T MAGICIAN:ピアスの黒猫、ニュクスの息子

 綾凪は、富山湾に面するごく普通の市だ。「影抜き」と呼ばれるドラッグ紛いの行為が流行ったり「連続リバース事件」と呼ばれる表皮が文字通りリバースし、グロテスクな死体が残る怪現象が続いた過去もあるが基本的には未来型都市をスローガンに掲げた開発都市である。影抜きもリバースもマレビト達、ひいてはその黒幕であった男が意図的に引き起こした事件で彼らが死して半年が経った今は、本当に平穏で事件らしい事件が起こらず警察署は退屈をしていた。
 だから昨夜の突然の異変の数々に慎は困惑を隠せなかったし、一夜経った今でも何も納得出来ずにいる。拾って連れ帰った少年――確か、ペルソナに湊と呼ばれていた――彼だけが唯一の手掛かりだった。だが彼はまだ眠っている。
「慎兄ちゃん、真田さん、繋がったけど」
「わかった。電話貸してくれ」
「はい」
 割合すぐに真田に電話が繋がったことに安堵を覚えて慎は受話器を受け取った。真田は半年前の事件で参事官として一時綾凪に赴任し、ペルソナ特殊部隊の指示を執った男だ。ペルソナ事件に固執していたせいで上層部に干されていたのだが、元来能力の高い男でまた何らかのコネクションもあるらしく近頃ではまた以前の忙しさに戻っているのだという。だが慎達の知り合いでペルソナ絡みの事柄に詳しそうな人間は真田ぐらいのものだ。悪いとは思ったが彼にしか頼れないのだ。
「もしもし、慎ですけど……」
 挨拶もそぞろに本題に入り、昨夜のあらましを語る。話を黙って聞いていた真田はしばらく後、信じられないといった声で一言短く『影時間だな』と告げた。
『影時間と、シャドウだ。赤い棺桶は「象徴化」現象で、影時間に適応のない人間がその間ああなる。……だが何故だ? 確かに昨日は満月だったが、影時間は十年前になくなったんだ』
「知ってるんですか」
『昔、言わなかったか。お前達にとっても十年前という言葉は特別な意味を持つだろうがそれは俺にとっても同じなんだ。十年前まだ学生だった俺が直面していた問題がまさにそれでな……影時間、シャドウ、そしてタルタロス。……辰巳ポートアイランドで十年前同様の現象が起こっていた』
 郷愁を帯びた声でそう言ってから真田は過去を懐かしんでいる場合ではないなと溜め息を吐き、影時間とシャドウに関する説明を手短にする。曰く、存在しない二十五時、ペルソナ適応者しか感知出来ない時間であること。そしてシャドウが影時間に生身で動いている人間を襲う習性があること。真田の説明には真実味があって、彼の過去の体験を偲ばせた。知りたいような気がするが我慢する。今電話越しで尋ねていいことではないように思われた。
『……そういえば、慎。子供を拾ったと言ったな』
「あ、はい。まだ起きてないです。ペルソナ使いみたいでしたけど……」
『ペルソナの名を聞いたか?』
「? 確か『デス』って呼んでたと思います」
 その名を告げた瞬間、真田が息を呑むのが受話器越しにもはっきりとわかった。動揺すらしているようだった。「デス」、死とそれを司る神の名前。真田の中ではそのある意味でありふれている名詞が酷く重い意味を持っているらしい。
『近いうちにそちらへ向かう』
 短い沈黙の後に真田はそう言った。
「でも最近忙しいんじゃ、」
『構わん。確かめたいこともある』
 唐突に電話が切れ、ピー、ピー、という無機質な機械音だけが残る。慎は仕方なく受話器を所定位置に戻した。腑に落ちないことは多いがともかく収穫はあったのだ。


 昼過ぎに食事を終えて戻ってくると、少年は狭い部屋の隅で座り込んでいた。どこから出したのか黒い猫を抱えている。左耳にピアスを付けた猫は慎に気付くと一鳴きして座ったままうとうとしていた少年に目覚めを促した。
