現代最後の魔法使い



 全てが済んだら友達と出かけるんだ、なんて後期試験を前にしたカレッジの生徒みたいなことを言うので、その時私は、たいへんに驚いたわけだ。
「ほんとに?」
「死ぬ前に一度ぐらいはね」
 訊ねると飛鳥はふかぶかと頷いた。私達は日当たりの良いテラス席で向き合い、ぶあついコーヒーマグを手に持っていた。ヘヴンズ・エッジに即席で作られたカフェテリアには私と彼の二人しか客がいない。からすの影ひとつ落ちていない。彼はちょっと、今、忙しいのだ。市街地で女の子を一人助けて来なければいけないから。
 真っ白なマグに少しだけ口を付け、顔をしかめ、テーブルに戻す。コーヒーはいれたてのブラックだった。私の顔を見て、飛鳥がはっとして手を叩く。何も無いところにぽんと藤籠が現れ、中から砂糖菓子がばらばらと零れてくる。それらの中からコウモリとウサギのかたちに固められたものを選び取り、マグの中に放り入れた。
「言っちゃなんだけど、なんだかすごく、平和ボケした感じ。もっと言うなら、冗談はよしこちゃんって感じ」
「本気だよ? 心の底からね。百五十年以上我慢してたけど、僕は友達と映画館に行くのが好きなんだ」
「そのあと、ダウンタウンの雑貨屋を物色するのも、でしょ。知ってる」
 マドラーで乱雑にコーヒーを掻き回し、知ったふうに言う。私の中にインストールされた少女が、「ついでに言えば、宇宙センターは映画館よりもっと好きなのよ」と私のプシュケーに語りかけてくる。そう、そうよね。私は少女に頷く。彼女が初めてデートで連れて行ってもらった場所は、彼ら一番の遊び場で、彼は目を輝かせてはその中を案内してくれたものだ。
 溜め息を吐き、ふたたび口にした液体は今度は甘かった。
 アリアの復元をするための器として創造された私だけど、まったく同じ遺伝子からかたちづくられ、その魂の半分をさえ与えられ、記憶の大部分を取り戻した今でも、私はアリアという少女にはなり得ない。私はヴァレンタイン。ひとならざるもの、天秤を預かるもの、かくあるべしと鋳型に流し込まれたもの。私はアリアの感情や思い出を理解するけれど、そこに同一性を見出さない。
 だから私は、アリアと対話をする。彼女の記憶は私という自我に語りかける。私は最も彼女の近くに足を踏み入れた対話者であり、故に、アリアの情報から形作られたヴァレンタインシリーズの中で、最も彼女に近い適合生体足りうる。
 重要なのは、私がフレデリックの恋人そのものではないということで。
 それはつまり、私が飛鳥の共犯者に他ならないのだという、唯一にして最大の証明でもある。
「世界を書き換える本の話があるでしょう」
 ヘヴンズ・エッジの床を蹴りながら私は嘯いた。お伽話の魔法使いが持つ、森羅万象全てが記された万能の記録書。その本を手にした魔法使いは、世界の仕組み全てを思いのままに操ることが出来るのだという。人々は皆、その魔法使いが万能の本を持っていることを知っていて、恐怖し畏れ、時に迫害する。魔法使いはそれに思い悩む。
 けれども、結局そのお伽話の中で、魔法使いはついぞ己のために本を使うことがない。彼はその気になればこの世の富をすべからく集め名誉と栄光とを持ちきれないほど抱え、全てを望むがままに出来るのに、世界中のひとびとに不気味がられたまま、安らかに本を閉じ、同時に物語も終わってしまう。
 はじめてそのお伽話を読んだ時、アリアは、どうして魔法使いが本を使わなかったのかがわからなかった。
