かれの相貌、終わりの地に響く音



 世界が終わる音がした。

 それは終末を告げるラッパの音でもなければ、荒れ狂う大地の音でもなく、鳴り響く雷、吹き荒れる嵐、或いは、ぱん、という、鉛弾が人の肉を貫く音でさえなかった。
 心臓を食い破られる音はした。成人男性の肉体を、寒々しい銃弾がいくつも貫通して、乾いた音を立てた。でもそれそのものは、仕方のないことだ。だってそうだろう。銃で撃たれれば人は死ぬ。人間はとても脆い生き物だ。首を縊り取られ、銃弾が臓腑を破壊し、血が流れすぎれば、死んでしまう。彼の肉体はそれらの条件のうち二つを満たした。即ち、心臓の破裂とそれに伴う出血多量。
 彼は死ななければいけなかった。
 もし死んでしまったとしたら、自分は正気を失い、けだものに成り下がり吼えただろうが、それだけで済んだ。
「……んで、」
 瓦礫の上に彼が立っている。致死量に達した血の海の上へ平然と、顔色一つ変えるそぶりを見せず、地に足を付けて立ち続けている。
 貫かれて壊れたはずの心臓が規則正しく脈を打つ音が、優れた聴覚に届いて来ていた。一度止まったはずの音が今はもう鳴り止まない。何故。大地を蹴り、彼の方へ足を踏み出す。
「なんで生きてる!!」
 止まらない。足取りは加速度的に勢いを増し、ほんの十数秒も経たない内に彼の目の前へ辿り着いた。派手に穴の空いた服の下には、真新しい白い肉が盛り上がり、傷痕ひとつ残っていない。
 胸ぐらを掴み取った。掴まれた方は、喉ひとつ鳴らしはしなかった。瞳は凪いでいた。なんともやるせない気持ちにさせるような、そういう顔つきをしていて、それが尚のことソルの怒りに火を注いだ。
「なんとか言えよ。何か――言えねえのか、ああ!?」
 そこまでしても、彼は何も言わなかった。見えずとも、自分が今どんな顔をしているのか自覚は出来る。それをこの距離で見せられてなお黙りを貫くとは。ソルは怒りにまかせて掴んでいるのとは逆の手を上げた。拳を握り込み、その中に全ての怒りと憎しみと苦しみを詰めた。渾身の力で、一度ぶん殴ってやらなければ、とてもではないが気が済みそうにない。
 ……けれどいつまで経っても握り締めた拳を振り下ろすことが出来なかった。
「畜生。畜生、畜生、畜生が……!!」
 振り上げられたままの拳が、自分でも酷く滑稽だった。己で握り込んだ爪が手のひらに食い込み、生ぬるいものが滴り落ちていく。なんとも救えないことにその液体は赤色をしていた。今目の前にいる男が心臓部からしこたま噴き出し、失った、人間の命を支えているはずのそれと同じだった。
「……ひどい顔だな」
 その色を見て初めてカイが唇を開いた。声は相変わらず透き通っていてぶれ一つなかったが、深い、言葉では言い表しようのない感情をその奥に隠していた。
「でも……そうだな。分かってはいた。私のこの秘密を知る時、お前は必ずそういう顔をするだろうと。それが怖くてずっと言えなかった。出来れば……永遠に、知られたくはなかった……」
 拳へカイの手が伸ばされる。一度死んだとは思えないほど暖かな指先が握り拳をほどいてゆく。
「ソル」
 愛した声が名前を呼んでいる。けれどちっとも耳障りがよくない。心臓の音がうるさい。それも自分の心音だけがみっともなく鳴り響いて、最低の気持ちを催し、吐き気がしてくる。
 ソルは歯ぎしりをして目を細めた。怒りは消えてくれそうにもなかった。しかし行き場もどこにもない。ただソルの中で膨れあがり、ソルの身体じゅうをずたずたにして切り裂き、傷痕を無数に付けるばかりだ。
「すまない」
 謝罪の言葉は何一つ彼らしくなかった。自分に非がなければ、カイは素直に謝ったりしない。カイのせいで厄介に巻き込まれて、或いはカイが厄介に巻き込んできて、でも厄介の元凶が自分でさえなければ、こいつが謝ってきたことなんか一度だってなかった。なのに今、カイは謝っている。その事実が恐ろしく鋭利なナイフとなってソルの心臓を抉り抜く。
「だけど私を許してなどとは言わないよ」
 カイの唇から紡ぎ出された言の葉は、そうして確かに、ソルの世界を終わらせた。