03 / Cars


 


* * *



 我々は始まりの男女が知恵の実を手にした故に死にゆく身体に束縛される。
 しかし我々は彼らの原罪がある故に愛し合う喜びを知っている。

 ――そして世界が終わる恐怖を知っている。



* * *



 契約だ。死に損ないみたいな顔をしているくせにその言葉付きは確からしかった。契約だ。契約を結べ。俺の願いを叶えろ。
 強欲の権化のようなその男はそうして契りを結ぶことを迫ってくる。完成された神の身体を持つ×××××に対して、自らの分なんかちっとも弁えずただただ貪欲にそれを望む。血塗れの腕で、森羅万象の指先を憎むように掴み取った。手放してなるものか、とそれは言った。
「俺は、お前を、俺のものにしてやんねえと……愛でも憎しみでもなんでもいい、強烈な感情を俺だけに向けるお前を手に入れるまでは、死ねねえんだよォ……!」
 ×××××は戸惑いを見せたが、お構いなしだ。「俺を殺した代償は安くねえぜ」それは言う。「お前の全てを手に入れて死んでやる」。
「俺はお前を呪う。神を呪縛する。望み欲するが故に束縛する。跪けなどとは望まん。平伏せなどと以ての外。んなもん叶うはずがねえ……俺は単にお前の全てが欲しい。愛情も憎しみもその全てが……欲しい……」
 バリアンの人ならざる肉体が、光に包まれてヒトの姿に変わっていく。重たい装飾を付けたいつかの王子の姿を通過し、ここしばらく愛用していたらしい茶色のジャケットも通過し、そして彼は可愛らしい制服を纏った愛くるしい姿になった。出血は止まっていない。彼の最後の力を振り絞った、ヒューマノイド・モードへの変貌らしかった。
「ねぇ、遊馬くん」
 優しい声で縋りつく。自業自得でこの結果を招いたくせして、救いを求める子羊のようなあわれを誘う目で、わざとらしく心細い笑顔になって、×××××に縋りつく。
「ぼく、遊馬くんのこと、ずっと、ずーっと大好きですよ」
 笑顔のままそれは呪詛混じりの毒素を平然と吐いた。
 それは正しく呪いの言の葉だった。全身にぐるぐると回り、麻痺させ、×××××の身体を作り替えていく。神に近かった肉体が人に立ち戻っていく。しかし神の要素を失えるわけでもない。結果中途半端な神混じりになり、神もどきに引きずり落とされ、あの、喪われた少年の姿形を色濃く映し出した戒めの身体になった。オレンジの長い髪が絡まる。それは満足そうに髪に触れ、口づける。
「遊馬くんのその姿、僕とっても好きだなぁ。綺麗だ。あ、そうだ、名前が必要ですよね。『セカンド』だと、ヒトに馴染めないもの……」
「……このうえ、言霊でまで縛る気なのか」
「おや、ようやく喋りましたね。でももう手遅れです。僕が遊馬くんに、いいえ、真月零への未練を棄てられなかった浅はかなゼアルセカンドに名前をあげる。――ねえ。『真月聖華』」
「ッ……!」
「真月聖華。素敵な名前でしょう? 僕の……『真月零』とお揃いですよ。ふふ、姉弟みたいですね。『聖華姉さん』」
「やめ、ろ……!!」
「今更やめたって、もう遅いですよぉ。あなたは『真月聖華』という名前で僕の言霊に縛られてしまったんです。これは呪いの契約。名前という最大の言霊を握られてしまったからには、一つ、お願いを叶えていただかないと……」
 形勢が一気に逆転する。口の端からだらだらと血液を零しながらその手が有無をいわせぬ強さで迫ってくる。咳き込むとごぷりとまた新鮮な血が流れ出して、それは愛くるしい表情にあいまって耐え難いおぞましさを演出する。
「僕のことをあいして」
 血に濡れた唇でそれはゼアルセカンドの唇を奪った。鈍い鉄の味、柔らかなもの同士が触れ合う感触、ぐちゃぐちゃに溶けていく錯覚。真月零の紫の瞳がゼアルセカンドの金色をねめつけた。金に紫が写り込み、蜂蜜の中に捕らわれた紫苑のようだった。
