05



「あれ、ばーちゃん、これ」
「ああ、それねえ。あの子がね、お洗濯してたからアイロンを掛けてあげたのよ」
「あいつが持ってきたの?」
「そりゃあ、そうでしょう。ご両親と一緒で療養するようになる前は、遊馬と二人で学校に行ってたじゃないか」
 壁に掛かっているぴっと糊のきいた制服を指差して尋ねると春ばあちゃんはのほほんとそう答えた。赤い袖口とネクタイの、ハートランド学園一年生の制服だ。だけど俺のやつじゃない。それは殆ど新品同様に綺麗だったからだ。
 まだあいつが真月零でしかないと俺が信じていた頃、真月はうちに何度か来ていたことがあって、その時のまま姉ちゃんとばあちゃんはあいつのことを「真月零」と認識してそう呼んでいる。ベクターもそれを特に気にしてる様子はなくて、あんまりぶりっこはしないけど、でもすごくぶっきらぼうにも二人の前では振る舞わない。
 それにしてもご両親と一緒だった頃とか、療養とか。真月零の身の上に関する「設定」は、俺が思ってたより随分深刻なことになっていたらしい。
 父ちゃんと母ちゃんから一筆預かってきたらしい手紙を俺は読んでいない。別に見る必要はないかなって思ったし、なんとなく覗き見するみたいで乗り気になれなかったからだ。だけどこれから学校に行くというのなら、知っていた方がいいのかもしれない。
「おや。ほれ遊馬、そんなことを言っている間に、真月君が来ましたよ」
「あ……アイロンまで、わざわざありがとうございます」
「大したことじゃないよ。それで学校には、いつ頃から行くつもりなんだい?」
「ええ。そうですね、やることが一つ片付いたら、そうするつもりです」
「や、やることって。お前、何企んでるんだよ」
「人聞きの悪いことを言わないでくれますか。事務手続きもありますし、僕なりに色々考えがあるんです」
 ばあちゃんから制服を受け取って、ベクターが俺に目配せをする。「付いて来い、場所を変えて話をしよう」っていうサインだ。昔は、このサインの後は大抵二人でトイレの個室に籠もることになった。
 バリアンズガーディアンという組織(があることになっていた)以上人に聞かれそうな場所では迂闊に話が出来なかったから。
「……わかった。ばあちゃん、晩飯今日何時?」
「もうあと一時間もしたら出来るわよ」
「ありがとう!」
 ベクターの腕を掴み取り、階段を駆け上った。ベクターは「もう、遊馬くん、痛いですよ!」とか文句をつける。真月零の声、だけど、嫌ではなさそうだ。
 真月零とかつての争いごとが嫌いな皇子様。ベクターは少しずつそれに折り合いを付けてきている。試しに「なぁ真月」と呼んだ。そうすると、今度はぶっきらぼうに「なんだよ」と返された。

「制服持ってたんだ」
「当たり前だろ。俺は単細胞のアリトとか間抜けのギラグと違って正規の手続き踏んで学園に編入してたんだよ」
「そういや、アリトとギラグも制服着てたよな。ギラグのとか完全に特注品っぽいけどどうやって手に入れたんだろう……」
「バリアンの力でちゃっちゃと作ったんだろ。アリトはかっぱらったのかもしれねえが。俺のは正真正銘学園の指定制服、それも新品をちゃんと用意したんだ。だからバリアンの力がなくなったからって消えたりしねえし、誰かに返さないといけないわけでもない」
「……お前って結構マメだよな」
「今更気付いちゃったんですかぁ?」
 部屋に戻ってきて、ベクターは俺の制服の隣に真月零の制服を掛けた。並んでいるところを見ると、同じ作りの制服なのに、やっぱり全然違うって思う。俺の方がより使ってるから汚いのは当然なんだけど、なんというか真月の制服はあの真月警部みたいにピッとしている感じがする。
「服にも性格って出るのかな」
 なんとはなしに呟くとベクターがぷっと笑った。
「なんだよ。笑うことはないだろ」
「いや、だってよ、あんまりにお花畑みてーなこと言うからよぉ」
「なんか、お前ってさ、すごい真面目だよな。決めたことにはちゃんと取り組むっていうか……しっかりしてる。準備とかきっちりしてるし」
