02:ハンス少年と虹羽根の天使

『君、ハンス・C・ウォーカーだよな。俺がわかるか?』
 それが《天使》が僕の前に現れて初めて口にした言葉だった。僕はすごく驚いたけど、努めて平静なふうを装って天使の言葉を頭の中で繰り返す。ハンス・クリスチャン・ウォーカー。確かに僕の名前だ。天使は僕のところにお迎えにでも来たのだろうか。僕、もうちょっとは生きていたかった。
『ハンス、別に君を迎えに来たわけじゃないし、死の間際に天使は迎えに来ないし、そもそも俺は天使じゃない。ただそうだな――まだ生きてたいっていうのなら俺の話を聞いて貰えると助かるよ』
 天使はそんなことを困ったなあと言いたそうな表情で言った。僕は黙って頷く。すると、天使は少し安心したようでその美しい羽根を揺らした。七色の宝石が飾りに付いていてとても綺麗だ。
 天使は羽根が生えていることを除くと僕の生き別れのお兄さんかなってぐらいによく似た出で立ちをしている。でも僕より幾分か髪が跳ねていたし、目がずっときらきらしていた。宝石みたいだ。
『君、《石畳の緋き悪魔》の噂は聞いたことあるよな。今イギリス中で有名になってるやつ。例の連続殺人鬼の噂なんだけど、多分あいつが十二番目に狙うのがハンス、君なんだ。今あいつは七人まで殺してるからあと五人だな。……信じられないと思うけど、マジだぜ。このままぼーっとしていたら君は十二人目の被害者になる。いいか?』
「うん。僕が悪魔の標的にされてるっていうんだね。わかったけど……ジョークじゃないって言うのなら、どういう根拠があるの?」
 僕が首を傾げると天使の方が不思議そうな顔をした。あんまり抵抗なく話を受けいれたものだから驚いているのかもしれない。驚かれることには慣れている。
 何せ僕の周りには、僕の言葉で驚く人ばっかりだ。精霊が見えたよって言うと驚くし、幽霊とお喋りしたって言っても驚く。だから今起きていること、天使が僕の死期を告げに来たって話をしたってきっと誰も信じてくれないだろうな。慣れてるからいいけど。
『面白いな君は。物怖じしないそういう奴は割と好きだぜ。……根拠は簡単だが、説明し辛い。あのな、俺、見ての通り幽霊なんだが、あいつ――《石畳の緋き悪魔》と同じねぐらで暮らしてるんだよ。尤も向こうは俺のことに気付いてないけどな。あの馬鹿、十年もチャンネル閉じやがって……まあそれは今はいい。とにかく俺は君を守りたいんだ。俺なんかのためにこれ以上未来ある若者が死ぬのは良くない』
「悪魔は天使のために殺人をしているの」
『平たく言えばな』
「ひょっとして、悪魔は天使の恋人だった?」
『似たようなもんさ』
 天使は肩を竦めて僕の言葉を肯定した。僕は、ふうんと頷く。なんだかワクワクする話だった。僕はファンタジー小説が大好きなんだ。イギリスが好きなのも、母国だからっていうよりそういう理由によるものの方が大きい。レプラコーンとか、フェアリーとか、ケルプとか、結構ふわふわ浮いてる。一回だけ遭難した森の奥でユニコーンを見たこともある。僕を森の出口まで案内してくれたいい奴だ。ソリッド・ヴィジョンの「サンライト・ユニコーン」だとかの紛いものじゃないれっきとした本物はすごく綺麗だった。僕はサンライト・ユニコーンも好きなんだけど。
 それにしても面白い話だ。虹の羽根を翻す天使の恋人が、連続猟奇殺人鬼の《石畳の緋き悪魔》だなんて、すごくドラマチックだと思う。天使は言われてみれば少し青っぽい印象があるから、並んで立っていると映えるんじゃないかなって僕は考えた。まあ僕、こうして生きているからにはまだ一度も悪魔のことは見たことないんだけどね。幸運なことだ。
 僕が例の《悪魔》について知っていることはそんなに多くない。噂になっていること止まりだし、その噂だってきっと余計な尾ひれが付いているだろうからどこまで正確なものか疑り深い。
 まず一番最初に聞いたのは、悪魔はすごい美人なんだっていうことだ。でも性別ははっきりしないらしい。ある噂では絶世の美女なんだって聞いた。でも、違う噂では背筋が凍る程美しい美男なんだっていう。ただ一つだけ共通している項目があって、それは「絶頂のきちがい」らしいということだ。これはまあ、報道されている死体の状態からしても疑いようがないからだろう。
