03
「それであなた、いつになったら学校に行くつもりなの?」
テレビからニュースキャスターの七時のアナウンスが聞こえている。台所に立って夕飯の後片付けをしている少女を見遣ってベクターは盛大に溜め息を吐いた。
「何でんな心配されなきゃなんねーんだよ」
「遊馬が気にしてるから。なるべく、あなた本人は言わないようにしてるみたいなんだけど……それに今日璃緒さんが登校してきたのよ。シャークは明日から来るって。他の四人も、またおいおい」
「余計に近寄りたくねえ」
「まあ、そう言うだろうって思ってたわ」
九十九家に居候をするようになって(遊馬の姉と祖母は驚くほど快くベクターを迎え入れた。九十九夫妻から一筆手紙を預かっていたのが大きいかもしれない)知った事だが、この観月小鳥という少女は本当にしょっちゅう九十九家に入り浸っている。もう半分ぐらいは普通に居着いている。遊馬の食事を作り、世話をし、時間に余裕があれば遊馬の部屋を掃除して、遊馬に送られてそんなに遠くない自宅へと帰っていく。それが週に三日から、多いときはほぼ毎日。
こんなことではそのうち遊馬の気が滅入ってしまうんじゃないかとお節介な想像がベクターの中で頭をもたげたが、これが案外彼女は上手くやるもので、遊馬が一人になりたさそうな時や自分がいると邪魔になりそうな時は機敏にそれを察知して家の前で別れて、そのまま帰宅している。
(あいつ絶対女の尻に敷かれるタイプだ……)
遊馬はというと、今は一番風呂を貰っている真っ最中で、今日は彼の祖母と姉が揃って出払ってしまっているのでこのリビングに今いるのは小鳥とベクターだけというわけだ。あいつ早く風呂出ねえかな。それとも、俺から乱入して行ってやろうか。あまりの居心地の悪さにもぞもぞとテレビの前で寝返りを打ってそんなことを考え出した折、ようやく遊馬が風呂上がりのだらしない風体で姿を現した。
「お先ー。次どっち入る? 小鳥? ベクター?」
「えっこいつ家に帰るんじゃ」
「今日は泊まりだって、俺朝ちゃんと説明してったじゃん。布団足りないから俺達雑魚寝だよ。ベッドは小鳥が使うから」
「ハァ?! お前のベッドじゃねえのかよ!」
「小鳥が優先だろ。女の子なんだからさ。姉ちゃんもそう言うよ」
お前真月の時はレディファーストだったのになー、とか溜め息を吐かれる。ベクターはそれに上手く反論する気にならず、ぽかんと口を開けて洗いものが丁度終わったらしい小鳥に風呂に入るよう促す遊馬の背中を見ていた。
ベクターの知らない遊馬の姿だった。こと戦い――デュエルや、交渉に関しては遊馬は彼女の意見よりアストラルの口出しより何より、自分の意思を尊重していたからだ。
(……訂正しよう)
ベクターは呻いた。
(こいつ、もう尻に敷かれてるわ)
◇◆◇◆◇
遊馬の部屋から繋がっている屋根裏部屋は相変わらずものがごろごろと散らばっていて、汚い。ここは遊馬の宝物置き場だから、小鳥もあえてあまり手を付けないようにしているのだという。ハンモックの下になんとか二人分の寝るスペースを確保して遊馬がそう教えてくれた。
「わざわざこんな狭いとこで寝る必要ねえだろ」
「うん。リビングでも別に問題はないんだけど。俺は、友達と二人ならここが良かったから」
(……ともだち)
「この部屋さ、俺の秘密基地なんだ。だから俺がいいよって言う時しか小鳥も来ない。小鳥は、よく俺のことを叱るけどその分俺の気持ちもちゃんと尊重してくれてる。この部屋は、言い換えれば俺の心臓みたいなもので、誰にでも見せられるものじゃない」
誰にでも、ね。ベクターは口にこそ出さなかったものの、ふうん、ああ、そう、みたいなあからさまな表情でその言葉を聞き流す。この部屋には小鳥とアストラルは当然のこととして、天城カイトも上がっているし、あのバイロンの三男坊も来たことがある。「お前の特別は随分と手広いんだな」。思ったが、言うのは止めた。
その中に――一体どんな気持ちで、遊馬は自らを裏切り罵り貶めた男を迎え入れているのか。それを思うと、酷く複雑な気持ちになった。