「……それは何のことを指しているんですかね遊馬くん……」
「色々、全部。真月零っていう存在は元より、警部なんかはベクターからしたら完璧に演技だったんだろうけど、そこにもお前の几帳面さは出てたんだなって。ベクターって、夏休みの行動スケジュールとか初日に全部たてて実行してくタイプだろ」
「俺には夏休みなんて平和ボケした行事はあった試しがねーよ」
「……あ」
「ま、皇子様として王宮に一分一秒刻みで管理された生活してたからな。その頃の名残だろ。たぶん」
 並んで掛けられた制服を眺める俺達もベッドのふちに並んで腰掛けている。同じ部屋で兄弟と暮らしたらこんな感じなんだろうか? 俺には、物心付いてから明里姉ちゃんと同じ部屋で過ごした期間はさほどないから少し新鮮だ。
 俺達は今こうして、二人で同じ部屋に暮らしているけれど(俺の方には、勿論それに対する不満はない)、それはいつまで続くことなんだろう。それを、ここにきて初めて思った。真月零と対面してベクターが踏ん切りを付けるまで? それか、俺達がもう少し大きくなるまで。或いは大人になるまで。それとも、もっと遠い未来まで……
「俺がお前の父親から預かった手紙の内容、気になってんだろ」
「え……あ、うん。ちょっと。嫌なら、別にいいんだけど……」
「俺も別に隠してたわけじゃねえよ。ただ言う機会がこれまで特別なかったから。あれは、一枚目が俺の説明を春婆さんとお前の姉貴に向けたもので、二枚目は二人用に書かれてはいたが明らかに俺に向けられた文面だった。まず一枚目には、俺が先日両親を事故で喪い天涯孤独になったため、親友である遊馬のそばで心傷の療養をさせたく預かることを了承したいという旨のことが書いてあった。で、二枚目が」
「うんうん」
「『もし彼が望むのであれば私達夫婦の養子として迎え入れる用意もある』と」
「……え?」
 そこで固まってしまった。
 ベクターの目は嘲笑でも嘘でもなく真実だけを映していて、俺も確かに父ちゃんと母ちゃんならそんなことを言い出しても別におかしくないよなとは思う。ただ突拍子がなかった。さっきこんなふうなのかなぁと思ったばかりで、それに覆い被さるように、そんなまさか。
 ベクターがもしも父ちゃん達の養子になったら。そうしたら俺達は名実共に兄弟になって、同じ家で暮らし、もっと大人になって、その先まで、途中で住む場所とか色々移りはするだろうけどでも変わることのない家族ということになる。シャークとか絶対とんでもない顔をするだろう。俺とベクターは多分同い年ということになるから、それはものすごく不思議な感じだ。
 だけど家族、兄弟になるってことは、今までの俺達の関係じゃいられなくなるってことなんじゃないだろうか? 俺は真月零と友達だったから、ベクターともまた友達になれると思ってた。
 家族と友達って、両立出来るんだろうか?
「何言ってやがるって話だよなぁ? お前の両親俺のこと舐めてんのか? ……って思ったんだが、舐めてるんならそれこそ俺だけじゃなくて、全部、だな。アストラルでさえあの曰わくありすぎな親父殿の手のひらの上だったわけだから」
「べ、ベクター、俺の兄弟になんの? え? どうしよう……おれお前の誕生日知らねえから兄貴なのか弟なのかわかんねえよ。真月なら、弟っぽかったけど……今はどうなんだろう……」
「落ち着け早とちりするな。俺はお前の兄弟にはならない」
「そ、そうなのか……」
「そんなあからさまに落ち込むな。俺が悪いみたいだろ。……九十九夫妻にはちょっと悪いがな、あの二人は俺の両親じゃねえし……なれねえんだよ。俺にとっての父も母もただ一人しかいないんだ。父上も母上も、彼らが良き親であったのかどうかに関わらず俺の唯一無二だ。俺の両親は死んだ。一人は病で。もう一人は、俺を庇い……だが俺にとってはそれでも二人とも俺が手に掛けたのと同じこと……」
 真摯な声で、俺の隣に座るそいつは壁の制服の方をずっと眺めている。その向こうに、スクリーンに映し出されているかのように昔のことを見ているのだろうか?