 それから、悪魔が赤いってことも聞いている。何せ《石畳の緋き悪魔》だ。そりゃ、赤くない方が詐欺なんだろうけど。緋装束を翻して鍵爪の生えた真っ黒な黒い翼で満月の下をどこかへ飛んで行くのだという。
「ねえ、悪魔って男? 女? 噂によってその辺ばらばらなんだ。一緒に住んでるんなら知ってるでしょ」
 一番気になっていたことを単刀直入に聞いた。すると天使は少し唸って、『どっちかと言えば男』と曖昧な答えを寄越す。天使はどこからどう見ても男だった。これは少し意外だ。
「天使の恋人、男なんだ」
『言っただろ、似たようなもんだって。あいつは親友なんだ。すごく息の合う気の置けない仲っていうやつ。呼吸が楽なんだよ。俺は確かに、人生の中で一番あいつの隣が好きだった。今でもしょっちゅうあいつの体温が恋しいとは思う。隣にいたってこの体じゃわかんねえし』
「へえ……ねえ天使、悪魔のこと、愛してた?」
『馬鹿なこと聞くんだな。愛してるよ。当たり前だろ。あいつが殺人鬼になってもそれはもう全然、変わらないんだ』
 恥ずかしがるふうでもなくさらりと言ってのける。惚気ているわけでもない。天使は相当悪魔に入れ込んでいるみたいだった。悪魔も、天使のことを愛しているのだろう――狂おしいぐらいに。七人も人を殺して、それから更に五人殺そうというぐらいだ。
 それはもう狂気的に、執念深く、崇拝して、いるのだろう。
 その気持ちはわからないでもなかった。
「二人は両思いなんだね」
『そうなるかな。生きてた頃はキスもしたし、セックスもしたよ』
 天使は結構俗っぽかった。
「……親友なのに、男同士でセックスしたの」
 僕は興味を隠しきれない顔で尋ねた。知らない世界のことって、気になるんだ。天使はかっこいいし、悪魔もとても美しいんだっていう。そういう二人のそういう絵面は想像出来ないけど美しいような気がする。
 案外生っぽいのかもしれないけどね。
『興味あるのか? めんどくさいだけだって聞いたことあるぜ。止めた方がいいんじゃないかな……あいつは男だけど、半分女の子なんだ。だから俺はそういうのはやってないよ』
「ふうん……」
 天使は妙なことを言う。半分女の子。中性的なんだろうか。美女、美男、両方噂があるぐらいだし。
 少し会ってみたいような気がした。でも天使の言い分が正しければ僕が彼に会えるのは死ぬ時だろう。それだけうつくしいひとに会えるのならば死んでもいいかなって一瞬思ったけどやっぱり一瞬だ。僕だって人並に生きてたいっていう欲求はある。まだ十七歳なんだ。
「そういえば僕を守るって言ってたけどどうやって? 警察なんてあてにならないよ。《切り裂きジャック》とどっちがマシか相談してるって噂が出るくらいに役立たずだよ。……でも一緒に住んでるんだっけ。それなら、ねぐらを通告すれば寝てるところを一網打尽、とか出来るかもしれないか」
『いや、それは無理だな。いくら警官を投入したってあいつの前には無力だ。送れば送った分だけ死体が余分に増える。ネオスのビームで焼き殺されて終わり、結果は見えてる』
「ネオス?!」
 僕は興奮して、耳に入ってきた単語を反芻した。ネオスって、あのネオスだろうか。だとしたら僕は死ぬ前にサインをねだるかもしれない。死んじゃったら意味がないかもしれないけど、それでも欲しい。
「ネオスって、あの『E・HEROネオス』?! 二〇〇八年ワールドチャンプのジューダイ・ユウキの! うわあ、なんか僕、ネオスのビームになら焼かれてもいいかも……でもネオスの攻撃って手刀じゃなかった?」
『ああ、何故かリアルファイトの時は手刀使わないんだよな。というよりヒーローに殺人をさせるなって話だが、まあ、あいつ自身もうヒーローではなくなってしまったからそれは仕方ない話なのかもしれない。しかし君は詳しいんだな』
