02



『――決まった! エースモンスターで華麗なダイレクトアタックを決め、見事挑戦者を返り討ちにしました!! 極東チャンピオン防衛戦、勝者はやはりW!! 久方ぶりの公式戦、今日はいつにも増して苛烈な戦いぶりだった!!』
 MCのアナウンスが響き渡ると、スタジアムは望まれていたチャンピオンの勝利に沸き立った。極東チャンピオンの現タイトルホルダー、プロ・デュエリストのWによる三ヶ月ぶりの防衛戦だ。公式の場に彼が姿を見せるのは三ヶ月前のチャレンジャーを下した時以来で、スタジアムには彼の大勢のファンが詰めかけて声援や黄色い声を送ったりなんかしている。
 今回のチャレンジャーと健闘を称える握手を交わし、トーマス・アークライトはとても晴れやかな気持ちで控え室へ戻る道を歩いていた。文句のないパーフェクトなタクティクスで試合を完封出来たことに、我がことながら鼻歌でも歌いたい気分なのだった。
 復讐が終わり、その後、アストラルがヌメロン・コードを発動したことで無事帰還した父トロンはドクター・フェイカーや九十九一馬と和解した。バイロン・アークライトの元のあの姿に戻ることはなく、仮面に覆われた下の右半分の顔がブラック・ホールのようになってしまっているのもあのままだけれど、父はあれでいいのだと息子達に言った。戒めの形なのだという。自らの手で二人の友を裏切ったことへの、身体に刻まれた刻印。
「君のその頬の十字傷と同じだよ、トーマス」
 トロンは父親に目線を合わせるためにしゃがみ込んでいる息子の右頬に指を添えながらそう言った。トーマス・アークライトの十字傷もまた、なくなることはなく「極東チャンピオンW」のチャーム・ポイントとして現存している。この傷にはトーマスなりに深い思い入れがあって、スカー・フェイスでいることはトーマスにとっては約定に近いものですらあった。

 あの日神代の兄妹を貶めたことへの。

 結局三兄弟はあの父から与えられたナンバーを捨てなかった。クリストファーは「X」というナンバーを、ミハエルは「V」というナンバーを。トーマスは「W」という記号を。捨てられなかった、というのが正しいだろう。三兄弟にとってはナンバーもミハエルやクリストファーという名前もどちらも等しく敬愛する父親から与えられたものだったのだ。
 それに、と言い訳するように彼は内心で独りごちる。極東チャンピオンは「W」というリングネームで既に世界中に名を知られてしまっているし、今更それを本名の「トーマス・アークライト」という名に置き換えようという気がさらさらなかったのだ。
 デュエルは楽しい。気負わない草デュエルも、プロ・デュエリストとして、極東チャンピオンとして戦うことも。そうじゃない戦いを、辛いデュエルを何度かして来た後だったから今は尚のこと強くそう思う。デュエルは楽しいのだ。九十九遊馬がそう言うように、デュエルで人は繋がっていける。
 だから。
 いつか神代璃緒に会わなければいけないとトーマスは考えていた。
 凌牙とは、ある程度納得のいく形で双方踏ん切りを付けられたと思っている。ナッシュとして自分を憎ませようとした凌牙とトーマスは全身全霊でぶつかった。あの時お互いに思いの丈を全て吐き出していたし、普通にありふれた友達になれたのだと思っている。だが璃緒には、まだ会えていない。何も言っていない。火事に巻き込んだことについての謝罪でさえ。
 火傷はもう、痕一つないのだと凌牙は言うけれど。
「でももし消えない場所に俺が傷を付けてしまっていたのだとしたら……」
「そうね。少しだけね。でも殆ど無いようなものよ。心配性か、思い上がりかのどちらかだと思うわ――W」
「あ……え……は…………?!」
「チャンピオン防衛おめでとう。今度で何度目だったかしら。十八ぐらい?」
 固まってしまったトーマスを横目に突然現れた少女が言った。