「よく、この部屋の窓際でデッキを組んだ。アストラルが一緒の時もそうでない時も、ここでカードばらしてさ。お前と戦うためのデッキもこの部屋で考えたんだぜ」
「……アストラルと戦う時も、か」
ふと思い当たる節があって、思考を切り替えてそう尋ねる。すると遊馬はほんの少しだけ息を詰まらせるような仕草をして、しかしすぐに唇を開くと、
「……ああ」
小さくそう答えた。
遊馬がアストラルとの別れを引き摺っているというのはこれはもう周知の事実で、遊馬はもしかしたら隠しているつもりなのかもしれないが、実際の所それは彼らに関わった全ての人間が知っていることだった。遊馬は彼と別れた以降の日もまるで何も変わらなかったかのように明るく振る舞っていたけれど、その心の中にぽかんと空白が空いてしまった事実から目を背けようとして背け切れていなくて、後生大事に傷痕を抱えている誰かさんのように、そのぽっかりと空いたホワイト・ホールを抱き込んで丸まっている。
それを知って、敢えてベクターは遊馬の懐に潜り込むことを選択した。それでどうなりたかったのかはベクターにもわからない。その居場所に、そっくりそのままベクターは入り込めるわけじゃないということは最初から知っていた。
「この前、俺をマンションに連れてってくれたじゃん」
「そうだな」
「ありがとう。ひとつ、『ベクター』の事を知れた気がする。お前がどんな気持ちなのか、それは俺には完全にはわからないけど……そうやって見せてくれるのが俺は嬉しいんだ」
お前の、繊細な膿んで腫れた傷痕に、とそう言われたような感覚だった。
遊馬が横たわったまま、隣に同じようにして横たわるベクターへ手を伸ばしてくる。漫然とそれを握り返し、指先を絡め合った。遊馬が躊躇して伸ばすだけに留めたのを自ら掴み取りに行く。
かつてこの手は真月零が振り払い、そうしてもう二度と、真月零の手を取ってくれることはなかった。だから。
「なあ。お前は何て呼ばれたいんだ? 『真月零』? 『ベクター』? それとも他の何か? 何になりたいんだ。何に……」
「……その選択肢だと、どれでもない、と答えざるを得ねえなァ」
斜に構えて謎解きめいた答えを返してやると、「どうして」と尋ねられる。くつくつと喉で笑った。手探りなのだ。遊馬も……ベクターも。
二人ともお互いを知りたいと思っているけれど、思っている以上に、きっと自分のことも、ましてや他人のことなんてわかっちゃいない。
「俺は『俺』になる。『俺』以外の何者でもない。『真月零』は『俺』で、『ベクター』も『俺』だ。あのお前の前で尻尾を振っていた『かわいい真月君』も……上下関係を強いた『真月警部』も……お前を殺そうと叫んだ『ヒトの姿をしたベクター』も……惨めに敗北した『七皇のベクター』も。俺自身そういうふうに思っている。……ただ」
「ただ?」
「『ベクター皇子』だけは、理屈では分かっているとしてもまだ、持て余してる」
あの時マンションで見せたように。「この俺ともあろう者がなァ」、とベクターは自らを皮肉るように薄く笑う。マンションで、語るうちに取り乱して「まるで前世の人格がぶり返したみたいに」なっていた自分をどう捉えていいのかわからないのだった。あのお綺麗な、汚れきって醜い現実をまだ知らなかった理想郷の皇子様。それに身体を乗っ取られる……というようなことは、まさかないだろうとは思うけれど。
「『七皇のベクター』は『狂気の皇子』の延長線だ。あの二つは、同じ意思と悪意と敵愾心を持ち合わせていた。両方とも同じように気が狂っていて、快楽殺人主義者で、ああ、そうだ、人間の悲鳴が好きだったよ。誰かを傷つけることが……たまらなく甘美な悦楽だった。だがあいつは、あのお綺麗な顔をして理想論を語るあいつだけは、上手い具合に受け入れることが出来ないでいる。ゼロから作り上げたはずの嘘のモデルがヒョッコリと現れて俺を揺さぶる。そうだ……お前が、俺に、何度もああ言うから。『真月が本当のお前なんだ』、と」