 ベクターの両親の死に際。ドン・サウザンドが見せたそれを俺も覚えている。
 俺でさえうまく忘れられる気がしないのだ。当人のベクターにとってはもっと強い記憶のはずだ。
「父上と母上を忘れて次の親を受け入れるなんざ、不可能なんだ」
 ベクターの言葉はとても静かだったけれど同時に恐ろしいくらいに力強かった。
 両親を殺害したこと。ベクターの中で、それはきっと一番大きなわだかまりとして今までずっとくすぶってきたことなんだろう。それがきっかけとなってベクターの中の狂気が芽吹き、ああいうふうに育ち、今に至るほどに。ベクターはずっと自分が両親の心臓を刺し殺したと思っていて、それからもっとたくさんの人を殺してもはやり、一番最初の殺人(と信じていたものを)最も重い罪として自覚し続けた。
「お前に言っておくことがいくつかある」
「何? 聞くぜ」
 「遊馬」、と名を呼ばれて考え事から現実に意識が返ってくる。ベクターは隣から立ち上がって俺の正面に立つと改まったふうに息を吸って腕を組む。
「真月零の戸籍は消さない」
「……! じゃあ」
「学校には真月零として通う。第一、お前や小鳥達以外は俺のことを真月でしかないと思ってんだから、今更それを訂正する方がめんどくせえんだよ。もう人間の記憶一つ改竄する力も残されてねえし」
 言われてみれば確かにそれはそうだ。ベクターが『あそこは真月零の居場所だから』と言った通り真月のことは四十人ぐらいいるクラスメートの全員が知っているし、今更別人ですと言い張るには真月とベクターの間には差がなさすぎる(いや、同じ人間なんだから仕方ないんだけど)。訂正しようと思ったらとんでもない労力を伴うだろう。それこそ生き別れの双子の兄弟ですとでも言われない限り。
 けれどその、真月零として通うという言葉が「以前の真月を演じる」という意味じゃないことはベクターの雰囲気から俺にも理解出来た。
「『真月零』って名前はな、憎たらしいが同時にちょっと、気に入ってるもんでもあるんだよな。『ベクター』っつうのは、父上と母上が俺に与えてドン・サウザンドが肯定した名だ。そして『真月零』は俺が俺自身に与え九十九遊馬が肯定した名。色々考えたが、簡単に棄てちまうにはちょっとばかり勿体ない」
「そうだな。俺も、真月零って名前好きだぜ」
「どーも。悪かったなァ、『九十九零』にはならなくて」
「それもちょっと見てみたかった気はするけど……」
「やめとけやめとけ。お前は兄貴なんて柄じゃねえよ」
 おもむろにベクターが手を差し出してきて、なんとなく掴み取るとぐいと引っ張られる。腕を引かれるようにしてベッドから立ち上がり、ベクターの真っ正面に立つ。俺の方が五センチくらい身長が低い。いつか追い抜けたらいいなって思うのと同時に、そのいつかが訪れるまで俺はベクターと一緒にいられるのかって思ったらなんだか嬉しくなってきて、照れくさい。
「何笑ってんだよ」
「え……へへ。生きてるっていいなって思って」
「そうだな」
 ベクターは訝しげに尋ねてきたけれど笑ったり馬鹿にしたりはしなかった。
「アストラルに会いたいか」
 そして唐突に、ものすごい至近距離で俺に尋ねた。予想していなかった言葉に俺はびっくりして間抜けな顔をしてしまう。「アストラル」とちいさく反芻すると「そう。アストラルに」と繰り返し肯定された。
 どうしてそんなことを聞くんだろう。アストラルに会いたいか、会いたくないか。そんな質問、答えは分かり切ってるのに。
「……会いたいよ。そりゃ。だけどもう無理なんだ。アストラルはこの世界にいないから……」
「……そうだな。あいつはもう、この世界には二度と現れないだろう」
「うん。だから……いいんだ。仕方ないんだ……もう二度と会えなくっても……例え死んでも、会えなくても」
「ああ……そう、わかったよ」
 俯いて答えると頭をぐいっと両手で掴まれて、無理矢理上向きにさせられる。そのままじろじろ観察された。何かされたりしないかって身構えたけど、特に何もされず見られただけで解放される。
 そのままぷいと後ろを向いてそそくさと部屋の外へ向かおうとする。これからこの部屋を出てどこへ行くんだろう? 夕飯を食べに下に行くのかな、と思うより先にその疑問が出たのは、ベクターの後ろ姿が真月がいなくなる直前とか、アストラルが消える直前の後ろ姿にどことなく似ていたからだと思う。