「……目、覚めたんだ。良かった。どこか具合が悪かったりしないか」
「……別に、大丈夫」
 対応が随分と素っ気ない。だがめげずに質問を続けることにする。どうもこの少年はあまり人を寄せ付けたがらないタイプか、重度の人見知りらしい。単に無口に眠気が拍車をかけているだけかもしれないが。
「その猫、お前のか」
「そう。ナオっていう名前。……ナオ、連れてちゃ駄目かな……」
「いやそんなこと聞かれても。あのさ、両親とか保護者っていないのか。それから昨日……ペルソナで俺を助けてくれたの、お前だよな」
「……うん。満月シャドウのマーヤは、僕が倒した。僕が倒さなきゃいけないから。保護者は……」
「答えられないのか? ならまあ、いいや。名前は? 苗字、まだ知らないんだ」
 逡巡の後湊は端的に回答を寄越した。
「……神郷。神郷湊」
「かんざと? 僕達と同じ?」
 洵が不思議そうに首を捻る。慎はおいおいと肩を竦めて湊の頭を幼子をあやすように撫でた。湊はそれに不服そうな素振りを見せるでもなく甘んじる。
「いやお前それ、偽名だろ……親戚に子供はもういないし。神郷ってそうある苗字じゃないし」
「偽名じゃない。苗字を失くした僕に結祈がくれた。慎兄と洵兄は、優しいから大丈夫って結祈が」
「は?」
「一回死んでるから苗字がないって言ったら、結祈が『じゃあ、私がお姉さんになってあげる』って。……だから僕は神郷湊。おかしい?」
 湊は裏表のない素直な表情でこてんと首を傾げた。下手に出て慎と洵の反応を窺っているふうでもある。素数を数えようとし出した脳に待ったをかけて慎は湊の言葉を整理しようと試み、そして挫折した。湊が言う「ユキ」とは恐らく十年前に死んだ「神郷結祈」のことで、湊は結祈に会って苗字を貰ったのだと言う。慎兄、洵兄、と呼んだのは彼女に「姉になってやる」と言われたらしい、からだろう。そこで思考が止まる。
 結祈は死んだ。半年前までは洵の中にいたが、今はもうくじらのところにいるのだと思う。そして湊もまた、「一回死んでる」などと言う。だったら何故ここにいるのか?
 死者は帰って来ない。
「お前、何者だ?」
「神郷湊。影時間とシャドウを消すためにここに来た」
 湊の目に、嘘を吐いている様子はない。それに影時間とシャドウという台詞が気に掛かった。電話で真田が言っていた単語だ。
 黒猫を抱えたまま湊は表情の読みにくい顔で淡々と答える。長い前髪の隙間から垣間見える右目は曇りのない灰色で彼が真剣なのだということが伝わってきた。だが如何せん、不可思議な点が多過ぎる。信用してやろうにも突拍子がなさ過ぎた。
「ねえ、湊」
 静かにしていた洵が徐に湊の名を呼ぶ。湊は心なしか嬉しそうな表情をして洵兄、と小さく言った。慎の対応からか多少の躊躇いがあるらしく、自信がなさそうだ。
「もっと普通にしていいよ。……湊はどこか行くところ、ある?」
 洵の問いに湊はふるふると首を振った。
「じゃあ、僕達のとこ、来る?」
「……いい?」
「うん。慎兄ちゃんは今ちょっと考えてるみたいだけど、湊は悪い子に見えないもん。きっと本当に結祈と会ってきたんだよね。影時間とシャドウのことは僕も慎兄ちゃんも知りたいと思ってることなんだ。だから皆でやろうよ。僕は結祈がいないからもうペルソナは出せないけど……どうしてそんなに驚いてるの? だって湊は『弟』なんでしょう?」
 弟、と呼んでやると湊は年相応に顔をぱっと綻ばせてありがとう、と笑った。初めて見る表情は思ったよりも可愛らしいもので、そうして見るとただの小学生のようだった。自身の身の丈よりも大きなペルソナを操ってシャドウというらしい化け物を一瞬で蒸発させたとは思えない。
