――その時が来たのだ さらば、友よ いつか、また、 タソガレノトキ カーテンが微風に揺れる。 静かな室内に、穏やかな午後の光が差していた。その光に照らされる体は年老いてしわが深い。かなりの老体だろうと察せられた。 その老体は、安らかな顔で――既に永久の眠りについていた。 「妙な気分だな、自分の死に顔を直視するっていうのは。あーあ、しわだらけでみっともない」 「そういうことを言うものじゃないだろ? 昨日までその体に収まってたんだ」 「それでもさ、言いたくなるんだよ。自分だから……今、この姿に戻ってるから尚更」 少年の姿をした霊魂は同じく少年の姿の影に語りかけた。彼らの容姿は驚くほどよく似通っていた。違うのは肌の白さ、瞳の色、髪の色、纏う衣服の色――そうした些細な点だけだ。 「しかし。どうして俺はここに留まっているんだろうな」 「……」 「死んだら何か出来ることが増えるのかなー、とかさ、余計な期待が増えるからこういう猶予はあんまり要らなかったんだけど」 はあ、とあまり気負わないふうに言う少年に影は微妙な眼差しを向ける。浮かび上がる表情は哀切を示していた。 影の唇が、微かに動く。何か言うのを瞬間躊躇い、つぐまれる。だがそれは決意したようだった。次にははっきりと口が開かれた。 「話があるんだ、リンク」 「……何?」 尋常ならざる気配を感じて少年がびくりと反応した。瞳孔が開かれ、しかしすぐに平静を取り戻す。 「大事な話。多分、最初で最後の」 「そう」 影は少年の手をいつものように握ろうとし、しかし思い当たってそれを取りやめてから彼を真っ直ぐ見つめた。ぴったり同じ目線で、視線が交差し絡み合う。二人は目を閉じて、またすぐに開けた。きっかり同じタイミングだった。 「俺はもう、お前の傍にいてやれない」 影は静かに、しかし確かにそう告げた。少年が信じられないというふうな顔をする。動揺を隠す気もなく、露にしていた。 「……どうして。約束したのに」 「ああ、あの時確かに俺は誓った。永劫共にあると。可能である限り傍に在り続けると。――だが、もう時間だ。お前に、迎えが来ている以上は」 影が少年の背後を指差す。少年は振り向いた。そして、驚愕に言葉を失った。 「ナ……ビ、ィ、」 「リンク」 蒼い小さな妖精が、羽を煌めかせて浮かんでいる。少年は泣きそうな顔をして、しかしそれを必死に堪えていた。 少年がまだ正しく、少年であった頃。妖精ナビィは見付からなかった。 必死で探して、あらゆる場所をさまよって、面影を追い求めて、しかしとうとう見失ったままそれきり、諦めてしまった。 その、いなくなってしまった「大切なともだち」が、今手の届くところにいる。 「Hello、リンク。……ただいま」 「ああ……お帰りナビィ」 少年は妖精を霊体の手の上において、愛おし気に頬を擦り寄せる。霊だが触れることが出来た。 「やっとリンクに会えたわ、ナビィ泣きそう」 「泣きたいのは俺だ。……ねえ、どうして?」 「女神様ヨ。……リンクはね、あなたを守護する女神フロル様に時間をもらったの。だから、ナビィは少しの間リンクと一緒にいられるの」 「そういうことだ」 影の声が響く。少年は振り向いた。影は淋しそうに笑った。 「お前は死して尚女神に愛され、死後の体を得た。……その体は俺の一番苦手なもので出来ててさ、俺はもうお前に触れることが叶わないんだ。それに、今はもうナビィがいる」 「ダーク」 「お前はもう、俺がいなくても大丈夫だ」 「ダーク」 「だからお別れだよ、リンク」 「ダーク!!」 妖精を肩に置いて、少年は焦燥して影に手を伸ばす。影は静かに目を瞑って、それを避けた。 「行かないでよ」 「それは叶わない願いだ」 少年の懇願を、影は寸分の躊躇いもなく冷酷に切り捨てた。でもそれは少年を想う故の行動なのだ。 愛し、守りたいと願うからこその行動なのだ。 「忘れたか、俺の体はガノンの力で出来ていると。……元来相容れないもの同士だったんだ、別れが来るのは必然だろう」 「でも」 「我が侭言うんじゃない。お前はずっと探していたものを手に入れたんだ。俺はもう必要ない」 「……そっか……」 影の言わんとすることを解し、唇をきゅっと噛み締めて少年は俯く。つまりはそういうことなのだろう。別に影は少年を見捨てたわけでも、見放したわけでもない。