ごめんね天使じゃいられない



 しょせん、あなたも私も肉の塊じゃないですか。

 血染めの衣を翻して守護天使殿がそうおっしゃりやがったので俺は大変に苛立ち、自分でも感情をコントロール出来ずもてあましたまま、ああそうかよ、と地を蹴った。砂埃に生臭い死臭が混ざり、舞い上がる。ああそうか。そうだな。そうだろうとも。肉塊になってさえしまえば、人も GEAR バケモノ も変わりはなかろう。
「そうは言うがな――」
 襟首を乱雑に掴み取り、暴力的に持ち上げた。衝撃で剥き出しの額にヘッドギアが当たり、鈍い音を立てる。「いたい」と小さな唇が動く。痛い。痛いのか。己は人でもバケモノでもないと言いたげなツラを晒しておきながら、痛いか。人と同じように。バケモノと同じように。
「肉の塊にも種類はある。豚のブロックと鳥の手羽じゃ、何もかもが違う。そのレベルから話さなきゃいけねえのか?」
「ソル、そんな話は今していないでしょう」
「してるさ。同じだよ、そのぐらい原始的ではっきりとしている。俺の肉塊と坊やの肉塊ではものが違いすぎる。用途も異なり、その意味も重みも何もかもが違う。理解しろ、クソったれ。全ての命が等しいなんてのは、聖書に出てくる神がほざいてるだけの戯れ言だ……」
 天使はわからない、と首を振った。神の子の教えを敬虔に信じているこの少年には、人として必要なものが欠損していた。そうか、わからないのか。たった判刻前、テメェを庇って死んだ命が、誰もテメェのためだとは言わず、身勝手に死んでいったから、そんなこともわからないのか。
「でもソル、だから……私は、貴方が肉の塊になっても、それを愛して慈しみ、最後まで看取りますよ」
 俺は盛大な溜め息を吐き、噛み付いてやりたい気持ちをどうどうといなすとつまみ上げていた身体を抱き上げた。身体は羽根のように軽かった。いつ抱いても変わることのないこの軽さが、俺は毎度、心底嫌で嫌でたまらない。
 持っているのかそうでないのかさえ曖昧になる質量は俺をどうしようもなく不安にさせる。溜め息が自然と漏れる。天使と呼ばれセラフィムの冠を乗せられた少年は、しかし本当は、どうしようもなく矮小な人の子だった。赤い血が流れ、痛みを感じ、涙を流し、心臓を規則正しく鳴らして成長している。だが周りが人として扱わなかった。人として認めなかった。
 人であることを許されず、バケモノを駆逐する機構として求められるのなら、確かにそれは、人でもバケモノでもないという顔をしてみせるしかないのだろう。そのなんと残酷で、おぞましく、吐き気がして……正しいことか。正しい。カイはいつも正しい。一面的な正義を振りかざし、それに傾倒する以外道を教えられなくて、だからいつも、一番正しい答えを真っ先に選び取る。
 己を人だと信じていたら、こんな世界でこんな役割を与えられ、生きてはいられない。
「んなこと言って、俺の死を看取る気なんか微塵もねえだろうがよ。いつも死に急ぐように走りやがって。は……テメェの方が、よほどバケモンだよ、守護天使」
 ぐっと手のひらを握り込み、「 GEAR おれ よりも」、という末尾の言葉は呑み込んだ。坊やは、俺が何を取りやめたのかなんかまるで気付いたふうもなく、そうですか、とあっさり答えて身を預けてくる。否定さえ飛んでこない。すみませんなんていうらしくない飾り言葉も口にしない。然るにこの子供は、あまりにも慣れ過ぎていた。謗られることに、畏怖されることに、崇められることに、祈られることに、あまりにも無感動だった。
