07:死がふたりを結ぶまで

 あの日、悪魔が神を殺してしまった日に全てが定まった。

《零番目のヨハン》、悪魔が愛した男。神の骸を残して死んだ。
《一番目のニコラス》、敬虔なる信徒。脾臓を掴まれて死んだ。
《二番目のルーカス》、勇敢なる愚者。膀胱を取られて死んだ。
《三番目のユリウス》、不幸な追い剥ぎ。肺臓を奪われ死んだ。
《四番目のクラウス》、悪魔の狂信奉者。胆を舐められ死んだ。
《五番目のスコット》、無知故の幸せ者。肝臓を差出し死んだ。
《六番目のアーサー》、所謂現実主義者。腎臓を抉られ死んだ。
《七番目のクラウス》、臆病がちな青年。三焦を抜かれ死んだ。
《八番目のカイウス》、悪魔に恋した男。小腸を失って死んだ。
《九番目のクリストファー》、幸薄い男。大腸を無くし死んだ。
《十番目のリチャード》、行先短い少年。胃を喪失して死んだ。
《十一番目のロナルド》、病を患う少年。精巣を引かれ死んだ。
《十二番目のハンス》、神憑きの好奇者。心臓を捧げて死んだ。

 十二の生贄を捧げられた「チェーン・マテリアル」は悪魔の神を呼び戻す。
 神は悪魔になる。悪魔は愚かな女になる。
 悪魔の腹には、死が眠っている。



 死体に鼓動が戻り、彼は薄く目を開けた。ぴたりとくっ付いていた瞼がやや重い。休眠を続けていた瞳が何かで濡れて、視界が霞んだ。
 とくん、とくん、とくん。緩やかな鼓動が全身のリズムを支配する。とくん、とくん、とくん。固まり凝っていたことなどお構いなしに脈打つ全身は体中の血液を滾らせようとした。とくん、とくん、とくん。心臓が鳴る。十二番目の少年が、鳴る。
「……じゅうだい」
 あの日の続きのようだと思った。ヨハンが死ぬ少し前のまぶしい家庭の情景だ。あの頃同棲していた二人は、温かくて居心地の良い春の陽だまりの中で暮らしていた。隣に十代がいて、ヨハンがいた。幸せだった。しかしそれも最早過去の幻に過ぎない。
「ばか……寝過ぎなんだよ、お前は」
「そんなことないぜ。ずっと起きてたんだから……」
 体は驚く程滑らかに動いた。ついさっきまでそれが死体だったのだということが嘘みたいだった。指先に熱が灯っていく。程なくして死体は生者の体温を取り戻した。
「ハンス、死んだのか」
「ああ、抜殻はそこの上にまだ残してある。心臓はヨハンの中に。あの子は良い子だな。可哀相な子だったけれど」
「俺のことを天使だって言ったよ。だけどこれじゃまるで死神だ」
 零番目は死んで十三番目になる。十三の命で組み上がった十三番目の体。そういえばタロット・カードの大アルカナ十三番目のカードは「DEATH」、死神だった。よく出来てるよまったく、と溜め息の一つも吐きたくなっても仕方ないと思う。
 ヨハンは《悪魔》と呼ばれてイギリスの噂を席巻し恐怖そのものになっていた親友の体を両腕で抱いた。あんなに恐れられていた連続猟奇殺人鬼も、こうしてみるとただの人恋しい子供でしかない。元々華奢だった体は今は折れてしまいそうに脆かった。細い体躯で、遊城十代は自分以外の全てを、世界中全てを敵に回そうと決めたのだ。
