くまのブライアンに告ぐ




 一度だけ、神さまが誕生日プレゼントをくれた年がある。

「カイの家にはなんで英字新聞があるの? カイはフランス人で、ここもフランスなのに。おかげで、たいくつはしなかったけど……」
「たまに読む人が来るんです。あなたみたいに。でもいつ来るかわからないから」
「それで毎日取ってるんだ。いつ来るかわからない誰かのために」
「いみじくも」
 なにそれ、難しい言葉を使うんだね。ダークブラウンの髪をざっくりショートにした男の子が可愛らしく笑う。腕の中に大きなくまのぬいぐるみを抱きしめて、彼は小首を傾げるとカイの手を引き顔を見上げる。
「ふうん。それじゃその、知らない誰かさんは随分と幸せものだなあ」
 彼の言葉にはちょっとばかり含みがあり、カイを揶揄するような調子があった。「知らない誰かさん」のあたりだけ語調が強いのは、二日間という短い期間の仲で、彼が少なからずカイになついた証拠なのだろうか。
「で……それなのにいつ来るかも報せないでカイを待たせてるんだから、ひどいやつだな、ちょっと。ねえカイ、そう思うだろ?」
「ええ、ひどいやつですよ、本当に。来るといつも家を荒らして行くしね。でもつい待ってしまうんです。殆ど読まれていない英字新聞を古紙回収に出すのも、もう慣れましたよ」
 ふるりと首を横へ振り、くまのぬいぐるみごと彼を抱き上げる。そのまま階段をトントンと登り、寝室に連れて行った。男の子は既にパジャマを着ていて(カイが小さい頃のインナーだから、ちょっと不格好だった)、窓の外から見える景色は夜色になっている。
「もう寝る時間ですよ、フレデリック。明日は一緒に出掛けましょう」
 ベッドの上に降ろしておやすみのキスをすると、フレデリックは「うん、おやすみカイ」とはにかんだ。


 ことある事に厄介事に巻き込まれたり厄介事を持ち込んでくる友人、タイムトラベラーのアクセル=ロウがカイの家を訪れたのが、さる十一月十七日のことだった。彼は木登りをしたら落っこちましたという感じのぼろぼろの風体で、小脇に小汚い何かを抱え、息も絶え絶えでカイの自宅玄関前に現れた。
「そんでさ、カイちゃんには悪いんだけど、三日間だけこの子を預かってくんないかな〜って……」
 あまりの小汚さに、シャワールームへ放り込んでから十五分。
 小脇に抱えていたもの――なんと人間の子供だった――ごと芋洗いをしたため、水気でひたひたになってしまったハニーブロンドを大雑把にまとめ、アクセルは気まずそうにそう言った。
「この子って……どちらさまで? あなたの身の上を鑑みると、親戚という線もないでしょうし。私は誘拐の片棒を担いであげたりはしませんよ」
「誘拐なんかじゃないってえ! 信じて、お願い! このとーりっ!」
「でしたら彼≠フことをもう少しちゃんと教えてください」
「知り合いの子……みたいな……。預かってる途中でタイムスリップしちゃって……みたいな……」
「全然具体的じゃないんですけど」
「名前は……フレデリック。フレデリックくん。たぶん九歳。年齢より、大分賢いよ。で、持ってるぬいぐるみがくまのブライアンくん」
「はあ、九歳のフレデリックくん、ですか……」
 アクセルが実に困り果てた風体で塗れた頭をぽりぽりと掻く。カイは、シャワー上がりのやや湿った身体で大事そうにぬいぐるみを抱きしめて座っている男の子をちらりと眺め、やれやれと首を横へ振った。
「名前からしてアメリカ人ですか、彼。言語は英語で問題ありませんね」
 溜め息混じりにそう確認すると、アクセルはぱっと顔を輝かせて、「そうそう、英語しか喋れないみたいだから、ごめんね」なんて、途端に調子よく喋り始める。
 本当に仕方のない友人なんだから、この人は。カイは重ねて溜め息を吐いた。過去と未来を自在に行き来する特殊体質のアクセルは、彼の意思にかかわらず同じ時代に長くは留まれない。説明の途中でぽんといなくなられて、見知らぬ子供と置き去りにされるよりは、さっさと受け入れて説明を終わらせてもらえるほうが、まだましだ。
 カイは無言でちょいちょいと人差し指を繰り、さらに説明を急かした。
「預かるのは構いませんが、私は今日明日と仕事で昼間はいませんから。九歳なら、留守番は頼めますね。幸い、二人で三日分ぐらいは食材も買い置きがあります。聞き分けはいいほうですか?」
「この年頃にしては驚くぐらいね。反抗期がまだみたいだなあ、どうも……」
「ふうん。将来はそうでもないって知ってるみたい」
「俺が初めて会った時は、こーんなちっちゃくなかったからなあ。もうちょっとこう、ガラが悪目っていうか……いやいや、そんな顔しないで! いい子だよホント、家でもお父さんとお母さんの言うことよく聞いてたみたいで、けどちょっとまあ……いろいろあってね!」
「いろいろって」
「ああ、カイちゃん、ちょっと耳貸して」
「……?」
 今度はアクセルがちょいちょいとカイを急かす番だ。カイが言われるままに耳を貸すと、アクセルはものすごくばつが悪そうな小声で、「フレデリックは聖戦前の時代の子なんだよ」と囁いた。「戦争を知らない子なんだ。だからあんまり、危ない目に遭わせたくない。三日後には必ず元の時代に連れて帰る算段をつけるから」まくしたてるような早口には割り込む隙がない。
「だから、ね、この通り……お願い!」
「はいはい。三日ですよ、約束しましたから、ちゃんと守ってください」
 とうとう頭を下げてテーブルにこすりつけ始めたアクセルに、カイは苦笑いをして指切りげんまんを促した。アクセルは仕方のない人だけど、約束したことは、大抵きちんと守ってくれる。あの男とは違うのだ。
 だから今回も、きっと三日で彼は帰ってくるだろう。軽くごはんを食べさせ、それから送り出したアクセルの背中をぼんやりと見送り、カイはそんなふうなことを考えた。そうして振り向いた先にはくまのブライアンくんをぎゅっと抱えて所在なさげに立ち尽くしているフレデリックくんがいる。
 ……子供の面倒なんか見たことないけど、なんとかなるかな。九歳だし。
 十四歳の自分が、散々っぱら「クソガキ」「頭がいいから出来がいいとは限らない」「手の掛かるアホ」「親の顔が見てみたい」と主に一人の男に罵られ続けていたことを棚に上げ、カイは少年の元に歩み寄り、「ハイ、フレデリック」と挨拶をした。
 