 苛立ちがいや増し、また地を蹴った。ああ、いつか、俺がいなくなる時が来る前に。周りのやつらに教えておかねばなるまい。すっかり安心しきって身体を丸め、もぞりと腕の中で動く生命に煙草の代わりに口付ける。何も知らない無垢に過ぎるいのち。人の命は平等である、という夢想を信じているくせして、己の命をちっとも省みることなく、俺に全てを委ねてしまえるような卑怯者……。
 おまえに、何故団員達が命を差し出すのか。簡単に命を捨ててしまえるのか。それが 誰のためなのか ・・・・・・・ ――ということは、口を酸っぱくして言い聞かせねば、この少年には伝わってやいないのだ。羊皮紙一枚分でさえ。

◇◆◇◆◇

 少し早く目を覚まし、隣を見遣ると、カイはまだ寝入ったままだった。身体が上手く動かせないので、顔だけずらし、カーテンの向こうに目を向ける。朝陽が入り込み、鳥がさえずっていた。そのまま時計へ視線をやると「5」に合わさった短針が目に入る。常に仕事に忙殺されているカイだが、この時間ならもう少しだけ寝ている余裕がある。
「すげえ寝相だな」
 時計からカイへ目を戻し、まるで抱き枕のようにソルを抱きしめて離さないカイの頬を突っついた。カイはむずがって眉根を動かし、「んん……」とかなんとかいった調子で鼻から息を漏らしたが、すぐに起きる様子はない。
 普段は、ここまでの甘えたではなかったはずだが。幼児返りか何かか? そう思ってもみたが、別段、幼かった頃のカイがソルを夜毎枕にしてきていたような記憶はない。人恋しいからという理由でたまにソルの部屋に泊まり込んでくることはあったが、本当に人がいればそれでいいといった感じで、添い寝してやると満足して寝るか、こちらから誘いをかけて行為に至るかの二択だった。
 相手を抱き枕にしていたのは、どちらかといえばソルの方だ。「人間ゆたんぽ」と言ってやると、カイはいつも頬をふくらませてぷんすかして見せたが、そうしながらもソルを拒んだことはなかった。
「ん……んん……ぅ……あ、ソル……?」
「ああ、起こしたか」
「ん〜……いや、そんなに頬を突っつかれたら、起きる……」
 そうこうしているうちに、のんびりとカイが目を覚まし始める。カイはふわ、とあくびをして、それから口を覆おうとした手がソルの身体をぎっちり抱きしめていることに気がついた。しかし慌ててぱっと離すといったようなこともなく、むしろ、するりと身を寄せてくる。
 欲求不満か? 朝から? ――だがカイの顔を見る限り、どうもそうではなさそうだ。カイはどこか寂寞を感じさせる面持ちで、何かを恐れるようにしてソルに抱きついていた。
「子供か」
 尋ねるとふるふると首を振る。確かに、カイはもう立派な大人になったはずだった。あらゆる意味で、昔ほど無垢でもなくなった。けれどある種の凶器的な純真さは昔のままだ。
「さみしくなって」
 ややあって、カイが俯いたままそう言った。
「昔のことを……夢にみて……それで」
「テメェでもそんな繊細なことがあるのか」
「失礼な。おまえよりも――ああいや。おまえのほうが繊細かもしれないな、本当のところ。ギアメーカーが出てきて以来、どうもそういう、隠れていた気が見え隠れしてるし」
 言葉の途中でむくれ顔をすっと引っ込め、カイが真面目な顔をして最近の記憶を辿り出す。何か不都合な思い出を再生されている気がして、ソルは首を振ると「やめろ」と耳元で低く囁いた。カイは言われた通りに唇を閉ざした。
 ただその代わり、ソルに促されるよりも早く、即座に本題を切り出した。
「それで、夢の内容というか、それに関係のある話なんだけど」
「ああ」
「だいぶ――ずっと昔に。生命が平等だなんてのは嘘っぱちだ……みたいなことを言ったろう」
 さみしくなった、なんて口にした割に話の内容は血なまぐさかった。この男の唇から、「生命」とか「平等」とかそういう単語が上がるときは、たいてい、大衆向け演説か幼稚だった過去の反芻、そのどちらかと相場が決まっているのだ。そして今この場にはカイの他にソルしかいない。自動的に、話の内容は聖騎士団に二人が所属していた頃のことになる。