 実に素っ気なく。


「兄はちょっと今手が離せないもので、代わりに私が来ましたの。忙しいのよ。皆、大分ズレてるものだから」
 関係者通路に潜り込んでいた少女を、取材陣や追っかけファンが追い付く前に大慌てで宛がわれた控え室に連れ込むと適当な椅子に座って彼女はそんなふうなことを言った。神代璃緒。凌牙の妹。かつてWが傷つけた女。しかし目の前の彼女にはそんなことは全く関係ないらしく、混乱で頭をぐるぐるさせているトーマスをほっぽってお構いなしに話を続けている。
「あなたに挨拶をしておかないと、って凌牙が言うものですから。本当は自分で行きたいみたいなんだったけれど、あなた、ハートランドに滞在してるの今日まででしょう? 明日には国外のスタジアムで試合のスケジュールが組まれているものね。親切なクラスメートが教えてくれたわ、あなたの大ファンなんですって。お礼に持っていってあげる約束したから色紙にサイン頂戴。……ともかく」
「あ、ああ」
「元気そうね。ごめんなさい」
「……何でお前が謝るんだよ。それは、俺の方が……」
「ミザエルが気にしているの。あなたの兄弟を結果的に殺すことになってしまったこと」
 ミハエルが入れて置いていったお茶を飲みながら璃緒はやはり澄まし顔をしている。トーマスを目の前にして取り乱したり怒りを露わにしたりすることはちっともない。なんだか肩透かしを喰らったような気分だった。
「なあ。お前は俺が憎くないのか」
「別に。Wがしたことは、私達はもうどうとも思っていないわ。私も凌牙もそれよりもっと酷いことをあなたとあなたの家族に対して行ったから。正確にはどうとも思う権利がないのよ。責められる謂われはあっても……」
「凌牙を責めるつもりはない。俺はあの時持てる全てをあいつにぶつけた。だが俺じゃ届かなかった。遊馬が全てを終わらせた。それが全てだろ」
「そうね。私もそう思う」
 それにね。璃緒が呟く。あなたなんかよりもっともっと憎たらしいやつがいたのよ。それももう、なんだか責める気分ではないけれど。
 璃緒の言うもっと憎たらしいやつ、には思い当たる節があった。風の噂で聞いていた。もしも璃緒が、凌牙が、それでも彼をもいずれは許すのだと言うのなら……トーマスのことなど、もうどうでもいいのかもしれない。
 それはそれで寂しい、ように感じた。結局エゴなのだ。何もかもが。
 まんじりともしない沈黙。それを突き破るように控え室の扉が開き、マネージャーとしてスケジュール管理を務めているミハエルが顔を出した。
「兄様、防衛戦お疲れ様でした。今、外にマスコミがわんさかいますよ。雑誌の記者が六誌ぶんほどいるので気をつけてください。あることないことかき立てるゴシップ記事で有名なところもいましたから……あれ?」
 明日以降のスケジュールが記入された書類を手渡したミハエルが予想していなかった来客に気が付き、珍しいものを見る顔つきになる。自分が入れておいた茶を飲んでいることに気が付くとぱっと顔をほころばせて、「どうだった? それ、新作なんだけど」と璃緒の方へずかずか寄っていく。
「来てたんだね。凌牙は元気?」
「ええ。てんてこまいよ、やることばかりで……お茶、ご馳走様。ごめんなさいね、急に」
「いや、丁度良かったよ。僕も君達のうちの誰かしらに連絡取らないとって思ってたところなんだ。僕達とあの時戦った――ええと、ミザエルは、どうしてる?」
「? 元気すぎて手に余っていますわ。彼に何か?」
「もしかしたら、もうカイトから連絡が行ってるかもって思ったけどその様子じゃまだみたいだね。兄様とカイトが今、ある一つの研究を始めているんだけれどそれに彼の協力が欲しいんだ。何か、仮説は立ったらしいんだけど二人だけじゃ打開案の目処が立たないらしくって」
