チャイルドライク・ジャム



 日曜日の朝に喧嘩が起きる時、たいていの場合きっかけは些細なことで、しかしその些細なことがどうしようもなくカイやソル、或いは二人共をつんけんさせる。今日のご機嫌ななめはカイの方で、彼は焼き上がったばかりのトーストを指先でつまみ、むっすりと唇をすぼめていた。もうすっかりとへそを曲げてしまっており、適当にご機嫌取りをしてどうにかなる状況ではなかった。
「だから私はミルクジャムを買って来てと言っておいたのに……」
 テーブルの上に鎮座するアプリコットジャムの瓶を悲しげな眼差しで見つめながら唇を尖らせる。カイに言いつけられて適当に調達してきたお徳用ジャンボサイズの瓶が、今日はかえって逆効果を生み出していた。ソルは首を捻る。昔から少々凝り性なところはあったが――でもだからって、ジャムの種類一つでここまで駄々をこねるとは、物資が不足していた騎士団暮らしの頃ならまず有り得なかった。
「子供か、テメェは。ミルクだろうがアプリコットだろうがストロベリーだろうが、ジャムには変わりねえだろ。パンにつけて胃の中に入れれば全部一緒だ」
「大雑把なお前にとっては、信じがたいことにそうなのかもしれないが。第一……次はトーストじゃなくてクロックムッシュがいいって約束をしていたはずだ。なのにお前ときたら……」
 ソルが窘めるように言ってやってもカイの小言は終わらない。わかってはいたが、これは相当気むずかしくなっている。
 ソルは大きく溜め息を吐くと、カイの対面に腰を下ろして黙々とトーストにジャムを塗り始めた。


 事のあらましを整理しよう。ソル=バッドガイが、いつものように窓から不法侵入をしてパリの邸宅にやって来たのは、一昨日深夜のことだった。ソルは防犯術式を適当に解呪して――カイの組むコードにはクセがあるのでソルにとっては非常に読み解きやすい――窓を一枚割り、二階にある寝室に入り込んだ。ところが、既に日付が変わったあとだというのにこの家の主が在宅していない。そこでソルは勝手にシャワーを借り、台所へ移動し、簡単な夜食を作って珈琲を入れた。
 ダイニングテーブルに置いてあった仏語新聞と英字新聞を適当に読みながら帰りを待ち、やっとカイの姿を確かめたのが深夜一時を回った頃。ほうぼうのていで帰ってきたカイは、何故か当然のように居座っているソルに「なんでいるんだ」と問うだけの気力もなく、ソルを見るなりどっと崩れ落ち、「疲れた……」と意識を半分手放してしまう。
 そこからがちょっとした大仕事だった。多忙な警察長官殿が明日も当番であることをソルは知っていたので(寝室のカレンダーに全部予定が書き込んであるのですぐ分かる)、少し首を捻ってから立ち上がり、カイから服を脱がせ、下着一枚にすると抱え上げて寝室に放り込んだ。綺麗好きなカイが風呂に入れなかったことに文句をつけてくるセンも一瞬だけ考えたが、意識を失いかけている人間を風呂に入れられる自信は流石にない。気を失っている方が悪いので、そこのところは我慢していただくことに決定。
 ――というようなあんばいでちょっと手荒な運び方もしたのだが、恐ろしい事に、それら全ての行程をカイは文句一つなく受け入れた。疲労の具合はそれほど深刻だったというわけだ。
「明後日はミルクジャムが食べたいなあ」
 そんなカイが、寝入る直前にちいさくそう呟いた。
「そうしたら、マーケットに行こう。ふたりで……たまには、そういうのも悪くない……」
 それきりカイは言葉を発さず、代わりにすうすうと気持ちの良い寝息を立てはじめる。子供じゃないので手は握ってやらなかったが、ソルは寝こけているカイの耳元で「わかったよ」とだけ返してやってベッドに潜り込んだ。
 その後のことは、目を覚ました頃には既にカイが支度を終えて出掛けてしまっていたため、よく知らない。ソルは起き上がるとカイの家に溜め込んでいるものの中から服を見繕い、約束した通りジャムを買いに行った。しかし何のジャムを頼まれたのかいまひとつ覚えておらず、適当に買って帰り――従って色々なことが発覚したのは、翌朝、珍しく非番のカイが、降りて来るなりジャムのラベルを見てむっすりと唇を結んでからのことであった。


