真実を与えよう。
 君に重きまことを与えよう。
 其の重圧に耐えられるのならば、
 其れは光となるだろう。



合わせ鏡の影



「――姫ッ、ゼルダ姫ッ!!」
 扉をばあんと力任せに開け放って室内に入り、リンクは慌てたように敬礼した。あんまりに急いでいたために謁見の手順を忘れてしまっていたらしい。これ程の無礼となると、普通なら不敬罪の罪でいくらでも吊し上げが可能だ。
 しかしリンクはゼルダが最も信頼を置く光の勇者。加えてある程度はゼルダの方で彼の事情を把握している。何かあったのだろうなあとゼルダは苦笑いして、彼女の中で処分は落ち着きなさいとたしなめるにとどまった。ただし至極冷たい微笑みで。
「どうしたのです、そんなに慌てて。紅茶でも飲んで落ち着きなさいな」
「あ……手が汚れているので失礼させていただきます……」
「では洗いなさい。あとは着替えですね。紅茶を飲む余裕もない人の話は聞けません」
「はっ、はいっ!! 直ちに!」
 ゼルダのにこやかな、しかし有無を言わせぬ笑顔の下の凍てつくような声音にリンクは慌てて再度敬礼をして部屋を出た。実刑がくだらなかっただけましだ。ましというより、むしろ神の思し召しレベルか。
「だーかーら落ち着けっつったろー。本当馬鹿だなリンク」
「うるさいなあ! 急いでてそんな言葉は耳に入らなかったよ! ああ、せめて着替えてくるんだった……」
「諦めな。あの様子じゃあ、姫さんシャワーから全部ご所望だ」
 わかってるわかってる、とリンクは投げやりに言うと走る足は止めずに振り返り、「見るなよ」と厳しい顔で言った。田舎でわりと世間知らずに育ったリンクだが、その程度の道徳観念はあったようだ。
 ミドナはそんなリンクの態度を呵々と笑い飛ばすと、「見やしないよそんな貧相なもん」と茶化し、リンクの本気の肘鉄を喰らった。



◇◆◇◆◇



「結晶石の安置場所へ行きたいのですか?」
「ええ。時の神殿で見た限りでは、そうすることで道が開けるのではないかと」
 あの後リンクはシャワーを浴び、下着やらシャツやらを全部おろしたての新品に取っ替え純白の騎士服(あまり好きではないが)に着替えて再びゼルダの執務室の扉を叩いた。いや、この場合再びという形容は正しくない。先程はノックすらせず扉を開け放ったのだから。
 びしっと正装で出直してきたリンクにゼルダはびっくりして、「そこまでしなくてもよかったのに」と申し訳なさそうに笑うと彼をテーブルに招いた。卓上には、侍女にでも用意させたのか宣言通りティーセットが一揃いしていた。
「時の神殿で見た? 何をですか」
「言ってしまえば幻、なのですが……例の水晶と、それを守護しているかのような――時の勇者に瓜二つな影を」
 ゼルダはぱちくりと瞬きをして、運びかけていたカップをテーブルに戻した。
「おかしいですね……私があの水晶を任されてから数年経ちますが、そのようなものは見たことがありません。ましてや時の勇者の影だなんて」
「影だから普段は見えないのかもしれないぜ?」
 ミドナの何気ない一言にリンクが唸る。
「うーん……案外的をえてるかも……。悩むより見た方が早い気はするけどね。――姫、出来れば早い内にお願いしたいのですが」
「わかりました。では今行きましょう」
「……姫。政務はいかがなされるのですか」
「丁度飽きてきたところです」
「姫……」
 まったくこの人は、というふうに肩で息を吐き苦笑いをしてリンクは「ではお言葉に甘えて」と席を立った。彼の真正面にあるカップの中身は殆ど空だった。



 密やかな空気、何かを隠しているとそう感じられる空気がそこには満ちていた。心なしか、肌がぴりぴりする。
 長い長い螺旋階段を下ってゆく。道中に明かりはなく、下るにつれて減ってゆく窓からの僅かばかりの月明かりと、ゼルダが手に持つカンテラだけが頼りだ。
 やがて階段が終わり、こじんまりとした扉が現れた。真っ白な石に余計な装飾は一切なく、ただ隔絶するものとしての役割を果たしていた。
「この奥に……あの祭壇が」
「そうです。この部屋を管理するのが代々の姫たちの役目。もう、二、三百年も前から……」
 ゼルダはこちらも一切の装飾を排した、シンプルかつ美しい鍵を取り出して鍵穴に差し込んだ。がちゃり、と錠の開いた音がして、キィ、と小さく扉が動いた。
「どうぞ、入ってください」
「はい……」
 勧められた通りに一歩足を踏み入れた瞬間。
 リンクは言い様のない殺気を感じた。
「――!?」
 慌てて剣を抜き、構える。ぎりぎりのタイミングだった。直後、強烈な一撃がリンクの顔面めがけて降ってきたからだ。
 予想通り、それは時の勇者の姿をした漆黒だった。マスターソードとおぼしき闇色の剣が物理法則を無視してリンクの構える剣に食い込んでくる。
「リンク!!」
「姫! ミドナ! 室外にいてください!!」
 リンクは叫ぶと左甲に力を込めた。願いに呼応し、トライフォースは光り出す。そのひかりに影の動きが止まった。殺意が薄れ、代わりに観察を始めている、
 しばし興味深げにリンクをじろじろと眺めていた影だったが、やがてふうん、と短く呟くとすっと剣を引いた。
「へえ……そっか、お前、あいつの後継か」
「あいつ……? 時の勇者のことですか」
「そう。悪いな急に攻撃して。何分ここを守護するのが俺の役目だ――ハイラル王家の姫以外は排除するようプログラムされてるんだよ」
 ま、そーいう意味じゃお前は例外だ、と彼はけらけら笑ってリンクに手を差し出した。
「ようこそ新たなる勇者。察しの通り俺は姫を守護する時の勇者の影。適当にダークとでも呼んどけ」
 ぽかんとするリンクに、いや、その背後にいるものに微笑みかけるとダークはそこの姫さんたちも、と言っておいてけぼりにされているゼルダとミドナに手招きをした。