「僕だけのものになって……僕を……僕のぽっかりと胸にあいた空洞を……満たして、ください、ね……?」
 おねがい、ですよぉ。それが彼の最期の言葉になった。それを口にして、彼はようやくというべきかあっさりというべきか、事切れた。物言わぬ屍の肉となり、ヒューマノイド・モードのまま逝った身体をゼアルセカンドに預け、腹が立つぐらい安らかな表情で永久の眠りについていた。オレンジの髪の毛はゼアルセカンドのオレンジ色とお揃いだった。紫の瞳を守るまぶたに付いている長い睫毛も。
 こうして息を引き取った肉体を抱えていると、それが世界中を敵に回して、所属している世界すら裏切り、浅薄にも全てを手に入れようとした男にはとても思えなかった。死んだままの姿で成長を止めてしまったらしい幼い肉体は、愛すべき愛されるべき子供の姿をしている。
 彼はちっぽけで、惨めな人間だった。最期の瞬間まで欲望を忘れず、身に余るものを願う。ゼアルセカンドを――否、その先の九十九遊馬を、願ったのだ。
「そんなに俺がいいの」
 独り言だ。返事は返ってこない。
「胸にぽっかり穴が空いてるって、そんなに辛いこと、あったか? そんなに……身を焦がして死んじゃうほど、俺が欲しかったのかよ。本当に」
 まるでイカロスの翼だ。驕り思い上がったつけで死んでしまう。
「……おいで、ヌメロン・コード」
 だけどそれは、それだけでは終わらせなかった。死の間際に言霊の呪いを成就させた。契約に縛られたゼアルセカンドは彼の願いを叶えなければならない。
「ならば俺はお前の願いを叶えよう。ベクター、お前の執念深さに敬意を表して、限りのある夢をつくろう。繕う夢にすぎないけれど。俺の力を分け与えるよ。けれどそれが俺に返還された時、夢の世界は終わって新しい世界が始まる」
 手のひらの中にカードの形をした光り輝くものが顕現する。世界の全てを知り掌握し作り出した創世のカード。ヌメロン・コード。九十九遊馬が望まぬ特別であった理由。
「リ・コントラクト・ユニバース……」
 終わりの呪文を唱える。ここより終焉へ、これから破滅と再生へ、これは二人を導くだろう。
「真月」
 書き換わる直前に名前を呼んだ。蜜月が彼自身によって完膚なきまでに破壊された後、一度も呼んだことのなかった名前だ。その名を呼んだ時、僅かに真月のまぶたが動いたような気がした。
 だけどそれは幻だ。腕の中にある身体は魂のないもぬけの殻、動かざる死体である。


◇◆◇◆◇


 妊娠したのかな、と自覚してからしばらくの間俺はそれを零に教えなかった。タイミングをはかりかねてしまったためにそれからも夜毎のセックスはほぼ毎晩続いていたし、当然零の方にもこっちを慮るなんてことはなくて、わりと激しく抱かれていたと思う。
 正直それで流れてしまうようならそれまでだったということなので、特に俺の方も気には留めていなかった。ただいつそれをばらそうかということに思い悩み、悩んでいる間に、零の方が気がついてしまったのだった。
「……正直に答えろ。姉貴、最後に生理が来たのはいつだ」
 物凄い剣幕で詰め寄られたのは陽性反応が出てから三カ月ぐらいのことで、俺は子宮が内側に膨らむタイプだったのかまだ目に見える身体の変化はまったくなかった。だからこのタイミングでそんなことを聞かれるとは思っていなくてついつい口ごもってしまう。
「え、ええと……」
「三カ月前だよ。ばれてないとでも思ってたのか?」
 においがしないんだ、と変態っぽいことを言う。におい。生理のにおい、かな、と言われて気がつく。自覚はないけどしているらしい。
「おんなのにおいが、するんだ……生っぽくて。いやそんなことはどうでもいい。姉貴。気付いてたんだろ?」
