星屑のベルスース



「王子さまの身体はもう、砂漠に跡形もありませんでした。『ぼく』は夜空を見上げました。王子さまは、自分の星に帰れたのかなあ。きっとそうに違いない。王子さまが笑っていると考えるときには、夜空は笑顔で満ちているように、『ぼく』には思えました……」
 母さんが寝物語に聞かせてくれるお話は、いつもこの話だった。というのもオレがこれがいいって毎晩同じのをリクエストするからで、決して母さんの手抜きなんかじゃないってことは断っておかなきゃならない。ともかく、オレは母さんが寝しなに聞かせてくれるこの話が大好きだった。毎晩毎晩、ちまきのぬいぐるみを大事に握り締めて、お話に没頭した。
 それなりに長い話だったから、毎日少しずつお話を進めてもらって、最後まで聞き終わったら、また次の日は最初から初めて貰う。延々とその繰り返し。成長速度の速かったオレにとって、母さんが寝物語を聞かせてくれた半年間は、およそ、永遠のようにも思えて長く、だから尚のこと強くこのお話がオレの心に残ったのかもしれない。
「Le plus important est invisible――大切なものは、目には見えない。お父さんの国の昔の言葉で、こう言うのよ」
 物語の進行にかかわらず、お話の最後に、いつも母さんはそう言った。
「あなたにもいつかそのことが、きっとわかるわ、シン」
 オレの手を握り締める母さんの手も、いつも温かかった。

 そう、大切なものは、目には見えないものだ。その言葉の意味をオレが知ったのは、両親と離ればなれになって数年が経った後。
 オレを捨て、母さんを捨て、名前も顔も知らない臣民どもを選んだのだと思った父さんが、本当は何を一番大切にして何の為に心を砕いていたのか……それをオレが知った、もっと後の話。


