き切るかもしれない。
 オヤジはそれを恐れている。
 だから……だからオヤジは……。
「けど……誰も、あいつを、人間扱いなんかしてねえじゃんか……!」
「だから俺はカイを人間扱いすんだよ。昔、俺は化け物であるにも関わらず人間の子供一人まともに守ってやれなかった。その罪滅ぼしみたいにな。…………今日はもう寝ろ」
 ぞっとして、泣きそうに顔を歪め、オレは分かりきったことを確かめた。オヤジは煙草の端を噛み潰して苦い顔をする。首都イリュリアはまだ遠い。それだけが僅かな救いのように思え、オレは目を瞑った。


◇◆◇◆◇


 父親のことが嫌いだったのは、アイツが遠かったからだ。何を考えているのかろくすっぽわからなくて、言葉の遣り取りはキャッチボールにならず、空を掴んでいるように空振りを続けた。それはオレが意固地になって人の話を聞こうとしなかったせいでもあるけれど――同じくらい、アイツが不器用だったせいもあるだろう。でも考えてみれば当たり前だ。アイツは人間で、人間だから出来ないことだってたくさんあって、オレはアイツのはじめての子供だった。然るに、面倒を見られる側だったアイツは、子供と接する方法がわからなかったわけだ。
 二一八七年の年明け。暮れにはじまったヴァレンタインとヴィズエル共の襲撃は収まりを見せ、街中に打撃を受けたはずのイリュリアも、平常通りの様子を取り戻し始めている。
 それを見て、オレたちがここでやるべきことはもう終わった、とオヤジは言っていた。近いうち、二人でまたイリュリアの外へ出ることになるだろう。
 オレは窓の外に乗り出していた身体を引っ込め、ちらりと部屋の中へ視線を戻した。
 戦いの中でオレはアイツの本音をはじめて聞いた。アイツが何を見て何を考え、何をしようとしているのか、その一部に、やっと触れることが出来た。そうしてはじめてオレはアイツと親子になれた気がする。考えていることさえわかるようになれば、オレにとってアイツは、やっぱり、遠い他人よりは近しい父親だった。
 世界中から神様にされそうになっているカイ=キスクという男は、間近で見た限り、華奢で儚く、脆い人間だった。人の心があり、そこをつけ込まれてしまうような弱さがあった。でもそれと同時に見せる芯の強さとか思いきりの良さ、あと純粋な強さ――みたいなものも間違いなく本物で、アイツは他人には強さばかり見せて弱さを見せようとしないから、そのせいで神様みたいに映ってしまうんだろうなあとオレはぼんやり思う。
 野に咲く美しい花のような人間だった。咲いている土地が戦場で、美しく咲くために吸い上げた養分は本人や周りの人間が流した血だったかもしれないけど、事情を知らないヤツからすれば、ただ綺麗なだけの花に見えるのだろう。そしてそれにアイツ自身は何も言わない。花を愛でたいヤツは勝手に愛でていればいいと多分思っているのだ。
「なあ。外、もういいのかよ。昨日まで、ずっとこの部屋に帰ってこないぐらいあっちこっち飛び回ってたじゃんか。だからオレ、ここにいたんだけど」
「ああ、妙にこの部屋を気に入っていると聞いていましたが、そういう理由だったんですね。一人になりたいのなら、席を外しますよ」
「……そうじゃねえし。ってか、ここはアンタの部屋なんだから、オレを追い出すのが筋だろ」
「まさか。私はあなたのそばにいたいですから。一緒にいてくれるなら、それが一番嬉しい」
 なんでもないふうに顔をほころばせてカイが言う。オレは調子が狂ってしまって、まるでオヤジの真似事をするみたいに、「そうかよ」なんて口走ってしまった。
 生まれてすぐの頃に見たやつとは違う、いかにもな王の服を身に纏ったカイの姿は、国営放送の中では度々見かけていたけれど、実際に目の当たりにすると、これがもう閉口してしまうぐらい重たい装いだった。動きにくそうだし、戦いにくそうだし、あと使ってた剣も実用性皆無で、重くて切れない鈍器みたいなやつだ。カイを王様にした奴らは、きっとカイに戦わせるつもりがなかったんだろうな。オレでもそうわかるぐらい、王の装いはカイに対する巨大な枷だった。
 それなのにアイツ、オレたちを追いかけて来て、オレを転移魔法でオヤジのところへ送ったあととか、これで普通に戦っていたらしい。カイに枷を掛けた奴らとしては目論見外れたってとこかもしれないが、オレは純粋に心配になった。そのうち身体とか壊されたら、ヤだな。
「……オヤジが。もうじき、ここを出るって」
「ええ、聞きました。今後の襲撃に備えるため、神器を集めに行くと。私は母さんのそばについていたいですし、この城を離れるわけにはいきませんが……出来る限りの支援はします。法力通信の使い方は覚えましたか?」
