ステップアップ・アダルティ



 仕事をしていると稀によくあの坊やと鉢合わせることがあって、大抵の場合、見つかる前にさっさとその場を去ろうとするのが俺の常だった。たまに例外はあったが――坊やが脂ぎったジジイに言い寄られている現場とか、下戸のくせに度数の高い酒を盛られている現場とか、その他諸々――ヤツを助けてやる理由なんてものは基本的に俺の方にはなく、無視を決め込むに限る。
 しかしヤツの執念深さといったら並大抵のものではなく、俺が姿をくらましてとんずらここうとする三秒前ギリギリとかで気付いて、「ソル!!」とか大声で叫び、鬼の形相で駆け寄ってくるのも、これもまたいつものことだった。あのセンサーの感度はどうかしている。こちらが変装をしていても平気で気付いてくる。一度ならず二度ほど「なんでわかった」と訊ねてみたことがあるが、「ソルのにおいがするから」とか「そのポニーテールで気付かない方がおかしい」などと言われた。腑に落ちない。
 とにかく。坊やと鉢合わせると、向こうから追っかけてくる。坊やの方から俺を追いかけ、求めてくる。そういうふうに俺達はなっている。
 そのはずなのだ。これがスタンダードだ。平常だ。いつものやつだ。普通で常識で正常だ。
 なのになんだって言うんだこれは。
「おい、坊や」
 俺は目の前に澄まし顔で座っている坊やを無の表情で見据えた。御年二十二歳を数えようとする警察長官殿は(ついこのあいだ昇進した――言うまでもないが最年少就任だ)、いつものぴっしりとした制服ではなく、ちょっと意匠のごてごてしたワイシャツを身に纏い、色気づきでもしたのかブレスレットなんぞまでして、冷たい表情で紅茶をすすっている。伏せられた睫毛が長い。顔の造形がいいのだこの子供は。昔からそうだ。黄金比の彫像みたいなかたちをしている、と変態のジジイどもが散々言い寄っていたので多分そういう感じだ。
「なんだ、ネームレス」
「名前で呼べ」
「おまえが当局にその名義で登録しているんだろうが」
 にべもない。とりつく島を用意する気はないようで、坊やは静かに紅茶のカップをソーサーに戻すと、マリアナ海峡より深く永久凍土より冷たい瞳を俺に向け、いかにも作って貼り付けましたというような笑みを見せつけてきた。
「私は怒っているんだよ、ネームレス。おまえが賞金稼ぎとして暴れ回っているのはまあよし、いつだったか私が持ち帰ろうとした押収品を勝手に燃やしたのも五千歩譲って許すとして、しかし今の言葉はいただけないな。おまえ今私に何と言った。覚えているか。自分の言葉に責任を持っているのか」
「は――?」
「私に、事もあろうか、『誘っているのか』、だって?」
 唇が釣り上げられる。張り付いた笑みがさらに作り物めいて凍り付く。俺はこの十数分あまりの間にあった出来事を静かに反芻した。まず俺達は珍しく事件現場以外で遭遇した。そして更に珍しいことに坊やは非番で、私服姿で街をぼんやり歩いていた。周囲には坊やに見とれる人だかりが出来てモーセの海渡りの如き様相を呈していたが、特に意に介することもなく堂々と割り込んでいって坊やを喫茶店に誘った。何故って昼間はパリで一番お気に入りのパブが開いていないからだ。
 坊やの方も特に用事はなかったようで、「おまえが私を喫茶店に誘うなんて珍しいこともあるものだな」と微笑みながら二人で喫茶店に入った。坊やがテラス席を所望したので二階のテラスに案内され、二人してパリのうららかな陽射しを浴びながらテーブルに着いた。
 で、どこから何がおかしくなったのだろう。
 ……ああ、そうだ。俺は久しぶりに見た坊やの私服姿に感想を述べたのだ。いつもより開いた胸元から鎖骨が覗いていた。腕にはブレスレットをしていて、首に揃いのチョーカーをつけてやりたいような衝動に駆られた。俺は思ったままのことを口からぽんと出した。
『坊や、そんな服着て、俺のことを誘ってでもいるのか』
 その途端場の空気は凍り付いた。
 先ほどまで自然な笑顔を浮かべていた坊やは溶けない氷のような面差しになり、そして怒り始めた。これが事の全てだ。
「じゃあなんのためにんな服着てんだよ。そんなに肌なんぞ見せて……」