◇◆◇◆◇


 カイはよく本を読む。ソルも、実はよく本を読む。そうすると、あんまり読書の習慣がなかったオレも、自然と、本を目にする機会が増える。
 二一七二年のパリ、雨降りの日の図書室。今日はソルだけパリの巡回当番で、オレとカイは非番。そういう日は、オレたちはきまって聖騎士団の図書室にたまりこむ。この世界にはとにかく娯楽が少ないので、カイは本を読むのが一番の楽しみなんだって言う。オレはトランプゲームの方が好きだけど、それはソルがいる時の方が楽しいしな。図書室の片隅で、カイが積み上げている本が何か見るのも、これでけっこう悪くない。
「今日は何読んでんの。また哲学のやつ? それとも法術のむずかしいやつ?」
「ああ、いえ。今日は絵本なんですよ。シンも一緒にどうですか」
「絵本……?」
 オレが声を掛けると、カイはふっと本から顔を上げ、オレの方へふわふわと笑いかけた。
 へー、絵本か。ホント、普段難しい本ばっか読んでるイメージがあるんだけど、カイでも絵本とか読むんだなあ。
 意外に思い、カイが開いている本を後ろからひょいと覗き込む。絵本という割にはびっちり文字が詰まっているけれど……確かに、ところどころにかわいらしいイラストが挟まった賑やかな内容だ。
 ふうん、何の話だろ。オレはざっくり文章に目を通し、それから、ぱちぱちと瞬きをした。
(あ、これ、オレ知ってる)
 本で見たのは初めてだけど……でも、知ってる。だってこれ、オレが一番好きなお話と同じやつなんだ。
「『星の王子さま』じゃん」
 オレがぴたりと題名を言い当てると、カイは驚いたような顔をしてみせ、表紙をオレに向けるとタイトルをつうと指先でなぞって見せた。
「え、知ってるんですか?」
「うん。オレの母さんがさ、よく寝る前に聞かせてくれたお話だから。へえ……本だったんだな……」
 好きなのか? この本。オレがそう訊ねると、カイはちょっとだけ考え込んでからうんと頷く。好きですよ。でも今、あなたに訊ねられてもっと好きになりました。なんで? って聞くと、カイが明るく笑う。
「うーん、その、なんていうか。シンみたいな、いいひとがこのお話をよく聞いて育ったというのなら……私もいつか誰かに、このお話を聞かせてあげられたらいいなあって、思ったんです。なんだかそれはすごく素敵だなって……」
 そのはにかみ顔は、なんでだか、星の王子さまのお話と同じぐらい不可思議な顔のかたちをしている、ような気がした。
「何て言えばいいのかな。子供の読み聞かせにいいっていうか、情操教育に向いてるというか……」
「なんだそれ。そんなこと考えてんの? カイだって子供じゃん、まださ」
「ええ、あなたまでそんなことを言うんですか?」
「だって実際オレより背低いし」
「もう。ソルに言われると腹が立つのに、シンにそう言われると、なんだか敵わないんですよね」
 あなたが私に優しいからかな。カイが唇を尖らせて呟く。オヤジもソルも、時々……オレよかずっとカイに優しい時があるんだけどな。でも案外、そういうのは、自分ではわからないもんなのだろう。オレが長いこと実の父親からの愛情ってやつを受け入れられなかったのと同じで。あるいはそれ以上に。
 何しろオヤジの思いやりっていうのは、カイに対しては変なところで屈折してるから……。
 オレは苦笑して星の王子さまの本をぱらぱらと捲った。
「ふうん……ホントに、オレが毎晩聞かせて貰ったお話と一緒だ。それじゃオレの母さんは、この内容を暗記してたってことなのかなあ」
「おや、読み聞かせじゃなく暗唱だったのですか?」
「うん。だからオレ、今日まで星の王子さまが本だって知らなかったよ」
「へえ……。まあでも、昔の紙の本は貴重ですからね。『星の王子さま』は、戦前はとてもポピュラーな本の一種だったそうなんですが……でも聖戦でたくさんのものが焼け落ちてしまって、そもそも生き残っている蔵書が稀ですし。もしかしたらシンのお母様は、星の王子さまが大好きな誰かに、この話を習ったのかな」
「あ――。……そう、かも」
 オレは曖昧に頷いて、指先を見た。ページを捲るオレの指先、カイのもっと華奢な人差し指、それにだぶる、幻の母さんの手……。
 結構な長さのある物語を、毎晩少しずつ諳んじてお話してくれた母さん。じゃあ母さんはどこでこのお話を知ったのだろう。母さんは星の王子さまが本だってことを知っているんだろうか? なんとなく、そうではないんだろうな、という気がする。
 母さんの語り口は、本に書かれた文章より、読み聞かせ用に崩されていた。まるで誰かが聞かせてくれた内容を、一字一句違えないように覚えていって、そうしてオレに聞かせてくれたみたいな、口と口で繋いでいくお話のあたたかさみたいなのが、子供心にオレにも感じ取れていたからだ。
 ……だとしたら。
 母さんに星の王子さまを教えられるやつなんて、世界中探したって一人しかいない。
「なあカイ、さっきさあ、いつか誰かに星の王子さまの話を聞かせてあげられたら素敵だなって言ってたじゃん」
「ええ、はい。それがどうかしましたか?」
「なら、ちゃんと話してあげてくれよな。いつか、誰かに。このお話を伝えたい人に出会ったら」
「……どうして?」
「そしたらきっと、カイに星の王子さまを聞かせて貰った人は、別の誰かに星の王子さまの話をすると思う。そんで、その別の誰かは、更に違う誰かに話を伝えていく。カイが教えた星の王子さまは、そうやって世界を旅するんだ。このお話の中で『ぼく』の飛行機が直ったみたいにさ……」
 ――そしてもしかしたら、星の王子さまが自分の星に帰れたのと同じように。
 オレは小さく息を吸って、カイの瞳をじっと見つめた。カイの海色の瞳は図書室に置かれたランプの灯りに照らされ、宝石の海みたいにきらきらしている。
 星屑を煮詰めたみたいな目。いつか母さんは父さんとオレの揃いの瞳をさしてそう言った。あのさ母さん、星屑って、お鍋で煮られないんじゃない? まだ小さなオレはその時、そう言って母さんを困らせたんだっけか……。
 そうして今、星屑をぎゅっと詰め込んだ海のひかりは、オレを映し込んでいつまでもゆらゆらと揺れている。
「カイも星の王子さまが好きでよかった」
 その光り輝く深い海の向こうに、星の王子さまの幻が見えるような気がした。大切なものは目には見えない。王子さまが笑ってると思うと、夜空は笑顔で満ちているように思える。でも王子さまが悲しんでいたらと思うと、いくつもの星々が、みんなみんな涙で目をいっぱいにしているような気がしてきてしまう。
「どうして? シン」
「オレがうれしいから」
「奇遇。私もですよ」
 オレは思う。祈るよりももっと益体のないことをぼんやり頭の中でこねくり回している。大切なものは目に見えなくって、母さんはオレにそのことを「星の王子さま」を通して教えてくれようとした。そして母さんに星の王子さまを教えたであろう人は、父さんは、じゃあ、母さんに何を伝えようとしたのだろう。
 たとえば、星の王子さまは蛇に噛まれて砂漠に倒れていて。
 たとえば、今ここにいる十五歳のカイはギアを皆殺しにしてそれでもまだ戦場に立っていて。
 なら、オレの父さんは。
 オレの父さんはどうして、戦争が終わったあとの世界でも、黄昏の教会で十字架に祈り続けることをやめなかったのだろう。
 父さんが信じていた「大切なもの」って――……。