「貴方も今、似たような立場にいるんじゃないかと思うの。バックヤードにアクセスし、任意のログを取りだし、ある程度整形してそれを差し戻す。そんなことをずっと続けてきたのよね。私を造れた時点で、飛鳥はもう両足を踏み出してる。そうでしょ」
「つまり僕には友達と映画館に行く資格なんかないって?」
「逆よ。映画館なんか行ってる場合じゃないかもしれないってこと。だって貴方のこと、まるで神様か悪魔みたいに恐れてる人もいるのよ」
「それは買いかぶりだ」
 飛鳥が首を振った。私もそれに頷いた。確かに、彼は神様なんかとはほど遠かったし、悪魔と呼ぶには心優しすぎた。
 彼という存在はどこまでも人間らしかった。彼の辿る道筋はでこぼこだらけで破損していて、どこもかしこも矛盾で溢れかえっていたけれど、人間の選べる道筋としてはこの上なくシンプルだった。
 ともだちを助けたい、と彼は言う。
 ともだちを愛してる、と彼が言う。
 たったそれだけの、証明式さえいらない解法。貴方は真っ直ぐなのよね。砂糖が溶けたコーヒーは泥水のように甘い。真っ直ぐすぎて、不器用にすぎて、世界の全てを敵に回してしまう。
「でもね、もし、もしもよ。バックヤードの真理に到達して、この世全てを書き換えることが出来るとしたら、貴方だって一つぐらい、書き換えたいものがないわけじゃないでしょう」
 魔法使いの本があれば。飛鳥=R=クロイツは、己が聖戦の元凶であるという記録を書き換え、世界じゅう全ての人々から疎まれているという現実を消し去ることが出来る。また或いはジャスティスの起動実験が失敗したという過去を殺して聖戦そのものをなかったことに出来る。彼の愛した友人達が人をやめたという結果も無視出来る。全てはクリーンに生まれ変わる。彼がカレッジで遺伝工学の講義に出席していた頃に戻れる。フレデリックが安っぽいイヤホンを耳に突っ込み、MDウォークマンから炎のロックンロールを延々垂れ流していた頃に、還ることが出来る。
 だけど飛鳥は首を横へ振る。
「何も変えないよ」
「フレデリックのことも?」
「そう。なにも」
 それから、飛鳥は「仮に彼の心を書き換えることが出来たとしても」、と注釈を付け加えた。
「過去に戻りたいと思ったことはないんだ。あの日の続きをしたいという願いと過去へ帰りたいという欲望は同じではない。夢の続きは、起きて明日に見ればいい」
「夢が続いていく保証なんてどこにもないわ」
「夢が続かない保証なんてものも、どこにもないよ」
 空っぽのコーヒーマグを弄び、飛鳥がへたくそなウインクをして見せる。ああ、ウインクの下手くそさは、昔から何一つ変わらない。フレデリックにそれをからかわれた時、魔法使いはみんなウインクがへたなんだよ、と冗談交じりに飛鳥が言っていたことを思い出す。
 法術が普及し、「魔法使い」と呼ばれる人々が職業として台頭してきたこの世の中でいつしか飛鳥は世界最強の魔法使いとして恐れられるようになった。法術を研究する専門家として、最強の一角に立っていると。けれど私というか、アリアに言わせてみれば、飛鳥はそういうありふれた魔法使いの一人ではない。
 私達が思うに、彼には、「現代最後の魔法使い」という呼び名こそがふさわしい。
 それはつまり旧時代的な意味での魔法使いなのだ。私達が子供の頃に流行った、キングス・クロス駅から発車する汽車の先にある学校で教えられているもののような、数式で表せない奇跡の使い手。
 それらと比べると、おとぎ話に出てくる魔法使いの本はあまりにシステマチックで、奇跡とは縁遠い。だから飛鳥の矜持にもとるのだろう。システムの強引なリブートなんて、即物的でちょっと野蛮だ、なんて言うつもりなのかもしれない。