「――学校、いつから行くんだよ!」
 だからどうしても引き止めなきゃと思って大きく声を張り上げた。
「やることが一つ終わったらって、いつなんだよ」
「そりゃいつかだよ。何でんなこと聞くんだ」
「やることって、何なんだ」
「さあな? まあ安心しろ。害のあることはしねえよ。とりあえず……俺は一つ、踏ん切りを付けたから。遊馬、お前もいい加減目ェ逸らしてねえで踏ん切りつけちまえ。しおしおしてるゆーまクンなんて、からかったってなぁんも面白くねえからなぁ?」
「なっ……?!」
「ま、その時になりゃわかるさ。いずれな……そんなことよりもう晩飯出来ただろ。ほら、行くぞ」
 手招きをされて、慌てて駆け寄る。ほんの短い距離だけど、ベクターは俺が来るまでちゃんと待っていてくれた。まるで俺に「お前を置いて遠くへは行かない」って口で伝える代わりにそうしたみたいだった。



◇◆◇◆◇



「凌牙ー! 客だぜ、客! 璃緒でもいいけど」
「あ? 誰だよ。俺に客なんざ……あー……」
「……よ、よう。来ました。…………なんかすまん……」
「い、いや……悪い……俺も結局ちゃんと連絡取れなくて……」
「……なんでそんな二人してお通夜みてーな顔してんの?」
 客人の姿を見るなり凌牙がはっきりしない声でもぞもぞと口ごもり、客人の方も似たような感じになってしまったのを見て、彼を通したアリトが心底分からないというふうに首を傾げた。
 神代邸を訪れたのはアークライトの次男坊だった。神代兄妹と最も因縁が深く、また同時に、凌牙にとってはああいうふうな殴り合いの解決を見て以来全く顔も合わせず話もしていなかったのでなんとなく後ろめたさの残る相手でもある。
 オフだからということなのか、あのやたらと派手で目立ついつもの衣装ではなく小綺麗で高級そうな衣服に身を包んでいる。左手には何か大きな箱を抱えて右手に巨大な花束を携えていた。その様はまるで時代遅れの求婚をしに来た男のようだ。
「あ……これ、手土産。人数多いって聞いたから……」
「人数が多いからってこんなに巨大な花束抱えて来る方初めて見ましたわ。まあ、この家には少し彩りが足りないと思っていたところだったからばらして家中に飾ったら丁度いいかしらね。花瓶が足りるか分からないけれど……」
「しまった、花瓶のことまで想像してなかった」
「でしょうね。いらっしゃい。あまり大したもてなしは出来ないけれど、どうぞ上がってちょうだい」
「り、璃緒、か。邪魔する」
 上手く対応出来ていない凌牙の後ろから璃緒が出てきて、トーマスから花束を受け取る。そうして彼女は「花瓶は、後で送ってくれればいいわ」とさらりと言いのけて応接室へ一行を誘導した。


「ごめんなさいね。応接室はこれでも整っている方なのですけれど。何分、長い間ほったらかしにされていたものですから装飾品はろくなものがなくて。必要最低限しか揃えてないの」
 凌牙の隣、トーマスの正面にあたる場所に腰を落ち着けた璃緒は両腕いっぱいの花束を抱えたままそんなふうに話を切り出した。花束が大きすぎて、どこへ置いたらいいものか難儀しているらしい。
「うちに寝ているもので良ければ送るが」
「ありがとう。でも、ここにずっと長く住むかどうかはまだ考えあぐねているところだから。今は、いいわ。……ねえトーマス、これ、置いてもいい?」
「構わない」
「よかった。やっぱりずっと持ってるにはこれは少し重たいわ」
 そう言ってほっとしたように璃緒が花束を置くと、今までそわそわと隣を見ていた凌牙がやっと安心したみたいに大きく息を吐いて、それがすごく不自然だ。
 トーマスは何だかガチガチに緊張していて、凌牙も険しい顔をして手を組んでいる。璃緒は一息吐くと、相変わらず固まっている男性陣に代わって話を切り出した。
「それで今日は何の用で?」
「改めて謝罪に来た。それから、いくつか話を。時間は?」
「問題ないわ。それに謝罪とかそういうの別にいいから。……用事は、明日からアリト達も学校へ行くからその準備をしないといけないけれど、それぐらいかしら……」