まさかとは思う。けれどあの柔らかく整って美しい、血の味さえ知らないような指先が遊馬の指先には求められているのではないかと、そんなことを錯覚するのだ。
「どうしてくれるんだよ遊馬くぅん。お前のせいで俺はあいつに首ったけだぜぇ?」
「え。いや、急にそんなこと言われても」
「急じゃねえだろ」
「急だぜ。俺、さっきまでカードの話してたのに。……でも、そっか、そうだよな。悪い。お前を否定したかったわけじゃないんだ」
繋いだ手はほどかぬまま。遊馬はばつの悪そうな顔でもぞもぞと動いている。恐らくは遊馬も無意識に、少しずつこのことに向き合うのを避けていたのだろう。躊躇があった。踏み込んでいいのか、それをはかりかねていて。
たどたどしく唇が開かれて、言葉に合わせるように握り締めた手の力が少し強くなる。
「サルガッソで、お前は『真月』なんていないっていったじゃん」
「言ったな」
「それなのに、遺跡では『もう真月とは呼んでくれないのか』って言ったよな」
「ああ。そうだな」
「それで俺は……最初、サルガッソのすぐ後は真月は本当に死んだのか、ベクターの中では死んじゃってるのかな、って思ってたんだけど……ほんとは、ベクターの中にも真月は生きてるんじゃないかって、思ってたんだ」
九十九遊馬の矛盾と、『真月零』の矛盾。遊馬にとって真月零はよく知った親友で、けれどベクターは、熟知出来ている親友とはまだ言えるような間柄ではない。殺されかけたこと、悪意を向けられたこととは関係なく遊馬はベクターの一つの側面しか知らないから。
その側面の一つが真月でもある、と気がついたのは遺跡でのことだった。ベクターは真月零に当たり前に似ていて、やっぱりベクターと真月零はイコールなのだということを遊馬は改めて知った。
「俺は……『真月零』も『ベクター』も根っこのところではおんなじで変わらないんだって、サルガッソで戦った後ぐらいからずっと悶々と考えててさ。おんなじなんだ。色々な顔があるのって、そんなの人間だもん、普通のことじゃんか。カイトはハルトにだけお兄ちゃんの顔するし、俺には厳しいけど、自分にも厳しいけど……Xには素直だったりしてさ。シャークも。璃緒には滅茶苦茶過保護で、Wには仲が悪いのか良いのかよくわかんねえ噛みつき方してたりもして、ドルベ達なんかの前では強くあろうとしてさ……。
だからベクターのも同じなんだろうって思った。ただ、俺の前では優しいだけでいたりすることを止めただけなのかもって。だけど、それでもその幾つもある顔って一つの人間の色んな横顔だよな。なのにベクターにとって、あの前世の皇子は正確にはそうじゃないんだ。ドン・サウザンドが歪めて変える前のもので……もしかして、ベクターにとっては同じ顔をした別人みたいなものなのかもしれないっていうことをマンションから帰って来てから考えてた。ベクターにとって、あれは、自分じゃないのか?」
「純粋だったベクター皇子」と「悪虐非道を旨とする七皇ベクター」は、あまりにも正反対だ。白と黒のコントラストがそっくりそのままひっくり返って反転したみたいに、真っ白だった分真っ黒になった。今のベクターは、例え昔がどうであったのだとしても、その、真っ黒な自分を受け入れてそこに拠り所を見出している。
遊馬が怖いのはそこだった。「受け入れ難い」とベクターはそう言う。それが「拒絶」の意味だったら。
その遊馬の怯えを感じ取ったのか、ベクターは小さく首を振る。
「いや……どうなんだろう。あれも、俺なんだ。理性はそう自覚している。『私』は母上を敬愛していた。父上も。暴虐無人だったが……本当に幼かった頃、抱き上げてくれたことを忘れられなかったんだ。今『俺』として思えば、あんなもんは単なる気紛れに過ぎなかったんだろうが。
俺の感情があいつを拒絶するのは……嘘っぱちだと信じていた『真月零』に、ぴったり寄り添うような『真実』が存在していたからだ。まるでこれが大元のテンプレートなんですって言わんばかりのドヤ顔でな……。冗談じゃねえ。真月は、あいつは、お前のために、お前の好みに合わせて俺が一から作ったもんだぜ。それが俺の前世? 遊馬君のだぁいすきないい子ちゃんが、ぴったり図ったみてーに俺の前世だって? ――ばかげてる」