……ただ、時が来てしまっただけなのだ。 最初っから、きっとそれは定められていたのだ。 今度こそ、少年は泣いた。 「さよなら」 短い別れの言葉を最後に、影の姿が文字通り闇に溶けて消えていく。少年はもう追い縋らなかった。それは影の望むところではないから。 ぽろぽろと零れる涙は、きらきらと輝いた。美しいとすら言えるものだった。 それを見て妖精は思う。きっと少年は眩しすぎたのだろうと。 水の神殿で生まれた彼の魔物には、汚れのない少年の魂は眩しすぎたのだ。 蟲毒に近い、美しさだったのだ。これ以上長く触れていたら壊れてしまう。 少年は泣いたまま、しばらく微動だにしなかった。妖精はそれに何も言わない。影は妖精の代わりに何十年も少年に付き従ったパートナーだった。心を抉られるに近い悲しみもあってしかるべきだ。 自分がいなかった数十年間のことは想像するより他に手段などないけれど、初めの数年は汚泥に沈んでいるようだったと妖精は事前に、影より聞いていた。 ◇◆◇◆◇ 「あいつは汚れきって汚濁していて、どうしようもなかった。俺が当たり前に棲み付けるくらいに、澱んでいた。川の流れが戻ることはなく、却って汚ならしくなっていくようだった」 「……それでナビィは……女神様にお許しをもらえなかったんだ……」 「いや、それは違う。妖精ナビィはあいつの最後の希望だった。それさえいればああはならなかった筈なんだ」 「じゃあなんでナビィはリンクの傍に行けなかったの」 「わからない。俺は女神とやらがそう定めたのだろうとばかり思っていたし。――ただ、俺がこういう形を得られたのはその為だから。それについては、俺はあのろくでなしどもに感謝している」 「ろ、ろくでな……」 女神になんて酷いことを、とナビィは憤ったが目の前の存在が属するものを思い出して息を吐く。ダークリンク、彼は魔王を核とする生命なのだ。神に良い感情を抱いているわけがなかった。 「……ナビィ疑問なのヨ。そんな状態にまでなったリンクが、よくあれだけ穏やかになったわネ?」 「見たのか、今のあいつ」 「さっきチョロッとネ……」 そうか、と影は穏やかに頷いて綺麗に微笑んだ。到底魔物であるとは思い当たらぬ程に美しい微笑みだった。 「俺も働きかけたが、大方は姫さんの力が大きいな。本当によく尽力してくれた。一部、話せない事情もあるが」 影の言葉にナビィは素直に納得してありがとうネ、と恥ずかしそうに羽をぱたつかせる。影は誇るふうもなくただ単純にどういたしまして、と返答した。 「明日、リンクは寿命で亡くなるわ。そしたら、フロル様がリンクに霊体をくださるから、ナビィはその時リンクのところに行く」 「ならば俺もその時別れを告げよう。……元よりいつかはそうするつもりで、ずるずると関係を引きずっていた。ここらが潮時だな。まあ大丈夫だろう、独りになるわけではないのだから」 「リンクと別れて、アナタはどうするの?」 「姫さんと交わした契約がある。俺はそれに則り役を果たす」 影の言葉に疑問符を浮かべ、けれどナビィはぷるぷると体を振ってそれを頭から追いやった。気にしたって仕方がない。 それから、そのまま去ろうとする影を妖精は呼び止めた。 「……あのネ、」 「……何か?」 影がいぶかんで振り向く。 「リンクの傍にいてくれて、ありがとう」 「礼を言われる程のことはしていない。……この後は頼んだ」 「任せてヨ」 妖精は人でいうところの「胸を張る」にあたる仕草をする。影は苦笑して手を振り、また前を向いた。それきり影は振り向かなかった。 ◇◆◇◆◇ 「あのネリンク。フロル様はこう言ったわ――『ディンの仔は再び蘇る』」 「ああ、やっぱり……薄々予感はしてたよ」 ガノンはしつこいからね、とリンクが面倒臭そうにぼやいた。 「女神ディンも飽きないなあ。結局、どちらの世界でも似たような争いを起こしたがるんだから……っと。もうあちらに俺はいないのか」 だから、封印したガノンに力を与えたのかもしれないなとリンクは結論付け、そして言ってから急に思い出したように手を打った。 「しまった。俺、聖地に封印したんだっけ……今思うと考えなしな行動だ……」 「何やってるのヨリンク……」 ナビィが呆れた声を出す。リンクは誤魔化すように咳き込んだ。 「それでナビィ、女神様は他にはなんて?」 「誤魔化したわネ……ま、まあいいわヨ。