泣き飽きたのならば笑えばいい。
 心からの笑顔を浮かべることを、
 誰も止めたりはしないから。



動き出す時の針



「お帰り、ダーク」
 ずるり、と。ドアの影から這い出た己が影に笑顔――例のごとく歪な、しかし何故か少し素直な笑みだ――を浮かべ、リンクはダークを両手に抱いた。それは独りじゃないことを確認する儀式だ。ふたりであることを再認識するためのプロセス。
「ただいま、リンク」
 それに対してダークもまた薄く微笑んだ。それはリンクに応えるためでありなおかつ、母の元へ回帰する本能的な安堵からくるものでもあった。尤も後者の自覚性は薄かったが。
「どう、何か見つかった」
「……いや……特にこれといったものは。埃っぽい場所なら山程見付けたがな」
「それは勘弁。……しかし何もなし、とはなあ。何かしらあるかな、とか期待しちゃ駄目だったか」
「大抵の場合裏切られるためにあるんだぞ、期待ってものは。――ところでお前はどうなんだ? 謁見してきたんだろう」
「うん」
 リンクは頷いてダークに顔を近付けた。謁見、というと何だか大袈裟なのだが、今日リンクはハイラル王の御前に出て彼の王と会談に近いことを行ったのである。
「ケーキがすごく美味しかった。そっちが気になっちゃうあたり俺もまだ子供だなー、って思ったよ。……いい王様だね、ハイラル王は。あの人の娘だからこそ俺はゼルダを好きになれたのかもしれない」
「そうか。……確か、変化が起こる以前の歴史は変わらないんだったか」
 ゼルダが創造した神の望んだ世界――喪われた世界が失くしたものは、あくまで「運命が動き出してから」の出来事だ。だからリンクはやはりコキリの森で育つし、ゼルダの父王の人柄が変わることもない。
 変わるのは、コキリの森を飛び出した少年の取る行動とそれに左右される出来事だけ。しかし、それは一見大したことがないように思えてその実酷く大きな事実なのだった。
「ああいう人が王の模範なんだろうな。喋っててわかった。あの王は俺のことをすごく心配してくれてる――それこそ実の子供みたいに」
「愛娘の命を預けるんだからそりゃあ心配はするだろうよ?」
 茶化すように言うダークをそれは違うね、と否定してからリンクはなんだか嬉しそうに目を瞑った。
「あの時、封印を執り行う時にさ、あの王はどうも心とやらを痛めてしまったらしくて。伝わってくるんだ、まあ偽善者に近い感情ではあるけれどね」
「それで、嬉しかった、か。……丸くなったな、以前なら切り捨てていたんじゃあないか?」
 影に繋げて思考に触れ、感情を読み取ってダークはそう発言する。実際リンクの尖りは、一時に比べれば大分ましになっていた。とはいえそれでもまだ随分穿って、疲れた奇異な子供だ。その点においてはもう彼がそれを治せることはないかもしれない。
「そうかもしれないし、そうでないかもしれない。ただね、これだけは言える」
「『ナビィを諦めて、しばらく城で暮らして、感情に区切りが付いた』」
「こら、読んで先に言うな」
 文句を言いつつ、それでもリンクはダークに笑顔を向けた。それは昔彼がよくしていた、自然な笑顔に近かった。
 ダークがリンクの手をほどいて立ち上がる。
「……出来ることをやればいいさ。そうしたら、いずれ、ナビィが帰ってくることもあるかもしれない」
「だと、いいんだけどね。でもやっぱり俺は、ゼルダを諦めることだけは出来ないから。それはきっと根底で燻り続けるけれど。――ただ、やっと姫のことをきちんと見れるようになったかな。彼女は一人の個人なんだって思えるようになった」
 この世界の姫はあちらの世界の姫と似通いすぎていて、それでいて全く違うものだから。
 その明確な差違は始めリンクを傷付けた。愛したひとを忘れることなんて元より不可能もいいところだったが、それに輪をかけるようにしてこちらの姫の姿はリンクに働きかけたのだ。
 見る度にそうであった頃の彼女を想起してしまって。未練はより強く、絶望はより深く。悲しみはより濃く、嘆きもまた深く。
 そういう風に受け止めてしまって、酷く苦しんだのだが。
「あのひとを忘れることはない。でもね、俺は彼女との約束を守らなきゃいけないから。――漸く解ったよゼルダ、あなたが言いたかったことが」