「う……ま、まあ……」
「何で黙ってたんだよ」
「だって。零、怒るだろ?」
 恐る恐るそう言うと、溜息。もう呆れて仕方ないって顔をしている。とりたてて怒っているふうではなかったので、安心と不思議とがいっしょくたに喉元までせり上がってきて、こてん、と小首を傾げた。あざとくて嫌なんだけど、この仕草をすると零は何かに心動かされるらしく少しの間いつもより素直になってくれる。
 案の定、ぐっ、と呻く動作の後零は少しの恥じらいを残す赤く染まった頬を持って俺を睨んだ。敗北感を感じているみたいだったが、気にしない。
「……怒らない、から。確かに……怖いよ、子供が出来るのは……それは俺がまだ中学生だとかそうい理由からじゃなくて、もっと根源的な恐怖だ。変わってしまうことへの嫌悪と、展望がうまく開けないことへの怯え。だけど起きてしまったことはもう仕方ない。姉貴が何の手段も講じてなかったってことは、堕ろす気なんかさらさらないってことだろうし……」
「うん。零の子供、産みたいもん」
「いい年してだもんじゃねえよ」
「それに俺がこの子を堕胎してしまったらまた停滞してしまうから」
 停滞、と言ったところでぽかんとした顔になる。多分、またいつものポエムだとかそんなことを思ってるんだろう。俺は本当のことを言っているだけなんだけど、それで詩人ごっこ扱いされてしまうのはなんだか不幸だなあとそんなことを考える。
 仕方ないので俺はお腹をぽんぽんと叩いて彼に示して見せる。母親の姿。見慣れないものを見る目つきできょとんとしている。
 腕をとって腹を触らせると、「ほんとにこの中にいるのか?」と、弟妹がもうすぐ出来るのだと聞かされる子供と同じ顔をした。セックスしてる時は年齢に不釣り合いな雄の顔をしているくせに。年相応な表情は、この子にはあまりないのかもしれない。
「この子は可能性だよ」
「……?」
「分岐点なんだ。零が生まれた時も……あのな、零。俺の身体に零の子供が宿された時点で、何が生まれてくるかは決まっているんだ。あ、信じてないな。まあ、仕方ないよな。零は覚えてないんだから……」
 零は概念的には前世というものにあたるあの世界での出来事を忘れているから、何を言ってもわからないのだろうけれど(それで思い出しちゃうこともありえなくはないけど)、昔懐かしくなってしまってぺらぺらと口が滑る。それはこの世界で平穏に暮らそうと望むのならば必要のない情報だけど、だから俺の口は饒舌に嘘でも完全な真実でもない曖昧なラインでぺちゃくちゃと喋り続けた。
 今まで秘密にしてきたことだといえばそうなんだけど、子供が生まれるのだとしたら、やがてこの蜜月は、平穏は、否応なく消えてしまうのだ。どうせこの子が生まれたらいつかは全てが終わる。それならば。
 今、この瞬間が世界の終わりで、物語の終わりになっても、別に全然問題ない。
「零、あのな、世界には分岐点がある。歴史が出来る要がある。俺にはそれが見える。必要ならちょっかいも出せる」
「姉貴?」
「うん。だから俺はなるべく可能性を潰すことはしたくないし……イエス・キリストを生まれる前に殺すような真似は誰も出来なかっただろ? あれとおんなじでさ……」
「その腹の子供がメシアだとでもいうのか」
「救世主じゃないさ。別に世界なんか救ってくれないから。あえて言うのなら創造主だ。俺が契約で喪ったものを取り戻して生まれてくる」
 真月零にあげてしまったもの、「究極体ゼアル」が持っていた創世の奇跡のかけら、それを受胎を経由して宿し、俺から残りの神の力も或いは吸い上げて、その赤子は生誕する。この世界において神にも等しいものが生まれる。どんな創世記にも記されていない絶対者だ。