「え、ちょ、ベクター?」
「そのうえお前は、『真月が本当のお前なんだ』って……あまつさえ、『俺と一緒にやり直そう、真月』だなんて、言うんだよ。あの時俺は考えた。ああこいつは真月の面影を見つけて安心してんのかなって。そうだ。お前は何度も俺をそう呼んだよな。『真月』。あの遺跡の時は、頑なに『ベクター』としか呼ばなかったのに」
「べくた、痛い、痛ぇ、から、」
「何故だ?」
少しばかり力が強く込められていた、それだけだったベクターの指先が急に爪を食い込ませて肉を抉ろうとするような鋭さで遊馬の皮膚に侵入してくる。鋭い爪。バリアンの身体のそれほどではないけれど、危ないから早く切りなさい、と一般には言われてしまうぐらいに伸びた爪。それがぎちぎちと遊馬の掌を掴み上げ、血を流させようとする。
ベクターの紫色の眼が遊馬の紅を睨め付けた。ベクターは怒っている。急に、きっかけひとつで全てを思い出してしまって、押さえがきかなくなってしまったみたいに、……いや、そうではないのだ。
ベクター自身自分の感情がコントロール出来なくてこうして怒りに似た形で遊馬にぶつけることでどうにかしようとしている。
「お前が欲しいのは、結局、『真月零』なのかって言ってんだよ」
「ち、違う! そんな、勝手な一部分だけ欲しいだなんて、」
「じゃあ、なんだっつうんだ!!」
ただでさえ痛いのに、更に強く、きつく、痛みを伴ってベクターは遊馬の皮膚に爪を突き立てる。とうとう、皮膚が破れる嫌な音がして血が滴り始めた。だがベクターはそれを気に留めていないし――恐らくは、それに気が付いていなかった。
「なんだっていうんだよ……」
「ベクター、」
「わかんねえよ。もう。真月零は確かに九十九遊馬のための嘘だったけど。あいつは……皇子は……お前のための嘘じゃない……真月なんかじゃ、ない、のに、」
――なのにそのためにしつらえてあったみたいな顔をしている。
それを吐き出すと、ベクターはそれきり何も言わなくなって静かに嗚咽を漏らし始めた。
遊馬にとって初めて見るベクターの顔だった。真月は何度か遊馬の前で泣き顔を見せていたけれど、あれは必要だから演出として泣いて見せた顔だろうということは今はもう嫌でも理解していて、むしろベクターという男は誰にも泣き顔など見せまいと生きているようなそういうタイプだったからものすごい衝撃だった。
心はないとまで言われたベクターが返り血の代わりに自分の涙で顔を濡らしてぐしゃぐしゃになって、その顔を拭うために遊馬に食い込んでいた指を引き抜く。爪先は血に塗れている。遊馬の赤色。
しばらく二人して無言だった。屋根裏部屋には静寂だけがあって、その時初めて、もしかしてこの騒動は下の部屋にいる小鳥に全部聞かれてしまっているのじゃないかということに二人ともようやく思い至る。
顔を合わせてそれを確かめ合うと、小さく咳払いしてベクターは今更恥ずかしがるような顔をしてそっぽを向いた。
「別に俺はあの、俺にニコニコしてるだけの『真月零』が欲しいわけじゃないよ。他の奴らだってそうだ。小鳥も、シャークも、アストラルも……もし話を聞いていれば他の七皇も。カイトも……今も過去も未来も、全部ひっくるめて今のベクターがいるんだろ。今を捨てて昔に戻れとか、絶対そういうのよくねえよ。シャークに聞いたらものすごい苦い顔でそう言ってくれそうな気がする」
「いや、遊馬、あいつにその話はしてやるな。泣くぞ」
「え。って、今はそれが言いたいんじゃなくて……」
「……あー、そうだよ。遊馬くんの言う通りです。結局何言ったって、全部俺なんだ。全て。余すことなく……結局俺は俺でしかない……」
「うん」
「……だから、学校に行くのは嫌なんだ、俺は」
「え、何で?」
急にそこに結論が帰着して、思考が追い付かずに遊馬はすごく間抜けな顔になってしまう。この理解力の足りない少年に、だけどベクターは完全に敗北して、あの時伸ばされた手を掴みながら、それでも信じると言った彼の愚かさに根負けしてしまったのだ。