「……構いませんけれど、その……ミザエルは科学分野には強くないですわよ? 知識が千年ほど前で止まっていますし……」
「いや、カイトが言うにはどうも銀河眼使いとしての彼の力が必要不可欠なんだって。それじゃあ、後日カイトが迎えに行くと思うから。連絡とか、どこにすればいいかな」
 手際よく話をまとめていく弟をぽかんと見ながらトーマスはちらちらと璃緒の方を窺っている。先手を取って謝罪され、なあなあの雰囲気に流され、タイミングを逃し、トーマスはどこから突っ込んで良いのかわからなくなってしまっていた。
 断頭台に並ばされた山羊にも似た気分だ。凌牙とは殴り合いで解決した(と、トーマスは感じている)のにこの少女はそうはさせてくれない。
 どうやらミザエルの事に関してなにがしかの合意に達したらしい二人は頷き合うと辞令を交わし合って、璃緒が立ち上がる。「V」彼女はミハエルをナンバーで呼んで――そういえば、知らないのか、彼女は――立ち止まる。
「一つだけ尋ねてもいいかしら」
「何かな? あと、僕の本当の名前、ミハエルって言うんだ。ミハエル・アークライト。兄様はトーマス。良かったら覚えておいて」
「わかりましたわ。でしたら、ミハエル」
「どうぞ」
「あなたは私達のことを恨んでいる?」
 璃緒の瞳はじっとミハエルとトーマスを見据えていた。
 「私達」。バリアン七皇。七皇は鍵となる遊馬を追い、その行く手を阻まんとした人間達をデュエルの刃をもって殺害した。ナッシュはWを殺した。メラグは鉄男を手に掛けた。ギラグは六十郎と闇川を。ドルベはドロワ。アリトはゴーシュを。
 そしてミザエルはアンナと風也、次いでVとX、最後に天城カイトを結果的に殺めた。
 問われて、ミハエルは改めて璃緒の目を見る。トーマスと同じ紅の瞳は、トーマスと同じように懺悔を映し出していて、ミハエルはそっと首を振った。
「別に、仕方のないことだよ。だって僕達は勝てなかったんだもの。誰も彼も必死だった。君達も……そして僕達も。僕達は皆自分がああいう役割についたことを納得しているんです。だからきっと、誰かが誰かを糾弾することは、出来ないね。……トーマス兄様もそうですよ。璃緒も。顔を上げてくださいよ。……二人とも、そんなところばかり似て」



◇◆◇◆◇




「悪いな、急な話で」
「いや、構わん。助かる」
 天城カイトが神代邸を訪れたのは、璃緒がミハエルからの通達を受け取ったその翌日のことだった。「結局電話番号も何も交換していないのですけれど……」と璃緒は言ったが、まあ、そのあたりは抜かりないというか街中の記録を管理する帳簿で抑えているのがあの男だ。となると住所も筒抜けである。そもそも先日戸籍回りに関する交渉をしに行った段階でここの位置がベクターを除いた七皇のひとまずの住居として記録されていたはずだ。
 神代邸は確かに広く、凌牙の裁量でどうにか出来る中では最も大人数での共同生活に適した場所だったが、いつまでも大勢でこの屋敷に住むという気もそんなにしないのもまた事実だった。バリアン七皇として七人は(一人は、あっちこっちどこかへ行って謀反を起こしていたが)長い間ずっと固まって生きてきた。狭い世界に閉じこもっていたと言い換えてもいい。だからここらで一度別れてみたほうが彼らのためなのではないかという考えが双子の間にはあった。
 しかし最低限の常識を授けなければという話とはまた別なので、今はこうして六人で大所帯の暮らしをすることを選んでいる。好んで選択したことだが、人が増えれば増えるほど寂しくはないけれど騒がしいというのが現実だった。騒がしいのが常に喜ばしいことだとは当然限らない。育児ノイローゼ。猫の手も借りたい。そんな言葉の意味を最近少し気にかけ出していたその矢先にカイトの申し出があったわけだ。
