かみさまがいるというのなら。
 どうしてたすけてくれないの?
 めがみさまがぼくをえらんだのなら。
 どうしてぼくなんかをえらんだの?
 ぼくはつよくなんかないよ
 ぼくはえらくなんかないよ
 ぼくは、ただ――



そして、さよならの時を。



 硝煙が立ち込めて、空は汚ならしい鈍色に染まっていた。時折、弾け散る紅い焔のきれはしが視界をかすめていく。
 時の勇者が去ってから数百年。ハイラルは魔王の復活という災厄と絶望に苛まれていた。大抵の人々は抵抗する気力を持たず、ただ、伝説を信じて時の勇者の再来を待った。
 けれど彼は来ないのだ。来られるはずがないのだ。世界を行き来する時の扉はあの時封じられてしまったのだから。
 それでも、目に見える速度で魔王の侵略が進んでいっても、人々は祈ることしかしなかった。祈ることしか知らなかった。
 それは一国の姫とて、同じことだった。
「折角救った世界なのに……このままじゃガノンに乗っ取られてしまうじゃないですか!」
 どうしてこの時代の姫は祈ることしかしないのですか、と言ってからリンクはばつの悪そうな顔をした。俯くゼルダになんと心ないことを言ってしまったことか。
 今隣で項垂れている彼の君主だって、民を守ろうとして敵に降伏し、その後は彼がガノンを追い詰めるまで祈り明かしたのだ。
 祈ることしか、出来なかったから。
「……すみません、姫。軽はずみな発言でした」
「いいえ。トライフォースを持つ者として、確かに"ハイラル王女"はもっと自覚を持つべきでした。私を含め、あなたの言葉に反論する資格はありません」
 自らをも厳しくそう責め、ゼルダはまたしゃんと背筋を伸ばす。為政者としての、鋭い眼差しが祈り伏す姫を射抜いた。
 ただ祈るだけなら誰にだって出来る。けれど彼女はハイラルの姫なのだ。姫には姫にしか出来ないことがある、そのはずなのだ。
 だから、彼女が自覚しなくとも知恵のトライフォースをその身に宿すのなら、あるいは。
 祈りは通じるかもしれない。

 やがてガノンの手がハイラル城にまで迫ろうとした時、神は動いた。

――祈りし神の仔よ 切に願うか その望み――

 姫の答えは、イエス。

――そなたらの国は魔と共に海に眠るだろう――
――そして そなたらもまた――


 そなたらも、という言葉に姫もその父王も同意した。民の命さえ助かるならば自分たちの命など安いものだ。

――ハイラルの民々は大地を失い 言葉を失い 祖国を失う――
――なお望むのならばただ一度、我は神の猛威を魔王に振るおう――
――悔いるでないぞ――

 そう言い残して、神は今まさに城を落とさんとする魔王の前に降臨した。
 その後の光景は文字通り、「神の猛威」と呼ぶに相応しいものだった。魔王は手も足も出ずに一方的になぶられ、蹂躙され、ぼろぼろにされて封印された。勇者は現れず、姫は祈るばかりだったがしかし、神の絶対の力によって世界は守られた。
 美しい王国と引き換えに。美しい国土と引き換えに。
 後にはただ、海上に浮かぶ沢山の船とそれに乗り込む人々だけが残された。
 そして知恵のトライフォースを宿す幼い赤子もまた、託された夫婦と共にぷかぷか浮かぶ船の中にいた。



◇◆◇◆◇



 神が約束通りにガノンを封じ、ハイラルが海に沈んでいく最中、ゼルダとリンクは安置された結晶の前に立っていた。過去の映像の中にいるのだから浸水は関係ないし、まあ元よりハイラルの城に水は入ってきていない。時の勇者のブロンズ像が飾られたホールも、その地下に隠された聖剣の間も、城中という城中は王と姫を道連れに時を止めていたのだから。
「このままこの結晶は……海に沈むのですか」
「そうではないでしょう。ここは危険です。守り人たる王家がなければこの水晶は維持できないはず」
「じゃあ、移るんでしょうか」
 時の勇者が送られたパラレルワールドに。
 ゼルダとリンクの世界に。
「そう、でしょう。そうでなくては辻褄が合いませんもの……何しろ"彼女"は私が生まれる遥か前から守護されてきたのですから」
 そうですよね、とリンクが頷くのと時を同じくして結晶を淡いひかりが包み込んだ。根本からぽう、ぽう、と泡みたいになって少しずつ薄桃のクリスタルが消えていく。
 それを見ていたリンク達もまた淡いひかりに包まれて、視界が柔らかく変化していった。海の蒼をささやかに映し出す朽ちかけた祭壇から、白亜の美しさを湛える祭壇へと静かにシフトしてゆく。
「姫、彼女は今もここに?」
「ええ。私が守護を母に仰せつかる前からずっと、ここに。彼女は微動だにせず、目覚めの気配は今なおありません」
 ゼルダが水晶の中の先祖――正確には違うのだが――に、そっと手を触れる。眠り姫の目を醒まさせることのできる王子はもう生きてはいない。
 姫は眠り続けたまま。
 そうして、今に至るのだ。