「ああ、そういや学校な。ミハエルも明日から高等部一年に転入するんだ。俺は行かねえけど、見かけたら宜しく頼む」
「ミハエルが? 彼、マネージャーの仕事をしていたでしょう。この前控え室で会った時そんな感じじゃなかった」
「遊馬と同じ学校へ行きたいって言うんだから、俺としてはそれを咎めることはしねえよ。付きっきりであいつが付いてなきゃ仕事が出来ないわけでもないし」
「それもそうかもしれないわね。そうしたら、明日は転校生がいっぱいで学園側は忙しいでしょうね……」
「ああ、そりゃカイトの奴にも言われた。示し合わせたように日取りを揃えてくるんじゃない、五人の編入手続きをいっぺんにとる身にもなれと。俺に言われても知らねえよ」
 両手を広げて肩を竦め言う。文句を付けながらもきっちりと仕事をこなすカイトの姿が容易に想像出来て、凌牙は申しわけなさそうに目を細めた。
 応接室の戸が開いて、ドルベが紅茶を人数分盆に載せてやってくる。ドルベが「ナッシュの」親友であることを知るトーマスは少しだけ身構えたが、ドルベの方には特に何の悪意も敵意もないらしいことを悟りほうと息を吐いた。その様子に璃緒がくすくす笑う。
「なんだよ……」
「別に。ただあなたが喧嘩別れした相手の本拠地に乗り込んだような顔をしているから」
「いや、璃緒、喧嘩別れしたみたいというか殆ど喧嘩別れしてるんだ……その……こいつは俺が殺したから……」
「でも今は生きてるわ」
 そうでしょ。違うの。問われて凌牙は口を閉ざすほかなかった。確かに、あの時トーマスと凌牙の間には勝負を通して分かり合えたような合意があり、実のところ遺恨はあまり残っていない。
 ただトーマスはそのことをとても気に病んでいるし、凌牙も少し腫れ物に触るような態度になってしまっている。
 璃緒としてはそんな二人を見せられてもあまり面白いものではない。
「はぁ……まぁ、言ってもすぐに直るものでもないわね。仕方ないから先に大事な話のほうをしてちょうだい。あるんでしょう、ミザエルを連れて行った成果が」
「……何でわかった?」
「あなたが一人で来たからよ。ミザエルを引き取っている以上、カイトは来ないとしてもあなたのお兄さんは可能なら同伴しようとするはずよ。荷物、重そうだったし。そうしないってことは、そう出来なかったんだろうと思って。大きな発見をしてしまったから手が忙しいとかで……」
「なるほど、概ね正解だ。確かに兄貴は俺についてこようとした……だが凌牙に会うのは俺の問題だから、兄貴は研究を続けていろと言って置いてきた。さて……それで兄貴とカイトからの言伝だが……」
 席を外そうとしたドルベをどうせ皆知ることになるからと引き止めると、凌牙が少し唸って内線でアリトとギラグを呼び出した。しばらくして応接室に屋敷中の人間が集まり、手はずは整ったとばかりにトーマスを注視する。
 トーマス・アークライトと一対一で向き合う凌牙は悩みを抱える年相応の少年の顔をしていたが、こうして仲間達の中心に居るとやはり彼は、彼らを従える長なのだとトーマスにそう思わせた。当主として率いている、そういう風格を持っている。
 だがそれに気圧されるトーマスではない。トーマスは一度だけ深呼吸をすると、兄から預かったメッセージを簡潔に口にした。
「さて……よく聞いてくれ。――実験は成功だ。アストラル世界への扉は、開かれた」


◇◆◇◆◇



 時間は、トーマスが神代邸を訪れる前日に遡る。
 ドクター・フェイカーが所有するラボの第一実験室で行われていた大がかりな実験もいよいよ大詰めとなったところで、天城カイトは自らの読みの甘さに舌打ちをした。やはり、アークライトの兄弟がハートランド・シティを訪れるまでの短時間で理論を完成させたのが失敗だったのだろうか? しかし、あの内容で不備はないはずだ。カイトから見ても、そしてクリスやフェイカーから見てもあの理論で問題なく、方程式は全て揃っている。
 アストラル界へと繋がる回路を開き、それを安定させる。その媒介に選ばれたのがバリアン七皇が一人たるミザエルで、彼は負担を一手に引き受けるその役割を承諾した。とはいえこのまま彼一人に負荷を掛け続ければミザエルの身体にどんな副作用が起こるかわからない。ましてやここで出力を上げたりしてしまえば、一体何が彼の身に起こるのかまったく正確な値が演算出来ない――。
