ステラリウム



  あれが一番星ですよ、と大人の指先に教えられたのは、記憶にある限り最も彼が幼い頃のことだった。その時カイは拾われてきたばかりの十歳の少年だった。由来を持たない少年は星の名前一つ一つを大人達に訊ねた。あの星は、ベルナルド。それではあの星は。ならばあの星は――ねえ、クリフ様!
 十歳のカイは星の名と星物語をせがむ。ほんの一瞬のうちに過ぎ去ってしまった短い子供時代。カイにとって星空というものは、数少ない、幼き日の憧憬に繋がる断片である。
「全ての星に名前があるわけじゃない。あれは名もない星。最輝星スピカのそばに浮かんでいるがために、大して取り沙汰されることもないような、そういう星だ」
 十四歳になったカイはもう殆ど星の名を訊ねなくなっていたが、その日ばかりは特別だった。どうしてそんなことをしようと思ったのかさえ最早思い出せないが、カイは星の名を訊ねた。それも、そんなに星について造詣の深くなさそうな男に。けれど意外なことに男はすぐにそう答え、咥えた煙草に手をやり、ふん、と素っ気なく鼻を鳴らしてさえみせる。
「恐ろしく強い輝きのそばでは、なまなかな光など、なかったことにされてしまう。それを見つけられる者はほんの一握りにすぎない。坊や、テメェがもしあのスピカで居続けるというのなら、平凡な光を見つけられるようになれ。テメェだけは見落とさないようにな」
「なぜ?」
「眩い星そのものだけは、テメェの輝きに目が眩まず全てを見ることが出来るからだよ」
 男の答えはやはり素っ気なかった。しかしその中に、彼なりの愛情というものが全て込められていた。
 そのことに気がついたのは随分と時が経ってからだったのだけれど――ともかく、だからカイは、今日も乙女座のスピカを見るとそのことを思い出す。


◇◆◇◆◇


「誰かと思えば、お前か。シンかと思ったぞ。……どうした、こんな夜更けに」
 湯船の中に泳がせていた肢体をぴたりと止め、振り向いた先には仏頂面の男が全裸で立っている。
 男はふるりとかぶりを振り、別に、と何でもありそうな口ぶりでぼやくと目を細めた。
「シンが入ってくんのか。テメェの入浴中に」
「まあ、たまにそういうことがある、という程度のことだ。別に入る時間を決めてるわけでもないからな。うっかりブッキングしてしまうことがないわけじゃない」
「……ならタオル巻いて入るようにしとけよ」
「ソル、これは大事なことだが、シンはお前とは違うよ。お前の百倍はいい子だ。少なくとも私の身体をじろじろと見たりはしないな」
 唇を尖らせて言うカイに、ソルはますますしかめっ面を酷くした。そりゃシンだって面と向かっては言わないだろうが、カイの裸体というものは、その気のないものでもへんな気を起こさせてしまいかねないような、そういう奇妙な艶めかしさを持っている。シンは実年齢こそ幼いが肉体は既に思春期のそれだ。早い内に対策を打った方がいい。
 だが、と胸中で独りごちて溜め息を吐く。この父親は、自分でちゃんと息子を育てられなかったのだ。子供の成長とそれに伴うリスクに思い至れないのだとしたら、それは半分ソルの責任か。ソルはそれ以上の追求を諦め、湯船に足を突っ込んだ。
 日本式にかぶれていたクリフの影響で幼い頃からちょこちょこと日本文化の名残に触れていたカイの自宅には浴槽がある。それも、昔フレデリックが住んでいたアパートに備わっていたような、最低限シャワーを浴びる場所を確保するためのものではなく、入浴目的のものが、だ。カイがパリに住んでいた頃の自宅にはなかった。どうも、森に住んでいた頃に水浴びを習慣にしていたディズィーと相談の上、どうせ家が大きいのだから浴場も大きくしてしまおう、という運びになってのことらしい。
「とはいえ、お前の言うことも一理あるな。昔は私とディズィーとシンと三人で風呂に入ることも……稀に……あったんだが。もうシンの方が気を遣って母親とは入らないしなあ。私がいるときも、なるべく避けているみたいだ。思えばあの子は私達のように大勢で一箇所にぎゅう詰めにされた経験もないから」
「騎士団の大浴場はそのものずばり烏の行水だったからな……」
「まあ、あれだけひとところに人が住んでいれば仕方がない。でもねソル、今住んでいるところがやたらに広いせいか、近頃の私は時々あの頃が無性に懐かしくなるよ」
「……年寄りくせえ」
