覚悟はあるか?
 全てを擲って、みっともなく泥にまみれて、
 それでも、なお生き抜く覚悟は――
 あるか?



聖と負の継承



「俺はお前の覚悟を問う」
 風がざわめくのを肌に感じ、リンクは身構えた。時の勇者であるらしい青年の目がきゅうっと細まる。アクアマリンの蒼い瞳に、瞬間だけブラッドルビーの紅が差した。
「ま、とはいっても別に取って食おうってわけじゃあない。だからその、うん、頼むからそんなに怯えるな」
 お前はつぶらな瞳の子犬か、と言われリンクははっとして向き直った。紅い瞳。今はもう変わらぬ蒼に戻っているけれど、一瞬、ほんの一瞬だけ見えたその色が酷く恐ろしかったのだ。
 リンクが小さく、こくりと頷くと彼はよろしいとばかりに笑って、手を伸ばした。
「話をしよう。この剣と、それにまつわる歴史の」
 リンクはその手を、取った。



◇◆◇◆◇



「いつ造られたのか。誰が造ったのか。それら一切は不明だ。ただ遥かな昔からそれは存在した。一説には賢者が鍛えたとか言われてるが、俺はそれよりも神が創って与えたっていう説の方が近いとは思う」
「ああ、それでマスター……主の剣ですか」
 仮説だから鵜呑みにはするなよ、と軽く注意すると時の勇者は背負った鞘から剣を抜いた。リンクが抜こうと手にかけたのと同じ、銀の光を放っていた。
 取り出したマスターソードをすっと掲げ、彼はそれをリンクに向け、そして引っ込める。切っ先を向けられたことに、リンクの体が反射的な警告を発した。
「お前はこの剣をなんだと思っている?」
「えっ」
「どう思った。この剣を、見て」
 時の勇者の唐突な問いかけに一瞬驚き、回答につまる。リンクは慎重に言葉を選んだ。
「ええと……まず、単純に何か強力なものなのだろうと、漠然に。姫にザントの力を解くことが出来るかもしれないと教えていただいた程度でしたから。それで、見た時は、その……美しい、とそう思いました。神々しくて何処か躊躇われた」
「では、この剣を何だと思う」
 この質問には、わりとすぐに答えられた。
「勇者の……剣。退魔剣。でも、多分――」
「多分?」
「ふつうじゃ、ない……何か、きっと何か要求される」
「へえ、鋭いな」
 リンクの言葉に時の勇者は少し意外そうな顔をしてその通りだ、と肯定した。口元は笑っていたが目は笑っちゃいなかった。
「そうだよ、確かにその通りだ。こいつは対価を要求してくる。でもまあそれは、『勇者である』ってことを受け入れるのと同義だ。そう深く考えることもないさ」
 ただ、何かひとつ失うだけだよ、と彼は何でもないふうに言った。
「お前はもう平穏を失っただろう? それで十分だ」
 そう言う彼の顔は酷く哀し気で、淋し気で、儚かった。なんだかすうすうと通る冬の凍風に似ていた。
「さて。じゃあ"これ"はなんだと思う」
 累々と積み上がる死骸の山を指差して時の勇者は言った。
「夥しい亡骸。こいつらの共通点は何だと思う?」
「…………!」
 リンクは答えられなかった。それはあんまりにも、単純で当たり前でかつ無慈悲な答えだった。
「……考えを確かめるのが恐ろしいか?」
 リンクは口をつぐんで、俯いてしまった。時の勇者はそうか、とまた呟いてリンクの顔を無理矢理上げ、無造作に散らばる屍の塊を直視させた。
「この屍は今までにこの剣が屠ってきた"命"の全てだ」
 時の勇者は淡々と述べた。
「マスターソードはあくまでも"一つの正義"に過ぎない。絶対正義なんてものは存在しない。個々人に自由意思があるからこその「いきもの」である以上、意見の相違はあってしかるべきだからな。解りやすく言えば……俺たちにとって敵でしかない奴らも見方によれば正義だってことさ。神殿を浸食する親玉がそこに住み着いた雑魚モンスターどもにとって絶対であるように」
 マスターソードを左手で弄び、時の勇者は続ける。
「この剣を手に取り、掲げ、振るえばお前もまた一つの正義と成り得る。しかも多数の正義にだ。だがそれは決してお前のいのちが特別だからではなく、種として優れていたからでもなく、ただ民衆に必要とされた結果にすぎない。まあ尤もそこを履き違えるような奴にこの剣は抜けないがな。それでも、驕り溺れることは有り得るから」
 時の勇者の言葉には、多少の誇張が混ざっていた。実際のところリンクは特別な――神の仔の流れを汲む直系子孫なのだ――存在であると言えるし、優れた血統をひいているといえばそれは嘘にはならない。だがその主張は歪みを生む元だから、道を外す要因となりかねないから、彼はそれを否定したのだ。
 想う故の、しかしやはり過保護ではある。
「つまりはそういうことなんだ。この剣を手に取るというのは即ち最大多数の世界、その命運を担うということで数多のいのちに責任を持つということでもある。……敵とみなしている魔物どもにも命はある。例えそれが不死の兵士であるとしても」
「……? 矛盾していませんか」
「マスターソードは全てを消滅させる」
 時の勇者は声の口調を変えずに述べたてる。
「使用者が不要と見なしたあらゆるものを、最終的に無に帰する力を持っている。破滅に導く方がまだ可愛い気のある力だと言えるだろうよ。存在は残るんだからな」
 存在したのだという事実すらも書き換えてしまうから、誰もそのことを覚えていないのだと彼は続ける。そんなものは初めからなかったのだと言わんばかりに。消えて、滅されて、無くなる。
「だが俺は覚えている。それがどんなにちっぽけな、雑魚の一匹でも、この腕で斬り払ったものは全て覚えている。その重みもある意味でこの剣をを使う対価だと言えるかもしれない。……ああ、でもまあ、トライフォースの最後の一柱を担う"あいつ"なんかは別だけどな。あれほど強大なものはそうそう簡単に消えたりはしないさ。だからお前に、苦労させているんだが」
 "あいつ"とやらのことを尋ねようとしたリンクを、時の勇者は「それ以上は聞いてくれるな」と制した。何やらまずいことを、うっかり口を滑らして言ってしまった感じらしい。やってしまったという焦りからだろう、彼の額をつ、と冷や汗がしたるのが見えた。
 時の勇者は気を取り直すと、一つ咳き込んでからリンクの頬に手を触れた。リンクは熱さも冷たさも感じなかった。ただ、手を触れられた感触だけが、伝わってきた。
「問おう」
 静かに、蒼の瞳が問いかける。