 二人して、毎日のように血を浴びていた時代だ。良いこともあったがそうでないことも同じぐらい多かった。カイの少年時代は決して愛くるしい砂糖菓子なんかじゃなかった。
「さあな。いつなんどき言ったかまでは覚えちゃいない」
「ブレーメンでだ。私はいつも通り返り血でどろどろだったし、お前はそんな私を認めるなりこれ見よがしに舌打ちをした。あの頃、お前の口癖は『ちっとは自分の身体を顧みろ』だった。この私が口うるさいと思うぐらいよく言っていた」
 思った通り、なんだかめんどくさそうな話になってくる。ブレーメン。いつだ? カイに舌打ちばかりしていた頃というと、こいつが守護神に昇格する前か。生命の不平等さについても、ソル自身割とよく口にしていた気がするので、あまり記憶の詳細を知るためのとっかかりにはなってくれそうにもない。
「何が言いたい」
 それで単刀直入に切り込むと、カイは厳かに頷いてまなじりを伏せった。
「お前がいなくなった後、私は部下達に最初で最後の命令違反をされた。いや――本当はずっと昔からされていたんだな。でも気がついていなかった。フリッツ、ディクスン、ダイアース、ケルン、イゾルデ、ラッキール。その日直接指揮を執っていた第四小隊所属の六人は、命を賭して彼らを庇おうとした私の命令に背き、そして死んだ」
 カイが言った。初めて聞く話だった。
 誰かには話したことがありそうな口ぶりだったが、少なくとも、ソルには覚えがなかった。そのことを口にした時、ソルが隣にいてその身体を全て預けているというのに、カイの言葉は堅く少しだけ震えていた。いや、ソルに言葉を向けているからか。どうもこの話を「ソル=バッドガイに」告白するのは、懺悔するのには、カイにとり十分な心の準備を必要とする行為のようだった。
「私の命令を聞けない、と言われて私は酷く動揺し、何故です、と尋ねた。いや殆ど叫んでいた。信じられなかった。だってそんなこと、一度だって言われたことがなかったのに。けれど六人の決意は固く、意思は頑なで、聞く耳持たなかった」
 それからカイは、「こんなふうに」とひとさし指でソルの唇をなぞった。情事の際によくやる仕草だったが、そんな気配が一ミリもないぶん異常めいて、ぞっとしなかった。
 ――カイ様、命は確かに平等です。授かる時と終わる時だけは、誰にも等しく訪れる。しかし――その使い途は決して平等ではない。我々の命はぼろきれのように終わり、誰にも顧みられることがないでしょう。けれどあなたの命は世界中に悼まれる。我々はあなたのいない世界を迎えられません。生きてください。どうか――生きて、我々の希望をお繋ぎください……。
 記憶の奥底に深く刻まれた懺悔を繰り返すような口調で、カイは淡々と誰かの言葉をなぞりあげた。
 残酷な遺言の羅列を、カイは一字一句違わず正確に記憶しているようだった。呪いの言葉を紡ぎ終わり、唇を閉じたカイの頭を黙って撫でる。撫でている最中、顔も名前も覚えていない団員達の表情が、しかし鮮やかに脳裏に浮かび上がっていた。そうか。カイは、その時初めて、命の価値について知ったのか。自分の命の価値についてだ。六対一で計算した命を、はるかに重要なものだと熨斗を付けて返され、それでようやく聖書の価値を再考したのだ。
 そこまで聞けば、一体全体過去の自分がブレーメンで何を口走ったのか、薄々ソルにも推察がつく。そうだ――あの日だ。天使は言った。「しょせん、あなたも私も、肉の塊じゃないですか」、と。ひとつの疑いもなく曇りのない眼でそう言い放った。それが本当に、どうしようもなく、苛立たしかった。