 そういえば昨日慎は湊に命を救われたのだったということを、つられて思い出す。そういう意味では少なくとも敵意はないわけだ。目的も一致している。
「慎兄ちゃんもいいでしょ」
 洵が強硬な笑顔でね? と慎に振り向く。頑なに「いや、怪しいから駄目だ」と言うのも憚られて慎は一つ溜め息を吐いて頷いた。真田も気にしていたし、湊をほっぽり出すわけにも本当のところいかないのだ。
「つまり洵は弟が出来るの、嬉しいんだな」
 そう言ってやると洵は大いに頷いてまたにこにこと笑った。妹の結祈との別れは正しいことであったのだがやはり急に開いた穴は小さくはなかったのだろう。どうも普通の人間ではなさそうな湊だったがそんなことは関係ないと考えているに違いない。愛嬌が足りないが湊には不思議と人を寄せ付ける魅力があるのだ。怪しい点がこんなに多くなければ確かに慎もここまで疑ったりはしなかった。
「わかったよ。戌井さんに聞いとく」
 答えると、湊の腕の中で黒猫があくびをした。



◇◆◇◆◇



「……なんとか置いて貰えそう」
『ああ、まあ、ひやひやしたよ』
「ナオ、あくびしただけだろ」
『だって猫は喋んないだろ』
「……そうだけど」
 ピアスの黒猫はさも当たり前であるような顔で鼻を鳴らし、湊の膝で丸くなった。ナオはよく湊のそばを離れていなくなるが、そばにいる時は湊の体に触れていることを好む。特に膝の上でまどろむのがお気に入りのようでよく尻尾まで丸めてうとうとしていた。その寝顔を見ていると湊までうとうとしてきて最後は逆にナオに揺すり起こされてしまう。
「それにナオ、僕が落下した時助けてくれなかった」
『猫がペルソナ出してたらおかしい』
「特別課外部にはペルソナを出す犬がいたから問題ない」
『それは初耳かな』
 まるで人間のように肩を竦める仕草をしてナオは耳を揺らす。あの時デスを強引に解除したのは湊だとデス自身はぼやいていたし、実のところナオが咎められる理由はそうない。ナオは湊と別行動で綾凪の一定区画を飛び出ようとする雑魚シャドウを駆逐していたのだ。褒められこそすれ文句を言われるのは心外だった。
 猫の姿で出来ることには限度がある。
「……ね、ナオ。ナオは慎兄達のことどう思ってる? ……ていうか、カズは? カズは綾時のこと嫌いだから、同じ感じで二人のことも嫌われるとちょっと困る。慎兄は特に大事な人なんだ。結祈にも頼まれたし、それにあの人は『因果律の裁断者』だから。ニャルラトホテプを叩くには慎兄の力が絶対必要になる。……つまり、ナオのためにも」
『知ってる。わかってる。和也だってそこまで頑固じゃない』
「うん……ならいいけど」
『今和也に代わるか?』
 ナオが尋ねると湊は首を横に振って拒否の意を示した。あのあけすけな感情をぶつけてくるカズのことを、湊はほんの少し苦手に思っている。綾時と仲が悪いというのもあるだろう。ナオとカズとが繋がりを持った存在であるのと同じように湊と綾時も強い繋がりを持った存在だからだ。ナオはカズであり、湊もある意味では綾時である。綾時は湊から生まれた人格だった。十年を有里湊の内で過ごし生まれた人格は言い変えれば、有里湊が持つ無数の人格の仮面、ペルソナの一つに相違ないということなのだ。
 有里湊を継承したほぼ同一の存在であり、死してやや「あちら側」に近付いた神郷湊は望月綾時と非常に良く似た存在だった。
『あんまり、和也のこと深く考えない方がいいぜ。和也は刹那主義というか、まあ、適当でさ。でも本心で綾時と反目してるわけじゃない。湊のことは認めてるし、あれで結構過保護だったりするし』