「仮に僕に世界を書き換える力があったとして、その力を使ったとして……そうして、フレデリックが僕の方を振り向いたとして。きっと僕は後悔しかしないよ。そんなの分かりきってる」
「非確定現象を有形事象みたいに語るのね」
「でもそういうことなんだと思う。僕はべつにフレデリックのみてくれを愛してるわけじゃないし、いや、かっこよくて大好きだけど、それに僕をひたすら見ていてほしいわけじゃない。僕が愛したフレデリックという男は、常に自由で、何者にも縛られず、誰かの指図を受けない。そう、担当教諭の赤ペンでさえ」
「おかげで後期のレポート、ぎりぎりの『可』だったものねえ」
「まあ僕に言わせれば、フレデリックとそりが合わない教諭の側にも問題はあったと思うけどね」
 飛鳥が笑った。夏の日の向日葵みたいな少年の横顔だった。
 お伽話の魔法使いが、与えられた力を使わず安らかに本を閉じた理由。それをアリアは、もっとずっと大人になってから理解した。万能の力を持つ魔法使いを忌む、その世界の常識やルールを書き換えてしまえば確かに迫害は止むだろう。しかしそうすると、書き換えられた後の人々は、魔法使いの見知った彼らではなくなってしまう。そのあとに残るものも、魔法使いの生まれた世界ではなくなってしまう。
 あいしたものでは、なくなってしまう。
 自由に世の中の仕組みを書き換えるというのは、翻って、それまで触れてきた全てのものを、似て非なる別物へ取り替えてしまうことと同じだったのだ。
第一の男 せんせい が、仮に世界の真実に到達し、この世の深奥を手に入れ、ありとあらゆる全てを書き換えていたとしても。僕は同じことを望まない。……ジャック・オー、なかったことにするのは簡単なんだ。リセットは一瞬だ。けれどかけがえのない時間を手にするのは、その何倍もうんとむずかしい」
「あなたとフレデリックが袂を別ちたように」
「そう、そして未だ、僕達が映画館へ行けていないように」
 ヒーロー映画の最新作が観たかったんだ、と口にする彼の面差しはあどけない。世界の仕組みに王手をかけ、世界中の人々からありったけの憎しみを引き受け、百年戦争の罪を全て被った男は、まるで時でも止めてしまったかのように永遠へと過ぎ去った想い出の中を生きている。
 アリアは知っている。過去へ帰りたいと思わないのは、やり直さなくたってあの頃がこれからも続いていくと信じられるのは、彼がそのテリトリーから出てきていないからだ。フレデリックは過去を棄てようと歩いているが、一方で、飛鳥=R=クロイツは過去を現在に仕立て上げる。
 ねえ飛鳥。ヒーロー映画は、もう、この世界のどこでも上映していないのよ。アリアが言う。彼女はいつも、未来が恐ろしいのだと私に呟く。私も、未来がただ全て素晴らしいものだとは思わない。
 けれどね、アリア。私は飛鳥の共犯者。私や彼みたいな旧時代の遺物が自覚して今に居座るよりも、貴方達が生きられる未来を夢見ていたい。
「貴方って本当、不器用よね」
「魔法使いなんて、みんなそんなものだ。魔法を使わないとこんな当たり前のことも出来ないから、それに長じてしまうんだよ」
「そうね。じゃあ私も、魔法使いになれるのかも」
「君がかい? ジャック・オー」
 ぱちぱちと瞬きをして、彼が首を捻る。そう。アリアではなく、私が。ユノとアリアを抱えていながらそうとは振る舞わず、フレデリックの過去を知るだけの女として、ソル=バッドガイをアリアの元へ引き渡す手引きをしようとしている、ジャック・オー=ヴァレンタインは、魔法使いになれるだろうか。
 私は真っ直ぐに飛鳥の澄んだ眼を見つめた。飛鳥はひとしきり唸ると、なにがしかの結論を得たらしく、尤もらしく頷いてみせる。