 ――なんてやりとりも、もう二日は前のことになるのか。
 あっという間に寝入った男の子の顔をそっと撫でて、カイは微笑む。長かったような、あっという間だったような。この二日間は、カイにとって久しぶりの楽しい時間だった。いつも職場と自宅の往復をしているだけみたいな生活をしているカイにとっては、家にいる間の数時間とはいえ、子供と共に暮らすことそのものが刺激的で面白かった。
 カイが仕事に行っている二日間、フレデリック少年は実に良い子でお留守番を果たした。ちょっとした冒険心から、家宅捜索は行ったみたいだったが――それも常識の範囲に収まる程度で、シーツがぐちゃぐちゃになっているだとか、リビングじゅうの瓶が引っ繰り返って割れているだとか、そういうことは一切起こらなかった。朝はカイが簡単な朝食をつくり、昼は冷蔵庫に入っているものを火を通して食べ、夜は二人で夕食をつくって、そして風呂に入って寝るなどしているうちに、フレデリックはあっという間にカイへ心を開いた。
「九歳だから、お風呂ぐらい一人で入れるって昨日も言ったのに……」
「大丈夫ですよ、この家のお風呂は独り身には余るほど広いので」
「そういうんじゃなくて。……カイはさあ、にぶちんとか、言われたりしないわけ?」
「はあ、まあ。よく言われます」
 だろうね……とやや赤らんだ顔で呟き、ぶくぶくと湯船に沈んだり浮かんだりを繰り返していたのが、つい先頃のこと。カイの生活に突然現れた九歳の男の子は、年頃よりもずっと聡明な頭脳を持ち、時々鋭くカイの生活に言及をした。三日間だけの同居人に対して、彼は大きく興味を持っているようだった。しかし別れがすぐに迫ってくることも正しく理解していて、一定以上は踏み込んでしまわないよう、気を遣ってくれていた。
「この家、灰皿が何枚もあるけど、カイは吸わないよね」
 こんなことを聞く時も、彼は何かを慮っているようだった。
「どうしてそう思うのですか?」
「カイからは煙草の匂いがしないから。家具とかには、ちょっと残ってるけど。うちの父さんがヘビースモーカーだから、そういうのはわかるんだ。……安心して、カイ。おれ、その誰かさんとカイの邪魔はしない。ちゃんと三日で、帰るからさ」
 ほんと言うと学校の宿題がまだ終わってないんだ、と彼は寂しく笑った。宿題は難しいんですか? と尋ねれば、うん、持って来てカイに見て貰えばよかった、なんて言う。聡明で心優しくて、でもどこか寂しがりな男の子。くまのブライアンくんを抱えてすやすやと眠る少年の横顔に、カイは言いようのない郷愁を見る。この子の寂しさは手に取るように分かる気がする。だって彼は自分と同じだから。同じようにさみしい子なのだ、とカイにはそう思えてならない。
「……明日は素敵な日にしましょう。人生の中で、とびっきりの思い出として残るように」
 フレデリックの頭を撫で、カイは彼の隣で眠りに就いた。