「ファッションだ。実は私にもお洒落という観念が備わっていてね、ネームレス。近頃のパリではこれがはやりなのだと。少し胸元を開くぐらいが、そう、美しいと言われて買った。決しておまえのためではない」
「テメェ友達いねえのに俺以外誰に見せるんだよ」
「失敬な! 友人ぐらいいる!」
「文通するぐらい遠く離れた土地にな」
「おまえまたレオからの手紙を勝手に見たな!?」
「どうでもいいだろ、それより……」
「――どうでもよくなんかない」
 坊やが憤慨して一瞬子供っぽい仕草を見せた後、しかしすぐにまたあの寒々しい表情に戻っていく。努めて大人っぽく振る舞おうとしているのか、或いは認めたくないが本当に大人の階段を昇り始めているのか、今日の警察長官殿は普段より随分とアダルティだった。……もしかしたら服屋の店員に「この洋服は今セクシーな大人の男性に人気で」とか勧められたのだろうか。有り得る気がする。この坊やチョロいからな。セクシーな男ってのは俺みたいなガタイのことを主に言うんだが、それを言うとまた面倒が加速しそうなので賢く口を噤む。
「第一。いつまでも私の名前をちゃんと呼ばないような男に、ははっ、『誘ってる』だなんて言われても何一つ嬉しくはないね――」
 そう言って坊やは人差し指をそっと伸ばし、俺の唇にぴとりと添えた。
 華奢な生白い指先は、奇妙なまでに艶めかしい動きで俺の唇をなぞり上げた。唇の右端から左端までを柔らかい指の腹がなぞり、それに合わせて坊やの唇が動く。――わ・た・し・は・や・す・く・な・い。声にならない秘密のメッセージ。
 「私は安くない」。「まともに名も呼ばぬ男に誘ってるなどと吹聴されるほどには」。「悔しければ出直して来い」。音を出さず唇にだけ乗せられるメッセージを密やかに告げ、カイはぱっと俺の唇から指を離してしまう。
 そして「ごちそうさま」とだけ言い残し、伝票を置いて、さっさと脇を抜けて店の外へ向かってしまった。
「…………は?」
 一人取り残され、俺はぽかんとして座り込んだまま固まってしまった。そしてどんどんと去っていく坊やの背中を見送り終わる頃になって、ようやく意識がしっかりしてくる。
 坊やが俺を置いていった。
 ……置いていった。あの坊やが! 俺が聖騎士団からずらかる日、泣きじゃくって「行かないで」と言っていたクソガキが、俺に紅茶を奢らせた挙げ句「高く付くぞ」なんぞと言い放って帰りやがった。
 ちらりとテーブルの上を確かめる。二人分の伝票、空っぽになったティーカップ、それから、中身の残ったコーヒーカップ。置いて行かれた俺と置いていった坊や。俺は信じられないものを見るように対面の椅子をもう一度見る。やはりそこに坊やはいない。
「あのガキ、これで誘ってないとか、逆にどういう了見だ」
 俺はぐちゃぐちゃになりそうな頭で思案した。坊や……いや、カイは、怒ってここを出て行った。それはまあ、確かなんだろう。途中までは機嫌が良かったわけだし。しかしだからといってこの仕打ちはなんだ。「誘ってる? まさか。私は安くない」。つまりこんな安い手でおまえの相手はしてやらない、と言われたわけだ。そして「悔しければ出直して来い」、ともヤツは言った。
「……いつもいつも俺を追いかけて小うるさいくせに、欲しければ追いかけてみろ、と来たか」
 俺は静かに立ち上がり、伝票を手に取った。いいご身分になったな、坊や。この俺に追いかけてみろとは。つまりヤツは命が惜しくないのだ。このパリの街で坊やが帰る場所なんざそうそうない。自宅か国際警察機構パリ本部の二択である。そして俺はその両方ともを知っている。追うのはわけない。
 あとは――きっちり追い詰めて、背伸びして大人ぶったツケを、身体にわからせてやろう。よしんば本当に大人の階段を昇り始めていたとして、それでもまだ、俺の方に一日の長があるのだから。
「おいウェイター、勘定頼む」
 ……それはそれとして。
 無銭飲食をすると警察長官殿の機嫌が今以上に激烈に面倒くさいので、俺は二人分の飲み食い題を満額支払った。坊やが私情で怒っていられるうちは、パリは平和そのものだ。