泣き声がきこえるの。
 泣いているわ、ちいさなこども。
 ひとりぼっちで泣いているわ。
 「たすけて」、って。
 泣いているわ。



さかさまに落ちる、



「あー、その、昨日は急にごめんな、チャット……うん、なんていうか……気持ちが昂ってたというか……」
「ほんとに大丈夫なのぉあんた……また急におかしくなったりしないわよね」
「た、たぶん大丈夫!」
「……どうだかぁ」
 オドルワを倒した後、狂ったようになっていたリンクだったが、半刻程の後に苦しそうに笑って急に"いつも通り"に戻ったのだった。
 口調も至って普段通りで別段変なところがないのでかえってチャットはゾッとした。二重人格なのかと疑ったぐらいだ。
 それでいて狂ったようになっていたことには自覚があったみたいだから、まあ二重人格ではないみたいだけどもそれはそれで何かしらおかしい。
「ねえリンク。あんた、一体……ううん、やっぱりいいわ。あたしはもうこのコト気にしないことにする」
「え? ああ、ありがとう? ……なのかな」
「人それぞれ事情とかあるもの。あたしはこの街ではあんたのパートナー妖精よ。心が広くなくてどうする」
「……そっか。チャットらしいね」
 チャットの言葉に安心したように頷き、リンクは彼女を両手でふわっと抱いて胸の辺りまで引き寄せる。
「正直チャットに嫌われるかと思ってたよ」
 リンクの告白にびっくりして、チャットは目を丸くした――どこが目か、わからないけど。
「なんで? なんであたしがあんたを嫌いになるの」
「いや、だって気持ち悪かっただろあの時の俺」
「まあ確かに怖かったけど……嫌いにはならないわ。だってリンクはリンクじゃない?」
 「だから大丈夫よ、あたし側にいるからね!」と小さな妖精は胸を張ってリンクに告げた。
 閉鎖された時の中でも、味方だと言ってくれたのだ。
 チャットは永遠普遍の存在ではなく、クロックタウンでの三日間限りのパートナーだけれどその言葉は素直に有り難かった。今のリンクには誰かしら支えてくれる人が必要だったのだ。表には出さずとも、彼は崩壊を続けていたから。
「ありがとうチャット。お前のそういうところ大好きだよ」
「えっ?!」

 本当は。
 こうして喋っている間にもひび割れは拡大して、足元はぐらついて、ぱっと見普通に見えてもそれは単に取り繕っているからにすぎない。
 そのことに、今はまだ。
 リンク本人も気が付いていなかった。



◇◆◇◆◇



 道具屋のおばあさんを助けてお面を貰う。
 牧場のクリミアを助けてお面を貰う。
 アンジュとカーフェイを助けてお面を貰う。
 誰かを助けて、お面を貰う。

 そして時の歌で初日に戻って、全てなかったことになる。
 それの、繰り返し。
「んー、また初日か。時間があるのはいいけどなぁんもなかったことになっちゃうのは淋しいわー」
「そうだな。初日の朝が来る度に胸にずきっと来るよ」
「……繊細なのね、あんた」
「意外って付けないんだ?」
「意外でもないもの。数日付き合ってればそのぐらいはわかる」
 ふわふわとリンクの顔の辺りを飛び回って、チャットは心配そうに言う。
「しつこいかもしれないけど、あんまり無茶しないでね。あたしすっごくあんたのことが心配。苦しいことも辛いことも一人で抱え込むタイプみたいだから。……そりゃあ、無理に話せとは言わないけど」
 「少しはあたしのコト頼ってよね」、とやや不満気に彼女はリンクの肩をつついた。そしてふっと肩に止まる。僅かな重みがリンクには心地良かった。
 そういえばナビィも、リンクの肩に止まるのが好きだった。
 いつかまた逢えるだろうか、彼女に。
 そこまで考えてリンクは無理矢理思考を落とした。彼女を探す為にもまずはこの街から脱出しなければならないのだ。
「……いつまでも湿っぽい会話しててもしょうがないや。行くぞチャット、次は北のスノーヘッドだ」
「そうそう。リンク、そのくらいの調子で行こ。元気が一番大事よ、こういう時こそね」
 チャットが笑ったのが、リンクにもわかった。