◇◆◇◆◇


Le plus important est invisible大切なものは目には見えない ≠チて、言うじゃん」
 二一八八年、パリ。女神像の前に跪いて祈りを捧げていた父親の背にその言葉をかけてやると、そいつは、本当に驚いたような顔をして、ゆっくりとオレの方を振り返り立ち上がった。
 いや、そんなマジでびびったみたいな顔すんなよ。なんか傷付くだろ。小さい頃に母さんが教えてくれた言葉なんだから、そんなに驚くほどのことじゃないと思うんだけど。いやまあ……共通語の読み書きも怪しかったオレがいきなりフランス語で話し掛けてくるんだから、訝しむ気持ちはわからないでもない。
「シン、どこでその言葉を?」
「母さんに習ったの」
「ディズィーに。……一体どうして」
「どうしても何も、オレが寝る前のお話はいつも『星の王子さま』だったんだ。あんたそんなことも知らないのかよ。オレの父親なんだろ」
 最後をちょっと意地悪く言ってやると、カイがぐっと息を呑んで喉を詰まらせる。え、これそんな落ち込むとこ? はあ、カイってホント繊細なんだから。普段めちゃくちゃ図太いクセに。それこそ、セージテキトリヒキってやつでは、世界で一番頑丈な糸を一万本縒り集めたロープより頑強だとかなんとか、レオのおっさんが言ってたぞ。
「毎晩ちょっとずつ話してくれて、お話が最後まで行ったら次の日はまた最初からみたいな感じで、ずっと聞かせてもらってたよ」
「……そう、ですか。では、ディズィーは最後までそのお話を諳んじて……?」
「そうだよ。ってか、カイが教えたんだろ? 『星の王子さま』」
「まあ、それは、そう……だと、思いますけど……」
 重たそうなローブを翻し、父さんがこてんと小首を傾げた。
 本日の第一連王カイ=キスクは、正装で教会に出向している。これも王としての義務なんですよとカイは言うが、レオのおっさんとあともう一人が一切やってないらしいので、カイの主張は多分誤りだ。正しくは、カイだけが、それを義務のように求められている。
 オレはカイにばれないようにそっと溜め息を吐いた。オレはカイの祈る姿というのが、小さい頃からどうにも気に食わないんだけど、今日はカイのお目付訳兼護衛で教会までついて来ているので、文句はぐっと喉の奥へ飲み込まなきゃいけなかった。忙しいオヤジの代役ってやつだ。何で忙しいのか知らないけど。きっと、カイがこの超絶動きにくそうな法衣を着なきゃいけない理由をなんとかするのに、オヤジの方は飛び回っているのだろう。
 額にサークレットを付け、ローブを胸元に巨大なロザリオで留め、長く伸びた髪をまとめずに降ろして。そうしていると、カイ=キスクという人間は、なんだかオレの想い出の中から遠くかけ離れていくような気がしてしょうがない。しかもだ、今日のカイときたら、腰にマグノリアエクレールUを提げていなければ、封雷剣も持っていないのだ。王の正装というやつでは、法力ブースターのついた武器を持つことは許されない。代わりに持たされるのは、でかくて重たいばかりの儀礼剣。あんなごてごてした剣何に使うんだろって毎度目にする度思うんだけど、アレを持っているカイは聖皇庁の役人たちから五割増し歓迎されるので、なんかそういうやつなんだと思う。
 はあ……。再びの溜め息のあと、オレはおもむろに顔を上げた。
 聖母像の奥から、ステンドグラスを通過し、黄昏の光がカイに降り注いでいる。オレはまぶしさにまばたきを繰り返した。ああ、まただ。まただよ。ホント、こればっかりは子供の頃から変わらないな。オレたち親子の関係性は随分改善されたっていうのに、これだけは全然変わる気配がない。
 オレの父さんはいつも、誰かに十字架へ祈らされている。
「……なんだか意外です」
「なにが」
 どんどん不機嫌になり、むすっとして小さく答える。カイはオレの仏頂面なんかまるで気にしたふうもなく、静かに話を続ける。