 鼻で笑うと、「そうかもな」というくすぐったそうな声が返ってきた。
 かつて通っていた「烏の行水場」の何倍も解放的できれいな作りになっている大浴場には、大きな天窓とバルコニーへの窓が備わっており、夜遅い時間だと星が綺麗に見える。ソルが人として生きていた頃に比べて、今の夜空ははるかに澄み渡って美しいものだ。メインのエネルギーが法力に切り替わって旧文明が廃止されてからというもの、排気ガスで曇っていた空は見る間に洗浄され透明さを取り戻した。
 故に、カイが見る星空はいつも濁りがない。寝物語をクリフにねだっていた夜も、子供を連れて丘へ登ったという夜も……
 ――戦場で数多の屍を踏み越えて血の雨に打たれた夜も。
「テメェは昔星が好きだったよな」
 だからそのことを聞くと、同じようなことを考えていたのか、カイは特に訝しむこともなくうんと頷く。
「物心ついた頃、クリフ様が熱心に教えてくださったから。本を読むか修練をするか、そうでなければ、星の名を訊ねるのが私の数少ない楽しみだったんだ」
「本当に少ねえな。……いやそんなことは今はいい。その星だが、いつか、大した名もない小さな星について俺に訊いたことがあったのを覚えているか」
「もちろん」
「……何故、あの時そんなことを訊ねた?」
 ソルの問いにカイは押し黙った。
 カイが雲一つなく澄み渡った星空を指さし、名もなき星について訊ねた時、彼の足下には瓦礫と死体とが無惨に積み上がっていた。死体の多くはカイが殺したギアのものだったが、中には、カイを進ませるために命を落とし、カイによって弔いを済まされた部下達の肉片もあった。カイはそれらの上に立ち、或いは腰掛け、隣で唯一生き残ったソルに聞いたのだ。
 ――ねえソル、あれらの星は、何と言う名前なのでしょう。私はたった今気がついたんです。あの星々の名前を知らないということに……。
 場違いな問いだ。弔ったばかりの死体を足蹴にしてそんなことを訊ねるなんて! しかしその言葉の裏にある意図、気持ちのようなものを推し量れるような気がして――そう思うことで、カイを本物の機械みたいに扱いたがる自分を諫めたのだ――ソルは簡潔に答えた。あれらの星に名前はない。最輝星のそばにいるがため、目を向けられることさえない有象無象に過ぎないのだと。
「どうしてだろうね」
 呟かれたカイの言葉は短い。どうしてなどと言う割に、本当はその答えを、喉の奥に握っている。
「予め言っておくが、人は死んでも星にはならない。お伽話と現実は違う」
「知っているよ。あの時だって、そんなことを考えていたわけじゃない。ただ、重ねずにはいられなかったんだ。だからお前も、ああいうことを言ったんじゃないのか」
「……まあ、そうだが」
 含みのある笑顔を向けられ、ソルはばつ悪く目を逸らした。
 カイほどよく祈る人間をソルは他に知らない。出陣の前には必ず聖堂へ向かい、戦のはじめに十字架へ祈り、戦場で倒れていった者達を全てその十字架で送る。聖職者なんかとは一番縁遠い殺戮者のくせして、目に映る全ての死を我がことのように悼む。思えばカイには昔から王の素質があった。人が為に心を痛め、人が為に剣を取り、人が為に敵を殲滅した。
 滅私奉公を人の形にしたらこうなるような、完成された偶像だった。その性質だけは今なおずっと変わらない。変えられるものでもない。
 変えたいと願ったことはあった。けれどすぐに気がついた。もしその性質を全て損なってしまえば、カイはカイではいられなくなるだろう。
「だけど実のところ、お前の言うことを理解するのには少し時間がかかった。具体的に言うと、聖戦が終わった頃になってようやく、だ。私は自分を星だと思ったことはなかった。戦争中、旗頭の役割を求められていたことぐらいは流石に理解していたけれど。……その、まさかお前の口から出た言葉が、そのままの意味だとは夢にも思わなかったんだ」
 今度は、カイがちょっぴりばつ悪く目を逸らす番だった。
 ソルはきょとんとして目を見開き、幾度かの瞬きをした。それからカイの頬へ手を伸ばす。カイはそれを拒まない。されるがままに任せ、ソルの指先を待っている。
 改めて近くで見たカイの双眸は、天窓から月明かりと星の煌めきが差し込んでいるせいか、空恐ろしいほどかつて戦場で見た少年のものによく似ていた。ソルは今にも、目の前にいるこの男の子が、乙女座のスピカを取り囲むように瞬く無数の星々を指さしてその名前を聞いてくるんじゃないかという錯覚に襲われそうになったが、どれだけ待っても、カイはそんなことを訊ねてはこない。
