きらきら。
 ひび割れて欠けていく。
 ぱらぱら。
 砕けて飛び散っていく。
 ぐさぐさ。
 それがぼくを傷つけて。


 ぐしゃあ。


 ぼくの心も飛び散った。



エグリゴリの堕天



 どうして ゆるされないの?



「俺が君を愛することを。君の手を求めることを。君を想うことさえ――どうして赦されない」
 しんしんと降る雪がだんだんに彼の体に積もってゆく。白い雪にまみれて輪郭がぼやけて、真っ白なスノーヘッドに存在がとけていくかのようだ。
 吹雪が止んで落ち着きを取り戻したとはいえ、そこは常冬の雪山だ。今も静かに雪は降り続いていて外気温は零度を下回る。そこに半袖と丈の短いチュニックで無防備に座り込み、肌を晒し続けるというのは単なる自殺行為に他ならない。

 本来ならば、だが。

 その状況下でもリンクは無表情のまま空を仰いでいた。次第に彼のまわりの雪がひとりでに溶け始める。女神の加護とかいう奴の力だ。
「……余計なことしやがって」
 リンクは微動だにせず、小さくそう呟いた。

 リンクは別に不死身でも不老でもない。怪我をするし、年だってきちんととる。ただ、女神に愛されているだけなのだ。それで致命傷を負えないだけなのだ。
 はたから見れば、それは不老不死と大差ないことに見えるかもしれないけれど……。
「死んだら、今よりはあのひとのそばに行けるかもしれないのに。けちな神様」
 延々と落ちてくる白い粉粒を眺めるのに飽きて、リンクはふっと顔を下ろしておもむろに手を見た。かじかんで赤い。赤いっていうのは生きてるってことだ。自然、嘆きにも似た溜め息が洩れた。
「俺の存在する意味っていうのがまるで理解出来ないよ。俺にも、世界にも、誰にとっても良いことなんかないのに。――愛してるから近くに居たかった。だからこそそばに居たかった。わからない、離れなければならない時があるなんて!」
 叫んで、また泣いた。クロックタウンに来てから泣きっぱなしだ。情けないことこの上ないが、でも泣かずにはいられないのだ。
 苦しくて、吐露したくて、でもどうしようもないから泣いて飲み込むのだ。
「たすけて」
 真っ白な雪は何も映さない。まだ水溜まりの方が幾分かましだったかもしれない。
「だれかたすけてよ」
 かつて世界を救った、勇者と呼ばれた少年は弱々しくそう懇願した。その姿にかつての真っ直ぐで折れない、彼がちょっと前なら持っていたはずの心だとか信念、ってものは殆ど感じ取れなかった。今の彼は脆弱で軟弱で、それに上っ面だけの強さを乗っけている感じだった。装ってるだけだ。ただの虚勢だ。
 彼の懇願は誰に聞かれるでもなく虚しく空の向こうへと消えていった。そこには誰もいないのだ。ただ、彼という存在がひとつだけぽつんと落っこちている。赤子の夜泣きを聞き付けて来てくれる親なんかいやしない。
 ひとりぽっちだ。
 その、はずだ。

 だけど。

「ひとりはいやだ」
 彼は寂しかった。浅はかだった。まだ幼くって、弱かった。
 だから彼は願った。願ってしまった。けれどその願いは禁忌にも等しかった。世界を、物語を書き換えてしまうだけの力ってものを内包していた。
 例えるならば、そう。一つの偶然を一つの必然へと昇華させてしまう、そのぐらいの。