「……あの日は丁度煙草が品切れになって久しかった」
「思い出したのか?」
「俺は腹が立ってた。いや、あの日に限らず、その頃はずっとむかっ腹を立てていた。テメェの歪さに、そしてテメェを歪の型に填め込んだ奴らに。何しろクソッタレ坊や、俺に向かって所詮みんな肉の塊だとか抜かしやがる。ギアの俺にだぞ。ああ、そりゃ、そうだろうとも。ギアだって死んだら動かない肉だ」
 その時の気持ちを一つ残らず再現してみせ、舌に乗せる。嫌がらせ半分、本気で今も怒っているのが半分。自分でも驚くほど言葉はすらすらと流れ出て、カイの耳を蝕む。
 するとカイは、まばたきをしてソルの身体を抱きしめた。唇が唇に伝い、「ごめん」とも「悪かった」ともつかない、曖昧な感情が流れ込んでくる。
 十四歳のカイ=キスクは、ソル=バッドガイがギアだと知らなかった。十五歳のカイ=キスクも。あまつさえ、封炎剣を手に持ち、彼の元を去ろうとした男に完膚無きまでに組み敷かれたあの十六歳の夜も、何一つそのことを知らなかった。だからあの日、天使は軍神に向かって平然とのたまえたのだ。人は死ねばみんな肉のかたまり。 天使 わたし も、 軍神 あなた も。そして毎日雨が降るように死んでいく 団員たち にんげん も。
 カイの唇が離れてゆく。星屑灯籠のような瞳がソルを見つめる。そこから目を逸らすことが出来ない。片時も目を離したくない。だからあの夜に一度置いていった。棄て去ったと罵られても構わなかった。そうしなければソルもカイも二人して気が狂い、その果てに、聖戦はきっと今も続いたままだったに違いない。
「ソル、あの日確かに、私はお前を酷く苛立たせることを口にしたのかもしれない。けれどそれを悔やんだことはない」
 ややあって、カイが静かに口を開く。言葉たちは、カイらしい熟慮の末に選び出されていた。
「そうか」
「何故なら今でもそう思っているからね。私達は等しく肉の塊だ。おまえも、私も。肉塊が、脳を持たされ、感情を覚え、愛を知る。人も、ギアも。生き物はみんなそうだ。だから私は、あの日あの時お前に言った言葉の全てを撤回するつもりはない」
 今やどこに出しても恥ずかしくない人の子になった男は、己を抱く男の髪を梳き唇をすぼめてさえ見せる。けれどあの眼差しだけは何も変わらない。いつまでも、永遠に、今にも手折られそうなくせして枯れない白い花と同じ形をして、ソルを狂わせるように微笑むのだ。
「でもね、だからこそ、私はあの日死んだ六人の命をずっと忘れない。私の目の前で物言わぬ肉塊になった彼らを。私のために命を使うという途を選んだ彼らを……彼らが私に託したものを、永劫、忘れることはないだろう」
 わたしだけは。
 わたしだけはそれを忘れてはならないんだ、とカイが呟いた。
 祈りの聖句に似ていた。サンクトゥスよりもずっと重たく、狂おしく、しかしそれが大人になったカイ=キスクが心臓の位置にいつまでも抱え込んで離そうとしない彼の美徳と最大の欠点だった。
「テメェはそういう生き物だよな」
「あ。笑ったな」
「悪い意味じゃない。分かってるだろ? だから言っただろうが、そういう意味じゃ、俺なんかよりもお前の方がよほどバケモンだ、ってな……」
「……うん。そうだな。前からたまにお前がぼやいていたけれど、私達は、そもそも育った時代が全然違う。ジャック・オーさんやギアメーカーと話していて、いやでもそれは感じた。あの中で比べれば、お前なんか私達聖戦世代に感覚を寄せてくれていたほうだ」
「まあ、俺もな。何も失わなかったわけじゃない。色んなもんを棄ててきた。過去も……己自身も……ささやかな夢も。人を殺せるなんてつゆほども思っちゃいなかったあの頃の俺が今の俺を見たら、半狂乱で斧をぶん回し、俺を消しに来るだろうよ」
