花のにおい。
 あなたのにおい。
 みつからない。
 あなたの影。



-Serenade-



「君に水のセレナーデを教えよう」
 突然のシークの登場にリンクは動揺を隠せないでいた。だいたいいつも彼が現れるのは神殿のワープの印のそばだ。しかしここは氷の洞窟である。だから、心の準備というものがまったく出来ていない。
 ましてや今、リンクの胸中には彼に聞きたいことが山とあるのだ。
「ルト姫は水の神殿に向かった。君も急いだ方がいい」
 あっさりと水のセレナーデのセッションを終えると、彼は短くそう告げてすぐさまこの場を離れようとした。どこか性急な動作だった。
「まっ……待ってくれ! シーク!!」
 リンクはシークの腕を掴もうと走りよったが、届く前にシークは煙に紛れて消えてしまった。その去り際はまるで、シークがリンクに触れられることを恐れているみたいだった。



◇◆◇◆◇



「そなたリンク! 七年も待たせおってわらわがどれほど心細うあったことか! ……わらわは覚えておるぞ、七年前の約束をすべて。わらわがフィアンセよ」
「……え?」
 ルト姫との再会は思いもよらない混乱をリンクにもたらした。フィアンセ、というのは確か婚約者のことだ。そんな約束を意味もわからずしてしまったような気はするが。まさか本気なのか。
 リンクは今ゼルダのことしか考えられないし、これからも多分ずっと彼女以外の女性を愛さない。けれどそれをルトに告げることは彼には出来なかった。
 告げない方が、却って残酷かもしれないのに。
「わらわもそなたと愛を語らい合いたい……と言いたいところだがそうもいかんゾラ。里の皆も父も凍りついて動かない。わらわだけはシークという青年が助けてくれたが、わらわは里の皆を救いたい。それにはこの神殿の呪いを解かねばならぬ」
「丁度いい。俺も水の賢者を目覚めさせる為にこの神殿の呪いを解きに来たんだ。協力する」
「ふん、それでこそ我が夫ゾラな。この神殿内部に三ヶ所ある石板を利用せよ、わらわは先に行く!」
 言うや否や、ルトは恐ろしいスピードで上昇していきあっという間に見えなくなってしまった。本来ならリンクに構う暇などないくらいに焦っているようだった。
「……ナビィ、俺たちも行こう」
「うん。わかってるヨ」
 広い吹き抜けの部屋で最下層から天井を仰ぎ見ると、どこまでも蒼い蒼い水が揺らめいていて底なし沼と同じような不安を見るものに与えていた。



◇◆◇◆◇



「どういうことなんだ……これは」
 彼に触れられるのが恐ろしかった。  触れられたら、何かを思い出してしまいそうで。
 触れられたら、自分でも知らない何かを見抜かれてしまいそうで。



 触れられたら、好きになってしまいそうで。



 氷の洞窟で逃げるように彼の手を振り払った。自分でもわけがわからないまま反射的に手は動いていた。それは己の身を守る本能からの行動だ。
 けれど。あの時シークの心は確かに彼に触れられることを望んでいた。
「私が女だって……まだバレてないかな……」
 シークは呟くと目を瞑った。



 シークには七年以上前の記憶がない。気が付いた時にはもう男として育てられ、インパから厳しい修行を受けていた。魔法とシーカーの秘術で外見を男に偽装して、その上で鍛錬に励む日々。それを疑問に思ったことはなかった。それが当たり前で、それだけがシークの現実だったからだ。
 だから女としての感情は要らないと思っていたし、捨てたつもりでいた。自分はシーカーの末裔の青年。そう思って今日までを過ごしてきた。
「なのになんだろうな、このザマは。インパに知られたら叱られてしまうな」
 またいつも通りの仮面を心に被り直して、シークは自虐的に笑う。こんなんじゃあ、全然駄目だ。シーカー族失格である。
 彼に全てを委ねられたらどんなに楽だろう。どんなに幸せだろう。そんなふうに鎌首をもたげた女としての弱い心を無理矢理に振り払って、シークは立ち上がった。
 こんなところで立ち止まっているわけにはいかない。自分にはもっともっと、たくさんやることがあるのだ。