◇◆◇◆◇


 二人で出掛けたパリの街は、非常な活気に溢れ、気を抜くとすぐにはぐれてしまいそうなぐらい人で溢れていた。
「……パリっていつもこうなの?」
「いえ、普段は、これほどは。そうか、今日は中央通りで蚤の市をやっているんだった」
「露天商、見られるかな」
「できるだけ頑張りましょう。お小遣いは五ドルまでです」
 少年の手を強く握り締め、人でごった返す軒先を一件ずつ訪ねていく。彼は珍妙な土産物売りや、古書を出店しているようなところに特に関心を持った。キラキラしたアクセサリー屋なんかには目もくれず、ひんまがったエッフェル塔の置物や、古くさいレコードの出品なんかを見る度、カイの手をぎゅうぎゅう引いてその場に立ち止まった。
「レコードが好きなんですか?」
「うん。懐古趣味だって言うやつも多いけど、なんか、聴いてるとワクワクするから」
「へえ……それじゃ留守の間、うちにあるレコードも聴きましたか」
「いくつか。ラインナップが謎すぎて、途中でやめちゃったけど。カイはさ、あれ、もらいもの? レコードなんか殆ど興味ないでしょ」
「よくお分かりで。何故かしょっちゅういただくんです、レコード」
「ちぇ。ちょっとは聴けばいいのに」
 レコードというものがどれほど最高か語るうち、いつしか彼の熱弁はクイーンのベスト・アルバムに対する答弁に移り変わっていった。シアー・ハートアタックがいかに自分の人生観を揺るがしたか語る九歳児の横顔が、何故だか、いつかどこかで見たある男の面影に被る。
(いや、そんな、まさか。ありっこない……)
 ……なんてばかなことを考えてしまうんだろう。カイは自戒の意味を込め、首を強く横へ振った。しかし不可解な面影は、巨大な雑念となり、カイの意識を捉えて離さない。
「私の友人にも根っからのクイーン・マニアがいるんですよ」
 それでも雑念を振り払いたくて、あえて奴の話題を出した。するとフレデリック少年は何故か面白くなさそうな顔をして、「ふうん」と頷く。
「なんかわかり合えなさそう、そいつと」
 唇の端を尖らせてまでの大抗議に、カイはぼんやりと瞬きをした。
「ええ、どうして? 同好の士、ということになるのでは」
「オタクには派閥が多いんだよ。カイにはわかんないか」
「難しい世界なんですね」
「いろいろとね。わけありなのさ」
 背伸びしたふうに答え、フレデリックはそれきり口を噤んでしまった。不機嫌そうな表情に感じ入るものがあり、カイもそれ以上の追求はやめた。眉間に皺を寄せていると、ますます、見知った他人の面影がそこに見えるような気がしたけれど、どう考えても気のせいなので忘れるように努めた。
 それからしばし蚤の市を周り、お昼に差し掛かった頃、中央通りから少し外れた噴水広場へ二人でやってきた。朝食は簡単に食べてきたものの、カイもフレデリックもはらぺこで、もう我慢の限界だった。
 そのあたりのワゴンで売っているサンドイッチを二人分買い、ベンチに腰掛ける。サーモンサンドを渡されたフレデリックは、熱烈なレコード・トークを繰り広げた反動か、ぐったりと疲れた様子でぶるぶると頭を振った。
「疲れたあ。知らない言葉がいっぱいだし、カイはレコードの価値がわかってないし」