「そう」
『だから綾時もあんまり和也と距離取んなくても、いいんじゃないかな』
『……尚也にはなんでも見透かされちゃうね』
『そんなことない。綾時がわかりやすいだけ』
 いつの間にか湊の背後で浮かんでいた綾時にナオがそう言ってやると綾時は心底「参った」という顔でお手上げのポーズを取る。ナオはしっぽを揺らして鈴のように笑った。自身が苦手にしている方の黒猫はお休み中だということをそれでも確かめてしまう綾時がペルソナであり、昔は死を司る存在だったこともあると聞いた時のことはナオにとっても忘れ難い出来事だ。あの時、心の奥でカズが大笑いしていたということをナオは湊にも綾時にも言ったことがない。
 綾時はその特異性故に、ペルソナとしてはお喋りが過ぎたし性格は普通の人間よりもよっぽど人間臭かった。
『もう夕方だな。湊、そういえば綾時のこと、話さなくてもいいのか?』
「考えてる。ペルソナチェンジのことは早い内に説明しとくけど……綾時のことはどうしようかな。ナオはどう思う? しといた方がいい?」
『何とも言えないけど。湊が信用してるんならその通りにすればいいよ。達哉もそう言うだろうし。何にせよ、後手にまわらないようにな』
「達哉」
『ああ。あいつのためにも影時間、ひいてはその発生源は潰しておかないと』
「……そうだね」
 ピアスの黒猫の言葉に頷いて湊は猫を抱き上げた。
「そのために神郷湊はここにいる」



◇◆◇◆◇



 実家の居間にあるソファに慎、それから洵と湊が向かい合っている。肩に掛かっている小型のヘッドホンをもぞもぞと弄る湊の隣に座り込んだ洵はそわそわして、湊を見つめていた。一人で複数と向かい合っていると、湊の態度も相まってまるで尋問かなにかをしているかのようで居心地が悪い。慎はもぞりと体を動かした。何かおかしい気がする。
「湊、話ってその、何だ?」
 いたたまれなくなってそう声をかけると湊はぱっと嬉しそうな表情になって「慎兄」、そう名前を呼んで顔を上げた。
「慎兄と洵兄に話しておかないといけないこと、いくつかあって。影時間とシャドウ、ペルソナのこと。知っておかないとこの先困るから」
「影時間って……真田さんも言ってたな。二十五時とか、あるはずのない時間とか……何なんだ、それ」
「真田さん?」
「知り合いの刑事。……湊、どうした」
 湊の声が微かに上擦ったのに気が付いて慎が聞くと湊は小さく首を振る。仕方ないので追求はしないことにして話の先を促す。湊が秘密を抱え込んでいることはわかっている。今更それがいくら出てきたって驚くことではない。
 ただびくりと肩を震わせたことだけが、電話先で真田が取った反応をどことなく想起させて気がかりだった。
「湊はそのこと、知ってるの?」
「うん。影時間もシャドウも、元々は《星を喰らうもの》《死を招く月》《母なる終わり》……そういう呼び名で呼ばれる、ニュクスっていうものの余暇エネルギーから生まれたみたいなものなんだ。全ての人間の無意識下に封じられているニュクスの僅かなエネルギーが人間の外に這い出て形を作るとそれがシャドウになる。シャドウが集まると、影時間が出来る。でも本当ならもう、影時間なんて起こり得るはずがない。ニュクスはずっと封じられててエネルギーをシャドウ達に供給出来ない。だからニュクスにシャドウ達が還ろうとすることも出来ない。そのはずだったんだ。……でもね」
 湊は二人の反応を待たず、初対面の印象からは想像し難いぐらいに饒舌に喋った。焦燥と負い目がまくしたてるような言葉の端々から感じられたような気がした。