「……ヨハン、俺のこと、罵るか。憎悪の言葉を投げ付けるか? 蘇らせたことに激怒するか? お前も、俺を悪魔だって、そう言うか……?」
 腕の中から細い不安気な声で震えながら尋ねてくる。「それならそれで、もう全然いいんだ」と十代は強がって嘯いた。
 でも本当はそうじゃない言葉が欲しいのだって、ヨハンは知っている。
「俺のために頑張ってくれてありがとう。辛かったよな。苦しかったよな。寂しかったよな。……でももういいんだ。もう一人じゃない」
「ヨハン……?」
「俺は十代のことなら、なんだって知ってるよ」
 だからヨハンは十代を叱らなかった。甘やかしているとは思う。だけど十代のことを甘やかすのはこれが初めてじゃないし、ずっとやってきたことだ。ヨハンは十代には特別甘い。
「ヨハン、ヨハン、よはん……ああ、もう、なんだろ。今なら俺、死んじゃってもいいや」
「……うん」
「ずっと夢見てた。ヨハンが俺をこうやって見てくれるのがこんなに嬉しいなんてなあ。――全部、全部、悪い夢だったんじゃねえかなって。ヨハンが死んだのも、皆が俺を悪魔と罵るのも、一人ずつ殺して、その度に醜い姿になるのも……。俺、ずっとお前がいなくて怖かった」
「壊れちゃいそうだったんだよな。溜まり込んだ恐怖が破裂してしまいそうで、孤独だった。知ってるよ」
 血に濡れた茶色い髪を撫でてやる。胸にすがる姿はとても狂気殺人の犯人とは思えないような儚いものだった。顔を埋めて泣いている。どれだけ泣きたかっただろうか。どれだけ泣ける日を渇望していただろうか。
 ヨハンが死んだ日以来十代は泣かなくなった。
「ずっとそばにいたから」
「え?」
「十代が泣きたくって、でも泣かないで我慢してたことも知ってる」
 今や世界の誰よりも弱々しい表情をしている十代、昔はヒーローと呼ばれ、そして今は悪魔と呼ばれる人は信じられないという顔で自らが神と崇める高潔な男を見た。ヨハンは全てを見透かしたように微笑んでいる。
 ああそうだ。十代は息を呑んだ。いつだって十代は、ヨハンに理解されていた。敵わないのだ。
「ヨハン……今になってわかった気がする。ずっとヨハンと一緒にいる方法。一つは、諦めなきゃいけないけど……この方法を取ったって結局諦めなきゃいけなかったことだし。悪魔は普通、子供を残さないから」
「ああ……」
 ハンス少年は死ぬ間際に子供が欲しかったのかどうか、と聞いたがあの時返した答えは完全じゃないのだ。確かに悪魔は女や男と交わることが出来る。古今東西悪魔に孕まされた少女の話やサキュバスにかどわかされた男の話は世界中に転がっている。だがそれは悪魔対人間の場合だ。悪魔同士で子を成すという話はない。何故なら悪魔は人間を誑かし惑わし堕落せしめる存在だからだ。
 人間のヨハンの子は孕めただろう。しかし悪魔になったヨハンの子は孕めない。
「だったら、最初からそうすればよかったんだな、きっと。十二の死もチェーン・マテリアルも本当は必要なかったんだ。すごく簡単なことだったのに俺は……」