『確かに。あなたが還った先にいるゼルダは厳密にはわたくしではない。けれど彼女は間違いなくわたくしと同じ存在なのです。わたくしの、もうひとつの可能性なのです』

『わたくしという存在に縛られないで、リンク』


「後ろ向きで歩く程愚かなこともない。それは進むことを諦めたってことだから。泥沼だ、確実にさ」
「……何が正しくて何が正しくないかなんてことはわからない。出来ることを為せ」
「わかったふうに言うなあもう、ダークは」
 ダークを小突いて、リンクもまた立ち上がった。小突かれた方のダークは痛そうに軽く頬を擦って、小さく頬を膨らませる。なんだか子供っぽい仕草だ。
 だがそれは別段悪いことじゃあないのだ。彼らは――少なくともリンクは、実際的にはまだ11の子供にすぎないのだから。
「俺さ、このままずっと姫に仕えてここで死のうと思う」
 ここ、と言うときに床を足で指し示してハイラル城の意を示す。
 死ぬまでの決意表明とはまたえらく突飛な話だったが、ダークは素直に頷いた。
「そうか。いいんじゃないか」
「うん。……だから、付き合ってよダーク」
「勿論。その為に俺は在るのだから」
 影の答えにリンクは満足そうに微笑んで。
 また、それを抱きしめた。



◇◆◇◆◇



 少年はある日すべてを喪いました。
 それまでに築き上げてきたものをまるごと、かみさまに剥奪されました。
 当然、その中には愛と忠誠を誓ったお姫さまも含まれていて。
 少年はかなしみのあまり半狂乱になってしまいました。
 かなしんで、くるしんで、なきわめいて、かみさまをのろいました。
 少年に残されたのは深い深い絶望と、だいすきなひとと最後に交わした約束だけでした。

 しばらくして、少年は最後の希望を探しに旅に出ました。
 辿り着いた先は同じ時を刻み続ける閉鎖された世界。
 そこでくるってしまった少年は自分の影と出逢います。
 少年はよろこんで、うれしくて、なんとかもとのかたちを取り戻しました。

 少年は異世界の時間を元通りにして、また旅を続けましたがとうとう探しものはみつかりませんでした。
 でも、もうよいのです。
 少年はもう一人の自分を手に入れて、最後の希望をみつけられなくてもなんとか生きていけるようになっていたのです。
 少年はお城に戻って、喪った世界のお姫さまに仕えることにしました。
 生活は順風満帆で、おだやかに時は過ぎていきました。
 世界は平和で満たされて。
 やがて少年は少年ではなくなりました。

 ――そして、少年は、今――



◇◆◇◆◇



「あー、なんだか柄にもなくわくわくする。旅立ちか、なんか俺以上に急だなこの流れは」
「もう、人事だと思って!」
「だって人事だもん」
「何言ってんのヨ! リンクの子孫なのヨ?!」
 人事じゃあないでしょー!! と怒鳴ったがリンクは鼻歌で誤魔化す。ナビィは羽を慌ただしくばたつかせて怒りを露にした。
「だってだって! 何年待ったと思ってるの?! 三百年ヨ三・百・年!! それでやっと……フロル様との約束を果たす時が来たの!! ねえちょっと、聞いてるのリンク!!」
「はいはい、聞いてる聞いてる」
 明らかに聞いてなんかいなさそうな態度でナビィをあしらってリンクはふわりと浮上した。眼下にフィローネの森が広がる。リンクの視界の中心を、大型の黒い狼が疾走していた。
「あの子を導いて。託し終わったら俺の役目は本当に終わりだ。……そしたら今度こそ本当にさよならなんだ……」
「湿っぽいコト言わないでヨ。ナビィあんまりそのコト考えないようにしてたのに……」
「確かに、このことを考えるのはもっと後でもいいか。何せ、ハイラルを救うのは簡単なことじゃあないからね。あの子はどれだけかかるかな」
 楽しそうにくすくすと笑って、リンクは駆ける獣を追う。精霊フィローネに託された光の器にひとつ、またひとつと雫が満たされていくのが確認出来るとくるりとターンして森の神殿へと通ずる道へ向かった。

「君の進む道に光あれ、可愛い俺の子孫」

 吹き抜けた風は、新しい物語の幕開けを予見しているかのようだった。