「うん――でも、そうだな。君はきっと、とびきりの魔法を使うだろう。昔アリアが一度だけフレデリックに掛けた魔法のような、美しく愛らしい、たった一度の奇跡を」
 現代最後の魔法使いが、私の手を取り、ベリーピンクの瞳を覗き込むとそう囁いた。


◇◆◇◆◇


「ごめんなさいね」
 私はジャスティスの皮膚をつるりと撫であげた。ジャスティスの肉体に残されたアリアの魂は、もう半分との融和を拒絶した。それを告げた時の、フレデリックの声といったら。
 ……私はそれをうまく言葉に出来ない。私にはどちらの気持ちも理解が出来たから。愛しているから恋人を取り戻したいフレデリックと、愛しているから恋人の元へ戻りたくないアリア。そうね、いやよね。ジャスティスとして稼働していた狂ったメモリを全て持っているアリアは、今やもう、フレデリックが愛してくれた清らかな少女ではないと自らを判じてしまった。彼に愛される資格も理由もないから、戻りたくなかったのだ。
「でも、『わたしたち』、決めていたのよ。アリアとフレデリックをもう一度会わせてあげようって。それが飛鳥の願いなの。だから――ごめんなさい。私はどうしても、この身体をあなたに返すわ」
 GEARの巨大な肉体に頬を埋めた。少女の声なき叫びが、皮膚を伝い四肢の全てへ伝達されていく。いや、こわい、やめて! ころして! 殺してよ! 醜い姿を晒すぐらいなら、生きていたくなんかない。
「だけど本当は、彼に逢いたいでしょう?」
 呟きと共に表皮をなぞる。元々アリアは、ギアに改造されてまで生き延びることを、望んでいたわけではなかった。当たり前だ。かいぶつになりたい女の子なんていない。アリアだって、フレデリックのお姫様になりたかっただけの、普通の少女だったのだ。
 けれど魔法使いなんてものは、往々にしてエゴイストばかりで。
 魔法を使うとき、魔法に掛けられた側の気持ちなんて、推し量ってはあげられない。
 私はジャスティスの中へ溶け込み、フレデリックがきっと連れてきてくれるはずの奇跡を待ちわびた。ねえ、あと少しよ。ほんの少しで、貴方を人間に戻してあげる。それこそが私の役目。ジャック・オー=ヴァレンタインに課された使命。生まれて来た意味。
「笑って、アリア。あなたの恋人は、どんな姿でも、百年経っても、永遠に、あなたを愛してくれる。大丈夫よ。みんな幸せになれる。だってそのために、飛鳥は魔法使いの本を一度も使わなかったんだもの……」
 地上でめまぐるしく事が動いて行く。聖皇アリエルスは倒れ、第一連王カイ=キスクと子供達は転移法術により飛空挺へ引き上げられた。今やこの浮島には私とアリア、そしてフレデリックしかいなかった。見て、あそこに貴方の恋人がいるわ。私は彼を指し示す。貴方のために戦っている。……わかるでしょう?
『フレッド』
 不意にジャスティスの唇が彼の名前を紡いだ。世界が白に染まる。巨大な質量が、私達へ迫ってくる。
 私は目を瞑り、彼の引っ張り上げた奇跡に身を任せた。今度こそ、オラトリオ聖人は全速力で私の身体にぶつかり、私に最初で最後の魔法を許す。オラトリオ聖人によってキックされた術式により、ジャスティスの肉体が高速で分解され、私という器の中に再構築されていく。
 ぱん、とエネルギーが弾け、少女の肉体が宙を舞う。フレデリックが駆け寄り、アリアの身体を抱き留めた。
 ようやくだ。
 これでようやく、飛鳥の願いが叶う。私の生まれて来た理由が、これで完結する。


 ねえ飛鳥、私の共犯者。
 私、最後の魔法、うまく使えていたのかな。