 言葉の最後に微妙な刺が含まれている。いや、気安いのは、構わないのだけれど。警戒心剥き出しの子供を連れていて、同僚に職質などされたら叶わない。とはいえやや心にぐさっとくるものがあり、カイは気落ちしたのを悟られないよう、努めて明るい声でフレデリックに答える。
「仕方ありませんよ。このあたりは、観光客よりも地元民に向けられたエリアですから」
「ん。フランス語は、ボンジュールぐらいしかわかんないからなあ。急にフランスに行くなんてわかってれば、もっと勉強しておくんだった」
「急なお出かけだったんですか?」
「うん。父さんと母さんがいきなり旅行に行くことになって、その間、アクセルのおっさんがおれのこと預かるって」
「ふうん……」
 フレデリックの言葉に、カイは曖昧に頷いた。そういえば、アクセルがどうしてフレデリックを未来へ連れてきてしまったのかについて、ちゃんとした理由を聞いていない。しかし少なくとも、フレデリックへの説明はそういう設定になっているらしい。
 多分、話術で押し込んだのだろう。彼の説得スキルというのはなかなかのものなのだ。勝手に納得して、カイもエビサンドを頬張る。
「未来のフランスなんて、連れて来られるまで信じてなかったけど。……でもきっと本当なんだろうな。英字新聞は知らない新聞社から出てるし、書いてある日付は見たこともない数字だし。それにフランスなのに、通貨がフランじゃないし……あー、EUになったあとは、ユーロか。でもやっぱ、ドルじゃないだろ」
「詳しいんですね」
「図鑑に載ってたから」
 それきり、フレデリックは押し黙ってしまう。無言でサンドイッチを食べるフレデリックを見ながら、なんとなく、この子は友達が少ないんだろうな、とそう思った。友達がいないので図鑑を読む時間が増えるのだ。カイにも身に覚えがある。
「……あのさカイ」
 そんなふうに思っていると、ややあって、フレデリックが躊躇いがちにカイの名前を呼ぶ。
「どうしましたか?」
 この二日間、一度も覚えのない、緊張感のある声だ。カイは驚いて、フレデリックの顔をまじまじと見つめた。フレデリックはやはり気むずかしい顔をしていて、カイにじっと見られていることに気がつくと、う〜ん、と唸る。
「今日でお別れだから、どうしても、その前に聞いておきたいことがあるんだ」
 張り詰めた声音で、少年はカイの手を握り締めた。くまのブライアンくんを抱きしめている時より、きっとその手のひらはつめたく、震えていた。
「あ、もちろん、未来の歴史とか、そういう詮索はしない。ここは、どう考えても、おれがとっくの昔に死んでそうなぐらい先の世界だけど。でもやっぱそういうの、知っちゃうとまずいだろ。もしかしたら元の世界に帰れないかも」
「SFのおきまりのように、ですか」
「うん。でも……でもさ。おれは、この時代にずっといるわけじゃない過去の人間だから。だからこそカイに聞けることもあるのかなって、二日間、ずっと考えてたんだ」
 だから聞いていい? フレデリックが尋ねた。言葉は恐ろしく澄んでいて、透明で、どこか、少年の好奇心が滲んでいる。
 ……一体この子は何を聞こうとしているのだろう?
 カイは首を傾げ、不思議に思いつつ、「いいですよ」と答えた。フレデリックはそっと唇を開き、カイのそばに顔を寄せて耳打ちをする。