 実験を一度中止し、後日時間を改めるべきか? カイトの脳内で激しく議論が交わされる。しかし今となっては、もういつこの技術が必要になるかわからない。オービタルが観測し続けているデータでは、アストラル界に生じた歪みはいよいよ人間界に影響を及ぼし始める一歩手前だという。
 ここで引いて人間界に危険が及ぶのを甘受するか、ミザエルの犠牲を覚悟するか。どちらを選ぶにしても決断の時間が足りなさすぎる。
「私のことはいい! カイト、実験を続行しろ!!」
「しかしミザエル! 最悪の場合お前が死に至る。お前はそれを分かっているのか?!」
「当然だろう。私は誇り高き七皇の一人。私が私であることに、プライドを持っている。あまり舐めてくれるな」
「いいや、しかし、私としてもこれ以上の実験の継続はそうおいそれとは看過出来かねる。今だって君はもう限界に近いのだから……」
「しかし、クリストファー、」
「敢えて非情に言うとね。君が死んでは元も子もないんだよ。媒介が不足どころかゼロになる」
「ではどうすればいい!」

「――あーあ、ざまぁねえなァ」

 三人の主張がぶつかって口論になりかけ、どうするべきなのか指針を見失い始めた正にその時、予期せぬ来客を意味する声が響いてその部屋にいた全ての人間が声のした方に一斉に視線をやった。
 締め切られていたはずの扉を悠然と潜り抜け、片手を腰に当てもう片方を翻し、不遜な態度で少年が立っている。カイトとミザエルにとっては最早お馴染みとなった人物の姿だ。
 自然とカイトの面持ちが厳しくなる。
「ベクター。貴様、どうやってセキュリティを」
「まあいろいろとな。バイロンが話の通じ易い男で助かったよ」
「ハァ?! 父さんがてめえを通したのか?!」
「落ち着けよファザコン野郎。俺はお前らが使う『紋章科学』とやらの元になった力を提供してやってんだ。おまえの父親は俺に借りがあるってことをよく理解してた。それだけだ」
「なっ……!」
 制御を手伝っていたトーマスの噛みつきをいなしてベクターはカイトの方へずかずか進んでいく。その途中で、ミザエルの方をチラリと見遣ると一つ溜め息を吐いた。奇妙なのは、それがどうにも彼を小馬鹿にしているだとか、そういう嫌みな態度に見えないところだった。
 ――むしろ、ミザエルがまだ無事だったことに安堵しているかのような。
「天城カイト。お前にしちゃ、今回のは随分詰めが甘いな。何故協力者をミザエルまでに絞った? 凌牙とは知らぬ仲でもないだろうに」
「こちらにも事情がある」
「はぁん、なるほどね。やっぱ、凌牙には結果が出るまで教えたくねえってワケか。そうなると凌牙にすぐバラしそうな璃緒とドルベ、口が軽くてうっかりこぼしちまいそうなアリトとギラグはおいそれと使えねえよなぁ。理由を付けて一人借り出すのもそもそも繋がりのあるミザエル以上はきつかった。そうだろ?」
「ほう。何故そう思う。凌牙には伝えたくないというその理由は?」
「あいつは遊馬を裏切れるからだよ」
「……なるほど」
 僅かに感嘆を漏らし、カイトは頷いた。全くその通りだ。とはいえあれだけの悪計を巡らせていた男なのだからこの程度頭が回ってむしろ当然なのかもしれない。
 面白い、受けて立ってみようではないか。ベクターの挑発ともとれる行動にカイトは次の言葉を選び出した。
「では貴様はどうだと言うんだベクター。裏切りは貴様が最も得意とする悪徳だっただろう。その口先で貴様こそ、何度遊馬を裏切った。忘れたとは言わせん」
「いつまでも本人が気にしてねえことぐだぐだ言ってるんじゃねえよ。……まあ、俺に信用がないっつうのは当然織り込み済みだ。だから俺は単刀直入に要求を述べる。おまえにとっちゃ、悪くない話だと思うぜ?」
「……言ってみろ」
「ここに俺のオーバーハンドレッドナンバーズがある。俺も媒介に使っていい。二人いれば安定するはずだ」
「何?」
「実験の概要は理解している。時間がねえんだろ。どうする」
 想定外の申し出にその場の全員が言葉を失った。