「ある時、ほんの小さな後悔の気持ちが『それ』に拾いあげられた。本当にちっちゃなものだったんだ。でもそいつはそれを拡大して肥大させて玩具にして、そして今の状況を綾凪市に造り出した。意味はね、ないんだ。そいつはそういうことに意味を求めない。純粋な快楽主義で傲慢で不遜で身勝手で、愚かで、道化だ。自分が楽しむために気に入らないものを巻き添えにする。慎兄はそいつにとって邪魔だったんだ。慎兄は可能性を持ってるから」
「……よくわからない」
「慎兄のペルソナ能力が厄介だって話」
「ああ、そういうことか……」
 まだ判然としないが頷く。特A潜在。ペルソナを苦痛も弊害もなくその人から切り離す異能。マレビト達もこの力のことは危険視していた。
 邪魔だとか厄介だとか言われるのは初めてではない。
「それで、湊。湊が言う俺を敵視している奴って、なんだ? 明確な正体はわからないのか?」
「ん、ちょっと……難しい。説明は無理。代わりに、もう一個大事なこと話す。僕のペルソナの話」
 はぐらかし、湊が徐に鈍く光るものを取り出す。あまりにも馴染んでいて、慎はそれが何であるのか気が付くのに一瞬時間がかかってしまった。銀色のその塊は拳銃だった。プラスチックに塗料を塗り固めたような安っぽいねずみ色ではなく重たい金属質の銀だった。「S.E.E.S」と何かのイニシャルめいたものが刻印されたそれの銃口を湊は一切躊躇うことなく自身の頭に突き付ける。
 止める間もないうちに湊はその野暮ったい引き金をかしりと引き抜いた。
「――湊!」
「ペルソナ『ジャックフロスト』」
 ぱきん、という音と共に湊の体が淡い青に包まれる。ペルソナ召喚の際に体に起こる発光現象だ。慎は緑で、諒は今の湊のものよりも色濃い藍だったように思う。予期されていた銃弾の代わりに湊から出てきた「ジャックフロスト」を眺め、やや安堵して息を呑み、それから慎は首を捻った。視覚エフェクト化された雪の結晶をヒーホーと吐き出しているそのペルソナは昨日湊が使っていたペルソナではない。
『オイラはジャックフロストだホー! オイラは湊のペルソナの一つ。今後ともよろしくヒーホー』
「……え、一つ?」
「チェンジ。『ティターニア』」
 またぱきんと音がしてジャックフロストがバイバイと手を振り、青い光に呑まれて消えると同じ場所から今度は緑のワンピースを来た女性が現れた。妖精の羽を生やしたその姿はまずもって人ではなかったが、優雅な挙作でスカートの裾をつまみ、一礼する。
『我が身、既にして彼のもの。私もまた彼が心の形の一つ……今後ともお見知りおきを』
「チェンジ。『スライム』」
 そのままティターニアも掻き消え、同じ場所に今度は緑色のどろどろした不定形のものが現れる。赤い陥没した眼をぎょろりと光らせて緑のスライムは『ぅおまえかぁ、丘の果ての赤き滅亡はぁ!』といきなり慎に語りかけた。
『ぅおれはぁあ黒き狂乱のぉおぅ写し身ぃ! 幾多の滅星のぉ柱の一つぅう! 忘れるなぁ……丘の約束……』
「ごめん慎兄。こいつ狂人タイプだからちょっと変なこと口走るんだ。気にしないで。……チェンジ、『デス』」
 溜め息でペルソナ「スライム」の台詞を遮って、湊はもう一度銃口を右こめかみに当て引き絞った。ティターニアやスライムにチェンジした時はただ一言「チェンジ」と呟くだけだったことを考えると随分と特別に扱っている一体であるらしい。
 予期した通りに青い光の中から現れたのは棺桶を八つ背負った死神だった。黒い亡霊のようないでたちで、金属質な仮面のような頭部には落ち窪んで目玉の存在しない丸い眼窩が覗いている。妙な歯を持つ頭部を鳴らすと連動して肩から繋がった鎖が揺れた。ペルソナ「デス」、真田が反応を見せたその一体はリアルな量感や質感を伴って黒いぼろを翻していた。
