01:緋い悪魔の噂話
もしあなたが《石畳の緋き悪魔》と遭遇してしまったのなら、
第一に自分が神を信仰していたことを悔いなさい。
第二に自分が生き延びる可能性を棄て去りなさい。
第三に自分が生まれてきて悪魔に殺される“幸運”を呪いなさい。
《石畳の緋き悪魔》は、あなたの全てを赦すでしょう。
「最近イギリス国内でそういうくだらん噂が流行っている。当局は《切り裂きジャック》とどちらがより“マシ”な殺人鬼かを話し合っているらしい――なんて馬鹿げたジョークが囁かれる程度にそいつは大衆化してしまった。僕に言わせれば、両方似たようなものさ。比べるという行為自体がナンセンスだね。ジャック・ザ・リッパーは死体を阿呆みたいに切り裂いていったが、悪魔とやらは全身をひっくり返した後で――皮という皮をひん剥いていくものだから身元確認が大変なことになってる――ばらばらに刻みやがる。血みどろの現場が残されるという結末は両者とも変わらない」
「で、エドはどうしてそんなに詳しいのさ。調査してるの?」
「当局の要請でね。最初は乗り気じゃなかった。だがいやな話を聞いたんだ。 《緋き悪魔》がどうしてその名で呼ばれているのかって話さ。血みどろの死体を作るからじゃなく、緋装束を翻して去るからなんだと。運よく比較的“まとも”な状態で見つかった被害者が一人いて、そいつは死の間際にこう言い残したんだ。『悪魔は絶世の美女であり、絶世の美男であり、そして絶頂のきちがいだ。赤い上着を翻した悪魔は謳っていた。――“私の神は、いずこにおわす?”』」
苦虫を噛んだみたいな顔でエド・フェニックスは続ける。
「赤いジャケットが気になるんだ」
「………そう」
「そうとも。悪魔の犯行は今年に入ってからの分で既に六件に及ぶ。ロンドンのあちこちに内臓がリバースした細切れの死体が転がっている。被害者の共通点は全員が男であること、そして成人に達していないということだ。身元検証は上手くいかなかったが、行方不明者リストから抜き出した『死体の身元候補』からおおよその推測は付けてる。……あいつに良く似た、蒼い髪の少年ばかりだ」
「……ヨハン?」
「ああ、だから緋き悪魔は…………」
エドも翔も押し黙った。居心地の悪い空気が淀み切って、二人を取り巻いている。二人は顔を見合わせて溜め息を吐く。息が腐敗してしまいそうだった。
「確証があるわけでは、ないんだ。ただの直感だ。だがあの馬鹿が消息不明になって十年が経つ。人を変えてしまうには十分すぎる歳月だろう。ましてや、あの覇王の闇を抱えていたあいつだ。可能性がゼロであるとは決して言い切れない……レッドというカラーが、いやでも遊城十代を連想させる」
「そうだね。最後の一文は僕も同意するよ」
翔は至極嫌そうな不機嫌そうな顔でエドに言葉を返した。遊城十代。丸藤翔がアニキと慕っていた人物。十二年前、「ヨハン」を失った絶望で異世界を蹂躙した覇王。みんなのヒーローだった男。世界を救える英雄だった男。
思い出すのは十年前のことだ。十年前の、遊城十代の姿。あの情けなくみっともなくおぞましい狂乱のことだ。
十年前に遊城十代はヨハン・アンデルセンを今度こそ文字通り覆しようもなく確定的に喪った。突然の死が二人を引きはがした。ヨハンの死を目の当たりにした十代はちょっと言葉では言い表せないぐらいに手酷い錯乱状態に陥ってしまい、彼はあらん限りに泣き、叫び、喚いた。ヨハンの名前を、声が掠れて枯れても尚叫び続けた。
ヨハンの死因はまったくもって不明で、不可思議な点ばかりだった。つい昨日まで健康そのものだった若者には持病などなかったし、心臓発作で命を落としたような形跡もない。脳内で出血が起こったわけでもない。ただ眠ったように閉じられた目蓋が永遠に開くことがないというだけのそれは安らかな死だった。