「ディズィーが、私がたった一度話したきりのやさしいお話を諳んじてくれていたこと。それにあなたが、星の王子さまを覚えていること」
「……別に、意外でもないだろ」
 オレはそれに、更に憮然として答えた。あと、意外でもなんでもないのは、本当のことだった。
 たぶんなんだけど。
 母さんが、父さんが一度したきりのお話をずっと覚えていること。そしてそれをオレに教えてくれたこと。その話をオレが覚えていること。それらは、星の王子さまが、いつか星に帰ろうとして蛇に噛まれたのと同じなのだ、と今のオレはそう思っている。
 そこには優しさがあって、約束があって、心がある。本当に単純な、それだけの話だ。カイは優しい。世界の全てに対して優しすぎる。そして約束を遵守する。名前も顔も知らない臣民とした約束を、一つ残らず守りきろうとする。カイ自身が小さな子供だった頃から、こればかりは変わっていない。
 だから、 大切なものは目には見えない・・・・・・・・・・・・・
「カイがすてきだと思って話したから、母さんはその話を良く覚えていてすてきだと思ってオレに教えてくれた。オレもすてきだと思ったから覚えてるし、いつかは誰かに話してあげられたらいいなって思ってる。そのぐらい、単純でふつーのことだよ」
「シンの言う普通は難しいなあ」
「んなことねーって」
 ……このことに気がついたのは、オレが随分歳を取ってから、っていうか、子供のカイと一緒に一年と少しを過ごした後のことなんだけど。
 カイにとってあの言葉はつまり、「どうか世界が平和でありますように」と祈ることだったんだ。
 そして母さんに星の王子さまのお話をすることでもあり、オレのことを大事だよ、と言ってくれることでもあった。
 オレはカイが祈ることを時々すごく恨めしく思うけど――この気持ちはきっとオヤジと同じだ――カイ自身がその祈りをことさら大切にしているんだから、オレには最初っから、全然、それをとやかく言う権利なんてなかったのだ。
 だからオレは、いつの頃からかカイが何を目に見えない大切なものと思っているのか、あんまり考える事をやめるようにした。
 代わりに、自分にとって何が一番目に見えないけど大切なものなのか……それを考えるようになった。
「オレ、『星の王子さま』が好きだよ」
 その果てに分かったことがある。オレにとって大切なものは家族。母さん、カイ、オヤジ。目に見える大切なもの。それから友達。エル、ラム、パラダイムのおっさん、イズナ、レオのおっさん。これも目に見える大切なもの。
 そしてオレは何かが好きだって気持ちを大切にする。星が綺麗だから好きだとか。家族が大事で好きだとか。ご飯が美味しいから好きだとか……。
 でも、その、「好き」っていう気持ちは、実は目に見えないものだったりするのだ。そういうことなんだと思う。
「大切なものは目に見えないって教えてくれたのは、星の王子さまと母さんだからさ。カイは? カイもそう? 星の王子さまを読んで、そんな感じのこと思った?」
「私は……」
 胸元のロザリオに手をあて、カイが口ごもる。背後から差し込む光を受け、正面に濃い影を落とし、さながら教会の天井に描き込まれたレリーフのような姿をして、子供みたいな顔で何かを真剣に考えている。
「私は、そうですね。大切な人たちと星の王子さまが、そう教えてくれました。……あなたとお揃いかもしれませんね」
 そうして顔を上げたカイは、あの星屑を煮詰めたみたいな両目でまっすぐにオレを見ていて。
 それからオレの方へ歩み寄ると、もう全然教会に飾られてる絵とは似てない俗っぽい顔つきをしながら、「目には見えない本当に大切なもの」の話をオレにそっと耳打ちしてくれた。



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