あの手を信じてもいいとそう思った。
今も。そうでなければ、いくら動揺していてもこんなことは話せない。
感情より先に理性が、計算が働く。そういう人格にもうベクターはなってしまった。
「『あそこは真月零の居場所』だから?」
「そう。そして、過去を手に入れてしまった以上、もうあの『ベクター』のままでさえいてはいけないと思うから」
前を向いて歩いている九十九遊馬のそばに居たければ、きっと、盲目な真月零でも、お花畑の住人だった皇子でも、自分勝手で陰惨な性質のベクターでも、そのどれかではいけないのだ。全てを含んで、しかしそのどれでもなくて。いわば今のベクターは事実関係と向き合って緩やかに変態していく途中の蛹だった。
それに遊馬を付き合わせているあたりにベクターの性質というものは確かに伺えるのだけれど。
「変な話だな。俺は変わっていきたいのか。それで赦されるわけでもないのに……」
「ベクターは許されたいのか? 誰にだよ。言っとくけど、俺はお前のこと、そもそも怒ってないから許さないぜ。まあ、でも、シャークとか璃緒とか、ベクターが傷つけた人達には……そりゃ確かに謝んなきゃダメだよな。あいつらがお前を許すかどうかとは別として」
「俺はな、本当のとこ、神様とか信じたことねえんだよ」
「は?」
「だからこんなふうにするのはすごい滑稽だ」
ベクターはナッシュの治める民達を虐殺し、間接的にメラグを死に追いやり、自身がナッシュに敗れてバリアンとなった後その雪辱を晴らすように本能でナッシュとメラグ共々殺害した。その後はアリトとギラグ、ドルベ、蘇ったメラグを更に吸収し、裏切りを重ねて彼らの逆鱗に触れた。果たして彼らがベクターを許すだろうか? いや、仮に、彼らが許すのだと言ったとしてもだ。
今更赦されたいとは思っちゃいない。
「両手を合わせて……大昔に、まだ両親が生きてた頃、しょっちゅうこうしてた。でもやっぱりその時も神はいなかったよ。俺が信仰していたのは結局自分自身だったんだ……」
祈りの仕草を遊馬に見えるようにして、目を瞑った。
「ずっと自分だけ信じてきた。『自分』という正義が唯一俺の全てを許容した。なのにお前は、変な奴だよ。俺に心が出来るまで待つとか、ほんと、笑える」
祈る手に遊馬の手が覆い被さる。母親がもう大丈夫だよと子供をあやすように、言葉に出さないまま人肌でそれを伝えようとする。「ばーか」。拗ねたふうにつっぱねるとそれでも「知ってる」とか言う。
「とんだお人好しだよ」
あの日と同じ言葉を贈ると、どうしてだか「ありがとう」と彼は言った。
◇◆◇◆◇
「売られていく子牛の気分だ」
ミザエルが身体を縮こまらせてぶうたれた。カイトは助手席から後ろを振り向くと、「悪いがもう少し辛抱してくれ」と素っ気なく返答する。
「第一何故お前が前の席に座っているのだ。私が一人で後ろというのは、どうなんだ」
「仕方ないだろう、備え付けの機械を操作するのに運転手のクリスの手を煩わせるわけにはいかん。交通事故に繋がるからな」
「それに私は、何故私だけがこうして連れ出されているのか……まだあまり納得出来てはいない」
「……すまない。それについては、確かに俺の説明不足だ」
だからといって後部座席に移ることは出来ないが。今度はカイトも多少すまなそうな声色になってそう返す。現在ミザエルはカイトの手により神代邸から一人連れ出されて、クリストファーの運転する車でどこぞへと運搬されているその真っ最中だ。そのことを実質的にあの家で全権を握っている凌牙と璃緒は既に承諾していて、ミザエルの全く知らないところで話はまとまっており、詳細どころか概要もよくわかっていない現状にミザエルは些かの不満を覚えている。
厳格な男なのだ。ドルベほど几帳面ではないが、しかしアリトのように大雑把にもなれない。
「勿論説明はする。その上で協力を仰ぎたい。いいか?」
「……お前がきちんと私を納得させることが出来るのならばな」