「――カイの恋人って誰?」

 言葉の意味が、すぐには理解できなかった。そのために、カイはまばたきをしてその問いを反芻しなければならなかった。
「あの、フレデリック?」
「そのことがずっと気になってるんだ。カイは誰と付き合ってるんだろ。もちろん、幸福でわがままな誰かさんとカイの仲を引き裂こうって気はないんだけど。二日間、あんなに誰かのにおいがする家で過ごしたら、気になってたまんないよ。ねえ、誰?」
「だ、誰って……いませんよ、恋人なんか」
「使い込まれた灰皿が家中に何個もあって、明らかに大きすぎるシャツが何枚もクローゼットに入ってて、シャンプーは二種類置いてあって、高級そうなコーヒーミルがあるのに?」
「それは……」
 ぐいぐい迫ってくるフレデリックに押され、カイは口ごもる。食べかけのエビサンドが、手のひらの中で震えて固まっていた。恋人なんか。恋人なんかいたためしのない人生だった。そんなことを聞かれてもわからない。
 けれど灰皿と、カイの体格より大きなシャツ、それから普段使いしないシャンプーとコーヒーミルの持ち主のことは、すぐさま、正確に、思い浮かべることが出来た。
「でも、あいつは、」
「うん、いいよ、別に。その先はおれ、聞きたくないもん。……たった二日なのにね。二日間一緒に暮らしただけなのに、聞きたくないんだ」
 カイの言葉を遮り、フレデリックが何かの歌を口ずさみ始める。知らない歌だ。英語の、たぶん、彼が生きている時代のポピュラー・ミュージック。――もう遅すぎる、僕の最期がやってきた。さよなら、みなさん。僕は行かなくちゃ。
「カイの恋人が、未来のおれだったらいいのに……」
 なんてね、ありえっこないんだけど。
 だってここは百年以上先の未来で、おれはもう九歳だから、その頃にはとっくに死んでるだろうし。屈託のない笑顔でフレデリック少年がそう呟く。カイは小さな声で「フレデリック」と男の子の名前を呼んだ。フレデリック少年はそれに「うん」とだけ答えた。カイはその表情を見て、歌の名前を尋ねることを取りやめた。
「あ、お迎えが来たみたい」
 フレデリック少年が呟く。彼が指さした方をつられて見ると、やっほ〜、なんて手を振って、見慣れたユニオンジャックの男が手を振っている。
「およ、カイちゃんそのエビサンド、もういらないの」
 約束通りきっかり三日で戻って来たアクセル=ロウは、カイが手に持ったままの食べかけのエビサンドを見ると、なんでもないふうにそう言った。
「……なんだか。もういらない、みたいです」
「みたいって。じゃあフレディは? 成長期だし、お腹すぐ減るでしょ、もらっちゃえば」
「えー、いらない。今サーモンサンド食べたばっかだから。それよりアクセル、まだ時間あるの?」
「ん。あとちょっとだけね」
 そっか、それじゃ五分くれ。フレデリックはアクセルに気安く声をかけ、立ち上がると、カイの前にすとんと立った。九歳の少年は、空色のくりくりした瞳をしばたかせ、カイの耳に顔を寄せると再び耳打ちをする。
「――ハッピーバースデイ、カイ。おれを三日間預かってくれてありがとう。お礼に一曲歌うから、聞いて、あと出来たらおれのこと忘れないで」
 いつの間に誕生日のことを知っていたのですか、と訊ねる暇もない。
 フレデリックはカイの返事を待たずに歌い始め、たっぷり五分ほど、つたない声の伸びで変調の激しい曲を歌い上げた。――僕を見殺しにしてそれでも僕を愛していると言うつもりか、ああ、君がそんな仕打ちをするだなんて。すぐ逃げなくちゃ、今すぐ、ここから逃げ出さなくちゃ――……カイはその歌詞をまるでドラッグに浮かされたうわごとみたいだなと思った。
「じゃあね、カイ。素敵な一日をありがとう」
 声変わり前の少年が歌うにはやや過激なその歌詞を、カイはたぶん、一生忘れられないだろう。


