あなたの体温は残酷だ。
 やさしくておおきくてこんなにいとしいのに。
 それはすべてわたしの手には入らないものだから。
 わたしには、届かないものだから。



Magnolia



「水の神殿の戒めを解いたのか……やったな、リンク」
 みるみる水が満ちて水位が上がっていくハイリア湖を眺めながら、シークは呟いた。これで残る神殿はあと二つだ。
 不意に背後に蒼い光の柱が伸び、振り向くとそこには賢者の間から還ってきたリンクがいた。
「……あ……シーク……」
「おめでとう。君のおかけで水の神殿もまた解き放たれた。……ペースが速いのはいいがあまり無茶はするな。君が倒れては元も子もないだろう」
「ああ……そうだな」
 リンクは何か言いたそうにもごもごと口を動かして、それから顔を上げてずいとシークに近寄ってきた。
「ルトがお前にありがとうって言ってた」
「ルト姫が僕に?」
「ああ。助けてくれた礼をまだ言ってなかったからって」
 そうか、とシークは頷くとリンクの横に並んだ。二人の視線の先には昇り始めた朝日が見えている。しかしまだ充分な光量は得られておらず、あたりは薄暗い。
 リンクは朝日を眺めているシークの横顔をちらりと覗き見た。昔もどこかで見たような、意志のある強い瞳が綺麗だった。露出の少ない肌の美しい白さが目を引く。
(何を考えているんだ、俺は)
 シークの肌に触れたかった。理由も分からず、どうしようもなく触れたかった。思えば彼の肌どころか布越しの手にさえ触れたことはない。氷の洞窟で腕を掴もうとして、けれど彼はそれをすり抜けて消えていってしまった。
 ふとシークが横に振り向いた。そして怪訝そうな顔をする。じいっと見つめられていることに妙な気分を覚えているようだった。
「どうかしたか、リンク? 何か――」
 シークはその疑問を最後まで述べることを許されなかった。思うように声を出せない。どころか、呼吸すらもままならない。
 体中が熱くて苦しい。
 急に唇を塞がれたことで動揺し、とっさの対応が出来ないうちにシークは主導権をリンクに握られてしまっていた。体を抱きすくめられるみたいに押さえつけられ、身動きが取れない。
(ゆ、油断していた……)
 隙だらけだった自分の体たらくに愕然とし、どこかでリンクが隣にいることに安堵していたのだろうと思う。実際はそのリンクが狼だったわけだが。
 執拗に何かを求めているみたいなキスにシークは高揚感を覚えていた。鼓動の音がやたらと大きく響く。息苦しさすらも快かった。普段は小さく小さく押し込めているはずの「女である自分」が、ここぞとばかりに疼いていた。
 やがて密着していた顔と顔との間にわずかばかりの距離が生まれ、二人は荒く息を吐いた。
「なに……するんだ……」
 真っ赤に染まった顔で半泣きになりながら睨むシークの言葉に、リンクは正しく返答をせずただ短く呟いた。
「シーク。お前、女だろ?」
 シークの動きが止まるのも気に掛けず、リンクは更に言葉を続けていく。
「お前から白い花の……ゼルダのにおいがする……」

 白い花のにおいは、かつてリンクが好きだったひとのにおい。
 愛して止まぬひとのにおい。
 逢いたくて逢えないひとの、影。
 
 リンクのその言葉に、シークは酷いショックを受けた。それは本当にむごい言葉だった。だってそれじゃあまるで、否定ではないか。
 リンクにとってシークはそういう存在なのだと明言しているかのようじゃあないか。
 勿論リンクはそういうつもりで言ったわけではなかった。ただ単純に感じたことを述べたまでだった。でもシークにそうは届かない。

 だからシークは。

「僕……は、ゼルダ姫じゃあない……彼女の代用品じゃあない……!!」

 そういうふうに受け取ってしまった。

 かすれたシークの声に、リンクがびくりとする。シークはその瞬間に煙に紛れて逃げ出してしまった。涙をぼろぼろ流したままに走り続けた。
「シーク!!!!!!」
 自分の過失で彼女を逃がしてしまったばかりか傷を負わせてしまったことにリンクは今更気がつき、拒絶から来る虚無感にうちひしがれた。本当に馬鹿だ。最低だ。
 己をただただ責めている最中に、大木の向こうでハイリア湖に落下していく人影が見えたような気がした。



◆◇◆◇◆



 シークは動揺していた。呼吸はまだ荒く、存在感を主張する心音は未だ収まる気配がない。
「ぐ……う……っ、ひぐっ……」
 ぽろぽろと子供みたいに涙を流して、嗚咽を漏らす。顔にはまだ赤みが強く残り、その体躯は少女のように頼りなく震えていた。
「僕は……わたしは……ゼルダ姫の代わりだったの……?」
 