「五歳の頃テレビ中継で見て以来の大ファンだよ。残念ながら十年前からぷっつりと消息を絶ってしまったけどそれでもずっと僕の中ではジューダイ・ユウキこそがヒーローなんだ。あれ、でもそうするともしかして《石畳の緋き悪魔》って……」
『そうだよ。《石畳の緋き悪魔》は遊城十代、俺の唯一無二の親友が成り果てた姿だ。十年前、俺がわけあって死んだ日にあいつはヒーローを止めた。人であることも放棄した。しばらくはただの廃人で、狂人だった。そして最近になって、俺を甦らせようとして殺人鬼になった。俺は十代のことは愛してるけど、生き返りたいなんて微塵も思っちゃいない。そこでハンス、君に相談だ。ちょっとその体、貸してくれないか?』
「え?」
『だから体貸してくれないかって。スクールがなくて暇な日曜とかでいい。スコットランド・ヤードに雇われてる俺と十代共通の友人がいるんだ。そいつに話しておきたいことがあるんだよね』
「え……」
 かくあるべき続きを話しているみたいににこにこして天使は言う。僕は「体を貸す」という言葉の意味を図りかねて変な顔をしてしまった。それってつまり、天使が僕の体に憑依するってことだろうか? ちょっと面白そうだとは思うけど、なんだか怖いような気もする。だって相手は天使だ。
『いや、身構えなくても変なことはしないって。ヤードから出てくるところを捕まえるだけだからややこしいアポ取りをさせようともしない。出来ないだろうし。駄目かな?』
 天使は首を傾げた。僕と似てる顔なので、鏡の向こうで僕と違う動きをされているみたいで、変な感じがした。
「んー、面白そうだから、いいけど。その代わり教えて欲しいことがある」
『出来ることなら。なんだ?』
「天使の名前は、何?」
 そう問うと『なんだ、そんな簡単なことか』と天使は息を吐く。人間臭い幽霊だ。そういうところ、好きかなって思う。
『ヨハン・アンデルセン。デンマーク出身、日本没。死んだのは二十歳の時かな。よろしく、ハンス・クリスチャン・ウォーカー』
 天使は笑顔で手を差し出してきた。反射的に差し出し返した僕の手は透けてしまったけれど、思い返してみればこの「契約成立」の瞬間に僕が死ぬことは確定的な未来になってしまっていたのだろうと思う。天使には悪いけれど。



◇◆◇◆◇



 殺した後に「ただいま」のキスをしてその滑らかでひんやりとした体を抱き締めるのが悪魔の中での決まり事で、だから今日も彼は蝋人形みたいな体を抱き締めた。熱に浮かされた体を癒してくれているようだといつも思う。死んでしまっても、すごく愛おしい。
 浮かされている、とは思う。まだどこかで「こんなの間違ってる」とも思う。なけなしの、本当にちっぽけな、残されてしまった理性。奔流に取り残されてしまった「正しさ」は窮屈で居場所を失っていて、いっそ哀れですらあった。百パーセントまじりっけなく純粋な狂人になってしまいたかった。この感情が残っている限り、悪魔は考えてしまう。愛する男が目覚めてまず始めに悪魔を罵る可能性をだ。口汚く罵倒して、悪魔を殺そうとする可能性だ。
 「生き返りたくなんてなかった」、そう言うかもしれない。「お前なんか愛してない」、そう言うかもしれない。「おぞましい化け物め」、そう言うかもしれない。「お前を愛さなければよかった」、そう言うかもしれない。もし首尾よく彼が生き返ったとしても彼はそう言って自分の全てを否定するかもしれない。彼のためにあらゆる全てを擲った《石畳の緋き悪魔》を根本から打ち崩すかもしれない。
 でも、それでもいいと最後に悪魔はいつもそう呟いた。愛してもらえなくても、もう良かった。
 悪魔が終わる時にヨハン・アンデルセンが、呪いに殺された男が、十代を一目でも目に入れてくれるのならば全てが惜しくないと素直に思えた。
「ばかでも、いいんだ」
 十代はヨハンが好きだった。初めて唇と唇を触れ合わせた時に、女の子になってもいいと思った。深く繋がった時に心音を折り重ねて、嬉しくて、泣いてしまったのを覚えている。ヨハンはそれを見て「きれいだよ」と涙を拭ってくれた。
 いつからだろう、ヨハンが世界の全てになったのは?