 俺は処女なんかじゃないし、そのうえ、弟に犯されて孕んだようなふしだらな女だけど。
 ベクターを――真月零に変えて二人で生きるのに俺は自分のもてる力のいくらかを彼に与えなければならなかった。元々ベクターの最後の呪いで俺は不完全になっていたし、その時は今更多少力が減ることで何か困ることはないと、そう判断したのだ。
 欲を言えば全部放り投げて普通の人間になりたかったけどそれは目的上でも事実上でも不可能な話だった。零を育てるためにちょこちょこ介入していく必要もあったし、何より彼が望んだゼアルセカンドの姿で縛られてしまった以上俺は完璧なただの人間になることは出来ない。
 そういう不完全なところも含めて、あいつは俺を見ていたんだと思う。
 不完全である故に欲したのだ。今ならその気持ちが理解出来るような気がした。完璧はつまらない。
「はじまりの契約だ。俺が神様に戻ったら全部終わっちゃう」
 零がきょとんとした顔を通り越して、でも呆れでもなく、単純に「こいつが何を言っているのかわからない」みたいな顔をした。無理もない。俺が零だったら熱を疑ってまず体温を測ると思う。
 そこでその行動に出ないのが、零のもつ姉への、信頼というにはあまりもどす黒く愛というにはあまりにもどろどろした感情の結果なんだろうなぁってことを俺は知っていた。俺が零だけを愛するように、と縛ったあいつはそうやって対価を払い続けているのだ。
 滑稽なことだ――これが滑稽じゃなかったら、何が滑稽なんだろう?
「信じないだろうけど。この世界は俺が創ったんだよ」
「知ってたよ。姉貴は女神なんだって、そうに違いないって、俺達は、ずっと、思っていた……」
 朗らかにそれを告げると零は絶望したように、高揚したように、悲劇を突き付けられたみたいに、喜劇を受け入れるみたいに、俺を憎むように、また俺を慈しむように、悲壮さを叫ぶように奇跡に感謝するようにありとあらゆる相反した感情をその内に込めて呟く。俺達? 俺達って誰だろう。七皇が転生した誰かかな。それともその全員か。
「姉貴は完璧だ。隙のないパーフェクト。全てを持っていて、全てを可能にする。姉貴……姉貴は……俺のことを、あいしてる……?」
「当たり前だろ。俺は零だけを愛しているし、だから、ここに子供が生まれるんだ」
「契約を履行するための愛情じゃなくて? 子供だって……話、聞いてる限りじゃさ。必要だったんだろう、感情とはまるで違うところで」
「うーん、別に、そうでもないな。喪ったものを取り戻す必要はあるけど、急がなくても良かったから。例えば零が死ねば否応なくそれは俺の中に還ってくる。勿論愛をこじらせて殺すとかそういう話じゃないよ。零がうんとおじいちゃんになって、寿命でいつか死んだら、それでも問題なかったんだ」
「……じゃあ。何で俺にセックスを、教えたんだよ」
 急に語気が荒くなって零の手が乱暴に俺の胸ぐらを掴んだ。ああ、男の手だ。親になる覚悟を決めたのかもしれない。彼は最早「男の子」ではなくなってしまった。一人の弟である前に俺が愛した「真月零」に立ち戻ったのだ。
 大昔に少年だった俺の身体を暴いた奴とおんなじものになった。
「子供が出来たら終わることを知ってたのに」
「零は終わらせたくないんだな」
「世界が終わるって言われてああはいそうですかって頷ける奴の方がどうかしてる」
「仮想空間の崩壊にすぎないよ。その存在が虚無に還ったりなんかしないから」
「俺は姉貴を愛してるんだよ!!」
 必死になって叫んで縋りついた。愛してる、あいしてる、iしてる、哀してる、相してる合してる曖してる愛してる!! 繰り返される言葉がもつれてぐずぐずになって俺にべとべとと纏わりつく。あらん限りに叫ばれた中に全ての答えがあって、受けている俺の方まで息が苦しくなってくる。出産も世界の終焉も同じレベルで零の愛情を、狂気を壊そうとするのだ。砂の城を守りたいと願う気持ちは、誰もが等しい。