ヨハン・アンデルセンは、ぞっとする程美しく、損傷のない人形のような屍を晒していた。
傷一つない死体もろとも遊城十代が行方をくらませたのはそれから三日も経たない内の出来事だった。以来彼の消息を掴めた者は、知り合いには誰もいない。
「でもやっぱり僕は、アニキがそんな……緋い悪魔だなんて、そんなこと信じられないよ。アニキはヒーローなんだ。殺人鬼を捕まえる方で、殺人鬼じゃない」
「確かにまだ決まったわけではないし僕の意見も仮定論にすぎない。証拠のない曖昧なものだ。……だがお前は忘れたんじゃないだろうな。異世界のあいつは、殺人鬼なんて生易しいものじゃあなかった。あれは殺戮者だった。マーダーの方がまだ可愛い気がある。覇王はジェノサイダーだったよ、紛れもなく」
「知ってるよ。忘れるもんか。アニキは……ヨハンの為に、心を、棄てたから……」
だってヨハンが死んで十年が経つんだよ。翔は呟いた。それにエドは答える。だがその十年、ヨハンの死体は発見されていない。遊城十代の姿も。
「死体なんて、もうそんなのとっくに腐り落ちてるに決まってるじゃないか。アニキを一番に縛り付けるあの顔はもう土の中で分解されてるはずなんだ。思いを強く喚起するものはもうどこにもない。だから、十年も経てばアニキだって何か気付くと僕は思うんだよ」
「……理論上はな。コールドで保存でもしてればまた別だが。だがどうにも嫌な胸騒ぎが収まらない。僕が当局に協力してるのはそのためだし、君にこのことを話したのもそのためだ。こういう覚悟なしに、もし本当に殺人鬼になっていた十代に対面したら? 翔、お前は恐らく何も出来ずに殺されるぞ」
だからこれは忠告だ、エドはそっけないふうに翔の肩を叩いた。翔だって本当はわかってる。エドは自分を気遣ってくれているだけで、だから翔が少し取り乱し過ぎているだけなのだ。エドの直感は悪くない。それに翔自身思うところがないでもなかった。悪魔、という言葉は遊城十代とあながち繋がらないわけでもない。彼を狂執的に愛していたユベルは確か、悪魔族のモンスターだった。
◇◆◇◆◇
「あはは、は、あははっ……これで七つ目だぜ。ほんと、簡単すぎて、俺さあ……」
《石畳の緋き悪魔》、《魔女メーディア》、そんな名前で呼ばれてロンドンで今《切り裂きジャック》以来の知名度を上げている猟奇殺人鬼はうっとりと臓腑にこびり付いた血液を舐めとった。直後にうへえ、と顔を顰める。柔らかく、ぶるぶると震えている臓物はほんの少し前まで人間の体の一部を成すパーツとして脈動をしていたものだ。まだ生暖かい。あまり気持ちのいい温度ではない。
「まっず、この血。こんなん飲まなきゃ生きてけないんだったら、やっぱ吸血鬼になんなくてよかったかな」
悪魔の足元には「人間だったもの」がぐちゃぐちゃのばらばらになって散乱していた。血みどろで、真っ赤で、どす黒かった。人間としての原型は殆ど留めていなかった。綺麗なサファイアブルーの髪の毛ももう血塗れて判別がつかない。そもそも、ひっくり返った顔の表皮に包まれて良く見えない。 眼球は嵌っていた眼窩から抉り取られ、既に踏み潰された後だった。画面は凄惨を極めており、地獄絵図そのものだった。
殺された青年はごく普通の家庭に生まれてごく普通に育ち、そしてごく普通に家へ帰る予定だったらしい。命乞いをする姿がすごくみっともなかったのも、それはごくありふれた普通の青年でしかなかったからだろう。悪魔が知っている男はそうではなかった。彼はすごく非凡な存在だった。
悪魔はその男を愛していた。
「うーん、《石畳の緋き悪魔》、ねえ。センスは悪くないけど好きじゃないな。同じ赤ならさ、《赤い靴》とかの方が好きだ。アンデルセン童話。De rode Skoe、赤い靴を履いたカーレン……ははっ。柄じゃねえか」