「お前は何をもってこの剣を望む?」

 それは恐らく、非常に難しい問いだった。
 けれど驚いたことに、答えはすぐにリンクの口をついて出た。淀みなく、まるでそんなことは初めから解りきっていたみたいに。

 そう。その答えを、そう言うことを恐れる必要など、本当はないのだ。

「俺は……俺には、この手で世界を救おうだとか、そういう大それたことは言えません」
「うん」
「ただ、俺を育ててくれたトアル村の人たち、カカリコ村、ゴロンの里、ゾーラの里、城下町……それから、ゼルダ姫。俺が出会ってきた人たち、その全ては無理かもしれないけれど、俺がこの手で守れるものをせめて守りたいんです」
「うん」
「だからその為に、俺はマスターソードを抜きます。それが許されるのならば」
「そうか」
 時の勇者は満足そうにリンクの答えを反芻して、リンクを抱き寄せた。
「そう、それでいい。多くを望むな。俺たちも根本的には人間でしかない、全てを救うなんてのは夢物語に過ぎないのだから。ただ、出来ることを為せ。お前の手が届くものは、諦めるな」
 旅立つ子の別れを惜しむ父のように、今一時だけ、その背に背負われる重荷を肩代わりする。自分は辛かった。誰も助けてくれることのない深淵の孤独のふちで、ひっそりと泣いたこともあった。この子にそれは負わせたくない。
「合格だ。剣を持って行くべきところへ行け。俺にはもう守れない、今のハイラルを、あの人が好きな国を――頼む」
「あな、た……は……。……もしかして、時の勇者って……」
 リンクの体が震えている。身震いだ。自分の推測に対して震えているのだ。時の勇者は微笑んだ。透き通った微笑みだった。
「……そう。俺の名前はリンク。はじまりを創ってしまった、罪深く無知な、お前の先祖だ」
「ご先祖……様」
 小さく復唱したリンクから、時の勇者はぱっと手を離した。リンクはよろめき、体勢を立て直す。
 ふっと時の勇者が「遠くなった」。靄が何処からともなく立ち込めて、白っぽく視界が染まってゆく。
「お前の信じる道をゆけ。そこに答えがあるはずだから」
「……はい」
 リンクはそれを追い縋ったりしなかった。それは無駄な事だと、何となく解っていた。
「忘れるな。お前は一人じゃない」
「はい」
 ますます靄は濃くなり、乳白色が世界を埋め尽くした。最早時の勇者の姿は見えない。ただ、声だけがリンクの体に、耳にこだまする。
「お前の行く道に光あらんことを」
「はい!」
 聞こえるかな、と考えながらリンクは返事を叫んだ。けれどそれを確かめることは出来なかった。既に真っ白に染まりきってしまっていた世界はその後すぐに暗転して、気が付けば元通り聖域に立っていた。
(……今の?)
 ほんの少し前のことなのに、さっきの出来事はもうぼやけてきちんと思い出せなくなっている。記憶には不自然にノイズがかかり、話していた相手の顔を詳細に思い出すなんてことはもってのほか、彼の声ですらあっという間に薄れてしまって記憶に呼び戻せない。
(でも)
 『時の勇者』が。彼が自分にこの剣を託してくれたのだということだけははっきり思い出せた。

 リンクは恐る恐る柄にかけている自分の手を見やり、それを一息に引き抜くと空の彼方へ向かって掲げた。一枚の絵画にも似た、神秘の光景だった。


 それが、光の勇者が誕生した瞬間だった。