「本当に基礎的なことは、もう全員この時代に合っていると思う。特にアリトとギラグはこちらに潜り込んでいたからその辺りは早かった。ミザエルも、まあなんとか。ただ……悪い、急だったからまだ服とかそういう細かいところは揃えてなくてだな……外着はあの一張羅しかないぞ、あいつは」
「予想は付いていたが……。わかった。――ミザエル」
「な、なんだ」
「こんなこともあるだろうと思って一式服を持ってきているから着替えろ。お前は素が派手なのだから、移動中はせめてそこまで目立たない服を着てくれ」
 まあ外でクリスに車を待たせて貰ってはいるのだが。紙袋ごとミザエルに渡しながら着替えてくるように促している。ミザエルも彼には負い目があるのか、同じ銀河眼使いとして親近感を覚えているのか、非常に素直にその勧告に従った。結構な大きさの(本当に一式入っているらしい)紙袋を両手で抱えるとぱたぱた走って宛がわれている部屋へと駆け込んでいった。
 それを確認して凌牙は息を吐く。
「……サイズ、知ってるのか」
「いや」
「じゃああれは」
「俺の私服だが。構わん、どうせ研究所に入る時に全身検査とシャワーを強制で受けて貰うことになる。……凌牙。その様子では、彼らをまだあまり街には出していないようだな」
「まだ三日だぞ。一応、ギラグとアリトはもうぼちぼち服でも買いに行かせるかと思っているんだが……」
「遊馬には会ったか」
 それで凌牙の口の動きが止まった。
 カイトは恐らく初めから何処かでそれを聞く気もあって、こうして自ら足を運んだということもあるのだろう。凌牙はべたべたして急にくっついてしまった唇をなんとか動かして、
「――会ってない」
 それだけを答える。「だろうな」。カイトの短い肯定。学校へ行っていないんだから、それは当然「避けて」いるんだろうということを暗に言われてぐぅの音も出ない。
「会いたくないのか?」
「どんな顔をすればいいんだよ」
「それはお前が考えることだな。知らん。そんなことは、俺の管轄外だ。……しかし」
 人差し指を立ててカイトが呟く。ちらと他の人間の目を窺ってからひそひそ話をするような小さな声で凌牙に耳打ちする。
「近いうちに、必ず俺達全員が集まる時が来るぞ。アストラル世界はバリアン世界と融和してカオスを拒絶する前の状態に戻った。凌牙。お前も薄々勘付いてはいるだろう? お前達を掌の上で操っていたあの『神』が、今、どこにいるのかということだ……」
「――?! じゃあ、やっぱあいつは……!!」
「ああ。今はまだ本格的には動いていないが、ドン・サウザンドはいずれ大きな行動に出るはずだ。その時遊馬ならどうしたいのか、それについて俺達に何が出来るのか……今俺がしているのは、それらの手段についての現実的な研究だ。手をこまねいて後手に回るのは俺のプライドが許さん」
 ドン・サウザンド。遊馬達の力を借り、打ち倒してナッシュの中へと吸収されたそれだが、ナッシュ達七皇がヌメロン・コードの奇跡で全員人間になった際に何処かへと消え去っていた。元々ドン・サウザンドはデュエルに破れたが死したわけではない。あれはもう、そういう意味では安易に殺せる存在ではなかったのだ。それが今、バリアン界とアストラル界が融和し、一つの姿に戻ろうとしているその場所にいるとなれば。
 考えられる可能性は一つしかないのではないか。
「……アストラルは、アストラル界にはいるんだったな?」
「ああ。人間界だけは、三界の中で切り離されてしまったからすぐには干渉出来ないが」
「ああ……つまり、そういうことか。はっ……お前らしいよ、まったく……」
「だからミザエルが必要なのだ。あいつの時空龍はドン・サウザンドから与えられた楔だったが、俺の銀河眼、そしてあいつの前世に関わるドラッグルーオンと一体化してヌメロン・ドラゴンに成り得た。ナンバーズの謎は未だに完全に解き明かされてはいない。それを足がかりに、俺とクリスでアストラルーバリアン両世界へのゲートを開く。今度はもっと安定したものを」