「姉貴を……喪いたく、ない……。わかるんだ。姉貴はそれで俺を棄てる気だ。俺じゃない誰かの隣に立つ姉貴を俺は見ていられない。そうしたら、俺が、姉貴をぶっ壊してやらなきゃ……」
 ころしてやらなきゃ。そこでひく、と息を詰まらせ最後にこう繋げる。そうしなきゃ俺が死ぬんだ。
「じゃあ、今ここで俺の首を締める?」
 だから聞いてやると、両手を震えさせながら俺の首に伸ばし、ゆっくりと掴み取る。かわいい「聖華の弟の零」。いつの間にか彼は姉の身長をあっさり超えてしまった。
 子供をやめて大人になる。
「夢から醒める時間だよ、零……」
 零の指先が俺の首に食い込んだ。爪切りをちょっとさぼってたみたいで、意外と鋭い。柔らかい皮膚に、傷を開かせ血を流させようと迫ってくる。痛みの代わりに歓びがあった。自分でも、随分と奇妙な感情だと思った。
「俺がおまえを許す時だ」
 微笑むと、指先が弱り、俺の首筋から、離れていった。
 倒れ込んでしまいそうな零の体を引き止めて抱き寄せ、キスをした。唇同士を触れ合わさせて、離すと零の濡れた顔が俺の視界いっぱいに大映しになる。「泣いてるの、零」涙を人差し指で拭ってやる。ひく、ひっく、というすすり泣きの嗚咽。
「何がそんなに悲しいの……」
「姉貴……あねき……………………ゆぅ、まぁ………………」
「何も悲しまなくていいのに」
「姉貴……が。遊馬が……そうやって、なんでもわかるような顔してるのが、俺は、不安、で……」
「うん」
「棄てられちゃうんじゃないかって。忘れられるんじゃないかって。約束がなくなったら簡単にゴミ箱に投げられてしまいそうで」
「ああ……」
「世界を語る姉貴は遠いよ」
 今度は零の方からキスをねだって、触れるより先のことをした。舌と舌が絡み合い、息苦しく、離れると唾液が伝う。紅潮した頬を温度の低い手のひらで受け止めたその時、ようやく年相応の、多感で傷つきやすく繊細な、中学生ぐらいの子供の表情をしている零を俺はそこに見出した。
『遊馬くん、行かないで……』
 幻がその姿に被る。
『僕、頑張るから。おいてかないでよ!』
 昔失ってしまったものの、俺から離れていってしまったものの姿だった。
「いなくなっちゃうのは怖いよな」
「うん」
「だけど俺はこの子を産むよ。零の子供。それは、零を捨てることじゃないんだ。俺達は根底のところであの時から何一つ変わってない。だから、変わろうとしたってそうそう変われたりしない」
 細い両かいなにこれまた細い体を抱きかかえながら、零は子供だったんだなあとようやく気がついた。零は聖華の弟で、大人びて背伸びして振る舞っていたけれど、庇護を必要とする年頃で、でも性質が継承されてしまったからか強がりで、なかなか心を開かず、やたらと執着して、必死に弱さを隠そうとする。ベクターと同じだけど……違う。一緒のようで全然違う愛おしいたった一人。
「俺は、今、『真月零』を許す」
 おめでとう幸運な子。聖人気取りで口ずさむ。
「愛してるよ。お前の全てを―『ベクター』」
 V・e・c・t・o・r、「ベクター」。真月零になるために、彼が契約の結果意図せず失っていたもの。その名を口にするとびくりと肩が跳ねる。でも強烈な記憶のフラッシュバックが起きてたりだとかそういう様子はない。魂に刻み込まれた潜在的な恐怖。そういう感じがする。
「俺がそれで姉貴に許されることを受け入れたら、この関係は終わってしまうのか」
 か細い声で零が尋ねた。
「姉弟じゃなくなるのか。魔法が解けるみたいに?」
