はじめよう。
 終わりのない物語の最後の一幕を。



森はずれの少年



 ハイラルの南端に、小さな小さな村があった。
 畜農産を主な産業とするその村はのどかでとりたてて変わったこともなく、いつも穏やかな時が流れていた。
 しかし、ある日王家の使者が村外れの森で見付かってからは、村に酷く不似合いな不穏な空気が流れ出した。


「私は……ハイラル城でゼルダ姫様の乳母をしているインパと申します」
 そう名乗った老婆はわっと泣き崩れて懇願した。
「どうか……どうか、姫様をお救いくだされ……!」
 老婆の話を聞いた村人たちは困惑してしまった。
 彼女の話はこうだ。「地の底より蘇った魔王が数多の手下を引き連れ、城を制圧した。魔王に抵抗した姫君は連れ去られ、今やハイラル王国は魔王の手にある。であるからして、どうか姫君を助け出して欲しい……」。村人たちにとっては実に突拍子もなく現実味もない話だった。
「このばあさん、もうろくしてるんじゃないか」
 村の若者が小声で言うと、回りの村人も何人か頷いた。
「そうかもしれん……私たちはこんなにのどかに暮らしているのに、おお、魔王だなどと」
「魔王など、何百年も昔のお伽噺の存在ではないか」
「それも最後は決まって勇者にやられるんだろ。大したことないよな」
 老若問わず、そんな会話が交わされる。誰も老婆を信じなかった。信ずるに足る理由がこれっぽっちも見当たらないのだから。
 ひそひそと話し合って、村人たちは老婆を一晩だけ村に泊めて丁重に送り返すことにした。誰も彼女を泊めたがらなかったが、ただ一人きこりの男だけはその仕事を引き受けた。



◇◆◇◆◇



「気にすることないよ、インパさん。みんなただの卑怯な臆病者だから」
「……すまないねえ、少年……私を元気付けてくれて……」
「だってさ、悪いのはどう見たって僕たちの方だもの。インパさんはちゃんとゼルダ姫の手紙だって持ってるのに、どうしてあの人たちはああなんだろう」
「こら、リンク。あんまり村のみんなを悪く言うんじゃない」
「だって、おじさん……」
 子供だからか、歯に衣着せず好き放題言うリンクを男は諫めた。リンクも男も、村の一員であることに変わりはない。
 元々リンクは変わった子供だった。それでも彼らは分け隔てなくリンクを受け入れてくれたのだ。そんな彼らを悪く言うなんて、という思いが男の中にはあった。
「まあ、まあリンク。俺だって思うところはある。しかしな、そう吠えたところで俺たちにどうにか出来る問題ではあるまい」
「簡単だよ、そんなの」
 リンクは事もなげにうそぶいた。
「僕が行けばいいんだ。その、ゼルダ姫を助けに」
「馬鹿言ってるんじゃない」
「僕は本気だよ」
 男は頭を抱えてリンクの顔を見た。思い付きでよくものを言う子だ、きっとまたそういう類いの冗談だろうと期待したのだがどうもそうではなさそうだった。
 その瞳が暗に訴えているのは腰抜けな村人たちへの不満だ。とはいえリンクは決して彼らのことを嫌っているわけではない。ただ、無謀で子供じみた「正義感」という代物が彼をそういうふうに突き動かしているのだ。
 彼にとっては困っている老婆を「もうろくしている」などと言ってほったらかすことは曲がったこと以外のなにものでもなかった。
「村の誰も行きたがらないのなら、僕が行く。たとえおじさんが止めても」
「物事には道理がある!」
「みんなの言い分には理屈が通ってないよ!」
「だが――」
「おやめくだされ」
 互いに譲らず、喧嘩腰になりかけていた二人を静かな老婆の声が諫めた。二人ははっとして振り向き、ばつの悪そうな顔をする。当人である老婆のことをすっかりおいてけぼりにしてしまっていた。
「私ごとき老いぼれのために、お二人が仲違いすることはありませんて。少年、良いのです。これもまた神のご意志でしょう」
「でも、僕」
「子を危険な目に遭わせたくない親心も、わかってさしあげねば」
「…………はい……」
 老婆に諭されてリンクは大人しく頷いた。思い込みが激しいと、度々言われてきた男の言葉を思い出して沈黙する。
 その様子を見て老婆は微笑んだ。
「思い立ったことを即座に実行に移そうと思えるのは、良いことです。しかし……必ずしもそれが最善であるとは、限らない」
「……」
「姫様も、そうして魔王に拐われてしまった」
 「姫様」という単語に、ぴくりとリンクが反応する。振り向いた彼の表情は好奇心という名の興味を隠しきれていなかった。足元がそわそわしている。
「インパ……さん。こんなことを聞いたら、失礼かもしれないけど……その、ゼルダ姫は何をしたの? それに、助けるってどうすればいいの……?」
 老婆はまた柔らかく微笑んだ。リンクの手をとり、細い目を瞑る。
「少年、あなたが望むのならば私はいくらでもお話ししますよ。込み入った話ですが、あなたになら隠す必要もありませんから」
 そして彼女は詳細に語って聞かせた。
 ハイラル城で起きたことを、事細かに余すことなく。