◇◆◇◆◇


 十二月にさしかかり、自分の誕生日が来ていたということもあっさりと忘れ始めた頃になって、その男は我が物顔でカイの家にやって来た。仕事から帰ってくると、完璧に戸締まりされたはずの自宅は泥棒でも入ったのかというぐらい荒れ果て、リビングには灰皿が投げ出してあり、コーヒーミルは使いっぱなしで、おまけに酒瓶が床に転がっている。もう最悪だ。
「ソル! 来るときはせめて一報入れてからにしろといつも言っているだろうが。勝手に来て勝手に荒らすんじゃない。何か申し開きは!」
 開口一番どなりつけると、ソル=バッドガイは気怠げに目蓋を開け、ソファの上で寝返りを打った。なるほど無視か。いい度胸だ。
「おまえというやつは、これだからいつも――」
「おい、カイ」
「なんだ!!」
「あのくそでけえくまのぬいぐるみはどうした」
「はあ? ……あー、あれ。……忘れ物なんだ。この前預かった子供の」
「テメェに子供の面倒なんざ見られたのかよ」
「失敬な。それにあの子は手の掛からない聡明な子だったから」
「それじゃまるっきり坊やとは正反対だな」
「うるさい!!」
 なんとも心ないことをぼやくので、カイは履いていたスリッパを脱ぐとしたたかにソルの顔面を殴りつける。しかしソルはまったく堪えた様子もなく、くぁ、とつまらなさそうにあくびをするばかりだった。
「図星か、テメェ。まあいい。とにかく、あんなぬいぐるみは始末しちまえ」
「え! どうして。私のものでもないのに、勝手に処分するわけにもいかないだろう」
「いいんだよ、あんなもんが置いてあると俺が休まらねえ。大昔のことを思い出す……」
「昔?」
「レコードが懐古趣味だった頃」
 どうにもぱっとしない口ぶりでソルがぼやく。レコードが懐古趣味なのは今もだろう、と思ったが、それは言わずにおいた。
 十日と、少し前。三日間だけカイの家に滞在したフレデリック少年は、どういうわけか、くまのブライアンくんを置き忘れていってしまった。とはいえ、彼は過去からアクセルが連れてきた少年だ。まさか「ぬいぐるみを過去へ連れ戻してください」なんて言うことも出来ない。それで仕方なく、カイの寝室に飾っていたのだけれど。
「というかおまえ、あれを見たということは寝室に上がったのか」
「悪いか?」
「いや。その。おまえは……その、私の、恋人でも、ないのに。勝手に寝室に上がるとか……傍若無人……」
「はん、なるほどな」
 カイがしどろもどろに抗議すると、ソルが一人だけ、何かわかったような、すっきりしたような顔をしてソファから起き上がる。何をするつもりだと身構えると、彼はどういうわけかカイには近寄らず、薄汚れたナップザックから一枚のレコードを取り出すと「蓄音機は動くのか」とカイに訊ねかけた。「油ぐらい差してる」と答えると、満足そうにそちらに引き寄せられていく。
 やがて、ソルがかけたレコードのメロディが、あたりに響き渡った。
「……あれ?」
 メロディは、どうにも聞き馴染みのあるものだった。けれどカイが聞いた覚えのあるそれに比べると、明らかに歌唱が上手で、演奏もハードで、なんだかちぐはぐだ。同じものはあの過激な歌詞だけ。あの、九歳の男の子が熱唱するには、いささか非教育的な、ドラッグに浮かされたうわごとみたいな……。
「ボヘミアン・ラプソディ」
 カイが尋ねるまでもなく、ソルが唇を開く。
「クイーンのヒット・ナンバー。その中でわけても俺が好きな曲だ、覚えとけ」
「覚えとけって、何を急に」
「勝手に寝室に上がっても構わない相手の好みぐらい、覚えといて損はねえだろ」
 家中に俺のものが散らばってるのに今更お前な、とソルが呆れたふうにぼやいた。数秒遅れてその言葉の意味を理解し、カイはかっと顔を赤くする。――恋人の嗜好ぐらい把握しておけ、坊や。つまりソルはそう言っているのだ。好きなシャンプーの名前や、好きな煙草の銘柄、好きな酒の種類、好きなコーヒー豆の傾向、そういったものと一緒くたに、これも覚えてしまえ、と。
「お、お、お前は、わたしの、恋人なんかじゃ、ないぞ!?」
「まあ俺はボヘミアン・ラプソディより炎のロックンロールの方がもっと好きなんだが」
「話を聞け!」
「それはもうちょい、大人になってからの話だ。ガキの頃はこっちばっかだった……もう随分と長いこと忘れていたが」
「あのなあ…………え? あ、うわ、ちょっと!」
 わたわたとカイが反論していると、ソルはおもむろにカイの両脇を掴み、身体ごと抱え上げた。そのまますたすたとリビングを横切り、廊下を通り、階段を上がっていく。階下ではまだクイーンが激しい英語をシャウトしていた。曰く、「神に誓って逃しはしない。いや逃がさない。絶対にダメだ――助けて!」。
 あっという間に二階の寝室に運搬され、ベッドに放り出される。カイはおっかなびっくり頭上を見上げた。真上に、いやに上機嫌なソル=バッドガイの顔がある。
 ああ、この顔を、どこかで見た気がする。けれどどこで。思い出せない。部屋の片隅から、くまのブライアンくんが、物言わぬ瞳でじっとこちらを見ている――。
「十日以上過ぎてるが、誕生日祝いだ坊や。今日の俺は気分がいい。大昔に見たファンタジックな夢の続きを、どうも見ることになったようだからな」
 ソルが言った。それから彼は舌なめずりをしてカイの唇を奪った。カイは溺れていく思考の片隅で「誕生日祝いってこういうんじゃなくないか?」と思ったが、全ては手遅れだった。
 くまのブライアンくんは、それからずっとカイの自宅に置いてある。今も。
 神さまがくれた誕生日プレゼントが、嘘幻になってしまうことがないように、ずっと。




/くまのブライアンに告ぐ