※聖騎士団時代ソルカイ
※はじめて見た海は赤い色をしていた そんなかんじの守護天使
私は土塊を踏みしめて立っていた。
あたりは血の雨に降られたばかりだった。ぼんやりと天を仰ぎ、また地を見る。足下にはやはり土塊しかなかった。言い方を改めるにしても、それは死骸としか形容の仕方がなかった。私が殺したものたち。或いは私のために死んだものたち。
胸元のメダルが震える。通信が入ったということは、全域が片付き、かつ、私以外に生存者がいるということだ。通信を取ると、メダルから予想した通りの声が聞こえてくる。私は男の声に耳を澄ませた。通話越しでも、彼が息一つ乱していないのがはっきりと分かった。
『海があるぞ』
彼の言葉はそれっきりだった。はあ、そうですか、と私は頷いた。場所はどこですか、と訊くと、ようやく、『そこから南南東へ』とこれまた手短な返事がくる。ありがとう、と言おうとしたが半分も言い終わらないうちに通信は勝手に切れた。彼はいつもこんな調子だ。通信が嫌いなのかもしれない。
或いは、私と話すことが好きではないのか。
土塊を踏み分け、私は南南東を目指した。もくもくと上がる土煙、そこら中に立ちこめる死臭、物言わぬがらくた、剥き出しになった肉。その中に時折聖騎士団の制服を纏った遺体を認めては立ち止まる。首から提げられたドッグタグをはぎ取り、身元を改め、黙祷を捧げて神の御許へ送ってやるのも、大隊長を務める私の役目だ。私は聖職者の資格を持っていないのだが、聖皇庁の人間を戦場へ連れてくると政治問題になるので(こんなご時世だというのに!)、致し方ない。
麻紐を通されたタグを一つずつはぎ取り、辺り一帯のぶんを集め終わったことを確かめて十字架を捧げた。賛美歌は一通り歌えるが、一番得意なのは、レクイエム・エテルナムだった。一度、鎮魂歌ばかりうまくなっていくことをなんとはなしに彼へ話したことがあるが、鼻で笑われた後、頭を拳骨で殴られた。あの男が何をしたいのか、私にはいつもはかりかねる。
せめてアヴェ・マリアにしておけよ、と眉間に皺を寄せて言われたところで、そんなものよりレクイエムの方が歌う機会が多いのだ。どうしようもないではないか。
静かに、鳥さえ啄まぬ骸たちの葬送を終え、私は再び立ち上がる。それからもういくらかを歩き、ようやくのことで彼の姿が見つかる。
彼は浜辺に立っていた。本で読んだ知識が確かなら、そこはまさしく、「波打ち際」と言うに相応しい場所だった。
「坊や」
彼が私を見つけて手招きをしてくる。ぱたぱたと駆け寄り、ぴたりと隣の位置に立って、私は彼が言うところの「海」を見つめる。恥ずかしい話だが、私はそれまで「海」を見たことがなかった。戦争はいつも内地だ。水棲型のギアもいることにはいるが、数が少なすぎて滅多にお目に掛かれない。
だから海のことは本の記述でしか知らない。「海は、エメラルドのように麗々しく、サファイアの如く凛々しい。それは水平線のはるか彼方にまで広がり、大地を覆い空と融け合う。海とは母なる命である。ゆえに蒼く、それがわたしたちの星の色となる。」――本で読んだ記述を思い起こし、私は海をじっと見つめる。
私が初めて見た海は赤かった。
どろどろと濁り、無数の黒い影をその内側にちらつかせていた。黒い影は、死んでぷかりと浮かんできたいきものの死体だった。それが流す血で、一面が、どすぐろい赤に染まりきっていた。私は自分の心がどうしようもなく沈み込んでいくのを感じた。これがせめて目を惹くような鮮紅だったら――と思ったが、だとしても母なる青にはなりようもない。
青が好きなのに。がっかりだ。
せめて、たとえ蒼くなかろうとこの赤はルビーやガーネットのような色なのだ――と、自分を慰めようか。
そんなふうに考えてみたものの、目論見はうまくいかなかった。妙案を試すより早く、隣に立つ男がとんでもないことを口にしたからだ。