足、切り落としたってしょうがねえもんな! 一人で手を叩いて笑う。七つ目の「部品」、もしくは「生贄」は三焦だった。その前は腎臓。その更に前は肝臓で、脾臓、肺臓、膀胱、胆、これで七つだ。残るは大腸、小腸、胃、精巣、そして心臓の五つ。それで合わせて十二個分の死を表わす。五臓六腑に男の内性器。精巣かぁ、と悪魔は何が面白いのかくすくすと笑む。例の《切り裂きジャック》は、そういえば子宮を抜き取っていったこともあったのだっけか。くすくす笑いは止まらない。《石畳の緋き悪魔》は、大抵の場合くすくす笑いをしているか、恍惚とした表情をしているか、或いは無表情か、そのどれかだった。そのどれにも意味はない。
「十二個の死に、十二の生贄を捧げて、『チェーン・マテリアル』は回り出す。死体の眼球も皮膚も要らないんだ。髪の毛も、要らない。綺麗な身体はそのまま残ってる。ずーっと、俺の手の中で眠ってる……」
眠り続ける愛しいひとのことを想うと自然、頬が緩んだ。悪魔は彼の全てを愛している。だが、美しい姿かたちはあの時から凍り付いたままだ。彼が自分の名を呼ぶ心地の良い音はもう十年聞いていなかった。眠り続ける男は悪魔のそばに存在し続けたが、それは死体だ。死体は喋らない。悪魔に耳触りのいい睦言をもたらさない。死体は何も言わない。
愛を囁かない代わりに、狂気を咎めることもしない。
「君のためなら鬼にも、化け物にも、殺戮者にも惨殺魔にも、悪魔にも裏切りの魔女にも赤い靴を履いたまま踊る愚かな娘にも、氷雪の女王にも――なんだってなるよ。もう今更後戻りなんて出来ないんだ。君が『殺された』瞬間に始まって、七つまで揃えて、今更後戻りなんか出来るわけないよな。……悪魔的所業の末に捨てられたメーディアみたいな末路を辿ってもいいんだ。いくら俺を恐れても、疎んでも、黄泉還ったことを恨んでも呪っても――俺は、もう、いいよ」
ギリシア神話に伝えられる著名な魔女メーディアはゼウスの妻ヘラに唆され父を裏切り、怨敵であるイアソンに惚れ込んでしまう。まんまとイアソンとの婚儀を進めたメーディアであったが、彼女がよかれと思って行った所業がどれもこれもおぞましい魔女的な手段であったがために最後にはイアソンに畏れられ、疎まれ、彼は他国の姫と婚儀を結ぼうとする。それに嫉妬し激怒したメーディアはとうとう姫君を焼き殺しイアソンと自らの実子までをも葬り、彼の前から姿を消した。
行方をくらましたメーディアは神々の楽園「エリュシオン」を治める不死者になったとされている。
悪魔は手の中で握り潰してしまいそうになっていた三焦を口の中に放り込み、咀嚼することなく呑み込んだ。気味の悪い感触が喉を滑っていく。サイズが大きかったが、無理をして呑み込んだ。元より真人間とは言い難い体だから無理はいくらでも通る。
「ヨハン、ヨハン、俺のヨハン……だいすき、あいしてる。ヨハンの為に俺さ、頑張るよ。だからヨハン、お前はまた、俺に、笑いかけてくれるか……?」
絶対者に媚びる無力な少女のような声音で悪魔は謳う。気狂いの愛を叫ぶ。正しさはどこにもない。何もかもがねじ曲がっている。
「……君を害すもの全て、この腕で退けよう……君が憎むもの全て、この腕で滅ぼそう……それは異教徒か? 同胞か? それとも、争いそれ自体か……?」
歌を口ずさみ、悪魔はねぐらへと軽い足取りで駆けて行く。ねぐらには愛しい人がいる。十二の死を捧げる対象がある。死体だ。悪魔が愛した男の、人形のように美しく欠けたところのない、死体だ。
「否、信仰は狂気だ。背徳の自己暗示を、我は甘んじて受け入れよう……私の神は、いずこにおわす?」
答える声はない。だから悪魔は自らの唇で狂愛の続きを紡ぎ出す。
「俺のかみさまは、ヨハンは、いつだって俺の隣にいる」
《石畳の緋き悪魔》――《遊城十代》は夢見る少女のように嘯いた。
「石畳の緋き悪魔」-Copyright(c) 倉田翠