「ひとりぼっちはいやだよ……!!」


 それ自体は小さな、ごく小さな泣き言だった。けれどそれは願いだ。神の仔の本心からの願いだ。それが陳腐な奇跡として実現したってなんにもおかしくなんかない。
 突然影が落ちて視界が暗くなった。何事かと見上げる。けれど彼はすぐにその光景を受け入れることは出来なかった。なんて都合の良い夢かと自分の頭を疑って、それから慣例に則って頬をつねってから不思議そうに顔をしかめ、二、三度瞬きをしてやっと口を開いた。
「なにこれ。夢? 夢だろ? それとも幻覚?」
「どれでもないし。そのどれもかもしれない。……決めるのはお前だ」
「曖昧だね」
 くすくすと自虐的に笑って、リンクは突然現れた"それ"を凝視した。そしてゆっくり、問う。
「ならばお前は――俺の何?」
「影」
 影と名乗ったそれは、繰り返す。
「俺はお前の影だ」


 こうして影と本体は出逢い。
 物語は思わぬ方向へ――動き出した。



◇◆◇◆◇



 影であるという、"それ"は殆どリンクそのものだった。ただ、絶対的に色彩が違った。蒼白い不健康な肌に闇色の髪が美しく。暗黒の夜を染めたみたいな漆黒の衣は純白の雪によく映えている。
 そして抑揚のない瞳がブラッドルビーの昏い、しかし不思議に透き通った綺麗な紅をたたえていた。
「俺は水の神殿で生まれた。そこでお前に殺されかけて。みっともなく生きようと足掻いて、結果的にお前と同化した。――そして今目醒めた」
「水の神殿……ってまさか。……ダーク……リン、ク?」
 影が静かに頷く。
「でも、なんで。だったらお前は"あっち"の世界の存在のはずなのに」
「――同化、してたから。神様がミスカウントでもしたんじゃあないのか」
 冗談みたいなことを真顔で言って、影――ダークリンク、は沈黙した。彼は待っているみたいだった。リンクがどう切り返すのか、伺っている。
「……だったら。だったら、お前は知ってるの? あの世界のあのひとを、俺が愛しているひとのことを」
「うん」
 短い肯定が吹雪の中でリンクの耳に響いた。

 彼は虚ろな視線をダークリンクに向けて、それからか細い声で小さく息を洩らした。そして確かめるように手を伸ばす。手は人肌に触れて止まった。そこに確かに感触があった。
「ねえ。お前は俺のそばにいてくれる? 俺の手の届かないところへ消えていってしまわない? 教えてよ、お前は何の為に俺の前に、今此処に現れた」
 消えてしまうのならその前に俺がこの手で消し去ってやる、と涙声でリンクは言った。"影"は無言でそれを受け止めて、震える体をかいなに抱く。影の冷たい体に熱が焼き付いた。

「いなくならないで」

 小さな声が洩れる。

「ずっとそばにいてよ」

 幼子が泣き付くみたいにリンクはしがみついて、縋りついて懇願した。体裁もへったくれも何もあったもんじゃあない。みっともないだとか、情けないだとかそんなのはもう知ったことじゃあないのだ。大事なのはそれが彼とセカイを共有してるってことだけだ。それだけが問題で、それ以外はどうだっていい。
 その時の彼にとって、影がいかなる存在だろうとそれは関係のないことだった。何でもよかった。喪われていく彼の好きだった世界を共有出来て永遠普遍に変わらない存在なら何でもよかった。
 それが自分を認めてくれて、許容してくれて、肯定してくれて、愛してくれるのならば。
 何だって、構いやしない。
「……お前がそう望む限り。俺はお前の傍に在る」
「……本当に?」
「……うん、ずっと。ずっと傍にいる。絶対にいなくならない。――きっとそれが、姫の願いに繋がることだから……」
 その言葉に満足そうに微笑んで、リンクは目をつむった。