「あれ湊、そいつは喋らないの?」
 一番獰猛そうな見た目をしているのによく切れるはさみのような口を動かさずじっと止まっているデスの姿に洵が素直な疑問をこぼした。デスが躊躇うように――なんだか、立場の弱い人間が伺いを立てるようであまりペルソナらしくはなかった――湊の方に振り返る。湊は悩むような素振りで慎と洵の顔色を伺い、それから小さく息を漏らしてさも仕方なしというふうに目を瞑って唾を呑んだ。
「解除。『望月綾時』」
 湊の言葉を受けてデスの姿が一瞬で成り変わった。今度はペルソナを変えたのではなく、文字通りに「デスが」変化したのだ。先程まで死神が浮かんでいた中空には今代わりに黄色いマフラーを巻いた少年が立っていた。背丈は湊とそう変わらない幼い少年のもので、前髪をオールバックでまとめ、柔和な印象の顔には左目の下に一つ泣きぼくろが付いている。
 望月綾時と呼ばれたその少年は慎と洵ににこりと笑顔で会釈し、そして心配そうに『湊君、』と主の名を呼んだ。
『僕が聞くのも妙な話だけど……あの、僕戻ってよかったの?』
「いいよ。真田さんが関わってるんならどうせいつかはわかることだし。慎兄と洵兄に隠しごとするのは嫌だし……」
 もごもごと喋り湊は慎と洵の反応を待つ。慎はただびっくりしてしまって、漠然と綾時を指差し「ペルソナ?」と呟いた。綾時は静かに頷いて肯定する。その行動がよりペルソナらしさを欠いてみせるが、やや薄れて浮かんでいる綾時は幽霊には見えても確かに人間とは思えない存在だった。
「湊、その子もペルソナなんだよね。名前、湊が付けたの」
「ううん。デスは……綾時は昔人間のふりをしてたことがあったから。その時の名残り。綾時は特別。ペルソナよりは人間に近いいきものだよ。感情があるから。デスの姿はむしろなんていうか、僕が昔持ってた『タナトス』に重なってるっていうか……」
 タナトス。夜の女神ニュクスの息子で眠りの神ヒュプノスの兄。死を司る冥府の神で、冥府の最奥にある牢獄タルタロスに居を構える。テンプレートな神話の知識が脳裏を掠めた。死も眠りも滅びの夜に通ずる、というふうにオカルト本の解説には綴ってあったように思う。そういえば先程湊が《母なる終わり》やらと形容して「ニュクスが影時間とシャドウの原因だった」と言っていた。
「綾時は元は人間だったのか。それとも、もしかして……」
 慎は息を呑んで尋ねる。湊の顔が少し驚いたように歪んだ。どうしてや何故の言葉を引っ込めて湊は綾時に視線で何かを求める。綾時は静かに頷いて『湊君は、いいよ』と湊の肩を叩いた。
 幽霊のように半透明な、ややうっすらと発光しているようにも見えるペルソナらしい体をふわふわと動かして綾時が慎の方に寄って来る。表情のうちに邪気は一切なかったが純粋に無邪気な少年の姿ではない。憂と哀愁を纏っているようだった。寂しい過去がそこに浮かんでいる。
『お察しの通り、僕が人間だったことはありません。人間に擬態していたことはありますけどね。あ、人間も主との間で強い思いを残すと死した後その主のペルソナになることはあるんですよ……ともかく、かつての僕はシャドウでした。驚きますか? でもシャドウもペルソナも本質では似たものなんですよ。内なる仮面を制御できればペルソナ、制御出来ずに抜け出されればシャドウ……以前鼻の長いあの老人はそう言っていましたね』
「一体君は何なんだ」
『僕は望月綾時。望い月から生まれて時を綾める、ニュクスの息子。そして今は湊君を守護するペルソナの一つ。それ以上でもそれ以下でもないものです』
 慎の問いに綾時はそう答えた。