「あー、ジャム云々は、まあ、そんなようなことを聞いた気もするが。クロックムッシュがどうしたって? 一昨日、んなことを言ってた記憶は……」
「先月」
「は?」
「……先月。お前が朝はベーグルがいいって言ったから。じゃあ次はクロックムッシュにしようって、お前も、いいぞ、って……」
 トーストをぽいと胃の中に放り込んで訊ねれば、カイがむっすりしたまま答える。自分でも道理の通っていない自覚があるのか、カイの声は次第にか細くなり、挙げ句の果てにばつが悪そうに目を逸らしたりする始末だ。
(あー……)
 ははあ、なるほど、これは。
 なみなみと黒色の液体が注がれたマグを口に付け、ソルは内心で独りごちる。合点がいった。なんだこいつ、一人で勝手に拗ねていただけか。急に難癖付けてきたのも、実のところ殆ど好き嫌いのないこいつがジャムの種類ぐらいでごねているのも、この平和な時勢でソルが相手だという前提に甘えてのものなのだ。
「一ヶ月も前とか、そんな大昔の話を俺に期待してたのか?」
 からかうように訊いてやると、カイがそっぽを向いたまま頷く。
「そうだ」
「俺が再びパリにやってくるまで律儀に」
「そうだ。前回は、私が譲ったから。次は私の好きなものにしてくれと、たったそれだけの……」
「あのなあ……」
 わざとらしく大きく溜め息を吐いてやってから、カイの頭にぽんと手を置く。意識的な、見せしめに近い子供扱い。カイはますます微妙な顔つきになったが、それを振り払うことは出来ない。
「坊や、知らないかもしれないが、俺は手の込んだ調理はそれほどしない。面倒だからな」
 畳み掛けるように言い含めてやると、カイはふてくされたまま「知ってる」と明後日の方向へ呟いた。
「ほう?」
「そうだ、そのくらい知っているとも。お前、やろうと思えばそれなりに出来るのに、食べられればいいとか言って魚の血抜きもしなかったものな。ああ、あの時の焼き魚はまずかった。塩もないし本当に焼いただけで……うろこも剥いでいなくて……聖騎士団にいる間に食べたあらゆる食事の中で、一番にまずかった……」
「テメェの恨み辛みはさておきそういうことだ。で、クロックムッシュの調理法、坊やわかってるのか?」
「そりゃあ、もちろん。まずボウルに卵を割るだろう、そこへ牛乳を加えて……パンをひたして、なじむまで置いて、それから……」
「あー、いい、もういい。要はそういうことだ。んな手間暇かかる行程を俺がやるわけねえだろ。食べたきゃ、俺より先に起きるか、俺に朝食の用意を頼まずにいるか、のどっちかをしなきゃならなかった。そもそもクロックムッシュにジャムをつけるか? 坊やの主張はてんでばらばらだ」
「……!」
 そこまで言ってやると、カイの身体がぴたりと固まる。カイは一口も囓っていないトーストを持ったまま、ふるふると身体を打ち震えさせ、いつの間にかじっとりした上目遣いでソルを見てきていた。いかにも正論でぼこぼこにされたという風体で、ちょっとやりすぎたか、と思う一方で興がそそるのも感じる。
 カイだって本当はわかっている。連日の仕事で疲れが酷くて、それで八つ当たりをするみたいに自分がわがままになっていること。それにそもそも、ソルが他人に気なんか回すタイプではないということ。それから、それでもソルにやさしくされたいという気持ちが働いて、こんな態度を取ってしまっていること……。
 それら全てをぴたりと言い当てられたら、まあ、カイでなくても、こんなふうな顔をするだろう。
「甘えたか」
「うるさい」
「それか発情期の猫」
「……うるさい!」
 うるさいうるさい、とトーストを持っていない方の手でぽかぽか小突かれる。ガキかよ。パリの街中では、「貴公子」とかなんとか言われていたりもするのにな。でもそういうことは、カイ自身は知らないのかもしれない。カイが知っている世界はいつもソルより少しだけ狭窄だ。これからはともかく、これまでは。