 タルミナの北に聳えるスノーヘッド。
 そこは同じ山でも、ハイラルのデスマウンテンとは真逆の環境下にあった。
「……チャット、クロックタウンは暖かかった……よな?」
「うん。ポカポカして春みたいだったわ」
「そこからそんなに、走ってないよな?」
「馬で一時間を遠いと言うか近いと言うかは人それぞれだと思うけど、少なくともここまで気温が変わる距離ではないとあたしも思う」
「……だよなあ……」
 吹き荒ぶ猛吹雪の中、リンクはくしゃみを連発して寒そうに震えた。隣のエポナも主人に倣って体を震わす。このままじゃ凍りついて、いやそれどころか凍え死んでしまいそうだ。
 そこでリンクはふと気付いて問う。
「チャット。お前は寒くないのか?」
「寒いわよ。普通に。でもあんたよりかはマシだと思うから……」
「え、もしかして遠慮? チャットらしくもない」
 リンクは意外そうに笑って、それからやれやれといった調子で左手に火を灯した。ディンの炎の魔法だ。
「いつまでもつかわからないけど、まあとりあえずその場凌ぎに。やせ我慢はよくない」
「やせ我慢なんかじゃないわよぉー」
 ぷう、と反論してきたチャットだが、急に静かになると心配そうにリンクの肩に乗って小刻みに鳴らしていた羽音をぴたりと止めた。
「ねえ、やっぱり危ないわ、ココ。こんな酷い吹雪じゃあ何かあっても見落としちゃうかもしれないし……どうしよ、とりあえず立ち寄れそうな洞窟とか探さない……?」
「んー、本当はそんな悠長なことやってられないんだけど……そうだね、それがベターかな。ベストではないけど」
「そうしよ、ね」
 エポナの同意するかのような嘶きを受け、一行は動き出し洞窟を見つけ出した。
 その奥で、力尽きたゴロンの戦士を見つけたのはそれから間もなくのことである。



◇◆◇◆◇



「仮面機械獣ゴート……彼も仮面に縛られた巨人、なのかな?」
「トレイルがたしかに言ってたわ。だからたぶん、そう」
 暴れるメタルの獣に容赦なく炎の矢を撃ち込みつつ、リンクは記憶の糸を手繰る。スタルキッドのそばでトレイルが途切れ途切れに言った言葉。