「俺はもう綺麗にはなれないけれど…………一目、ヨハンを見られるのならどれだけ汚れても穢れても塗れても構わないんだ。あいしてる俺のかみさま。だから俺は、その時までは立ち止まることが出来ない。血塗れの靴で踊り続けることになっても」
 童話のカーレンは、赤い靴を両足ごと切断して悔い改め、神に祈りを捧げ、最後は赦されて天国へ行ったらしい――生温い。嘘っぱちだ。神なんていない。天国なんてない。あるのは現世という名の地獄だけだ。
 シャングリラ、理想郷、ユートピア、エリュシオン、人間が思い描く「夢の国」を現す言葉はたくさんある。でも遊城十代は「夢の国は、海馬ランド」だと本気で思っていたし(勿論比喩でだ。ブルーアイズに溢れたあの場所で海馬瀬人とのデュエルが叶ったとしたら確かに夢みたいな話だったが)《石畳の緋き悪魔》もそれでいいと思う。理想の世界なんてどこにもありはしないのだから。
「俺の楽園はここにしかない。ヨハンがいない世界に意味なんかないって知ったあの時からずっとそうだ。世界を蹂躙しても君がいなければ飢えて乾いているだけだった。なあ、知ってるかヨハン? お前が俺を狂わせたんだぜ?」
 楽園の名を持つ少女の歌がある。少女は幾度も父親に楽園を問うた。「ねえお父様、その楽園ではどんな花が咲くの? どんな鳥が歌うの? 体はもう痛くないの? ずっと一緒にいられるの?」だが問いかけは意味を成さない。男の楽園は奈落に沈み、答えはいつまでも帰ってくることはない。
 楽園は少女だったのだと、悪魔は思う。楽園は死んだのだ。最初っから、有りもしない幻想だった。
 あの日異世界でヒーローになりたくて、ヒーローだと期待されていた少年は少しだけ、歪になってしまった。信じていた世界が瓦解して何も信じられなくなった。みんなが欠けた部分を埋め合わせ、絆創膏を貼ってくれたけど結局最後はもっと酷い傷になって甦った。悪いことをしたとは思うけど、でもどうしようもない。
 かつて覇王と呼ばれた少年はいつの日か悪魔に成り果てた。
「お前に狂わされた。人生も理念もこころも身体も何もかもをお前に狂わされた。お前に出会わなかったら、俺はきっと馬鹿な子供のまま中途半端に大人になって、ありふれた人生を謳歌してそれなりに幸せに死んでいっただろう。でもお前がそれを許さなかった。俺はお前のために世界を一つ征服したよ。お前のために単純な勧善懲悪も捨てた。お前のために半分女になった。お前のために無知であることを止めた。そして今度は、お前のために悪魔にもなった」
 死体は答えない。だがその隣で、薄ぼんやりした影が寂しい瞳で悪魔を見つめている。
「お前に心を奪われたその時から――」
 死体の睫毛はぴくりとも動かなかったし、手も足も、だらんとぶらさがっているだけだった。この体は十年前に死んだ。今は、彼が生前大事にしていた一柱の精霊によって入れ物を維持している状態だ。そのために宝玉の神は犠牲になった。
「止めよう」
 悪魔は息を吐いて死体を元の、白い花の中に埋め直した。花葬だ。花はいつまでも枯れなかった。死体が孕む虹の龍の養分を吸い取り続けて、いつまでもいつまでも、咲き誇っている。ネクロ・フルール、死の花だった。綺麗だが、しかし悪魔はそれを美しいとはあまり感じていなかった。刺身のつまだな、といつも適当に考えた。どうでもいい添え物だ。
「『もしも俺が悪魔になってしまっても、あなたは友達でいてくれますか。もしも私が悪魔になってしまっても、あなたは私を好きでいてくれますか』」
 いつもの呪文を唱え、悪魔は死体に侍って瞳を閉じた。悪魔の瞳には何も映っていない。死体と眠る彼を寂しそうに見つめる幽霊のことを、彼は十年経っても気付けないでいる。
『いつだって愛してるよ、俺の大切な人』
 だから悪魔は一度も、幽霊が十年間ずっと返している返答を耳にしたことがない。