キスはひみつのよるのあじ



 執務室の戸を開け、室内の様子を確かめ、カイはぽかんと立ち尽くして口を開けてしまった。
「……なにをやっているんだ、おまえは」
 もうすっかり深夜になった時分のことだった。夕刻頃に始まったはずの会議がやたらと長引き、ようやく解放されたカイは、人気のなくなった廊下をぼんやり歩いて戻って来たばかりで、ちょっと前まで頭の中は「今日の晩ご飯はなんだろう」ということでいっぱいだった。
 だからまさか、今この時間帯に執務室へ来客があるなんて思ってもいなかったのだ。それで虚を衝かれたような気分が半分、もう半分は、胸を撫で下ろすような安堵。カイは唇をふわりと閉じるとやれやれと首を振り、静かにソファの方へ寄り、身を横たえて寝こけている男を見下ろした。
 横長のソファを行儀悪く占領し、左端に頭を、右端に足を投げ出して寝ているのは、見知った柄の悪い男だった。いつもなら赤いヘッドギアがでかでかと存在を主張している顔面は開きっぱなしの本とそれを押さえる手のひらに覆われてよく見えない。カイを待って読書をしていたものの、あまりに戻りが遅いものだから、そのまま寝落ちてしまったのだろう。
 男の顔にのっかっている本は読み古されたぼろぼろの学術書で、よく見ると管理用のバーコードが貼られていて、どうやら王立図書館からくすねてきたもののようだった。彼は住民票がないので正規の手段で蔵書を借り出せない。それは知っている。だからといって盗むようなまねはやめてくれと何回か言ってやったはずなのだが……。
 その度彼は唇をすぼめて「どうせ元に戻すんだから良いだろ」と言い訳をしてみせるのだが、カイも立場上はいそうですかと頷くわけにはいかなかった。そもそも、必要なら手を回して図書券ぐらい作らせるのもわけはないのだ。でも彼は頑なにその提案を受け入れない。この世界に自分が収まるべき籍を作るのは、まだ早いとかなんとか言って。
「とはいえ、これで五冊目ぐらいだからな……そろそろ司書課の方へ手を回して取り締まりを強化しておくか……」
 唇の上で対策を講じつつ、カイはいそいそと執務机の方へ向かった。それからデスクに備えられた一番大きな引き出しをがらりと開ける。上三段とは違い、この引き出しには書類が入っていない。代わりに収まっているのは、格好をつけるための酒瓶が何本かと、ふかふかのブランケットが一枚、だ。
 この前は酒瓶を出して振る舞ってやったのだが、今回はそれを素通りしてブランケットを手に取った。ふわふわのブランケットをしっかり掴むとカイはそそくさと男の方へ戻る。そうしてふわりと彼の身体にそれをかけると、両手を腰の位置に宛ててほくそ笑む。
「どうだ、ソル。これでもうすっかり、昔と立場が逆だぞ」
 そうしてカイは、遠い日のことに想いを馳せ、ソルを見つめたまま一人物思いに耽った。
 幼い頃、手合わせを申し込んでソルへ突っかかって行き、そのたび全力を出しすぎたり空回りをして気を失いがちだったカイは、大抵の場合、次の目覚めを彼の私室で迎えることになった。どこか雑然としている向かいの部屋、その中にあるソルのにおいがしみついたベッド、使い古されたぼろぼろのブランケット、それから椅子に腰掛けて本を読んでいる仏頂面のソル。目覚めてすぐカイの目に映る世界。
 部屋中なにもかも気が狂いそうなぐらいソルのにおいしかしないのに、ぼろきれのようなブランケットにこびりついているのは、いつだってカイのにおいだ。そのブランケットをソルどころか他の誰も使っていないであろうことは明白だった。だけど何故? 
