それを夢みるというのは、愚かなことなのでしょうか。
 赦されざる願いなのでしょうか。
 ただ皆が幸福であればと。
 祈るのは異端なのでしょうか。



パラノイア



 ムジュラの精神世界は崩壊、消滅して。タルミナを焼き潰そうと迫っていた月は元から存在しなかったかのように綺麗さっぱり消え失せた。文字通り、跡形もない。
 時計塔の上に腰掛け、見下ろす形でリンクはカーニバルを眺めていた。花火が惜しみなく打ち上げられ、夜空を彩っている。
 その側には二匹の妖精と、スタルキッドがいた。
「これで一段落かしら。あたしはトレイルとスタルキッドと一緒になれたし。月は消えたし……」
「いや、まだもう一仕事。コレの処理をしないと」
 懐からムジュラの仮面を取り出し、ひらひら振ってリンクが言う。チャットとトレイルは驚いて羽をばたつかせた。姉弟だというだけあって反応がそっくりだ。
「な、なによ!! 消えてなかったの、ソレ!!」
「うん。俺の手元に残った。……たださ、俺この街に来てすぐに頼まれてるんだよ。『ムジュラの仮面を取り戻して欲しい』って。そうすると、壊したいのはやまやまだけどそういうわけにもいかなくてさ」
「はあ……そんな物騒な仮面を欲しがるなんて普通じゃないわねえ。今度はそいつが操られてまた事件……とか、嫌よあたし」
「それはないと思うよ? 彼はムジュラの仮面の元の持ち主で、仮面商だからね。本職の人間はそんなヘマをしないよ」
「……ゴメン……オイラのせいで……」
「スタルキッドのことは責めてないって」
 しょぼくれたスタルキッドの肩をぽんぽんと叩いて、リンクは大きく伸びをした。思えば長い三日間だった。何度時の歌を吹いたか、カウントして溜め息を吐く。
 もう疲れてくたくただ。
「あのさ。俺、明日この街を出ようと思う」
「……そっか。急なのね」
「驚かないんだね」
「だって、大事な、大事なナビィちゃんがまだぜーんぜん見つからないんでしょ?」
「ん、まあ、そう」
 いいわよさっさと行きなさいよ、とふてくされるチャットを両手で包んで、リンクは頬に寄せた。チャットが慌てるのが伝わってきてくすぐったい。
「ありがとう、チャット。俺の長い三日間に付き合ってくれて。用事を済ませたら明日朝南門から行くよ」
「はぁい。よくわかったわ」
 チャットのちょっと皮肉めいた返事にリンクはよろしい、と笑って彼女を手の内から放してやった。



◇◆◇◆◇



「さて、さしあたってはコレの処理だ。あんまり気乗りしないんだけどなー、時計塔の内部か、あのお面屋がいるのは」
「ああ。多分今もまだいると思う」
 ムジュラの仮面を手に、リンクはクロックタウンの南通りを歩いていた。取り急ぎ今晩の宿をなべかま亭で取って、今は会いたくないお面屋に会うべく時計塔へ元来た道を戻っている次第である。
 リンクの手に握られたムジュラの仮面に、スタルキッドを操っていた時みたいな気配はもうない。目が光ることもなく、ただ、一枚の仮面としてそこに収まっている。
 力を使いきったのか。それとも"吸われ切った"のか。もしくは眠っているのか。真相は一切わからなかったが、それでもただひとつ正確に言えるのは、その仮面は今何の変哲もない物体であるということだ。
「妖気とか、悪意とか。そういった類いのものをもうまったく感じられないな。動いていた時はツインローバなんかに似た気配を感じたんだが」
「え? そう?」
「ああ。だが俺――つまりガノンの創造物か、なんかとは別種のものだ。その場合は、」
 くい、とダークがリンクの顔に手をやり動かす。リンクは一瞬驚いたがそれだけで、別段反応は示さなかった。
「もっと純然たる悪意を持っている。宿敵である時の勇者、お前への」
「冗談。そんな悪意に満ちた存在に常時寄生されてたら俺はとっくに死んでる」
「まあな。俺はガノンのプログラムを姫へのプログラムで上書きして消去してるから、何があってもお前と姫の味方だ。尤も、存在としての核はあくまでもガノンの力によるものなんだが」
「……今更だけどよく俺に寄生してて死なないな……一応俺聖剣に選ばれた勇者なんだけど」
 意識して右手でダークの頬を突っつき、紅い瞳を覗き込んでリンクは問うた。トライフォースの力は確かに善悪判断のない、中立の力かもしれない。だけれどリンクは七年間聖地で眠っていた神聖剣の使い手だったのだ。闇に堕ちたガノンとは対局の、光寄りの性質を持っているのだ。
 けれどダークは薄く笑ってリンクの左甲に直に触れた。特に何も起こらなかった。
「……俺はそもそもお前から生まれた存在だ。母の持つ毒ぐらいならば耐性が付いてる。――それに今のお前は酷く危うい」
 わかってるだろ、とダークはリンクの左手を握る。ぽぉっと淡くトライフォースが光って、しかしすぐに発光は止んだ。リンクは黙ってその手を握り返す。ダークの手は冷たかった。
「"その仮面"。一緒に売り払ったらどうだ?」
 不意に、リンクの右胸のあたりを示してダークが言う。ぱっと見、そこに何かあるようには見えない。
「ん……そうだね、手放した方がいいだろうね。だけれどダーク、手に取れないものをどうやって手放せばいい?」
「やはり呑み込んでしまったのか?」
「そうみたいだよ」
「余計に脆いのはそのせいか。――馬鹿、手を伸ばしたところからそもそも間違ってたんだ」
 被るだけでもぎりぎりだったのに、呑み込んだらどうなるか考えなかったのかとダークはリンクを責めた。リンクはそれに答えない。無表情に、ダークの言葉を聞き流している。やがてダークは言葉を紡ぐのを止めた。言っても無駄だと悟ったからだ。
「過ぎたことは変わらないよ。今目の前にあるのは、俺は狂気を抱え込んでしまったという現実。この先どうなるかは誰にもわからない……かな?」
 リンクはくすくすとふざけたように笑って言った。口が耳まで裂けていたっておかしくない笑いだった。

