わたくしの最期の願いを、
 祈りを、あなたに託します。



眠り姫の祈り



「……もう、駄目なのでしょうね。これ以上は……」
 赤子を抱く手は美しく、それだけで高貴な女性であることを窺わせる。赤子は母の手の内ですやすやと眠りこけていた。庇護されていることに安堵しきって、まるで警戒というものがない。赤子は守られる為に生きているようなものだ。それはまあ仕方ないかもしれない。
 すやすやと可愛らしく眠る彼女は知らない。もうじき、母がいなくなってしまうことを。
「忌まわしい呪い……神の力を持ってしても同じ神の力は打ち消せなかった。インパはなんと言うかしら」
 一人ごち、窓の外をゼルダは見た。透き通って綺麗な青空だ。だけれど彼女には暗雲が見えた。この国はこのままではいずれ、崩壊してしまう。そういう暗雲だ。
 魔王が討ち倒され、国に平和が戻ると彼は伝説になった。時の勇者の伝説。災厄を討ち払う神の使い。
 祈れば危機に駆け付け、助けてくれる。

 ハイラルの民はそう認識してしまった。

 それはとても愚かしい間違いだ。時の回廊はゼルダがその手で閉じてしまった。だからこの世界に彼はもう居らず、彼に連なる者も恐らくはいない。それはつまり、祈ったって世界は救われやしないということだ。他力本願じゃあ、どうしようもないということなのだ。
 だけれどもきっと、そう盲信し祈り、そして報いを受けるその時まで民はそのことに気が付きやしないだろう。一度起きた奇跡ならばまた起きるはずだと。何の根拠もなく確信して疑わないだろう。
 人間というのは大抵そういうものだ。
「あと数時間。最早いつ目覚められるかもわからないけれども。――だからこそ、やらなければ」
 赤子から離し、手を強く握り締める。彼女には決意が、最後にどうしても成し遂げておきたい仕事があった。それを達成出来れば、自分が永遠の眠りについてしまったとしても心残りを少なくすることは出来る。
「時の賢者として、最後に力を使うことをお許しください……わたくしは止まりません、喩え神に弓引く結果となろうとも」
 長く綺麗な髪に光が反射する。顔は影になり、見えづらい。
「あの人は、なんとしてでもわたくしを守ってくれたから」
 そう言う彼女の顔は、なんだか微笑んでいるようにも、見えた。



◇◆◇◆◇



 体が妙にだるい。もしかしたら、風邪かもしれない。
 そうかかりつけの医者に相談したら大慌てされ、あれよあれよという間にベッドに拘束されてしまった。
 ベッドの中でうとうとと微睡みかけながら、ゼルダはぼんやりと思考を試みた。リンクが友達を探す旅に出てから早一月が経つ。彼は今どうしているのだろうか。友達は見つかっただろうか。それともやっぱり、まだどこかでさすらって探し続けているのだろうか。
『旅に出ようと思います。いなくなった友達を探しに』

 そう言って行ってしまった彼が、何かに謝罪するかのように少しかなしい顔をしていたのを覚えている。彼は今、何を思っているのだろうか。
 彼は、誰を想っているのだろうか。
「……考えても、わかるはずがありませんね」
 それが自分でない、ということだけはそれこそ明白にわかるけれど。
 人の想い人なんかわかるわけがない。それは知らない人かもしれないのだ。
「くだらないことを考えているから風邪なんかひくのだわ……皆心配してくれているのだから、眠って治さないと……」
 苦い思考を振っ切ろうと、自分にそう言い聞かせて目を瞑る。体は確かに疲労していたようで、眠りに落ちるのに然程時間はかからない。