◇◆◇◆◇



 床には薄く水が張ってあって、歩く度にぴちゃぴちゃと音を立てる。本当に何もない真っ白な空間だった。扉は固く閉ざされ、四方にあるはずの壁は見えず無限の空間が広がっている。二つの扉の中間には不自然に一本の木が立っていた。
「おかしいな……行き止まりっていうか閉じ込められた?」
 ぽりぽりと首をかいてリンクはそうぼやく。状況としてまったく洒落になっていなかったが、リンクはそんなに深刻に事を捉えていないみたいだった。
「ジョーダンじゃないわヨ! なんでそんなにのんびりなの!」
「いや……こういう時って大体出てきた奴を倒せばどうにかなるじゃん。そういう感じかなーって……」
「それにしたって楽天的すぎヨ! リンクもうちょっと危機感を持っ……て……」
 口早に文句を捲し立てるナビィの声が急に止まった。そしてカタカタと震え出す。
「?! どうしたナビィ?!」
「りっ……リンク足下っ……!」
 ナビィの声に慌てて己の足下を見ると、リンクの影が急速に小さくなっていっていた。影はすぐに消滅し、次の瞬間には背後に強力な殺気が現れる。
「お……俺?」
「リンク! 呆けてないで早く避けて!」
 ナビィの忠告通りリンクの体は後退し、咄嗟に盾を構える。遅れて行動に思考が追い付いてきた。なんだ、こいつは。一体なんなんだ。
 それは全身常闇のような黒で染まった、リンクそのものだった。背格好から装備までそっくりそのままコピーされているみたいだ。
「ナビィ! コイツの情報!!」
「今調べてる! ……コレはダークリンク、リンクの影そのものヨ! 自分に打ち勝ってリンク!!」
「んな無茶苦茶な……!!」
 ダークリンクは極めて正確無比にリンクの攻撃に返し手を加えてきていた。リンクの実力を丸ごと写し取られている。完璧に拮抗している二人の勝敗を決めるのは恐らく、単純に「どちらがより早く学習するか」だ。
 どちらがより負けられないという強い意志を持っているか。
「リンクこのままじゃラチあかないヨ!」
「わかってるよそんなの! くそっ、こうしてる間もゼルダが……危ないのに!! ちくしょおおおお!!」
 リンクは絶叫するとダークに向かって突進し、相手の剣先が肉を走って血が出るのも構わずに胸ぐらを掴んだ。そして剣を投げ捨て、空いた左手でディンの炎を周囲に発生させる。ドーム状に広がった炎はダークを焼き、その動きを鈍らせた。
「ふざけるなよ。俺はゼルダを守らなきゃいけないんだ、お前ごときが俺を手間取らせるな!!!!!」
 素早く拾い上げた聖剣を雄叫びと共に降り下ろす。それはダークリンクの喉を貫通し、悲鳴さえあげさせぬままダークリンクを崩壊させた。



◇◆◇◆◇



 ……マモ……レナ……カッ……タ……

 薄れゆく意識の中でダークリンクはそう"思考"した。水の神殿に巣食う悪意が勇者の影を得て形成されたそれは「水の神殿を勇者から守護する」というごく原始的なプログラムで形作られていた。だからそれが思考を持ったという事実は一種の奇跡みたいなものだった。神も悪魔すらも見落としていた、純然たる偶然だった。

 ……マモル……ナニヲ……?

 ダークリンクは更に思考を重ね、先程のリンクの言葉を思い出す。

 ……ゼ……ル……ダ……

 唐突に、ダークリンクの中に生き延びたいという欲求が生まれた。それはゼルダを守らねばいけないという使命感から来るものだった。時の勇者との接触で流れ込んできた彼の思念。
 ダークリンクは己が消えていくのを感じながら、懸命に体を動かした。急速に消滅していく己が身を勇者の影に接続し、こっそりと自分というプログラムをそこに流し込んでいく。
 そして完全に"本体"と帰属し同化したそれは、衰弱からしばしの眠りについた。全ての感覚を時の勇者に繋げたまま。
 全ての感情を彼から受信するままに。
 やがて目覚めた影は明確な自我を持って人格を形成し、ヒトならざる一個人として「ゼルダの伝説」という物語そのものを左右していくこととなるのだが……その事実を今はまだ、誰も知らない。