「ギアしか浮いてねえ。魚一つ泳いじゃいねえとは、これが本当の死海ってことか」
私はそれで一気に全ての気を削がれ、どん底まで気落ちし、立っているのも億劫になってしゃがみ込んでしまった。
「ソル、死海は、ギリシャからは見えない。大体あれはヨルダンの塩湖だ。海じゃない……」
「まあな。だが、今目の前に広がってる光景のほうが、よほど死の海という名には相応しかろうよ」
「何も海の中で死ぬこともなかろうに……」
私は砂浜を右手で弄くりまわした。固いものに当たり、摘んでみると、死んで中身の肉が流された貝の成れの果てだった。手当たり次第にそこらじゅうの貝殻をつまみ上げ、中身を確かめたが、どれも死んでいた。中には鋭い歯か何かで食い千切られた残りかすもあった。この浜辺には、私と彼以外、誰も生きていないのだった。
「ソル、ギアがもし、機械のからだだったら。海は本で読んだとおり蒼かったのだろうか」
私はしょんぼりして益体のないことを訊ねるばかりだった。彼はポケットをまさぐっていた手を一度止め、しかしまたすぐに動かし、よれよれのシガレットケースを取り出した。シガレットケースを開き、潰れかけの煙草を手に取り、火をつける。その動作の間じゅう、一瞬たりとも、彼は私と目を合わせようとしない。
「ギアが機械だったところで、海がオイルまみれになり、汚染され、黄色く濁っただけだ。環境破壊の観点で言えば生体である現状のギアより悲惨なことになる。テメェの見る海は結局青くない」
「あーあ。初めて見る海だったのに」
「安心しろ、無数の死体が浮かんでなきゃ、海は基本的に青い」
「でももし、世界中全ての海なる場所に、ギアの死体が浮かんでいたとしたら? もうどこもかしこも、海は赤くなっているのかもしれませんよ」
彼はそれ以上私に反論をしてこなかった。相手をするだけ屁理屈が返ってくるのだから、無駄だと思ったのか。それとも、これ以上やさしい嘘をつく元気がなかったのか。安い煙を吐き出して彼方を見る男が何を考えているのか、それを推し量る術が私にはない。
だけど仕方がない、といつも私は途中で彼の目を追うことをやめた。彼が何を考えているのか分からない以上、どんな「かもしれない」をこねくり回したって無意味だ。
「……もし世界中の海が本当に赤くなっていたとしたら、どうする」
右手に煙草、左手にシガレットケース。とりつく島もない彼の背中。私は知りません、と小さく答える。知りません、そんなの。青い海なんていうのも、本でしか読んだことがないもの。私は海に対する正解を知らない。海のほんとうを知らない。なれば初めて見た、この赤黒く濁っただだっ広い水たまりが、今の私にとってのほんとうの海で正解だとも言える。
だからそんな質問は意味のないことですよ、と首を振って身体を丸めると、突然、えらく重たい溜め息が聞こえて、私の身体はひょいと浮かび上がった。
「う、うわ――」
彼が私の襟首を掴んで、持ち上げているのだった。私はわたわたと四肢を暴れさせてみたが、襟首を掴んでいる彼の手はびくともしない。すぐに諦め、されるがままにしようと決める。すると私の抵抗が止んだことを確かめ、彼は私の全身を手前に抱え上げた。
「ま、そう言われると、そうだなとしか言いようがねえとこも、事実だな。とはいえ……赤い海は海で、もうちっとマシなもんがあるということぐらい覚えておいたほうがいい」
私を抱き上げたまま、何を思ったのか、彼が片腕で法術式を展開していく。即興式の内容を目で追って組成を確かめ、しかし意味がわからず小首を傾げた。なんらかの分解を促進する式だということはわかったが、術式展開が早すぎる上に用途不明のアドリブが大量に挟まれているせいで、公式に当てはめられないのだ。