(――止めなければ)

 ダークは思う。姫をいつか笑顔に出来るように、それが自分の存在理由だ。その為にはリンクがふつうでなくてはならない。修羅の鬼であってはならない。地獄でわらう化物であってもならない。
 ただ純粋な、光の仔でなければならない。
(まあ、その為に俺がいるんだ。こうなってしまうことは"薄々予感出来ていたこと")
 ならば精一杯守り導いてやればいい。

 ああ、なんと滑稽なことだろう。
 深淵より生まれ闇に生きる影が、彼方より生まれ光に生きる本体を守ろうと。正そうと画策しているだなんて。



◇◆◇◆◇



「――返します。誰にも必要ありませんから、こんなものは」
「これはこれは……いやはや、お手数をおかけしまして。これでやっとこの空間を出られますねえ」
 お面屋は背中のやたらと巨大なデイパックに受け取ったムジュラの仮面を無造作に放り入れるとゴマをするみたいに両手を合わせた。適当な扱いにリンクは辟易したが、考えてみればくくりつけずにしまっただけまだましかもしれない。
「アナタもこれで心おきなく帰れるでしょう。やはり放っておくと後味が悪いですから」
「……」
「ところでアナタ、その仮面、どうするんです? 興味深いものですから引き取ってあげてもよかったんですがねえ、そうもいかなそうですねえ」
 取れなさそうですものねえ、とリンクの右胸を物欲しげにじろじろ見てお面屋はほうと息を吐いた。どこか気味が悪かった。
「しかし驚きましたね――鬼神の仮面はムジュラの魔力そのものなんですよ。それを喰らってピンピンしている。やはり神に愛される所以ですかねえ、その異常なまでの許容量は。……なんにせよ気を付けなさい。それは従順ではありませんからね」
「何故そこまで知っている。何者だ? あんたは」
「いやあ、ワタクシはただの面売りでございますよ。では、くれぐれもご用心を。お気をつけください……」
 目を一層細め、お面屋はリンクに背を向ける。そして数歩歩くと唐突に消え失せた。リンクは何をするでもなく漠然とそれを眺めていた。
「……もしも世界を行き来しているのなら。ちょっと、連れていって欲しかった――っていうのは世迷い言、かな?」
 虚空に向かってリンクは疑問を投げかける。
「いや、それはお前がまだお前自身であるという証明だ。純粋に姫だけに執着しているということだ。力よりも、未練が勝っているという情けない証明に他ならないさ。多分」
 虚空の奥の闇から、彼の影が答えた。



◇◆◇◆◇



「本当に、行っちゃうのね」
「うん。まだ、目的を果たせていないから。チャット、トレイル、スタルキッド、そしてタルミナの人達、皆に出会えたことは忘れないよ」
「どうだかぁ。そう言うヒト程すぐに忘れちゃうのよ」
「もー、相変わらず手酷いねチャットは!」
 きゃっきゃと楽しそうに笑い合って、リンクとチャットは人指し指と羽を差し出し触れ合わせた。さよならの握手だ。
「ここはきっと、俺の元いた世界とは違うから。保証は出来ないけれど――いつかまた、機会があったら会いに行くよ。俺の、二人目のパートナーに」
「機会があったら、じゃないわ。絶対よ、絶対来なさいよ」
「はいはい。我が侭さん」
 軽く切り返すと、チャットはぷうと膨れて抗議した。本当に楽しそうなやり取りだった。
 やがて、朝焼けも見えなくなると南門がゆっくりと開いた。リンクはエポナに跨がると後ろを振り向き、手を振る。手綱を引かれてエポナが歩き出す。その可愛らしくも逞しい蹄が、門の外に出た。
「またね、チャット」
「また会いましょ、リンク!!」
 リンクを乗せ、エポナは吸い込まれるように門の外に消えていった。一瞬、門が白く光る。光が消えた先のタルミナ平原には誰の姿もなかった。


「さよなら、タルミナ」


 そしてリンクは、三日間が繰り返す閉鎖空間からまた、ハイラルの大地へと還っていった。