「流石に、これで全てでしょうか……?」
「これ以上何かあるとも思えません。疑問は粗方――あ、」
 そこまで言ってリンクは何かを思い出して手を叩いた。そうだ。彼の物語はまだ終わっていない。
「トライフォース、俺はまだ時の勇者の最後を見ていない」
 見せてくれるんだろう、というリンクの言外の思いに応えるように、世界がまた移り変わった。



◇◆◇◆◇



 ノイズ混じりの画像が、流れていく。一振りの剣――聖剣ではなく、普通の造りの良い鋼の剣だ――を携えた子供が、背後の少女を護りながら淡々と冷酷に敵を凪ぎ払っていた。
 その瞳には色がなく。喜びだとか嬉しさだとかそういった人らしいものがごっそりと欠落していて。ただ機械のような冷たさがあるばかりで。窶れたみたいな疲れがあって。
 百戦錬磨の戦場を抜けて何かを落としてきたみたいな、そんな形容が似つかわしい表情だった。
 けれど彼は背後の姫に振り向く時だけは、優しい笑みを見せる。
 それはつくりものの笑顔なのだけども。心は泣いているのかもしれないけど。本当は涙すら枯れ果ててしまっているのかもしれないけれど。
 それでも、彼は彼女の為には笑うのだ。
 それが大好きなひとの最後の願いだったから。
 それが愛したひととの最後の約束だったから。
 本当は壊れてたって仕方ないはずの彼は、彼女との約束を守るためにまだ動き続けている。
 そんな彼を、やはりもう壊れてしまっていると思う人もいるだろう。堕ちてしまったも同然だと言う人もいるだろう。けれどまだなのだ。彼という存在はまだ辛うじて保たれている。
「これが七年前に戻された彼――!!」
 スタルフォスの軍団が彼と彼女の命を切り刻もうとひしめいているその光景は、リンクだって嫌気がさすものだ。スタルフォスはマスターソードをもってしても厄介な難敵なのである。
 それを、あんな小さな体で。あんな小さな剣で。いとも容易く、殲滅している。それはリンクに言い様のない恐れを抱かせるには十分なものだった。
「姫、これが史実に残る封印戦争ですね。ガノンドロフがどこかにいるはずだ」
「ええ、まあ……しかしマスターソードもなしにどうやってガノンを討つのです」
「簡単なことでしょう、姫。ガノンはまだトライフォースを手にしていないんですよ」
 ただのヒトならば、斬るのもまたただの剣で十分だ。
 つまりはそういうことでしかない。リンクがあれだけ苦労したのだってガノンが力のトライフォースを振るったからなのだ。
「……姫、そういえば彼、以前は妖精を連れていましたよね」
「ええ、青い妖精を……名は確かナビィ、かと」
「その妖精、見当たらないように思えるのですが」
 あの時。ゼルダ姫に過去に戻された彼と妖精ナビィだけは一緒にいたはずだとリンクは記憶していた。大きな光の渦の中に、青いちいさな光も確かに吸い込まれていった。なのに、今彼の隣に妖精の姿はない。
「……神、が……引き離した……」
 なんてことだ、とリンクは信じられない思いで呟いた。神はこちらの世界から時の勇者という存在を抹消しようとしているのか。彼の荒んだ、思考めいたものが流れてくる。どうして? どうして俺の大切なものばかり――
「リンク!!」
「姫……」
「落ち着きなさい。私達には事の顛末を、真実を知ることは出来ますが彼らの事情に直接の手出しは出来ません。あなたが今ここで感情を押さえきれなくなってどうするのです」
 そんなことをしたってなんの意味もないでしょう、とゼルダがそうリンクをたしなめた時。映像の中の彼は無慈悲な顔で、しかし流れるような美しい動作で、人間ガノンドロフの首を討ち取った。
 大男を小さな体躯で寄せ付けずにあしらい、何の躊躇いもなく斬り棄てる幼い少年。魔王でもないガノンドロフなんかよりも、よっぽどトライフォースの猛威を振るう彼の方が恐ろしかった。
 やがて幼いゼルダ姫と幼い時の勇者は、二つのトライフォースの力をもってしてガノンドロフを聖域に封印した。
 しかしそれは正しい判断ではなかった。
 聖域に眠る最後のトライフォース、ディンの力がガノンドロフに宿ってしまったのだ。
「だから……あの時奴はトライフォースを……」
「神に選ばれるという運命は、最早回避出来ないものだったのですね……」
 始まりの、リンクとゼルダが見てきたあの世界での契約は。
 抗うことのできぬ、避けようのない、確定した未来としてあの時定められてしまったのだ。
 フロルは一人の少年を愛し。
 ネールは誇り高き王女を愛し。
 ディンは猛る男を愛した。
 それがハイラルの運命のはじまり。永きに渡る宿命のはじまり。終わらない宿業は血脈と魂の盟約に則って彼らとそれに連なるものを縛り続ける。

 それが伝説となるまで。

 その後、映像はノイズ混じりのままでどんどんと進んでいって、幼かった少年は精悍な顔立ちの青年となった。彼は相変わらず何処か淋しそうな色をその瞳に潜ませていたが、あの冷酷で無情な表情よりは幾らかましな顔付きだった。
 それに比例するように、ゼルダ姫の方が何か重いものを知ったような、そしてそれを秘密として抱えているような、そんな顔を時折するようになっていった。
 やがてノイズ混じりの映像は完全なノイズとなり、最後にブラックアウトして何も見えなくなった。