「わかった。納得出来ないことに関しては、聞き返してくれ。誠意は見せる」
「信用したぞ」
ミザエルが両腕を組んで言うとカイトは一つ息を吐いて彼の前にホログラムディスプレイを出現させた。
「さて、言うまでもないことだが、一応釘を刺しておく。これから俺が話すことに関しては、門外秘だ。当然それはお前達のリーダーである凌牙に対しても。俺は、お前に協力を仰ぐ以上それをお前に隠し立てすることはしないが……誠意にもとるからな……逆に言えば協力者であるお前以外にはこれを知らせたくはない。いいか?」
「……誰にも決して言うなと?」
「弾みでうっかり口外してしまいそうなら聞かなくてもいい。その場合、説明不十分な状態で実験に参加して貰う場合が多々あるだろうが」
「わかった。今後お前に聞いた話は、許可なき場合、お前とお前の師以外がいる場では一切口にしない」
「物わかりが良くて助かる」
カイトのその言葉を合図に、ディスプレイに次々ウィンドウが開いてずらりと情報が列挙されていく。ウィンドウに示された内容の幾らかはミザエルには難しすぎて解読が出来なかったが、しかしそれに添えられている写真でその大まかな意味は察せられた。
「これは……」
ミザエルの眉がぴくりと動き、顔付きが厳しくなる。疑わしそうですらあった。
「見ての通りだ」
「しかし、いくらなんでもこれは」
「思い至る節はあるだろう。そもそもにおいて、単独でカオス・エクシーズ・チェンジ出来る存在が、ありふれた人間であるはずがない。凌牙がシャークドレイクをカオス・エクシーズ・チェンジ出来たのは、奴がバリアン七皇という存在だったからだ。では何故希望皇ホープはあれだけ多彩な変則ランクアップを行い、果ては数種にわたるカオス・エクシーズ・チェンジを成し得た? 俺達はこれまで、それはアストラルが補佐をしていたからだろうと無意識の内に思い込んで納得していた。だが、そうじゃない」
「まさか」
「ああ。――九十九遊馬は、厳密には人間ではない。遊馬の種別は確かに人間だ。健康診断や町医者にかかった際の遊馬のカルテを総合して見ても、どこにも人間としての異常は見受けられない。だがそれは『人間になった』というお前達も同じ事だろう? バリアン七皇は確かに人間になったのだろう。だが、その特異な能力を完全に失ったわけではないということは把握している。その一端として……例えば、ナンバーズ耐性を失っていないこと、など」
カイトの声音は真実を告げる一方で鎌を掛けてきているようだった。ディスプレイに映る遊馬の証明写真を見ながらミザエルは短く唸る。アストラルのヌメロン・コード発動による書き換えで人間となった七皇達は、集まった時にまず自分達にどれだけの力が残されているのかを確認した。その結論として――彼らは自分達が完全なただの人間になれたわけではない、ということを自覚した。
バリアルフォーゼはもう出来ない。あれこそが、人の姿が仮初めである証明のようなものだったからだ。肉体が人間レベルに還元された今の彼らは睡眠を必要とし、食事による栄養を必要とする。
だが言い換えてみればそれだけだ。
アストラルがどんな意図でそうしたのかはわからないが、七皇達のデッキにはランクアップマジックと、ナンバーズ表記が抜けたそれぞれのエースモンスター達がこともあろうかカオスエクシーズモンスターと共に残されていた。カオスエクシーズは、この世界の通常のデュエルには存在しない概念なのだという。凌牙が酷く困惑した顔でそう言っていたから、それは間違いないはずだ。
だから普通の人間は、バリアンズ・フォースなどを与えられない限りランクアップもカオスエクシーズも扱えないし、その際正気を保つのも難しい。アークライトの兄弟達は正気を保ちながら独自開発のランクアップマジックを使っていたがあれは例外中の例外だ。彼らはベクターが与えた異世界の力を人間用に改良したのみに留まらず、それを扱うプレイヤーの意思の力がずば抜けて高かった。