 この際何故ベクターが実験内容を知っているのか、それはさておいて(もしもバイロン・アークライトが、トロンが情報を横流ししていたのだとしたらそれはセキュリティ云々の問題ではなくなる)、ベクターの態度が非常に協力的であることがまず一同を驚かせた。裏があるのではないかと勘繰ってはみたが、カイトの思考ではベクター側のメリットを見い出せない。どの道ここで介入せずとも実験は不完全のまま失敗していたろうから、引っ掻き回す意味もない。
 それでもまだ完全に信用は出来ないし、諸手を上げて協力を頼む踏ん切りも付かなかった。カイトは慎重に次の問いを投げる。
「……この実験のアウトラインを説明出来るか」
「オーバーハンドレッドナンバーズとその所持者を用い、ヌメロン・ドラゴンから割り出した方程式でアストラル界へ大人数を転送可能なゲートを特定位置――この場合は一般人では辿り着けないような場所に――固定するのが今回の目的だ。尚媒介となる七皇についてだが、一人じゃ足りねえが限界は三人で七人全員を使った日にはとんでもないことになりかねない。俺とミザエルで二人がまぁ安全圏だろうな」
「言い切る根拠は」
「オーバーハンドレッドナンバーズに封じられている原初のレコード……あれを遊馬に戻しすぎるのは危険だ。遊馬が人格崩壊する可能性が高いし、それ以前にせっかくアストラルが書き換えたハッピーエンドが無駄になる」
「……その通りだ。よく調べ上げたものだな」
「当然。俺ってば遊馬くんのことが大好きだし?」
 ベクターの口ぶりはどこか自慢気である。カイトはやれやれと首を振った。遊馬のそばを極力離れないように行動しながらここまで情報を握り込んでいたとは恐れ入る。
 ベクターの言った通り、オーバーハンドレッドナンバーズの媒介に使われた記憶は、九十九遊馬の――正確には、九十九遊馬としてこの世に定着する以前の彼の魂に纏わる記憶だろうというのがカイトの確信するところだった。根拠は遊馬がアストラルとのデュエルで創造してみせた「フューチャーナンバーズゼロ 未来皇ホープ」。ナンバーズにゼロ番などというものは本来存在しないはずなのだ。それが意味するのは遊馬そのものの異常性。
 オーバーハンドレッドナンバーズを解き放てば、その特殊能力やそれに纏わる記憶が本来の持ち主である遊馬の元へ返るだろうことは想像に難くない。
 そしてそれが行き過ぎればアストラルの望んだ遊馬の幸福に背くであろうこともまた、容易く思い当たるところだった。
「で、どうすんだよ。ミザちゃんがどーしてもイヤだっつうんなら俺は帰ってもいいけど?」
「ぐっ……私はこの件に関しては判断を全てカイトに委ねてある。カイトの指示に従う」
「だってよ。随分信頼されてるんだなぁ? 羨ましい限りだぜ?」
「当然だ。貴様と違って俺はそうおいそれと人を裏切ることはしないからな」
「知ってる。だからアストラルはお前を選んだんだろうさ……」
「……まさか。貴様、どこまで知って」
「後にしろ。今大事なのは、俺が遊馬を裏切らないってことだけだ。もう二度と。時間がないんだろ。俺はもう、準備は出来てるぜ。いつでもいい。ミザエルも、あと三分は保つ。――さあ、どうする?」
 ベクターが手を差し出してくる。かつて悪魔の囁きと共にバイロン・アークライトをそそのかし九十九遊馬を引き摺り落としたその手は、けれど今は、九十九遊馬がそれでも離すまいとした手でもあった。遊馬が這いつくばってでも握りしめてもう二度と置いて行かないとこの手を掴んで言ったのだという。
 人間の子供の、綺麗な手のひらだ。その指先は人を信じることを知っている。今ならカイトにはそう思えた。何故ならその色がとてもよく、遊馬のものに似ていたからだ。
 差し出された手を握り返した。ベクターはそれを確かめにやりと笑むと、「じゃ、一応ラボに入る前の検査は受けてるから」と言って位置に付く。ミザエルが威嚇する猫のような顔をしたが構うふうでもない。これはきっと、一段落した後、ミザエルの精一杯の抵抗というか、逆襲に遭うだろう。根拠はないがそんな予感がした。


 最終的に実験は成功した。ハートランド・シティの遙か上空に異世界へのゲートが現れ座標が固定されるのは、その数日後の午後のことになる。