0 FOOL:再び影時間
「――なんだってんだよ!」
神郷慎はどうしようもない理不尽の暴力に、ただ叫んだ。
何もかもが唐突でそして理解不能だった。わけもわからず我武者羅に走る。ひた走り、歩道橋の中央まで来ると下を見降ろす。まばらに、しかし列を成してぞろぞろと這ってくる仮面を付けた妙な化け物の姿を再確認して舌打ちした。どろどろしたコールタールのようなそれは時折氷の吐息のようなものを放ってくる。とにかく未知数の敵であることは確かだ。
町中の機械が停止し、時計はどれを見てもぴったりと午前零時を指した状態で時を止めていた。気色の悪い深夜の光景。町中至るところに赤黒い、グロテスクな血液の色をした棺桶が直立不動で散乱している。何がなんだかまるでわからなかった。異変は、ある日突然綾凪市に訪れた。
「なんだってんだよ……!!」
暗い緑に染まった空の中央で月が不気味なまでに生々しく光って存在を主張していた。そういえば今夜は満月だったか。丸く、巨大な黄色い真円に怖気を覚えて、慎はまた舌打ちをして自らのペルソナをただ駆った。綾凪市に現れた異変は棺桶と月、機械の停止に、そしてこのコールタールの一軍の出現が主なものだったが最後が一番厄介だ。ペルソナ「アベル」で仮面を付けたコールタールのような化け物を切り裂く。このわけのわからない化け物の大量出現が目下の問題なのだ。
「めぐみ! 拓郎! そっちは?!」
「駄目、全然きりがない! 倒しても倒してもぞろぞろ沸いてきて……」
「――おい慎後ろ!!」
鋭い叫びに振り返ると一際大きなコールタールの塊が、無数の手に持った鈍く光る刃を蠢かせて慎の背後に襲い掛かろうとしていた。「アベル!!」反射的に叫んで刃を刃で受け止める。弾き返し、本能的な恐怖でアベルに連れられ上空へ咄嗟に飛び上がった。
「どこにも使用者らしき人間がいないからペルソナじゃない……じゃあなんだってんだよ。あんなの今まで見たこともない。マレビトももう皆いなくなった。あれは何だ……?」
「慎兄ちゃん油断しちゃ駄目!」
洵の声にはっとして肩で荒く息をしたまま慎は態勢を翻した。だが間に合わない。気が付いた時には、どうやって飛び上がってきたのか一際大きな体躯を持った化け物が慎に狙いを付け終わって手に持った剣を振り被っている。青い仮面を付けたコールタールの腕が何本も慎に迫り無数の刃が視界で煌めいた。めぐみ、拓郎、洵、三人の絶叫を遠くに聞いて慎は目を閉じる。ただ、何もわからないまま死んでいくのかと思うと情けなかった。特A潜在なんて言ったって、所詮はこんなものか。少し不意を突かれただけで全部終わってしまう。
だが終わりはいつまで経っても訪れなかった。
◇◆◇◆◇
右手に手のひらのサイズに対して大ぶりな銀色の拳銃を持って、少年は町を見下ろしていた。紛れもない影時間の再来。だが滅びの塔「タルタロス」はなく、シャドウは溢れ出してそこら中を跋扈している。隣の同じぐらいの背丈の少年に目配せして長い前髪で顔の右半分を覆った少年は、拳銃を自らの右頭部に突き付けた。十年前はしょっちゅう行っていた挙動だ。引き金を引くことを躊躇ったことはそういえば初め以来一度もない。
「綾時、行く」
『……構わないけど、湊君、それ必要なの?』
「保険っていうか、習慣っていうか……くせ。あった方が安定するっていう擦り込み」
『丸っ切り、ただのおまじないだね』
黄色いマフラーを巻いた少年、かつて世界に滅びをもたらそうとしたニュクスの息子である「宣告者」望月綾時はくすくすと笑う。以前は結構な高さだった身長は隣の少年に合わせて縮み、今は百四十センチそこそこの外見だ。綾時の言葉に適当に頷いて湊はかちりと引き金を引いた。ぱきん、という頭の中で何かが割れるような音がして湊の内なる仮面――ペルソナが召喚される。ぱきん、ぱきん、ぱきん、と連続でペルソナチェンジをして湊は何体かのペルソナのコンディションを確認した。
ジャックフロスト、ティターニア、ヴィシュヌ、フォルトゥナ、タケミカヅチ、といったふうに次々とペルソナが呼び出されては姿を変えていく。だがそのどれもがいま一つお気に召さなかったのか湊は最後に全てのペルソナを引っ込めてふうと息を吐いた。