 そして、ゼルダは夢を視た。



◇◆◇◆◇



 わたくしの声が聞こえますか。
 わたくしの、呼び声は聞こえますか。
 わたくしの願いが、祈りが届いているのならば、どうか。

 わたくしに返事をください。
 わたくしに、手を……



◇◆◇◆◇



 世界は純白で構成されていた。  真っ白だ。何もない幻の空間が何処までも続いている。
 その中心に一人の人がいた。長い髪を綺麗におろし、美しく佇む女性だった。
 そしてゼルダはその女性の前に立っている。
「あなたは……?」
「わたくしはあなた。平行した二つの世界の、二つの可能性のゼルダ姫」
「あなたが……わたくし?」
 疑問符を浮かべるゼルダに女性は混乱するのも無理はないわね、と優しく微笑みかけてしゃがみこんだ。目線をゼルダと同じに揃え、整った指でゼルダの頬を撫でる。
「あなたに……わたくし自身と同一の存在であるあなたにしか出来ない大事な話があるのです。わたくしはそれを聞いてもらう為にあなたの夢にお邪魔しました。――最後の、力で」
「最後の……?」
 最後の、という単語に体が緊張するのを感じる。ゼルダは震えないようきゅっと手を握った。
 「最後」。なんと不吉な言葉だろう。
「わたくしには、かの魔王ガノンドロフによる眠りの呪いがかけられています。今までわたくしの力で後伸ばしにしてきましたが、もうそろそろ限界です」
「ま、魔王ガノンドロフ? 彼は人間ではなかったのですか」
「……良かった。そちらでは、"人間であるうちに"封じることが出来たのですね。――けれどわたくしの世界のガノンドロフは、トライフォースを宿した魔王となってしまいました。わたくしとリンクの力及ばず……最悪の事態を迎えてしまった……」
「リン、ク」
 リンクというその名前にゼルダは息を呑んだ。彼女が、眼前に立つ女性が説明通り自身と同一の存在であるとするのならば、リンクもまた二人いるのだろうか。
 それとも、まさか……
 ゼルダの反応に、女性が寂しそうな顔をする。ゼルダは悟った。
「……リンクは……わたくしの知っているリンクは……」
「……ええ。わたくし達は二人、ですが彼は一人しかいません。何故なら、あなたがそもそも彼の為に生まれた存在だから」
 自分であるという彼女は辛そうに目を閉じた。苦し気な嗚咽が伝わってくる。
「あなたは……あなたの世界はね、リンクをわたくしの世界から流刑するために創った世界なの……」
「どう、して」
 流刑、という言葉の意味を反芻して、ゼルダは静かな驚愕に襲われた。流刑っていうのはつまり追放するってことだ。罪に罰を与え、流してしまうのだ。
 でも、何故。何故そんなことを。
「どうしてリンクが罰を受けなくちゃならないの」
「わたくしが聞きたいわ、そんなことは。だけれど神様は教えてくださらなかったから」
 そう言うと彼女は自身を戒めるみたいに首を横に振って、それからゼルダの肩を優しくその手で包んだ。ゼルダは少し身構える。彼女の目は暗に、ここからが重大な話なのだと語っていた。
「あなたに、一つだけ大事なお願いがあるの。でもそれは辛くて、悲しくて、そしてきっとあなたにとっては苦しいものなの。だから嫌だったら断って、わたくしはそれ以上引き下がらないから」
「――それは、なんなんですか。辛くてかなしくて苦しいものなんて……そうそうないでしょう?」
「今から眠りにつく、わたくしの記憶の全て。悲喜こもごも全部を引っくるめて、あなたに引き継いでもらいたいの。――でもね、これはわたくしの我が侭にすぎない。そうしたらあなたは全てを知ってしまう。それは絶望の記憶かもしれないわ。都合の悪い記憶かもしれないわ。わたくしはそれを全て承知の上で、あなたに頼むの。わたくしの全てを、無為に失いたくがないために」
「…………!!」
 絶望の記憶。都合の悪い記憶。それが彼女が今託そうとしている記憶の、恐らく嘘偽りのない真実だ。
 ゼルダは慎重に思考する。ゼルダには本来ならばそんな重苦しいものを知る必要はない。けれど。知る意義が何かあるのではないだろうか?
 もう一人の自分がこうして頼みに来ている以上、何らかの意味があるはずではないのか?
「わたくしからも、聞きたいことがあるのです。……その、記憶を受け継ぐことで。わたくしはリンクの力になることが出来ますか」
「……ええ」
「そうですか……。それと――リンクが好きなひとって、あなたなのですか? もう一人の、わたくし」
 ゼルダの問いにびっくりしたような顔をして、それから彼女は少し顔を赤くして愛おし気に目を細めた。その顔はまるで幸福の回想のようだ。
「……今でも彼がわたくしを一番に愛してくれているのだとしたら。それ以上、幸福なことはないわ」
 例えそれが、ねじ曲がった感情の含まれたものだとしてもね、と彼女は小さく付け足して更に、エゴね、と呟く。ゼルダは思った。ああ、このひともまた彼のことを愛しているのだと。彼がたったひとりの最愛のひとに関して頑として主張を譲らなかったように。
 自分なんかとても及ばない次元で、彼らは互いを愛し合っているのだ。
 離ればなれになった今でも。むしろより一層、強く。


「わたくし、決めました。……その申し出を受けさせてください――」


 それならば。自分は懸けてみよう。離ればなれになった恋人達の、力になれるかもしれないという可能性に。ゼルダはそう考えて眼前の自分に手を伸ばした。
 浅はかな判断で。世間知らずで、矮小な子供の浅慮であるとゼルダは気が付かなかったけれど。
 彼女は、もうじき眠りにつくゼルダはその判断の性急さ、危うさに気が付いてはいたけれど。
 意見は合致して、そしてそれは為された。


「最後の……最悪の我が侭にあなたを付き合わせてしまったわたくしを許せとは言えない……だけれど、それでもわたくしは彼が気がかりでならなかったの。姫としてだけでなく。女としても、最低ね」
 眠る幼い自分を見下ろして、ゼルダはそう呟いた。それは懺悔をするつもりはないと言いつつ祈り続けるみたいな、ある種の滑稽さに似たものだった。
「ごめんなさい、辛い記憶を背負わせてしまって」


 目を覚まさない幼き姫が浮かべたかに見えた涙は、やはり幻だろうか。



◇◆◇◆◇



 ゼルダは目を醒ました。熱っぽさは失せ、体の気だるさもなくなっている。風邪は治ったらしい。
 なんとはなしに鏡を覗き込んで、いけない、と目を擦った。涙が滲んでいる。
「ああ……」
 ゼルダは天井を仰ぎ、目を瞑る。



「リンクを、助けなきゃ」



 そしてまた、静かに泣いた。