 また、カイがまたたきをする。今度はその唇にソルの方から口付けると、くすぐったそうに喉を鳴らす。猫のようにごろごろじゃれつき、二人でふわふわしたキスを飽きもせず繰り返す。
「人は生きていくために常に何かを失い続ける。私も、大人になる間に、色々なものを失ってしまった気がする」
「テメェのは、単に天使じゃいられなかったってだけだろ」
「……なんて?」
「なんでもねえよ」
 照れ隠しのようにそっぽを向き、上体を起こした。いつの間にか窓から差し込む光が随分と眩しくなっていて、時計の短針は「6」の位置を少しずれている。隣でカイがソルに倣ってむくりと起き上がる。鎖骨のまわりに、赤い痕が散らばっている。
 この十数年間というもの、カイは確かにたくさんのものを失ったし、そのいくつかは紛れもなくソルが奪い取ったものだった。それはたとえばカイの純潔であったり、無知であったり、もっと曖昧な何かだったりした。しかし決して失えないものもある。ソルにも、誰にも、永劫にカイから奪うことの出来ない何か。
「朝だ。仕事へ行く前にシャワー浴びてけ、ねぼすけ連王」
 それはカイの矜持であり、信念であり、愛であり……
 ――そしてカイの背に群がる亡者どもが、希望という名で託した幾億の命たちでもある。
 カイは鷹揚に頷くとベッドから飛び降りた。一糸まとわぬ姿で髪を翻し、ソルの手を引くと、カイはつきあいたての女学生みたいな足取りでシャワールームの方へスキップを始めた。

◇◆◇◆◇

「テメェは」
 最後に残された白百合の花びらが床に落ちた。
「まだ、俺の肉塊を慈しみ愛すなんて、抜かすのか」
 聖戦のただ中で、ふたりはローマの戦から帰って来たあとだった。ひたひたと息をひそめた月明かりに照らされ、寝台の上に小さな肢体が伸びている。その上に覆い被さり、目深に被ったヘッドギアの下からそう問いかけた。肢体はわななき、どこか棺から揺り起こされた死体めいて、赤い唇を震わせる。
「はい。……でも本当を言うと、今はちょっとだけ、わからない」
「何故だ?」
「だってあなたより私の方が先に死んでしまいそう」
 そいつがこてんと首を傾げると、その硝子のような双眸にひかりが当たる。ローマで今度こそ死を覚悟したのに何故か九死に一生を得て以来、まるで宙ぶらりんのような気持ちが胸にこびりついている――とぼやいた少年は、しみひとつない指先を俺の頬へそっと伸ばし、慈しむように触れた。そうすると、その背に縋り付いた、尋常じゃない数の亡霊の手が見えて、気がふれそうだった。
 手。手、手、手、手、手、指、少年の肩に乗りきるはずもない指先たち、しわがれた老人の親指、壮健な成人男性のひとさし指、腐り落ちた老婆の中指、まだ若く未来を嘱望されていた次期小隊長の薬指、瓦礫の下敷きになって死んだ子供の小指。無数の骸骨。幾千幾万の、「どうか世界を救ってください」という呪いの有り様。
 その全てを取り去り、自由にしてやれたら――と思う一方で、そんなものはテメェの自己満足にすぎないと糾弾する自分がいる。わかってるんだよ。黙ってろ。己に指を突きつける黒髪白衣の科学者に悪態をつき、かぶりを振った。墓に葬ったはずの過去が地面から起き上がって生きている俺を糾弾してくるなど、笑えない冗談以下の話だったが、カイという硝子のように脆い子供に関わっていると何故かそいつは常識人のふりをして俺を罵りたがった。或いは俺は、手ずから殺したはずの死体に葛藤を仮託しているのに過ぎないのかもしれない。
『責任取れるのかよ』
 死人が口を尖らせた。知るか。このクソガキに俺が取るべき責任なんか、一体どこにあるっていうんだ?