「そんなことないさ。この世界が終わるまで、俺達は姉と弟のまんま。でもやっぱり、これまでとすっかり同じってわけには……いかないかな」
「何が変わるんだ」
「だって。俺達母親と父親になるんだぞ」
 お腹を指差す。
「子供に対して姉と弟として接するのも、ちょっと、厳しいだろ」
「……はァ?」
「ちゃんと育てなきゃ。躾もしてさ」
「……。つかぬことを聞くけどよぉ。姉貴、その腹の中の子供が生まれたら、その瞬間に世界は終わるとか、そういう話を俺達はしてたんじゃないのか」
「いや、ぜんぜん」
 恐る恐る尋ねられたのでぶんぶん手を振って否定した。それだけはない。何故って、そんなすぐに、あっけなく一瞬で崩壊してしまうような終末論は俺が許さないからだ。
 子供は確かに世界の可能性をもって生まれてくる。
 だけど最後にそれを行使するのは俺だ。
 この子であり、俺でしかない。
「俺な、零の姉ちゃんやってんの、結構……かなり、好きなんだ。大好き。でも母親もやってみたい。ここでしか出来ないことだしな」
「それで俺に父親をやれって? 姉貴、俺はまだ、中学生だぞ」
「もうすぐに高校生になるじゃんか。それに、父親は零しかいないだろ? 零の子供なんだよ?」
「いや、そりゃ、そうなんだけど……」
 口ごもってどうしたらいいのかわからない、という顔をして零が俺の手を掴んだ。仕方ないかな。まあ、世間体もあるしおおっぴらに零が父親だと喧伝するわけにもいかないし、そもそもシングルマザーで出産するってだけで何かと厄介なので、そこらへんはご都合主義的に上手く操作したいところだ。
 俺が作った世界は俺に都合良く出来ている。嫌な話だがそれは動かしがたい事実だった。
『遊馬君は、一見おっちょこちょいで、ドジで、お調子者に見えますけど、本当はすごいんですよ。僕は知ってるんです。一目見た時にぴんときたんだ。遊馬君、きみは、いつかきっと世界を変えるって……そういうすごい人なんだって……』
 呪いをかけられるもっともっと前、彼が俺にとって転校生の真月零でしかなかった頃の言葉が蘇る。結局、お前の言う通りに俺は世界を変えてしまった。そう望んだわけじゃない。「望まされた」っていうのが正しい。俺のすべての願いを叶えてしまう全知全能のヌメロン・コードに俺が願うであろうことを僅かに捻じ曲げられて先に願われてしまった。
 最初はそれがすごく変な感じだった。今は慣れてしまって、それがすごく幸せだ。
「いつか世界は終わるよ。それは、確かにな」
 零の目を見て謳うように囁く。紫苑の色。つめたく、透き通って、とても美しい。
 いつか九十九遊馬が恋い焦がれた色。
 今はもう隣にある。ずっと。
「だけど今すぐにじゃなくっていいんだ……零、一つ、教えてあげる。耳貸してごらん」
 素直に耳を突き出して体を寄せてくる零に右手を添えてそっと唇を差し出した。互いに束縛し束縛される奇妙に捻じ曲がった俺達の関係性。真月。俺はお前をあいしてやれただろうか。
 おまえの胸にぽっかりと空いていたらしい空洞を、伽藍の堂を満たしてやることは出来たのだろうか。
 お前だけを愛して。
「あのな。この子は……これから生まれてくる俺達の子供は、男の子なんだ。この子は世界を変える力を生まれながらに孕んでいる。俺と零から受け継いで、だけど。そして、やがてどこかに生まれ落ちることが決まっていたからこの子には既に定められた名前がある」
 ……わかりきっている。
これが答えだ。真月零の存在に終止符を打てるというのは、即ち呪詛の成就を意味する。おめでとう幸運な子。あなたの呪いはとうとう完成した。
「よく聞くんだ、零」
その成果か、もしくは代価なのか、蜜月の次の世界に繋がっていくのだ。

おめでとう、さよなら、世界。


「お前が俺に孕ませた、この子供の名前はな――」