耳を澄まして聞いて
 歴史のすすり啼く声を



悠久の曲がり角



「ようこそ、我が城へ」
「この城は姫の城だ。ガノンドロフ、お前の城じゃない」
 すぐさま切り返された勇者の否定の言葉に魔王は静かに笑う。愉しんでいるのが窺えた。愉悦に浸っているのだ。
「"あの"子供が成長したらこうなったのか? ……違うか。ここまで澄んだ目はしておらなんだ――」
「子供?」
「関係のない話だ」
 ふん、と息を吐き魔王は鞘に収まったままの剣で床を鳴らす。歪な障気が勇者の足を撫でる。ぞわりと、這うような感触に飛び退きたいのを堪え勇者は聖剣を構えた。
「……間違いなくアンタがガノンなのか。ククッ、死ぬほど会いたかったぜ!!」
「愚かなる影の民の女王か」
 口端を嫌みったらしく歪め、魔王は右甲を掲げる。黄金の聖三角が光り眩しく輝いた。光はすぐに伝播し共鳴する。ぐったりと眠るゼルダの右手と勇者の左手もまた同様に煌めいた。
「ちっぽけな力を手に入れた程度で神に逆らい見捨てられた哀れな一族の長」
「……何とでも言えばいいさ」
 挑発めいた言葉を受け流し、トワイライトの姫は魔王を睨む。何が可笑しいのかまたしても魔王は口先で笑った。嘲っているように見えた。
「くだらぬ。実にくだらぬ。……お前たち一族には致命的に欠けていたものがあった。教えてやろう、影の一族に足りぬのは強大な力よ。神に選ばれた強者のみが持ちうる絶対の力……それがわからぬのか?」
 せせら笑う魔王の台詞に、トワイライトの姫は沸き上がる激昂を抑えた。ここで噛み付いたってなんにもならない。彼女とてわかっている。それが、自分とはまったくもって次元の違う相手だということは。
 しかし彼女は怯まない。屈さない。
 隣の、旅を共にした青年が何にも脅えなかったように。
 何にでも、立ち向かっていったように。
「……自惚れるなよ! オマエが絶対なる力を持つ選ばれし者だと言うのなら……ワタシは、ワタシの全てをかけて否定してやるよ!!」
「影が光にほだされたか」
 地を這う虫が踏み潰されてなお足掻くのを見つめるかのように魔王は笑い続けた。 「面白い、ならば否定してみるがよい――その友情……愛とやらで!!」
 魔王の体が黒い粒子となり中空へ溶けてゆく。溶け出した粒子は、真っ直ぐにレリーフにもたれ掛かっているゼルダへと飛んでいった。



◇◆◇◆◇



「……性格悪くなったなガノン」
「まさかお姫様の体をのっとるとは流石のナビィも思いもよらなかったのヨ」
「しかしそれを思うと、偉いなあの子は。俺があの立場だったら怒りに我を忘れてハイラルを焦土にしちゃったかもしれない」
「リィンク、それ、冗談になってないわヨ」
 ナビィは理性を失って衝動のままに剣を――神の力を振るうリンクを想像してみた。想像の中のリンクはものの数分で城を吹き飛ばし、更に数分後に辺り半径数キロの魔物をガノンを含め殲滅していた。まったくもって冗談ではない。
 さー、と冷や汗を垂らし出したナビィを見てリンクは少し眉を動かして笑った。
「……何を想像したのか知らないけど、そんなに酷くはないと思うよ」
「わかんないわヨ。あの頃のリンクならありえるかも……」
「だからさ。今はもう、そんなに酷くないって。多分ガノンを瞬殺――まあ、あいつ死なないけど、しちゃうくらいで」
「十分ヨ、それでも」
 ナビィがじとっとした視線を向けてきたのでリンクは話題を逸らそうと改めて眼下を見た。ゼルダ姫、いや、その体に乗り移ったガノンが自らが放った光球を跳ね返されもろに被弾し、痙攣して地に墜ちていくところだった。
 なんとなく見覚えのある光景だ。
 つっこもうかな、とリンクが悩んでいるうちにガノンはゼルダの体からひっぺがされた。青白く、奇妙な文様が刻まれていた肌は元の薄桃がかった色味を取り戻して二人のリンクを内心ほっとさせた。姫君が黄色い邪な双貌で闊歩する姿などそうそう見たいものではない。
 引き剥がされた黒い粒子は寄り集まって巨体を形成した。獣だ。魔獣ガノン、かつてリンクの前で理性を失った魔王がとった姿。
 "それ"はリンクが覚えていた姿よりもずっと小さな体躯で、何を思ったのか今度は四足歩行だった。怒り狂って本性を現したのではないようだ。どうやらまだ余興気分でいるらしい。
「……え? 傷?」
 自らも獣に変わって戦う子孫が、これ幸いとばかりに攻撃し出したガノンの腹部の傷跡を見てリンクの顔が訝しむように歪む。有り得ない傷跡だった。確かにリンクはそこに一筋の傷を負わせた。でもそれはあちらでの出来事だ。懐かしくも狂おしいあの世界で、暴走したガノンに致命傷として刻んだ一太刀なのだ。
 こちらの世界ではごく単純に首をはねて殺した。あんな傷が残るわけがない。
「……どうして? ディンの気紛れならいいんだけど」
 もし、何らかのきっかけで、可能性としての二つのガノンの間で干渉が起こっていたとしたら?
 何らかのきっかけで、ひずみが生じているのだとしたら?
「――どっちにしたって俺には関係ないか」
 リンクはかぶりを振って、思考を止めた。関係ない。自分はもうすぐ役目を終えるのだから。
 いくら考えても真相はわかりっこないし、わかったってなんにも変えられないのだから。