 代わりに、彼は唇を薄く笑みの形に動かし、ソルの身体に触れた。
「もし私が今も眩い光としての在り方を求められているのならば、私はそれに応えよう。そして私のそばにいるありふれた無数の星々を見つけ、数え、守るよ」
「それはテメェの王としての責務か」
「いいや。私自身の望みだ」
「……ふん」
 ソルは小さく鼻を鳴らし、それだけに留めた。今の言葉に対して「テメェはいつもそうだよ」と吐き捨てるのは簡単だが、そうすることで、カイの気持ちを蔑ろにしてしまうのは本意ではない。
「俺にとっちゃ、テメェも名もなき無数の星の一つだよ」
 唾棄の代わりに囁くと、ソルの肌に触れるカイの指先に僅かに熱が灯った。
 カイを神様にしたがるやつ、王の玉座に閉じ込めようとするやつ、指導者の役割を押しつけたがるやつ、世界中がそんなやつらばかりで溢れている。しかも二十年前からずっとだ。そんな中で育ったのだから、多少は自分がカリスマと才に満ちあふれていると高慢に成長してもおかしくなかったのに、カイは背筋が寒くなるくらい謙虚でおまけに自己犠牲的だ。そのせいでカイに憧れた人間はどんどん破滅的になる――とレオに何度も愚痴られた。実際、それは騎士団にいた頃から変わらない毒だと思う。カイの光にみんなあてられてしまうのだ。
 だが、そのぞっとしない瞬く光の裏には、カイが先天的に抱えている病的な性質が見え隠れしている。今でこそなりを潜めているが、昔は自覚さえされていなかったから、明け透けに過ぎておぞましかった。
 カイには自我がある。だがエゴがない。理想が高く、故に誰よりも欲深いが、その欲に我欲は含まれていない。まるで誰かにそうあれかしと創られたかのような、理想の偶像。昔話の聖女だってもっと人間くさかった。出会ったばかりのカイには人間味というものが一切なかった。
 人間は自分が最輝星に喩えられるものであり続けることに耐えきれない。
「ありがとう。お前なら、そう言うと思った」
 カイは笑っていた。少し愉快そうだった。ソルが何を思っているのかわかっていて鎌を掛けたのなら大したものだが、多分カイのことだから、先の言葉は言葉で、嘘偽りのない本心だ。
「私はあの時お前がああ言ってくれたことに感謝している。多分言われなければ、自分がその役割を果たしていることに対して永遠に無頓着だったと思うからね。自覚なくやっていることは、半分の意味しか持たない。私達が一緒にいた時間はとても短かったけど、その間にお前は私に一番大切なことを教えてくれた」
「俺は何もしてねえよ」
「ふうん。では、そういうことにしておこう」
 カイの指先がソルの頬から離れ、肩に流れる。滑らかで白い裸体がソルの上にしなだれかかった。そこそこ鍛えているのはわかるが、ソルと比べると、やはりカイの身体は生白くて柔らかい。
 じろじろ見ていると、それに気がついたカイがむっとして唇を尖らせる。
「あのなあ、大して珍しいものでもないんだから、あまり見るな」
「いや、こういうところは十五年前と何も変わんねえなと……」
「お前はいつもそうだな。いつも。いいことを何か言ったなと思うとその直後に台無しにする。いいかソル、私の身体がこう……お前に比べて見栄えがしないのは、生まれつきなんだ。きっと。遺伝に違いない。大昔、がむしゃらに鍛えてレオと同じメニューをこなして、それでも全然変わらなかったからな。仕方がないんだ。もう諦めた」
 諦めたという割には名残惜しそうに俺やシンを見るだろうが――とは、命が惜しいので言わなかった。


 十五年前、名もない星を訊ねた少年に答えを返したあと、ソルはひょいと彼の首根っこを引っ掴んで持ち上げた。急に持ち上げられた少年は当然のように足をじたばたさせてもがき、解放を叫んだが、ソルは取り合わなかった。いつまでも死骸の上に立たせておくのは気が引けたというか、嫌だった。
 その死体がカイのために積み上げられ、カイの手で作られたものだとなれば尚更だ。だがそんなことをいちいち説明してやるのは億劫で、ソルは掴んだ身体を乱雑に肩へ担ぐとそのまま歩き始める。
『ちょっと、ソル! 何するんですか! ああもう、本当、何かいいこと言ってるのかな……とか思った私が馬鹿でした。何この、人を人とも思っていないような。私は雑嚢か何かか!』