何のつもりで、と訊いてはみたが、詠唱中ということもあり、まあ見てろという雑な返事しか返ってこない。数十秒掛けて式を展開し終わり、最後に彼は煙草を口から抜き取ると海に放り入れた。
それが全ての合図だった。
突然、私の目に映る一面の水面が一気に燃え上がった。吸い殻ひとつで、魔法のように海が燃えた。いや――法術を、それもあれだけ長々と詠唱するものを使っているのだから、魔法は実際に起きているのだが。彼は「魔法使い」に類する法術の使い方をあまりせず、基本斬って殴ってすり潰しが基本戦術の人だったので、なおさらイリュージョンのようだと思えたのだ。
水面はごうごうと燃え盛り、私は彼の腕の中でじっとそのさまを見た。跳ね踊る焔は、海にぷかぷか無様に浮かんでいた死骸達を片端から燃やし尽くした。燃え盛る炎は赤かったが、私はそれを血染めの海と同じ色で括りたくはなかった。これこそ、鮮烈なる緋色だ。
「きれいだ……」
私は青が好きだ。赤は、あんまり好きではない。でもこの色は、ずっと記憶に留めておきたい。
しかし物事とは無情なもので、永遠に眺めていてもいいとさえ思えた炎もやがてしぼんで水に消えて行く。炎と水のイリュージョンは幕を降ろし、静かな海面が返ってくる。私は落胆して肩を落としたが、彼の指先がすぐに私の視線を海へ戻させた。まぶたの裏に焼き付いた炎の影を追っていたかった私はそれに抵抗し、目を閉じ、いやいやをしたが、頭にげんこつを落とされてしまっては、痛みで目を開けるほかない。
「ちょっと、やだ、だってまたあんな赤黒いの――……あれ?」
その瞬間目に飛び込んできた光景がすぐに受け止められず、私はなんとも間の抜けた声を漏らしてしまった。
海は相変わらず赤かった。しかしそれは死体から流れた血が水面を染め上げた汚濁ではなく、夕陽が澄んだ海に跳ね返り、緋色に染まっているゆえの赤さだった。まるで水面の上に傲岸不遜に燃え盛っていたあの炎のような、美しい色。
「赤い……いや、青い……?」
「青だ、青。で、そこに照り返しがあって、この時間帯はちょうどこんな塩梅の緋色になる」
「……海って本当に青かったんだ」
「ああ。アゾフ海以外はみんな青い」
「アゾフ海って」
「死体の代わりに赤藻が浮かんでるんで赤いとかいうクソ臭ぇウクライナの海だ」
クソ臭ぇ、と口にした時の辟易とした様子は、本当に鼻でも曲がったのかという調子だった。興味本位で見に行って、鼻を潰した過去があるのかもしれない。ものすごく気になったが私は好奇心を諫めた。彼の過去を訊ねるのは御法度だ。ツキが落ちる。私はまだ死ねない。ポケットに入ったじゃらじゃらと音を立てるタグたちを、生きて本部に持ち帰らねばならない。
私は口を噤んで今一度海を眺めた。水面は静かにさざめいていた。死体は一つも浮かんでいない。あの炎の餌となり、燃え尽きて灰になって、今は水底に沈んでいるのかもしれない。
「何故海を燃やしたんです」
「坊やに海は実のところ赤かったと思われたんじゃ、後味悪いからな」
「それにしたって、別に方法があったんじゃないですか?」
「こいつが一番手っ取り早い」
「ソルって本当よくわからない……」
「うるせえ。それよか、テメェに言ってやりてえことがあったんだよ。だからわざわざ燃したんだ。いいからよく見ろ」
彼が私を抱えたまましゃがみこみ、浅瀬に足を入れる。彼の影が海に落ち、夕陽が途切れ、海の素顔が露わになる。
私はまじまじとそれを見た。海は確かに青かった。エメラルドのように麗々しく、サファイアのように凛々しく、どこまでも広がり、深く澄み渡っていた。
「これがテメェの目の色だ、カイ」
彼が言った。私の耳元でそう囁いた。私はどうしてだか、ひどく、彼のことをずるいと思った。けれどそこに論理的な理由が見出せず、口に出して「ずるい」と罵ってやることが出来なくて、「そうですか」なんて素っ気ない言葉しか、返すことが出来なかった。