 とんでもないことを真顔で抜かす。だがこいつなら言った以上はやりおおせてみせるだろう。クリストファーとカイトの師弟には一度アストラル界への転送装置を殆ど人間界の科学力だけで作り上げた実績がある。
 着替えが終わったらしいミザエルが部屋から出てきて、話し込んでいるカイトと凌牙の隣に立った。結局服の着方が分からなかったのか、後ろに璃緒が立っている。ポニーテールは璃緒の仕業だろう。
「わかった。ミザエルのことは、任せた」
 手を差し出すと、少しの逡巡の後にカイトが凌牙の手を握り返した。事態が飲み込めていないミザエルは不思議そうな顔で「……私のいないところで、一体、何の話をしていたのだ」と問うたが、カイトに腕を掴まれるとそれで大人しくなった。



◇◆◇◆◇




 がらんとした部屋だった。飾りっ気がないなどというものではなく、必要最低限以下の家財が部屋の壁にぴたりと添うようにぽつぽつと置かれているだけだった。部屋が広い分――本来は、四人ぐらいの家族で住むことを想定された造りなのだろう。リビングにはオープンキッチンまで完備されていて、個室が四つ程あるのがわかった――余計にがらんとした様子が浮き彫りにされているようで、目立つ汚れもなく綺麗に整えられているはずなのに酷く寂れて、廃れているようだった。
 今日ここに訪れたのは、ベクターが「どうしてもお前に見せたいものがある」と言って学校から帰って来たばかりの俺を捕まえるなり外へ連れ出したからだった。帰り路に通って来た通路を逆戻りして、ベクターは学校で「真月」を知っているような知り合いに遭遇しないように慎重に道を選んで俺をここへ連れてきた。過度に高級ではないが、安っぽくもないマンション。ずらりと立ち並ぶビル群の中の一つに目的地を定め、何故持っているのかはわからないけれどセキュリティパスを玄関ホールに通し、高層マンションの一室に二人は辿り着いた。
「『真月零』は」
 ベクターが言った。全くの、全然知らない、書類で名前を見ただけの赤の他人の名前を呼んでいるような調子だった。
「この家に住んでいることになっていた。ハートランドシティで管理されている戸籍、そしてハートランド学園の名簿に載っている学籍、そのどちらでも。『真月零』には家族がいるらしかった。きちんと職に就いてる、ありふれた、サラリーマンの父親と専業主婦の母親。兄弟はいない。『真月零』は一人っ子だった。だから少しだけ、兄弟を羨ましがることがあった……」
「……そうだったっけ? 俺に姉ちゃんがいることを、真月に羨まれたことは別になかった気がする」
「それは『俺』だからな。確かに俺には今まで……二度ほどか? 繰り返した人生の中で兄弟がいた記憶はないが欲しがったこともない。だが『真月零』はそうじゃなかった。兄がいる人間が、姉がいる誰かが、妹を自慢するクラスメートが、弟と喧嘩をした隣人が、羨ましかった。人なつこいふりをしていたが人に飢えていただけだった。丁度良い、と思った。俺は『真月零』に言った。――『きょうだいが欲しいか?』」
 ぞっとした。
 淡々とした口調だったからこそ、この伽藍の堂のような室内と相まってまるで悪魔の契約文を読み上げられているようだった。「おまえは……」俺は声が少し震えているのを自覚して、慎重に問いかける。
「……殺したのか?」
「何を?」
「『真月零』を。その家族を。殺して……経歴を乗っ取った?」
 ベクターの、紫色の目が少し悲しそうに伏せられた。
 そして首を振って肩を竦める。その明らかな否定にほっとする自分がいて、俺は怖くなってベクターの手を思い切り握りしめた。手を繋いでいなきゃいけない気がした。
 そうしていないと、どこか遠くへまた行ってしまうような気がした。
「うそだよ」