えっとネ……」 ナビィが途切れ途切れ、彼を守護する女神フロルの言葉を伝える。リンクはそれにじっと耳を傾け、時折頷き、そして思案するように目を瞑った。 「……なるほど。そうか、そういうことか」 立ち上がり、リンクは彼方を見やった。空の向こう――かつて、この世界を創った女神達が還った先。 物語の始まりが決まった場所。 「女神達の思惑は正直信用ならないけれど、そうだね、それは確かに俺が成さなければならない役だ」 神に愛された始まりの勇者は。 こうして、女神フロルの仔として行動を起こすこととなるのである。 ◇◆◇◆◇ 「古の勇者の服、か……ハイラルが危機に瀕するのは初めてじゃあないんだ」 「んー、らしいな。ま、そりゃあトワイライトがあるんだから……おっと。それよりも森の神殿だ、森の神殿」 「はいはい。ちなみにミドナ、俺はまだ君のことを完全に信用したわけじゃないからね」 「別に構わないぜ、互いの利害さえ一致してればな。……クククッ?」 掴み所のない謎の存在、ミドナがどこか影の中に消えていくとリンクは頭を振って大きく溜め息を吐いた。えらく疲れてしまった。これから神殿に向かうのだというに、こんなので大丈夫なのだろうか。 やがて道が細くなり、視界に神殿が入る。と、リンクは手前に金色の狼がいることに気が付いた。毛並みは美しく光り輝き、目は紅い。 リンクは咄嗟に身構えたがどうにも気持ちがざわめいて落ち着かない。――悪い気を感じないのだ。むしろその真逆なのである。 「なんだ、これ――?」 距離を慎重に詰め、寄っていくと突然金色の狼がリンクに襲い掛かってきた。避けきれず、その直撃をもろに喰らってしまう。 その衝撃でリンクの意識はフェードアウトした。 そこは白く淡い空間だった。遠くにハイラル城に似た白亜の城が見える。だがそれには若干の違和感があった。当然だ。リンクには解るはずもなかったが、それは時の勇者が住まっていた当時のハイラル城だったのだ。 見回すと、こちらを凝視したまま佇んでいるものがいた。鎧を纏い、剣を左手に携えた骸骨だった。 「敵か?!」 慌て、リンクはそれに斬りかかる。だが一太刀を入れる間もなく一閃で払いのけられてしまった。 「勇無き剣に力は宿らぬ」 「?!」 「運命に翻弄され勇者になった身とはいえ……今のお前の力ではその緑の衣が泣くわ」 「……何者だ、あんた」 リンクの問いに骸骨剣士は答えない。骸骨剣士は黙って剣を構えた。 「勇をなし、力を得んとすることは即ち力を得、勇をなすこと。……お前が真の勇気を得てこの未曾有の危機に瀕したハイラルをその手で救いたいと願うのならば……」 途端、骸骨剣士の気が膨れ上がる。それは激しい殺意を向けられたに等しい恐怖をリンクに与えた。常人ならば逃げ出してもおかしくはない。 けれどリンクは恐怖を堪え、剣を抜き構えた。額に汗を滲ませながらも骸骨剣士を睨み付ける。 それを見て骸骨剣士は満足そうに口端を歪め、そして高らかに宣言した。 「――我が奥義、その身を持って習得するがいい!!」 きぃん、と。 剣と剣がぶつかり合う音が響いた。 「これが……奥義」 手に残る感触を握り締めるように、リンクは左拳を握る。何かいつもと違う感覚だった。不思議な心地がするのである。 リンクは骸骨剣士の顔を眺め回した。けれど彼の顔に肉はない。窪んだ穴に闇を湛える頭蓋から感情を読み取ることは出来なかった。 「左様、それこそが奥義"止め"。お前に伝えるべき奥義はまだある……だが、それは気高き獣の精神を備える勇者の血族だけに受け継がれるもの。力を得て勇を磨き、新たなる脅威を打ち砕く為に更なる力が必要となった時、私を呼べ。必要に迫られているならば必ず私は現る」 「……あなたは、何なのです」 「いずれ判るかもしれないが、永遠に判らないやも知れぬ。……今は知らずともよい」 骸骨剣士は静かにそう語ると剣を背の鞘に納めてリンクに背を向けた。リンクは慌てて追うが、身軽なのか骸骨剣士の方が歩が数段早い。追い付けないまま、どんどんと距離が開いていく。 「『勇無き剣に力は宿らぬ』。……この言葉を忘れるな」 「あっ、待っ――」 待てと言われて待つ者などそうそういない。ご多分に漏れず骸骨剣士は待つなどという無駄なことはしなかった。間もなく骸骨剣士の姿はリンクの視界から消え失せ、そして白の世界もまた、消滅してしまった。 |