 そのことを尋ねると、彼はばつが悪そうに目を背け、「この布きれは小せぇから坊やにしか出してねえんだよ」と悪態を吐く。いつもそう。何度尋ねても同じ。それではぐらかして、結局、カイにしか使わないブランケットが部屋にずっと置いてある理由については、何も言わない。
『今日は何を読んでいるんですか……』
『やかましいガキの躾け方についてだ』
『うそ。十二階法程式についての学術書じゃないですか。表紙に書いてある。……図書室の本は、ちゃんと元に戻すんですよ』
『坊やにそのブランケットが要らなくなる頃には、読み終わってるから返すだろうな』
 そのうちカイもブランケットそのものについて尋ねるのは諦め、ソルが読んでいる本について聞くことの方が多くなった。ソルが読んでいる本はまちまちだったが、ハードカバー製の分厚い本だということ、荒っぽい彼のイメージにはそぐわない小難しい専門書だということ、そして図書室の蔵書だということだけが、いつも一貫していた。
 カイはソルの部屋で意識を取り戻すたびにまず彼の読んでいる本を確かめた。それから彼の部屋の隅を。部屋の隅に詰まれている未返却本のタワーは、カイがソルに負ける度、高さを増して行っていた。
「……まあ、あの雨の日のあと確かめたら、部屋が引き払われている代わりに全部図書室に戻っていたけれど」
 あの頃ソルに掛けられていたのとは違ってふわふわと肌触りの良いブランケットを撫で、思い出に微笑む。昔ソルがカイに掛けるためのブランケットを常備していたように、今、カイはソルに掛けるためのブランケットを引き出しにしまっている。
 ソルにブランケットを掛けると決まって不思議な心地がする。それは多分、いつしかカイは大人になったのだということを、このふかふかのブランケット一枚が小さな声で囁きかけてきているような気がするからだ、と思う。
 然るに、このブランケット一枚が、カイにとってはひとつの成長の証なのだった。パリに一人で住んでいる頃もソルはしょっちゅうカイの元を訪れたが、あの頃は、こういうことをしてやる余裕がなかった。パリの家では、ソルも学術書よりもっぱら新聞を読んでいた。パリの家のそばにはソルがふらりと入っていけるような図書館がなかったし、何より、お互いにまだ少し距離をはかりかねている節があった。
「お前のことだ、この本もちゃんと図書室へ返すんだろうな」
 ソルの節くれだった手をそっと除け、顔に乗っかった本をつまみ上げる。ついでに確かめた書影には「再起の日、その全て〜日本コントロールセンターから送られてきた通信の記録〜」と表題が記されていた。通常の書架には置いていないはずの禁書だ。なるほど確かに、これを借り出そうと思ったら、国籍があるかないかなど大した問題ではないが……。
 カイは苦笑し、開かれていたページに栞紐を挟み込むと本をテーブルへ載せる。それから露わになった彼の顔へ視線を寄せ、改めて彼をじっと見つめた。
 カイの視界いっぱいに映ったソルの寝顔は驚くほど無防備で、胸は緩やかに規則正しく上下し、穏やかに寝息を立てていた。長い間一匹狼で世界中の危険区域を飛び回り、もっぱら野宿と安宿で生きて来た人間だとはとても思えないほど表情も気もゆるみきっている。
 この部屋には鍵も掛かっていないというのに、どうしてこんなに安心しきった顔で寝てしまうのだろう。
 執務室で寝こけているソルを見つける度に尋ねようとするのだが、いつも、カイはふいにそれを止めてしまう。なんとなく、訊かなくてもわかりきっていることのような気がしてならないのだ。それを口に出したら気恥ずかしくてたまらなくなってしまうのだろうということもわかっている。
 たとえばそれは、この部屋がカイの執務室だからかもしれなくて。
 たとえばそれは、幼い頃頻繁に目を醒ましたソルの部屋からは、彼のにおいがしていたからかもしれなくて。
 だとすればそれはうれしい、と今のカイはそう思っているから。
「……ふふ。本当、仕方がないなあ。私を待ち疲れてしまったというのに免じて特別だぞ、こうしてやるのは」
 カイは愛おしげに目を細め、剥き出しになったソルの頬を撫でる。手を少し下にずらせば、処理を怠りがちだったのか微妙に伸び始めている無精髭がざらざらと指先を押し返してくる。
 それさえも愛おしくて、カイはそっと目を瞑るとひそやかにソルの額へ口付けた。口づけは秘め事の味がする。あの日カイがソルのブランケットを掛けられていたことはソルしか知らないし、今ソルがカイのブランケットを掛けられていることはカイしか知らない。誰かに教えない限り、これは永遠に二人だけの秘密なのだ。
 ……しかしそんな感慨にゆっくりと耽っている間もなく、不意にごつごつした手がカイの腰を鷲掴んだ。
「うわっ――」
 急に引き寄せられたことで身体のバランスが崩れ、なんとか態勢を取り直そうとして唇も離し、ぱっと目を開ける。すると急激に視界が開け、無体を働いた手の主がカイの目に大写しになる。
「こら、何をするんだ、ソ、ル………」
「…………キスなら口にしろ、不良王」
 ふたたびぽかんとしてしまったカイの声を、低く艶のある囁き声が遮った。
 何かと思ってじっと見てみれば、不機嫌な声の主は眠たげにまぶたを擦り、かたちの整った双眸を見開く。カイの目の前に現れたふたつの瞳は金色をしていて、切れ長の両目は、しかしどこかねだるような調子でカイを見上げてきている。
 カイは再び虚を衝かれたような気分になり、しかし次の瞬間にはもうおかしくなってしまってぷっと噴き出した。寝起きのソルが不機嫌だということをカイは十五年前から知っている。でも、彼が見せる寝起きの不機嫌さが気安い仲の相手にしか向けられないものだというのを知ったのは、つい数年前なのだ。
「はいはい。まったく、本当に仕方のないやつだな、おまえは」
 起き上がったソルの背中を撫でると、カイは肩をすくめて見せ、ソルの分厚い唇に己のそれを重ねた。口づけはやはり秘め事の味がした。二人の間に転がる無数の名もない秘め事たちだけが、執務室で行われる秘密の宴を見ていた。