 彼のことが好きだ。

 もうはっきりとわかった。彼のことがどうしようもなく好きなのだ。
 キスされて嬉しかった。急いているような乱暴さに驚きはしたけれど、なによりも嬉しかった。
 それなのに。
「こんなのってあんまりだ……!!」
 彼はゼルダ姫しか見ていない。自分にはただゼルダの面影を重ねているだけで。ゼルダの後ろ姿を求めているだけで。
 彼は「シーク」という人間のことなんか本当はなんとも思ってはいないのだ。それはわかりきっていた事実のはずだ。そのはずだが。酷く鋭利にシークの胸に突き刺さった。
「だから……こんな感情……捨てたはずだったのに……どうしてこんなに苦しいの……?」
 いつまでも泣いているわけにはいかないのに。そう頭ではわかっていても涙は一向に止まる気配がなかった。
 己の使命を果たす為に闇の神殿へ向かわねばいけない。けれどそうすれば必然、彼とまた顔を合わせることになる。そう思うときゅうっと胸を締め付けられるようだった。より一層息苦しくなるようだった。
 しばらく俯いて沈黙した後に、シークは頼り気なくも立ち上がった。もう時間がない、何度も自分に言い聞かせてきた言葉だ。だから立ち止まっちゃあいけない、これだって嫌という程――
「……そう。僕は行かなきゃいけない。インパの事も心配だ」
 やがて震えを治め、しっかりとした足取りになったシークの顔に先程までの女々しさは一切なかった。そこにはただ、いつもと変わらない鉄面皮みたいな無表情があるばかりだった。
 ただ、目尻はまだほんのりと紅かった。



◆◇◆◇◆



「sitリィーンク…・・・ちょーっとそこに居直りなさい?」
「うい・・・・・・」
 ナビィは小さな体からは想像もつかないような殺気を振りまいてリンクを睨め付けていた。怖い。ものすごく怖い。
「ナニ考えてんのヨー、このドアホ男ー?」
「悪かったと思ってる!! 悪かったとは思ってる!!」
「思うだけじゃダメヨ」
 風もないはずなのに、ものすごい衝撃波を感じてリンクは勢いよく後ろに倒れ込んだ。上空からの殺意が強すぎて起き上がろうにも起き上がれない。
「まったく! あんなにかわいくて純朴な子供だったのになんで寝て起きたらこんな・・・・・・こんなケダモノみたいな穢れた男になってんのヨ!! ほんと信じらんない! ナビィの知ってるリンクはどこ行ったのヨ?!」
「いや、ここにい」
「うるさいのヨ。」
 リンクの反論をぴしゃりと一言で叩き伏すとナビィは情けなく地に這いつくばっているリンクの顔面に近づいてぺしんと羽根を叩きつけた。
「いだっ、いだいいだいいだい」
「バカバカー! シークが可哀想じゃないのヨ! シークがもし女の子だったとしてヨ、もしそうだったとしたら・・・・・・」
 そこまで言うとナビィは羽根を打ち付けるのを止めて急に泣き出した。温かい液体がリンクの顔にぼたぼた落ちてくる。
「キスなんかして・・・・・・シークすごく傷付いたヨ!! リンクはシークのことなんだと思ってるの?!」
「シークの・・・・・・こと・・・・・・」
 ああ、自分はきっと悪いことをしてしまったんだなあということはリンクにもわかった。
 さっきああ言われてしまったから。気付かざるを得なかった。
 けれどシークのことをどう思ってるかなんてまったくわからない。
 考えても答えなんか出やしない。

 さっきナビィが言った通りに、リンクはついこの前までたった十歳のこどもだった。体はともかく、意識は確実に今もその延長線上にある。だから彼は今だって十歳の時と変わらない感覚で生きている。
 子供の感覚のままで、生きている。
 けれども体が感じる本能的な欲求はどうやら思春期のそれのようで――だからリンクはああいう行動に出てしまったのだ。わき上がってきた衝動そのままに抱き寄せて。唇を奪った。
 その行動に実のところ深い意味なんてものはこれっぽっちもなく、ただなんとなくしたかったからしたのだ。それだけで、それだけになお悪い。
 最低だ。
「ナビィ」
「何ヨ?! もうリンクなんか知らないんだからね!!」
「ナビィ」
「・・・・・・何ヨ・・・・・・」
 そっぽを向いていたナビィだったが、しつこく呼びかけられて振り返ってみて驚愕した。あまりのことに、一気に怒りが吹き飛んでしまった。

 リンクは、泣いていた。

 静かに。音ひとつ立てずに。顔色を変えずに、透明な液体を目から流していた。それは最早泣いているというよりはただ水が垂れていると言った方が近しいかもしれないくらいだった。
「な・・・・・・なんで泣いてるの・・・・・・」
「ナビィ、今一番邪気が強いのはどの辺り」
「え・・・・・・か、カカリコ村の方ネ・・・・・・」
「そっか、カカリコ村か。つまりインパさんが危ないってことだな」
 リンクは顔の液体を拭いもせず立ち上がり、オカリナでエポナを呼ぶとさっさとその背に跨った。よどみない所作に、はっとしてナビィが叫ぶ。
「・・・・・・ちょっとリンク!! シークのことはどうするのヨ?!」
「カカリコ村に行けば会える。多分それが運命だから」
 呟かれた”運命”という言葉は、酷くリンクに似合っていなかった。