◇◆◇◆◇



 結局のところ、復活した魔王の目論見は阻止されてしまって達成されることはなかった。ハイラルの片田舎で育った青年は剣を取りそれを討伐せしめ、英雄として国に迎えられることとなる。
 しかし魔王は盟約に縛られ死ぬことがままならず、その為「ここではない世界」で長い時間眠ることになった。彼が再び目覚めるのはそれからたっぷり三百年たった後のことである。

「これが光と闇の血塗られた歴史の始まりだと思え」

 それが魔王が光の勇者に贈った最後の言葉だった。


 ふわり、と少年が降り立つ。ガノンは顔を上げた。少年の姿を見てにわかに笑む。
「貴様か」
「覚えててくれたんだ?」
「ヒトとしての命を断った相手の顔を忘れるわけがなかろう」
「ああ、言われてみればそうだね。あんたはしつこいから」
 自分の首を切った張本人を忘れるなんて有り得ないか、とリンクはけらけら笑った。何故かガノンはそれに対して嫌そうな顔も怒りの表情も浮かべなかった。
「……随分と"ふつうに"笑うのだな。あの時は死んだ魚のようだったと記憶しているのだが」
「死んだ魚とは随分だね」
「客観的に述べたまでた――時の勇者」
 嫌そうにひきつっていたリンクの顔が一瞬にして驚愕のそれに変わった。けれどすぐに彼は溜め息を吐いて微笑んだ。粗方は推測出来ていたことだ。
「ディンが教えたのかな。余計なことを」
「尤も大して役に立たない情報ではあったがな」
 起きてすぐに刺されてしまってはどうにもな、とぶつくさ言いながらガノンは佇むリンクの頬に手をやった。傍目に見れば孫を慈しむ祖父にも似て、なんだか滑稽だった。二人は血で血を洗うように殺し合った宿敵なのに。
「……まだ、この国に未練があるのか」
「まだ、な。勿論貴様とゼルダの持つものにも」
「さっさと諦めてくれよ。そうすれば楽になれるかもしれないのに」
「そういうわけにもいかぬ」
「そっか」
 リンクは哀しそうな、それでいて少し困ったような表情を浮かべてガノンの手を払う。
「わかった」
 それ以上リンクはそのことについて言及しなかった。ガノンもまた、それ以上のことには触れたがらなかった。


 いくばくかの会話を交わした後、ガノンは静かに目を閉じた。そろそろ時間だ。また、誰かの憎悪が呼び戻すまで彼は眠り続ける。
 自分を呼ぶ誰かはきっと力を望むだろう。だから望み通り欠片を与えてやって、最後に成果を奪い取るのだ。邪魔は入るだろうが、それは今気にしてもどうにもならないことだ。だから今はただ、微睡む。
 深淵の底で、マスターソードが抜かれるその時まで眠る。
「おやすみ、もう二度と会うこともないけれど」
 どこか高いところから降ってくる声を、ガノンは遠のく意識の隅に捉えた。まだいたのか、と苦笑に近い感情を覚える。
「また相見えることもあろう――貴様がはじまりなのだから。そうそう簡単に彼女らの束縛からは逃れられん。時の勇者、貴様も……あの愚かな小娘も、……そして我も」
 それ以上の言葉をガノンが発することはなかった。深淵に沈み込んだ魔王の意識は閉ざされ、リンクの抗議が届くこともない。


「……ばいばい、ガノン」

 それでも、閉ざされた常闇の淵でリンクは手を振った。

 届かないと知っていたけれど。