◇◆◇◆◇



「おお……? なんだこれ。プール?」
「絶対違うと思うヨ」
 そんな能天気な台詞を吐きつつ、リンクは剣を握る手に力を込めなおした。ここは神殿の最奥部にして最後の部屋だ。ここまでどの部屋にもいなかったのだから、必然水の神殿に寄生する親玉はここにいることになる。
「……おかしいな。ここにいるはずなんだが」
「気を付けろリンク! それはただの水ではない!!」
「ルト?!」
 突然鋭く響いたそれは紛れもなくルト姫の声だ。だが姿は何処にも見えない。慌てて辺りを見回すリンクが見付けたのは、ルト姫ではなく巨大で半透明な触手だった。
 人一人呑み込める太さのその触手の中には気色の悪い赤い核細胞があり、チューブを移動する感じでずるずると位置を変えていた。
「Listenリンク! あれの弱点は……」
「わかってる。あの核だろ」
 言いつつ、リンクはロングフックを構え核に向けて放った。フックが刺さった核は勢いよくリンクに引き付けられ、びたんびたんと跳ねる。それをすかさず突き刺し、部屋の隅に向けて斬り払った。
 そのまま逃げようとする核を壁に追い詰め、斬り続ける。斬り刻むうちに跳ね回っていた核は次第に力を失い、ぺたんと床に伏して動かなくなったかと思ったら霧散した。
「なんだ、呆気ないな。ルトがあんなに言うからどんなのかと思ったけど……あ、そうだ! ルトはどこだ?!」
 ナビィはつまらなそうに言ったリンクの顔にぞっとした。慌ててルト姫を探す姿は既に映っていない。
 おかしかった。今リンクが倒したのは仮にも神殿に巣食う親玉だ。まずナビィはそのおぞましい負のエネルギーをびりびりと感じていた。まかり間違っても、リンクが言うような容易い相手じゃあなかったはずなのだ。
 森の神殿でも感じたことだが、やはりリンクの力は異常だ。神の力があろう、神聖剣の力でもあろう、だとしても尚異常なのだ。
 魔王に堕ちたガノンすら凌ぐかもしれぬ、ヒトに有らざるべき力――だとすればそれを得る為にリンクが払った犠牲とは一体なんなのだ?
 神は規則に忠実だ。ナビィは知らなかったが、トライフォースの力というのはその魂を差し出して神の玩具になったぐらいじゃあ足りないぐらいに強力な力なのだ。故に使用者の精神力次第で引き出せる力は殆ど無限。
 そしてその代償は目に見えぬところで膨れ上がってやがて一時に襲いくる。
 神の徴税とは即ち魂への干渉。魂――言い換えれば精神、こころ――が正しく在る為の依り代、支えとなっているものを奪うことなのだ。それはかけがえのない家族であったり、愛するひとであったり、失えば二度と取り戻せない諸々のものであったりした。
 そうして支えを抜かれた心は穴だらけの積木のように脆弱になり、やがては礎石を失った城と同じように崩壊してゆく。その後にまっとうなものは残らない。残るのはただ、疲れきって壊れきった、失うだけ失ったかすみたいな末路だ。
「なあナビィ、お前もルトを探すの手伝ってくれよ」
「……あ、う、うん。わかったヨ」
「? ナビィ調子悪いのか?」
「なんでもないのヨ!!」
 心配そうにじいっと覗き込んで来るリンクから逃げるみたいにナビィはその場を飛び出した。リンクが怖いわけじゃあないのだ。リンクはナビィの一番大切なパートナーだから。
 怖いのは……恐いのは、壊れてしまう彼を連想してしまうことだった。



◇◆◇◆◇



「……ふん。わらわに隠し事は出来ぬゾラよ? そなたがゼルダ姫を愛しておるのは見ればわかる」
「なんか……すまない……」
「どうせ賢者となって最早そなたに触れることも叶わぬ身よ。好きにするがよいわ。愛する人の幸せを見届けるのもまた愛。……だが忘れるでないぞ、わらわはいつまでもそなたを愛しておる」
 お馴染みとなった蒼い空間、賢者の間でリンクはルト姫と対話していた。よくわからないうちに彼女に酷いことをしてしまったなあ、とリンクは後ろめたいものを感じ、けれどルト姫の言葉に少し救われたみたいな気もしていた。
「行くがよい、リンク。そなたにもわらわにも時間が足りぬのじゃ。……ゼルダ姫は生きておるとそうわらわには感じられる。ハイラルを、この国を、頼むぞ」
「ああ、勿論。ありがとうルト」
 リンクがそう微笑んで言うと、ルト姫は顔を赤くして何事か呟くと、「シークという青年に礼を頼む」とだけ言い残して足早に消えていってしまった。
「え? おい、ルト?」
「あーあ……リンクやっぱり最低ネ」
「ええ……?」
 後には呆れたナビィと何が何やらさっぱりといったふうのリンクだけが残された。