 雪が一瞬晴れ、眩しい陽の光が銀雪の大地を照らし出す。
 そして幾度目かの最後の朝が始まった。



◇◆◇◆◇



「おはよう、ごめんなチャット、いや本当マジで悪かったと思ってるごめんごめん痛いすいませんでしたごめんなさい」
「こんっどこそ本当にあんたの言うこと信じない! ……もう、あんた大丈夫に見えないのよ!!」
 ぺしぺしぺしぺし、と休みなく羽根でしばき続けるチャットの猛攻にリンクは耐え切ることが出来ず、落ち合う約束をしていた場所――宿の借り部屋のベッド、にばたんと倒れ込んだ。しかし尚もチャットの追撃は緩まる気配を見せない。ここまでくるともう殆ど拷問みたいなものだが、罪悪感があるためにリンクは抵抗することが出来ない。
 結局攻撃はチャットがへたばるまで続いた。羽が疲れてぼろっとして見えた。
「ねえ……あたし、そんなに頼りないの……?」
 ぐずぐずの鼻声で、チャットが訴えるように言う。妖精も鼻声になるんだっけそういえば、とリンクは場違いにも思ってしまった。
「やっぱりあたしじゃあんたの傷みは理解できないの?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。俺の傷みは少し難しい類いのものだから可能性としては後者が大きいけど」
 ベッドから起き上がってチャットをそぉっと両手に包む。手の中で黄色い頼りない光がぱたぱたと弱々しく羽を動かしていた。
 彼女は歯がゆさを感じているのだろう、というのはよくわかった。でも彼女じゃ駄目なのだ。きっと彼女にはどうにも出来ないのだ。
「――ねえチャット、チャットはどこで生まれたか、覚えてる?」
「え、あたし……? あたしは森でトレイルと一緒に生まれて……それで、育ったわ」
 その言葉にそう、と言ってリンクは寂し気に笑った。羨んでいるようにも見えた。
「俺はどこで生まれたのかわからないんだよ。母の顔も父の顔も知らない。二人とも戦争で死んでしまったから。生まれたばかりの俺は森の守り神のデクの樹サマに預けられて森の子として育てられた。だから俺の親はデクの樹サマだけだ、けれど彼も死んでしまった」
「えっ……」
「それから旅に出て、たくさんの人と出会った。いろんなこともあったけれど……故あって彼らは俺という存在を忘れてしまった。俺は彼らの世界から締め出されていた」
 それきりリンクの表情は読めなくなってしまった。寂しそうな顔色も失せ、ただ無表情に淡々と彼は生い立ちを語った。
 その様相にチャットは絶句した。確かに彼は大人びていると思っていた。けれどそれにしたって現実味に欠けた話だ。だってリンクはまだ子供じゃあないか。世界から締め出されるだなんてそんな理不尽なことがまかり通るわけないじゃないか。
 なんでそんな重っ苦しいものを抱えているのだ。
「その時俺の愛するひとも、大事な友達も……みんないなくなってしまった。だから俺は旅をしていたんだ。もしかしたら見つかるかもしれないという浅はかな望みを捨てきれなくて、否定できなくて、一所に留まることでその現実と直面するのが恐ろしいから」
 俺がチャットに言えるのはこれくらいかな、と言う彼の顔は変わることなくぴったりとした無表情で、取り乱すことなんてなくちょっと不思議なくらいに落ち着いていた。
 どうしてだろう、とチャットは首を――ないけど傾げる。だって今の話から類推するにオドルワやゴートの時あんなにも取り乱していたのはそれらの記憶を刺激されたからじゃあないのか。

『喪失の追体験か。性格悪い』

 オドルワの時に吐き捨てられたリンクの言葉が脳裏をよぎる。
「リ……ンク……? 本当にそれだけなの……おかしいじゃない、それは本当に外的心傷なの」
「その一部では、あるけれどね。本当に込み入ったトラウマは言葉に出来ないんだよ。だから――それこそ俺自身とでもなきゃまともに話せなかったんだけど」
 あの世界の共有者と話せないことがわだかまりで、話すことがここしばらくの願いだったんだけど、と一人ごちて。リンクは変なことを言った。
「でも、その願いはもう叶ったから。これからは、もう、大丈夫だよ」

 おかしな言葉だ。
 この世界に彼は一人しかいないし、彼に近しい存在もいやしないだろうに。
 どうしてそんな願いが叶うのだろうか。