 ベクターの瞳は丸く、俺を昔散々にバカにして罵った時のような嫌な鋭さはなかった。真月のあのきれいな目だ。色は一度も変わらないのに。どうして、今は真月の目だなとか、思うんだろう。
 そうしているうちに俺はベクターの前世、人間だった頃の「ベクター皇子」のことを思い出して、手を握ったまま「あのさ」と話を切り出した。
「俺さ、お前の記憶を見たよ」
「知ってる」
「あのデュエルの時。ベクターが……本当は、平和を愛する皇子だったんだって……」
「……あのねえ、ゆーまクン」
 途中で言葉を遮り、ベクターが「ほんっとにお前はさあ」というふうに俺を見る。手はやっぱり繋いだまま。多分俺も、ベクターも、お互いにこの手を離してしまうことを畏れているんだろうと漠然と感じた。
 今俺の目の前にいるはずのベクターでさえもふらりと消えてしまいそうで。
「例えドン・サウザンドが俺の性格を歪めていたのだとしても、俺が楽しんで人を殺したという事実は変わらねえんだよ。いみじくもドン・サウザンドがそう言った通り。ナッシュとメラグをぶっ殺すのも、お前らをはめるのも、俺は楽しくて仕方なかった。ベクター皇子は快楽殺人主義者で、そのうち、自らの両親を殺したことさえ快感として思い返すようになっていった。本当のところ、どうして両親を殺したのか、その理由がこれっぽっちも思い出せなかったのに」
「……うん」
「だけどお前はそれでも、こう言うんだよな。『真月が本当のお前なんだ』って……」
 「真月」の部分に力を込めてベクターが反芻する。そうして、俺のことをともすると睨め付けるかのようにして、
「俺にはわからない」
 そう、言い切った。
 そうだな。俺は確かにあの時、真月が本当のお前なんだって、言った。それは事実だ。ベクター皇子が平和を訴える姿が俺の知っている真月零とぴたりと重なって、真月零はやっぱり死んだりしてないって、最初からいなかった幽霊なんかじゃなかったんだってそう思えたからだ。そういう意味で、真月零というあの姿もベクターの本質で……きっとこいつは人を蔑んで憎み悪意をばらまくだけが全てじゃないはずなんだって俺は思った。今でも。
 救いようがないといつか誰かはそう言ったけど、そんなことないって俺は手を伸ばした。心はない、そう言ったのはシャークだったよな。そんなわけないよ。ベクターにはちゃんと心があって、いいことと悪いことを考えて、本当は……きっと。
 この手を掴んでいいよと手を伸ばされることを、心のどこかで待っていたんだ。
「ベクターはさ……前に、言ったよな。シャークに、ナッシュの国の民を殺めたこと、無関係な人達を殺したのは大したことじゃないって……」
「ああ、言った。あれは俺の通る道にいたあいつらが悪い。俺は腹が立っていた。進路にものがあって邪魔だったから、殺した。それで?」
「だけどその後、こうも言ったよな。『なんせ俺が最初に手を掛け始末したのは、自分の親父とおふくろなんだから』」
「……だから?」
「アストラルが俺に言ったよ。『彼は親殺しを、かなり上位に位置する悪行だと認識していた。それはつまり彼には非常に正しい倫理観と道徳が備わっており、なおかつその上で、殺人を初めとする種々の陰惨な悪徳を快楽として捉えるようになったということだ。今でも。これは極めておぞましいことだ……』そういうふうに。俺はばかだから、アストラルの言うことは難しすぎて、すぐにはその意味が理解出来なかった。だからあの後考えたんだ。もしも。本当に最初から人殺しを大したことないと思ってる奴が、親を殺したことをそんなに恐ろしいことだと言うのかなぁ……?」
 俺にはそうとは思えなかった。あの後すぐ、ベクターの本当の記憶を見てしまったから尚更。ベクターはあの残虐な父親にそれでも武力で抵抗をせず、殆ど丸腰で、言葉で向き合おうとした。父親を信じていたんだ。母親のことも。あのベクターは、母親のことが大好きそうだった。俺も母ちゃんが好きだから、きっとそうなんだろうなってそんな気がした。