『大して変わらねえだろ。いや……ぴいぴい喚かない分、雑嚢の方がお利口か』
『ぐっ……こ、この男……最低……』
『いいから黙ってろ。もうこのあたりの敵は粗方片付いてるが、万が一がある。テメェの残り少ない体力を余計に消耗させる必要はねえだろ。……馬鹿が、法力の使いすぎだ。立ってるのがやっとの状態で強がるんじゃない』
 積み重ねた死体が山を成しているぶん、カイの消耗も酷い。それを指摘してやるとカイは息を詰まらせ、何も反論できなくなってしまう。自分では上手に隠していたつもりらしい。ソル以外の部下なら、カイのその気持ちを汲んで、こんなあからさまな行為には出ないのかもしれない。
 カイのプライドに対する配慮なのだろうが、それもソルに言わせれば馬鹿のやることだ。カイの自尊心は自分の実力を不当に低く見積もらないためにしか大抵働いていなくて、ソルに対してでもなければこんなふうにへそを曲げて見せたりしないのに。
『……あなたは疲れていないんですか……』
『坊やとは身体のつくりが違う』
 文字通りの意味だが、ソルが人間よりはるかに燃費のいい生命体であるギアだとはつゆ知らぬカイはそう受け取らなかったようで、声音はますます己を恥じるようなものになった。
『私だって頑張ってるのに……』
『坊やには坊やの領分がある。坊やが頑として炎を使いたがらないのと同じだ。第一坊やの体力が低いわけでもない。これだけ暴れ倒せる時点で人並の何倍もキャパはあるだろ。体力も法力もな』
『……でもソルに負けてる!』
『阿呆、んなとこで張り合うな。俺は部隊の指揮なんざ取れねえが、テメェは大得意だろうが、そういうのが。指揮が出来ねえ分俺は暴れる方に能を割いてんだよ』
 持ち上げた尻を後ろ手に叩くと、「ぎゃあ?!」みたいな色気も何もない悲鳴が上がる。しかし徐々に体力の限界が近づいてきているようで、カイはのたうって無理矢理ソルの手から逃れようとはしない。
『ソルの背中は……大きい、ですね……』
 最後に零れた呟きは微睡みの中に半分落ちていた。ソルは何も言わずにカイの背をさすった。そうしている時だけ、カイの口ぶりは年相応のものに聞こえた。


「ふふ……あれから結構背も伸びたのに、ソルの背中は今もずっと大きいな」
 身体を密着させた状態でカイがソルの背を撫でる。昔話をしていたせいか、カイの手つきはいつもより幼かった。背に当たる手のひらは、愛撫するというよりぺちぺちとはたいてソルの背を確かめている。
 しかしそれでも下肢が密着していることには変わりないので、やや顔をしかめて「何してるか分かってるのか?」と一応訊いてやると、「うん? わざとだけど?」とものすごく生真面目な顔で返された。
「なんだ、いきなり人の風呂に入ってくるからそういうつもりなのかと思っていたのに」
「普通に風呂に入りに来ただけだ……というかだな、おいカイ、シンも入ってくるって言ってたよな」
「だから何度も言わせるな。そんな下心込みで入ってくるのはお前だけだ」
「ディズィーは」
「次、彼女をそんな下卑た勘ぐりに当てはめてみろ。しばらくの間不能にしてやる」
 一体どんな方法でだ? と訊ねる蛮勇をソルは持ち合わせていない。素直に疑問を喉の奥へ引っ込め、黙ってカイのうなじをくすぐる。そういうつもりで入って来たわけではないが、やらないのかと問われてその気にならないほど、今日は疲れ切っているわけでもない。
 腰に手を添え、尻に指先をかけたあたりで、カイが不意に指を天窓の方へ伸ばした。示された先を見遣ると一際眩い星が瞬いている。
「聞くところによると、シンは星が綺麗であるということについて、非常にロマンチックな持論を持っているらしいが」
「初耳だ」
「ではお前の影響ではないな。確実に。それはともかくとして、私も星は美しいと思う。だけどシンと違って、別に、星は美しくあれと創られたから綺麗なのだとは、思っていないかな」
「なら何故星は美しい?」
「私達が勝手にそう思っているだけだよ。実のところはね」
 目配せと共にカイが言った。
 カイの言うことは全くその通りだと思った。それは多分、あの日カイを最輝星として扱った者達に対する一つの答えだ。
「だから私はお前の言葉も嬉しいよ」
 青く透き通った瞳の中に乙女座のスピカが映り込んでいる。それを遮るように己が顔をもたげ、覆い被さると、カイは「仕方ないなあ」というふうにソルの唇に口を付けた。