「悪いな、本物の#Lなんか飼ったためしがねえからそういうのはわからん」
「だからそういうんじゃないったら…………うん?」
「まあ過ぎちまったもんは仕方ねえだろ。ミルクジャムはこのあと買いに行く、クロックムッシュは後日坊やが作る。今はアプリコットジャムを食う。他になにかあるか?」
 ソルが含ませた真意に気がつきかけ、眉を顰めたカイの唸り声を遮って勝手に話をまとめ、トーストを奪い取ってやる。カイがちいさく「あっ」と漏らして勢いよくトーストを追った。その隙に伸ばされた手首を空いた方の手で掴み取り、カイの手の甲をぺろりと舐め取る。
「ちょ、な、何するんだ!」
 舐められた瞬間、カイの顔から首から全身から手先までがかーっと真っ赤に染まり、あらゆることを言いたげな顔をしてわなわなと震えた。
「ジャムついてたからな」
「う――うそつき……!」
 ソルは適当に鼻歌まじりで嘯き、にやついた笑みを浮かべながら鼻と鼻を小突かせてからカイをぱっと解放してやった。それから素知らぬ顔でカイのトーストへジャムを塗りたくり、たっぷりとジャムが乗ってつややかなオレンジ色に彩られたトーストを渡してやる。カイは差し出されたジャムトーストをたっぷり十五秒間見つめた。焼き林檎になった頬の上に複雑な感情がバターになって塗り込められている。けれど最後は折れるようにトーストを受け取り、口を付けると小動物よろしく食べ始めた。
 もくもくとジャムトーストを食べるカイの顔を覗き込むと、まだ僅かに羞恥の朱が残っていたものの、どこか観念したような、見慣れた表情がどかりと乗っかっていた。しょっちゅう見る顔だった。たとえばそれは、ばったりすれ違った街中で、パリの家の中で、はたまた、どこぞの安宿に設えられたベッドの上で。些細な「けんか」をして、カイが負けを認めた時、言葉より先にソルへ見せるシグナル。
 その度、彼が「また負けた」……というふうに結構がっくりきているのをソルはなんとなくわかっている。けれど几帳面なカイが、このあたりの「負け」をソルに対する譲歩の要求に上乗せしてこないことも経験則として知っている。カイは律儀なのだ。たとえ発情期の猫みたいにやたら甘えたになっていたとしても。
 だから大抵の場合、ソルの方からしてみればごね得踏み倒し得になっているのだが……まあ気付いていないのなら存分に使わせていただこう。
「……ソル。その、夕飯は、お前の好きなものにしよう。確かに……ちょっと大人げなかったし……」
「いつものことだろ」
「うるさい。それで何がいい」
「肉が入ってりゃなんでも」
「ええ……? そういうのが一番困るんだぞ、本当。まあいい、マーケットに出ている間に思いつくだろう。で、昼だが、私はなじみの店でパスタランチが食べたいな」
「何言ってんだ。昼はバーガーだろ、最近パリに新しく出来たやつ」
「……は?」
 というわけでさらりと自分の要求を通すべく、「まだ行ってない」と再び鼻歌まじりに言ってやる。するとトーストを手に持ったままカイの口があんぐりと開いた。カイは二度三度まばたきをし、ソルの目をまじまじと見た。そうして少し経ってから、何がおかしいのかわからないが大笑いを始めてしまう。
「まったく、お前はいつも私の反対ばっかり」
 屈託のない笑顔は、今日始めてカイがソルへ見せたものだった。
 もうわざとやっているんじゃないかというぐらい、とカイが言う。字は汚いし野蛮な炎が大好きだし珈琲ばかり飲むし酒好きだしジャンクフード愛好家だしおまけに寝相は悪いし。よくもまあそこまですらすら出てくるものだなというぐらい並べ立て、その最後に、「でも、」とあの美しい海色の瞳をコケティッシュに細めてはにかむ。
「でも……私がいつも負けてしまうのも、たいていそういうところだな」
 好き放題言い終わると、カイは残っていたトーストをぱくりと口の奥に放り込んであっという間に嚥下してしまう。それから、ソルの手をぎゅうと握り締め、意趣返しを言い含めるようにして「尤も次の朝食のメニューは私が好きなものにさせてもらうけどね」と嘯いたのだった。