 ぽそぽそした涙声が零れ落ちていく。ヨハンは手のひらで涙を拭ってやった。温かい。血も涙もない《石畳の緋き悪魔》、狂乱の鬼女《魔女メーディア》、そういうふうに呼ばれる存在ではなかった。マッドスカーレットはただの弱い人間だった。
「なんてことしちまったんだろう」
「とんだ大馬鹿野郎だよ、お前は」
「……元々馬鹿だったんだ。大ばかにもなるよ」
「そうだな。そして俺も大概だ。それでも俺は、君を愛してるよ」
 十代は涙でぐしょ濡れになった顔をもたげて「チェーン・マテリアル」、神に背く運命の鎖を見上げる。その気になれば、世界を滅ぼすこともわけはない魔法のカードだ。正しく手順を踏めばあらゆる願いを叶える踏み台になる。
「チェーン・マテリアル……」
「……。壊すか?」
「いや……」
 空中でまだくるくると回っているカードを手に取り、テキストをもう一度眺めた。「このカードの発動ターンに融合召喚を行う場合、融合モンスターカードによって決められたモンスターを自分の手札・デッキ・フィールド・墓地から選択してゲームから除外し、これを融合素材とすることができる。このカードを発動したターン攻撃することはできず、この効果で融合召喚したモンスターはエンドフェイズ時に破壊される」。このチェーン・マテリアルに「超融合」を組み合わせることであらゆるものを呼び出すことが出来るが、しかしやはりその力は万能ではないのだ。最後の破壊デメリットがある。
 元々このカードを使ったユベルは融合した世界を丸ごと滅ぼそうとしていたからあまり関係ないが、この都合でヨハンは「カード効果で破壊されない」という意味合いを比喩的に付加した存在にせざるを得なかった。悪魔の体はカード効果では破壊出来ない。
 しかし除外は出来るのだ。
「生贄に俺と、ヨハンの魂を捧げれば……今からでも或いは……。俺は世界を作ろうとも滅ぼそうとも思わないし、神になろうとも思わない。願いは叶った。だから、もう、」
 身勝手に死んでもいいかな、という言葉は継げなかった。唇を唇で塞がれる。キスをするのも、そういえばあの陽だまり以来のことだった。
 呼吸を奪い尽くすように互いの息を貪った。このまま死んでしまいたいと心底願った。温かい体に包まれて死ねるのならそれが最善だと思う。
 ハンス少年の言葉が蘇る。意外とすぐかもね、とあの少年は言った。本当にそうなってしまうわけだ。窓の外をちらりと見ると、月の光が薄れて太陽が昇る準備を始めているところだった。気絶させた警官達ももう数時間もすれば目を覚まして自分達を見付け、上司に報告をするだろう。
「ハンス、朝になったら、君を……」
 チェーン・マテリアル、そして超融合、二枚のカードがぴかぴか光って発動する。悪魔の末路は呆気なく単純に、簡単に訪れた。安らかな顔で、二つは息絶える。
 その日の夜明けに、雨も降っていないのに巨大な虹がロンドン上空に現れたという。虹は数時間で弾け飛ぶように消えた。イギリス国民を騒がせたロンドンの殺人鬼が死体になって見付かったというニュースが流れたのは虹もすっかり消え失せた昼のことだ。