「……やっぱ綾時でいいや」
『それはどうも』
「どのくらい強いのかまだ読めないし。切り札を取っとかなきゃいけないなんてルールもないし。慎兄達に何かあってからじゃ遅いし。……だから綾時、君にする」
『と、言いつつ不安気にじっと僕を見るのはどうしてなのかな……』
ぼやき湊を見るが、湊はのっぺりした表情のまま綾時を見つめ返すばかりだ。ふうと溜め息をこぼして非常に人間臭く苦笑いし、それから綾時は湊の手をそっと握った。十年前に見知っていたものより遥かに小さい手のひらだが、線の細さは変わらなかった。いのちのこたえに辿り付いてニュクスを封じ込めていた体はか細く弱々しい。
彼が誰よりも世界を愛していたことを綾時は知っている。大晦日に綾時を生かし、いのちをもって滅びを回避した彼は世界という曖昧だがうつくしいものを、とても大事にしていた。繋がりというものを大切にする人だった。一度死んで、中途半端な存在になってしまった今もかつて彼が築いた繋がりを捨てずに心の中に抱えている。
だからこそ綾時は、出来る限り彼の力になりたいと思う。
『大丈夫、任せて湊君。君は何があっても僕が守ってみせるよ』
シャドウに近くしかしシャドウではなく、人のような姿をしているが人でもない綾時が、かつて有里湊と呼ばれた少年のペルソナになったのはそのためだ。綾時は湊を抱き締めて囁いた。湊がもう二度と後悔をしなくていいように、彼の剣となり盾となりたいと綾時は思っている。
◇◆◇◆◇
スローモーションで迫ってくる剣を弾き飛ばす剣があった。硬質な音と共に慎の世界に速度が、音が戻ってくる。慎を庇うように現れたのは死神だった。いや、そうではない。死神のような何かを従えた人間だ。
「え……」
『臆病のマーヤ、タイプ魔術師。弱点火、雷、風……』
「ありがとデス。大して強くない。行ける?」
『勿論』
ペルソナだろうか、と心中で尋ねたが勿論答えは返ってこない。声は子供と、それから青年のものだ。心臓はまだいやな音を立てて鳴っており、慎の思考を掻き乱す。
白と青のTシャツにヘッドホンをかけた子供が巨大なペルソナらしきものを操って慎と「臆病のマーヤ」を引き離した。そのままマーヤに、ペルソナが攻撃態勢を取る。黒いコートの裾を翻し、鎖で繋がれた八つの棺桶を広げて「デス」と呼ばれたペルソナが咆哮した。
「アギダイン」
少年が短く告げると、巨大な炎の柱が起こる。炎は臆病のマーヤを一瞬で取り囲み、高熱のエネルギーで蒸発させた。一瞬だった。あっと思った時には、上空に飛翔して慎の命を終わらせるはずだった臆病のマーヤは、もうどこにもいなかった。
「デス、もういい」
『でも湊君、まだここ、空の上……』
「いい。疲れた」
いいから消えろというふうに睨まれて死神の名で呼ばれたペルソナがふっと掻き消える。少年は安堵したように息を吐き、目を伏せってそして落下を始めた。その光景に自立意識が明確に体に返ってくる。
「おい、お前、落ちたら死ぬぞ!!」
慎はぎょっとして、呆然としていた体を動かして少年を拾いあげに急降下した。自らのペルソナを動かし子供を抱えあげる。理解を追い付かせる暇もなく呆気なくコールタールを燃やしてしまった子供は幼い少年だった。見た目は十歳かそこらか。体を寄せてかけっぱなしのイヤホンから何かの音楽が漏れ聞こえていることに気が付く。英語の歌詞が耳から耳へ、流れては消えていく。
臆病のマーヤ、というらしい親玉が消えたことで子分格と思しきコールタールの地上でのポップも終わったようだったが、理解の付かないことが多過ぎてもう何も考えられなかった。頭がぐるぐるする。何もかもが不自然で謎だらけだった。ただ、ゆっくりと地上に降り立つ中で一つだけ明確な疑問が脳裏をかすめる。ペルソナは、人語でもって頻繁にコミュニケーションを交わす存在だったんだっけか?
イヤホンから「burn my dread」と一際大きなシャウトが漏れ出た。怯えや恐怖を燃やし尽くすのは今の自分には無理だなと、漠然と思った。
Copyright(c)倉田翠.