「お前はきっと自分の父ちゃんと母ちゃんをすごく大切に思っていたんだよな」
 それを言った瞬間、繋いだ指先からベクターの動揺が確かに伝わってきた。
 びくりと肩が跳ね、丸く目を見開いて、身体を震えさせている。「ベクター」声を掛けると首を振る。俺は黙って、ベクターが何か言うのを待った。
「……だが」
「うん」
「だが父上と母上はもう二度と帰ってはこない」
「うん」
「俺が殺した。俺が……私が……この手で……」
「違うよ」
「何が違うものか。『私』が和平政策を唱えたから……父上は。そして母上は『私』を庇って……『私』は……親殺しだ。その事実は最早どこまで行っても変わらない」
「違う」
「違わない!!」
「違う。ベクター!!」
 両手を繋いだまま、強く、強く引っ張るとそこでベクターははっとして、「ゆうま」と頼りなさげな声音で俺の名前を呼ぶ。やっぱりだ。俺には一つずっと引っ掛かっていたことがあって、それが今ようやくはっきりした。
 ベクターは記憶を見せられた後、そんなことはもう前から知ってたって言った。知ってたから、昔がどうだろうと今の自分には関係ないし動揺もしない。そんなことを言ったんだ。
 昔が……昔の自分がああだったからと言って、今すぐにそれが反映されて改心するだとか、悔い改めてしまうとか、そういうのは確かにないかもしれない。だけど、それがまったくベクターに衝撃を与えていないっていうのはどうかなって思ってた。自分が親を殺したってことを大きなきっかけとして抱え込んでいたベクターが、それが嘘だった、本当は狂気で殺めたわけではなくて……事故だった、ということを告げられた時に知ってたとすぐに返したのが逆に嘘っぽかったというか、虚勢に見えた。
「遊馬……」
「うん。そうだよ。俺は、九十九遊馬。お前は?」
「……俺は……」
 七皇達は、概ね現世と前世の性格は一緒で記憶を思い出すことにそれほどの抵抗はなかったんだと思う。ただ唯一ベクターだけははっきりと今と過去で性格がかけ離れてしまっていて、それがスムーズに自分の中に還ってこなくて、戸惑って、結局その時はふたをしてしまっていたんだろう。今、口調が一瞬真月でも七皇のベクターでもないものになっていたのがその表れだ。皇子としての過去をベクターは持てあましている。
 それがきっと、ベクターが「真月零」という名前をどうしていいのか、これから何になりたいのか、決めかねていることの根幹の部分なんだと思う。
「……わかんねえよ」
「……じゃあさ。これは別の質問なんだけど」
「あんだよ」
「お前はさ、『真月零』って、好きだった?」
「――、」
「真月零として学校に通って、俺の隣にいて、……好きだった?」
 真月を。
 真月零として、「よかれと思って」とか言いながらその実確信犯で俺をからかったり、真月警部と名乗って俺と街のパトロールしたり、学校で一緒に授業受けて、真月君、なんて女子に呼ばれたりして、普通に中学生やって、そういうそれらの時間はベクターにとって決して無意味じゃなかったはずだと俺は信じていた。俺が隣で見ていた限り、真月は……ベクターは、結構楽しそうにやっていたと思う。それはもしかしたら俺を上手く騙せていることへの喜びだったのかもしれないけれど、それだけじゃないんだと信じられた。
 この空っぽのマンション、昔真月が住んでいたのかもしれない部屋に俺を招いてくれたのもきっとそういうことなんだと思う。けじめだ。そうやって一つ一つけじめを付けていくことで、こいつはゆっくりだけど自分の中で答えを出そうとしている。
「大ッ嫌いだったぜ」
 ベクターが言った。はにかんで顔が赤く、俺でも一目で多分照れ隠しなんだろうなってわかるようなそんな顔だった。