◇◆◇◆◇



「あれだけ好き放題やっておいて、また好き勝手死んでいくとはね。やってくれるよまったく。死体を取っ捕まえたとしてもそんなものは迷宮入りとさして変わらない」
「あー、書類仕事ね。お疲れ様っす。僕今ナイーブなんだからそういう毒づきは他所でやってよ」
「十代の死にダメージを受けているのはお前だけじゃない」
「あったり前じゃないか。アニキはアニキだもん」
「だが《石畳の緋き悪魔》、もとい連続猟奇殺人犯疑いの『遊城十代』の死亡に胸を撫で下ろしているロンドン市民は数多い」
 そんなことを言ってやると「うるさいな、それで何の用なんだよ」不機嫌そうにつっけんどんに返された。エドは黙って資料を一束取り出し翔の方に放る。それを受け止めて表紙を一瞥し、翔は「なにこれ」と間の抜けた声を出した。
「死体解剖結果?」
「世間には公表出来ない後味の悪い後日談さ。ヨハンの死体と十代の死体の検証結果。何とも腹立たしいので資金を僕が受け持ってメス入れからDNA鑑定まであらゆる方法で死体解剖をしてみたわけだが、結果は以下の通りだ。最初は僕も吐くかと思った」
「エドが吐くって一体どういう内容なんだこれ……」
 不安そうに眉を寄せながら一枚目をぱらりと捲る。最初に解剖検証されたのはヨハンの方であるらしい。体外に損傷はなく、継ぎ剥ぎの跡も見られない。だが中を開けてびっくり、非常に歪な形で臓器が詰め込まれていた。気になって調べたところ十二の内臓の遺伝子が死体の身元人である「ヨハン・アンデルセン」のものと食い違ったという。しかもそれぞれがそれぞれに違う人間のものだ。そのうち心臓はヨハンと十代の死体と同じ部屋のベッドに安置されていたハンス・C・ウォーカー少年のものと判明した。ハンス少年の死体には心臓がなかったのだ。
「人間腸詰という小説が日本にはあったな。内容は違うが、なんとなくあれを思い出したよ僕は」
「夢野久作ね。僕あの人苦手だからその話は終わり。ちなみに日本には人肉を瓶だか缶だかに詰めてるっていう意味のわかんない描写が出てくるゲームもあるよ」
「案外やってたのかもなその辺りを」
 五枚程に渡っていたヨハンに関する記述を読み終わり六枚目に入ると、今度は十代の死体に関する内容だった。一行目の出だしが衝撃となり翔は読んだ瞬間噎せ返る。
 両性具有。生殖器両完備。半陰陽。一段落目に書いてある単語を拾いあげるとこうだ。そんなことはまるで知らなかった。
「そこでまず吐きかけた」
 エドが言った。
「ヨハンの思考は僕には理解出来そうもない」
「くっそあの外人野郎……アニキが二次元にしかいないと思われていた夢と妄想の化身だったなんて! いいことしてたんだろ! もう死んでるけど死ね!」
「聞けよ」
「これでアニキを穢してたら絶対許さない」
「……」
 怒りに任せて書類を読み進む。十代の体内には、ヨハンのような分かり易い異常はなかったようだった。ただ、念のためと開けられた子宮に最大の異常が眠っていた。子宮の中から取り出されたものが拡大されて載せられている。これにはさしもの翔も怒りを忘れて、絶句した。
「胎児、って書いてあるけど。胎児ってこういうもんじゃないでしょ。なんで体の中にいるのに髪が生えて、目が開いて、こっち見てるんすか……」
 胎児であるらしいものは体長十センチ程で、にも関わらず人としての外見に足るパーツを揃えていた。羊水に塗れていた髪の毛はサファイアブルーで、瞳はライトグリーンだったという。その胎児は解剖医の方をじっと見ると首を傾げ、おぎゃあと声を上げることもしないまま「ママも、パパも、死んだ?」と尋ねたそうだ。
 ただのホラーだ。
 写真を撮影して間もなくその「胎児」は死んだらしい。その後の検証で皮膚年齢からその胎児は生後十年が経過しているものとみられることがわかった。俄には信じ難い内容だが、この書類に書いてあること全てが信じられないホラー映画のような事柄なので今更気にするのも野暮だと思うように翔は努める。
「女の執念とかいう奴を感じたよ。女々しいという具合を通り過ごしているがな……更に恐ろしいことにその胎児の遺伝情報はヨハンと完全に一致した。百パーセント純粋にヨハンのコピーだったらしい。一応母親に当たるはずの十代の遺伝情報はゼロだ」
「も、もういいよ。本当に吐きそう」
 翔は許すも何もないよ、とぼやいて部屋を出ようとする。エドはトイレの場所を案内した。調べてはみたが、こんな気味の悪い調書が一体何に使えるのかもわからない。仕方ないので黙って書類仕事を再開した。



 そんなかたちで世間的には一応の解決を見た連続猟奇殺人鬼、《石畳の緋き悪魔》にはこんな都市伝説が後日談としてまことしやかに囁かれている。「まんまと十二人を殺害せしめた《石畳の緋き悪魔》は、蘇った恋人と抱き合って果てて永遠になった」。スコットランド・ヤードの悪魔への無様とも言うべき敗北はこの噂の影に隠れて下火になり、事件はそういうふうに尾ひれの付いた噂で脚色されていく。
 やがて時が経つとそんな噂さえも次の噂に取って変わられ、消えていく。こうして狂愛の悪魔は人々の記憶から薄れていった。悪魔のことは、過去のオカルトとして葬られていった。



<END>.