◇◆◇◆◇



「何を望む? 情報か? それとも」
 一瞬の間を置いて、ダークは核心を突く。
「もっと無謀なことか」
 その答えにリンクは押し黙った。そうだ。たぶん自分が望んでいるのは一番無謀なことなのだ。出来るとなんの根拠もなく思い込んでいたが、本当のところそれは実に突拍子がなく現実味もない。
「沈黙は肯定と見なすぞ。――ま、そんぐらいの志がなきゃそこに"それ"もないだろうよ。だいたいわかってた」
「それ……?」
 それってなんですか、とリンクが尋ねるとダークは露骨に驚いて、それから無理もないかと苦笑いした。
「気付いてないか。そんなもんなんかな。……お前に憑いてるモノだよ。あいつの残りかすだ」
「……やっぱ憑いてたか」
 ミドナが苦々しく呟いた。嫌な予感は本物だったわけだ。出来れば気のせいであって欲しかったのだが。
 リンクという一個人を何処かでねじ曲げて変質させているかもしれない、時の勇者の残りかす。それが憑いているなどということは。
「やはり? どういうことですか、ミドナ」
「リンクだけじゃなく姫さんも気付いてなかったのか?」
「しょうがねえよ。それは本質的にトライフォースと同じもんだからな。トライフォースの感覚に慣れちまってる適合者にはわかりづらいんじゃあないか」
 ダークの言葉を受けてミドナもそうかもな、と呟いた。ミドナはトライフォースとはなんら関係ないし、ダークも見たところトライフォースは宿していなさそうだ。
「んーあれだ、近頃のコイツはちょっとおかしかったんだよ。まず思考が過激だったというか……例えば時の神殿のロックを力業で抉じ開けた。そしてそれが出来るだけの力があった」
 ミドナのおかしいという発言にリンクが恐る恐る口を開く。
「……そう、かな? ミドナが客観的に見てそうだったの?」
「ワタシは正直恐ろしかったよ。オマエの妙に落ち着きすぎた態度といい、強すぎるトライフォースの力といい。ワタシの知ってるものとあまりに違いすぎたからな」
「――そんなに?」
 そんなにだ、と念を押すようにミドナはリンクの方を見た。リンクはまるで無自覚だったようで、そんな馬鹿なというような顔をしていた。そう思いたかったのはこっちだ。
「妙に落ち着いて強すぎるねえ。まるっきり姫を失った後のあいつだな。余程お前はあいつと相性が良かったと見える」
 「ただまああいつは常に堕ちそうな危うさを抱えていたから、そういう意味ではまだ大丈夫だ」とダークはリンクを正面から見据えて言った。リンクの瞳にはまだ濁りがない。おりが溜まって澱んでいた影の本体とは、違う。
 しかしダークのそんな言葉に、ゼルダが厳しく切り返す。
「ですが、感化されすぎるのは危険でしょう。"まだ"大丈夫でもいつ大丈夫でなくなるかわかったものではない。――私の騎士である限りそんなことは許しません。ダークさん。ここにあなたが居る意味、リンクの変化、求めているものの答え、それら全てをあなたは正確に把握していますね? 我が身に免じて教えていただきたい」
「鋭いね。あの姫さんの子孫ってだけある」
「与太話なら又の機会に」
 ダークはゼルダの鋭さに素直に感嘆した。一番話においてけぼりをくらっているのは彼女だとばかり思っていたが、一番大事なことに真っ先に気付いたのは意外にも彼女だった。
 ダークがここにいることが、時の勇者を救う方法――つまりリンクの求めていたものそのものに直結する事実であるということに。
(……あの姫さんがあいつを支えたのと同じように、この姫さんもこいつを支えたいんだな)
 縛られた血脈の性か、いや悪いことじゃあないよなとダークは内心一人ごちてぽおっとしているリンクに向き直った。背中に憑いている蒼いエーテルは漫然と笑顔を繰り返している。思考できないプログラム。対してダークは思考する。こんなものを遺させるとは、余程コイツも女神と祖先に愛されているようだと。
「なあ。お前、覚悟はあるか?」
 ダークは前触れなくリンクに問いかけた。急な問いにリンクは一瞬驚き、けれどすぐに表情を改める。
 眼光鋭く、意志の強い瞳に。
 ダークはそれを見て満足そうに微笑むと、顔から笑みをすっと消してリンクに囁きかける。
「お前がもし望むのならば――神に背くという罪を俺が引き受けてやる」
 それはリンクにとっても、そして背後のゼルダやミドナにとっても、まったくの想定外の言葉だった。