『沼と……山と……海と……谷の……四人のひとを……連れてきて……』

「仮面に縛られた四人の巨人に、四人のひと、友達、か……。きな臭いなあ、あのムジュラの仮面はやっぱり意思を持っているんじゃないかな」
「意思を? 仮面が?」
「有り得ない話じゃあないと思うよ。祈りでも何でも、人の強い思念を受けたものには時たまそういうことが起こるから。――尤も、あの仮面の場合は邪教の呪いとか、そういう類いのものに見えるけど」
 「それにあれはたぶん、タルミナじゃない別の世界のものだろうね」、とリンクが言うのと同時に最後の矢がゴートの心臓部を射抜いた。ざあああ、と機械が砂粒になって空へ消えていく。それを追って見上げた空は夜だというに異様な明るさだった。
 月が、近い。
 からん、と地に落ちたゴートの仮面を拾う。すると巨人が現れたのがわかった。崩れた天井の穴を更に拡大させて、巨人がそこに立っていた。
「ゴートノ亡骸」
 巨人が静かに言う。空気が震動してリンクの頭の中でわんわんと響く。オドルワと対峙した時のことを思い出し、嫌そうな顔をしてリンクは歯噛みした。
「あんたも。スタルキッドの友達なのか」
「友ヲ知ッテイルノカ」
「知ってるも何も。散々迷惑かけられてるからな」
「……スマナイ」
 やり取りにすこしの間が空いた。互いに探り合って相手の出方を待っている感じだった。巨人はこの前のように言いたいことを言うだけ言っていなくなってしまったりはしなかった。
「なあ、教えてくれないか。――"友達"ならば、どうして側にいてやらなかった? どうしてあんた達は遠くへ行ってしまったんだ。スタルキッドが悲しむのは判りきっていたことだろう」
「……ソレハ。簡単ナ話デハナイ」
 リンクの追求じみた問いに巨人は意外にも間髪入れずに答えた。リンクとしては、厳しい問いであると考えた上での質問だったのだがこの切り返し方は想定外だ。
「つまり俺に言えるようなことじゃあないってことか。……じゃあもうひとつ。単刀直入に聞く、スタルキッドのことをどう思っている?」
「友ダ」
 またもや間を置かず答えがリンクの耳に届いた。
「カケガエノナイ友ダ、間違イナク愛シテイル。ダガ」
「……だが?」
「愛シテイルカラコソ、離レネバナラナイ時ガアル」
「なん、だって?」
 愛しているから。だからなんだと。今眼前のこの巨人は言ったのか。
 リンクは己の頬を何か水滴が流れていくのを感じた。けれど巨人にそれは見えやしないのだろう、そんなリンクの動揺にまったく気付かずに話を続けている。
「――ダカラ、我ラハ今ハ行ケナイ」
 それを最後の言葉として、巨人はずうん、と地響きを響かせリンクとの会話を絶った。そのまま、話は終わったというふうにその場を去る。リンクはそれに何の反応も示さなかった。
 チャットが急いで飛んできても、固まってしまったように動かない。
「ねえリンク、あのひと行ったわ、ねえ、大丈夫? ……ねえったら!!」
「う……、あ、」
「へ?」
 ゆすってもはたいてもなお無反応のリンクの耳元で、チャットが叫ぶ。するとリンクは急にわあっと泣き出した。急速に世界に帰ってきたみたいに、急激に泣き出した。そして途切れ途切れに喘いで、苦しそうに両手で顔を覆う。
 チャットは後ずさる。まただ。また、おかしくなっている。また、オドルワの時みたいに何かが彼の心に引っかかっているのだ。
 いや、引っかかっているだなんて生やさしいものじゃあないか。寧ろ――そう、抉っているのか。
 その内ぺたん、と地にへたりこんでリンクは声を出して泣くのをぴたっと止めた。でも声が出ないだけだ。まだ涙は止まっちゃいない。
 感情のない透明無色な水が地に落ちていく。それは天井の穴から降ってくる雪に紛れて溶けて消えた。
 チャットは声をかけられずにおろおろと彼の回りを周回する。普段の鋼の如く頑丈で気丈な姿と、こういう酷く繊細で触ればそれこそ硝子のように呆気なく崩れてしまいそうな姿との、あまりの落差の激しさにチャットは未だに追い付けずにいた。
 ばらばらに砕け散ってしまいそうな彼というものが本当にそこにある存在なのかと時々チャットは疑った。だってまるで地に足が付いていないのだ。浮き足だっているというわけではなくて。ここではないどこかもっと遠い遠い場所に彼が立っているように思えるのだ。
 彼を理解したい。力になりたい。その為にはもっと思考する時間が必要だ、とチャットは思う。本来は限定された三日間にそんな余裕はないし、理解だなんておこがましいにも程があるのだけど。
 だけれど。
「……チャット」
「な、なあに?」
「ごめん。しばらく一人にさせて」


「…………うん」

 そう考えていたから、だからこそチャットは彼のその要望を承諾してしまった。
 それが彼にとって、非常に――非常に、危険なことであったのにも関わらず。
 それが彼の存在を歪めてしまうことになるなんて気が付きもせず。
 それがもっともっと巧妙な狂気の引鉄になってしまうのだなんて。
 思いも、せずに。