『こんな年端もいかねえガキをその気にさせておいて?』
 俺はもう一度、はっきりと頭を振った。死人の幻影は俺の脳味噌から出ていかなかった。冗談みたいな斧を握り締めた 名を奪われた男 ジョン=ドゥ は、無責任だ、と声高に繰り返す。でも何が無責任なのか理解したくなかった。カイのインナーに手を掛けて服を脱がしていく。肩にこびりついた亡霊どもの手を剥がす。うなじにキスをし、彼らを退ける。所詮一時しのぎに過ぎなくても、こうしている間、カイは世界の命運を託された人類の希望というシンボルから逃れ、バケモノでも天使でもない、一人の人間として生きられる。
 自分は正しいことをしていると信じ込まねば、三秒後には取り返しがつかないぐらい気が狂ってしまいそうだった。カイと身体を重ねるようになってからずっとだ。この少年は正しすぎる。いつだってその正しさが俺を追い詰める。彼が「正しくないこと」を覚え、その味をしめ、定着しきるまで、俺はカイの肩から手を払いのけ続けねばいけない。
 頼む。玉のような肌に吸い付いて痕を落とし込み、らしくもなく祈った。準備はもう出来てる。いつでもいいんだ。ただ一言、テメェが俺に向かって言えばいい。人になろうとしている証明をしてくれ。世界がテメェに望んだことではなく、テメェ自身が望む我欲を俺にぶつけてくれないか。
 首筋を舐めあげ、鎖骨の下まで顔を降ろし、乳首を食んだ。少年の細腰が跳ね、限界ぎりぎりまで密着し合う。咄嗟に細めた瞳を大きく見開き、カイが俺の身体へ手を伸ばす。
「ごめんねソル、いい子でいられなくて」
 不意に、首筋に唇を付け、カイが囁いた。
「……やっぱり、わからないなんて嘘だ。ソルが欲しい。たとえ肉の塊になっても、ソルの肉塊なら、私は世界中の何よりそれが愛おしい。死体にキスしてもいい。たとえその身体が暖かくなくても――慈しもう。……私はおかしくなってしまったのかな……」
 そうして彼は腰を蠢かせ、淫猥な態度で懸命に俺を誘おうとさえする。俺は息を呑んだ。
「違うな。ふつうになったんだ。人間なんてみんなそんなもんだ」
「そうかなあ」
「そうだよ。まあ俺は死なねえから、テメェが俺の肉塊にキスすることは未来永劫ないがな……」
 いつの間にか、俺を糾弾する死人は消えていなくなっていた。俺がらしくもない祈りを捧げるまでもなく、カイはちゃんと正しくないことを自分の中に取り込み始めている。そうか。ならそれでいい。動かない俺にしびれを切らしたカイが、自ずから腰をすり合わせてくる。「もうがまんできない」、と海色の瞳が潤んだ。はやく。一年前は知りもしなかった行為を追い求め、媚びるようにカイの両足が俺の身体を抱きしめる。
 俺はそれで全てを了承し、カイの唇を貪った。少年はとっくに、天使の殻から脱皮し始めていた。俺の役割はひとまず終わった。誘いに応じてやりながら、ぼんやりとそんなことを思う。
 これからカイは恋を覚え愛を知り、全のみではなく一を選べるようになって、いつか大人になるだろう。そうして加速度的に美しくなる。俺は神器をぶんどって団を抜ける日取りの算段を付け始めていた。戦争は終わらせねばならない。そのために、俺達がこのまま狂いきってしまうわけにはいかない。こんなことを続けていれば、いつか俺の秘密は露見する。でもカイにはまだ、それを受け入れることは出来ないだろう。せめて――戦争が終わったあとでなければ。
 唇を付けるたび、ヘッドギアに覆われた烙印がじくじくと熱を持って疼いた。俺は天使じゃない、人間でもない、バケモノだ。だからテメェの肉塊にキスはしたくない。
 俺におまえを殺させてくれるな。
 最後にもう一度だけ、似合わない祈りを奉じた。
 おまえはもう俺がいなくても生きていける。たとえ亡霊どもに取り憑かれ、枯れない花を背負っていても、人間なら――
「テメェは、人間、だからな……」
 境目のなくなった肌をすり合わせると、カイは喉から上ずった声を上げ、四肢の全てで俺を離すまいとハグした。