「大丈夫だって。もうアンタと別れた時ほど、子供じゃないし」
「本当に。見違えるように大きくなりましたね。あなたが元気に育ってくれて、私はとても嬉しいですよ」
 カイがはにかんだ。母さんの笑顔とよく似ていた。長い間見栄張って反発していたオレだけど、こんな顔をされてしまうと、もう何もとんがった言葉をぶつけることは出来そうになかった。
 改めて、カイが座っている方を無遠慮に眺める。王様の椅子、王様の机、王様の部屋。記憶にある、パリの一軒家の中にあったカイの部屋よりも華美に飾り付けられ、カイの趣味っぽいやつよりカイの趣味じゃなさそうな装飾品が若干多い。
 この部屋も、誰かが作った部屋だ。部屋も椅子も服も剣も、カイが自分から欲しがったものではきっとない。
 オレは頭を叩いて記憶を手繰り寄せ、三年前、イリュリアが出来たばかりの頃のことを懸命に思い出す。確かカイは、最初に偉い奴らの推薦があったとはいえ、イリュリアになった地域に住んでいた人々からの選挙で王様に選ばれたはずだ。オヤジはその時になんか裏がある――みたいに言ってたけど、世界中で垣間見えるカイの人気を思えば、別に八百長で当選したわけじゃないだろう。
 カイはみんなに望まれて王様になり、みんなが望むから、王様を続けている。偉い奴らが重たい服を着せ、重たい剣を与え、カイを戦いから遠ざけようとしても、世界中のみんなが望む限り、その枷を外さないままクソ重たい剣で無理に戦おうとし続けるんじゃないかと思う。
 カイは「みんな」に優しくしようとしすぎる。人間の分を過ぎてそう振る舞う。他の二人の連王は、そっちのほうが当たり前なんだけど、カイほど病的にそういうことをしないんだろう。そうすると、カイだけが神様にされそうになるのも、仕方ない気がする。
「なあカイ、あの剣さあ」
「うん? 剣がどうしましたか?」
「あれ、やめろよ。もっといい剣があるだろ。昔使ってたヤツは、母さんを守るためになくした……ってのは聞いたけど。それでもあれだけはないって。重いし斬れないし……実用性なさすぎ」
「まあ、儀礼用の装飾剣ですからねえ。華美な剣を持っていた方が王様として絵になる、みたいなことを下賜された時確かに言われましたが」
「が?」
「ソルだって剣というか鈍器みたいな使い方してるから、あれでいけるかなって思ってそのままにしていたんですよね。でも……そうですね。あなたにそう言われるのだったら、やめましょう。やっぱり軽くてよく斬れる剣の方が手には馴染みますし。元老院は嫌な顔をするでしょうが、手の者は大方首都から追い払いましたからね。丁度いい機会かもしれないな」
 最後の方によくわからないことを呟いて、カイが一人頷いた。
 納得して書類仕事に戻ってしまったカイを窓際に腰掛けてぼんやりと眺め、オレは落ち着かない調子で指先を弄ぶ。最初にカイの執事が淹れてくれた紅茶は冷め切って、カイの執務机と応接用のテーブルに一個ずつ放置されている。
 背中に夕陽が差し込んで当たっている。オレは俯いて弄んでいた手を十字架の上で合わせた。自分が今、オヤジと同じような顔をしているだろうなってことを思うと、なんだかもう二度と、オヤジには突っかかっていけないだろうなって気がした。
 祈るような顔をして、オレはカイと同じ部屋の空気を吸う。世界中の人間がカイを人間扱いしないから、オレやオヤジのような化け物が、カイが人間でありますようにと祈っている。馬鹿げた話だと思う。オレたちがどれだけ祈ったところで、世界がカイに抱く願いは変わりっこない。
 それでも祈ることをやめられないのは、オヤジがずっとそういう顔をし続けているのは、どうしてなのか。ちょっと前まで全然理解できなかったそれが、今は痛いぐらいよくわかる。オヤジはカイの友達で、オレはカイの子供で、オレたちはカイの家族だ。
 家族は最後の防波堤だ。最後の砦だ。最後の灯火なのだ。
 そのオレたちがカイを人間だと思わなくなれば、たぶん本当に、あいつは人間でいさせてもらえなくなる。
「なあ、カイ――」
 オレははっとして顔を上げ、父親の名を呼び、手を伸ばした。カイの頭がゆるやかに上がる。それからオレの方を見て、小さく微笑み、夕陽に照らされたセピア色に反射した瞳でオレに笑いかける。
「どうしましたか? ふふ……そうしていると、なんだか少し、ソルに似てきましたね」
 オレの心境なんかまるで知らず、カイはそんなことを言う。
 息子の成長に顔をほころばせるさまは、どこからどう見ても、人間のそれだった。