そこから疑問を解消するため実験的に七皇達が自分達の能力を試したところ、やはり、幾つかの「特異能力」は消滅したわけではないのだということが明らかになっている。
「……わかった。この話を聞いた以上、私も隠し事は出来ない。隠し通せるとも思わないし……我々にはバリアン七皇としての能力の幾らかがこの身体になってなお残されている。お前が言った通りナンバーズ耐性……カオスエクシーズやランクアップに対する耐性はまったくそのままだ。そして、飛行能力など幾つかの『アストラル界人に共通すると思われる能力』が制限的に使用出来る。人間で言うところの超能力ともうそんなに変わらないのだが。これは、凌牙と璃緒の意向で極秘事項とされ、また使用も厳禁されている。これでいいか?」
「参考になった。俺達がお前から聞き出したことも、凌牙には隠しておくよ。もしばれても責任は俺が負う」
「助かる」
ディスプレイの表示が切り替わる。複雑な文字群が消え去って、今度は遊馬の顔が大写しになった。動画のようだ。「これは街の監視カメラが捉えた映像なのだが」という捕捉が入り、再生が始まる。
どうやら遊馬はデュエルをしているようだった。相手はアストラル。ナンバーズを全て明け渡して開始されたデュエルらしく、非常にえげつないことに五体のホープがアストラルの側に並んでいた。ミザエルも流石にその様子に顔を顰めたが、アストラルが五体のホープを操ること自体は特に不思議ではない。何せアストラルというのは、そもそもがアストラル界側の「秘密兵器」のようなものであり、バリアン世界を滅ぼすために遣わされた使者だからだ。どんな力を持っていたとしても何らおかしくはないのである。
しかし問題はその、もう何ターンか進んだ後のことだった。
「おい、カイト。これは……一体どういうことなんだ?」
「繰り返すが、見ての通りだ。CG合成だとかそんなバカなことはやっていない。これが現実で、事実で、過去に起きたことなんだ」
「しかし……! 人間が、自力でシャイニングドロー、アストラル界の力を使うなどあり得ないことだぞ。今まではアストラルとオーバーレイしたゼアルの姿だったから……いや、そもそも、アストラル界の使者である純粋なアストラル人と、人間が何故オーバーレイ出来る? 確か、奴ら……アストラル界の言い分では、アストラル世界人は人間が死後ランクアップした姿だ、と……」
「そうだ。つまり、アストラルは俺達人間とは定義上その魂のランクが違うことになる。もし仕組みが異ならないのであれば、遊馬の魂はアストラルと同ランクでなければおかしい……お前が言いたいのはこれだろう、ミザエル」
「そうだ」
「その仮説は正しい」
動画の再生が終わり、カイトは厳しい声色でミザエルに問うた。「覚悟はいいか」。これから言うことを、受け止める覚悟は出来ているかと。
ミザエルは黙って頷く。覚悟も何も、ここに至るまでの材料で薄々感づいてはいるし、気が付くようにカイトは誘導してきている。確信犯だ。はじめからこの男はミザエルにそれを悟らせるつもりだった。恐らくはミザエルを試したのだろう。
いい度胸だ。しかしそれでこそ、ミザエルが好敵手と認め友でありたいと願った男。
「言え。覚悟などとうの昔に全て出来ている」
「そうか」
では、という確認の後一拍置いてカイトが息を吸う。ディスプレイにはやはり遊馬の顔が大写しになったままだった。あの何度でも立ち上がってきた不屈の紅をゲイザーの下の瞳に宿し、映像の中の遊馬は真っ直ぐに、今は画面に映っていないアストラルの方を向いている。
「遥か数千年昔のドン・サウザンドとの戦いの折、アストラルは百枚のナンバーズのうち五十枚を失ってしまった。それは、アストラルという存在の半分と同等のものだ。やがて失われた五十枚のナンバーズは一組の夫婦を選び、その夫婦の間に人間の子供として生まれ落ちた。――それこそが、遊馬なのだ。九十九遊馬はアストラルの片割れだ。俺はそれを、アストラル自身から聞いている」
カイトが言った。
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