◇◆◇◆◇



 ゼルダ姫は追い詰められていた。
 父と母は既に物言わぬ屍となっており、ただ一人の兄は運良くというべきか――他国への外交で不在。城には、いや国には最早ゼルダ姫以外の王族は残っていなかった。
「私が欲しいのはお前一人よ、小娘」
「……」
「その身に宿る"知恵のトライフォース"だけが重要なのだ。くく、とはいえ"勇気のトライフォース"が手に入るまでは生かしてやるがな」
 城は魔王の手下に占拠され、騎士団はほぼ壊滅。自らに宿る力の使い方なぞ彼女は知らず、抵抗の手段はほとんど残されていなかった。
 しかしそんな彼女でも、「知恵のトライフォースをむざむざと魔王に渡す」ことがいかに危険であるかには気が付いていた。そして各地の神殿に散り散りに納められている勇気のトライフォースの存在に気付かれることの恐ろしさも。
 判断するために残されていた時間は少なかったが、彼女はその重い決断を下した。その道を選ばざるをえなかった。
「あなたのような人に……この力は渡せません」
「くっくっく……面白いことを言う。たかが小娘に何が出来る? 薄まった力でオリジナルに対抗しようなどと愚の骨頂よ……!」
「わたしが死んでも構わない。この力を……国を救う希望さえ遺せれば!!」
「?!」
 ゼルダが叫ぶのと同時に彼女の右甲が眩く輝く。その光はすうっ、と彼女の体を離れ中空高くに浮くと高い音を響かせて勢いよく弾けた。
「小娘……何をしている!!」
 弾けた光はトライフォースだった。ゼルダが宿していた知恵のトライフォースが、今魔王の目と鼻の先で八つに割れて散り散りに飛び去ろうとしている。
「分裂したトライフォースは……そう簡単には見付かりません。八つが再び一つに合わさらない限りあれは力を発揮できない」
「ふざけおって……!」
 きらきらした欠片になった八つのトライフォースは悉く魔王の手をすり抜けていく。光速で飛び去る欠片はとても目で追えるものではなく、飛び去った場所は特定出来そうになかった。
 ゼルダは死を覚悟して深く息を吸い、目を閉じた。こうなってしまっては、魔王にとって自分は価値のないものだ。生かされるはずもない。
 しかしいつまで経ってもゼルダに死は訪れなかった。
「……何故殺さないのです」
「何も訊いてくれるな」
 魔王は静かにそう言うと、己を睨むゼルダに静かに手を当てて彼女を眠らせる。くたりと地に崩れ落ちた彼女を抱き上げ、振り返ると城中に響くような声を轟かせた。
「神に選ばれた"しるし"を持つ者を探すがいい――そして言え。私を倒してみよと」
 マントを翻し、ゼルダを(信じられないことだが、まるで慈しむかのように)抱き抱えたまま魔王はふっと姿を消した。ただ、抑止力としてなのか多数のモンスターが城に残され、人がそこに残ることを事実上不可能としていた。
 城下町を制圧していたモンスターは大半が消え去っていたが、敵の巣窟と化した城の膝下で暮らすことへの恐怖心から人々は我先にと逃げ出し、姿を消した。
 こうした経緯から国の首都は今、もぬけの殻になってしまっているのである。



「なんか……すっきりしない話」
「どのくだりがでしょうか?」
「インパさんだってわかってるでしょ。急に魔王の態度が変わったことだよ」
 最初は傲慢不遜で人を見下していた感じなのに、とリンクは憚ることなく考えを口にした。
「急にゼルダ姫を気遣うような態度を見せるなんておかしすぎるよ」
「それは皆も思ったようですよ」
 老婆は嗄れた目尻をきつくし、腹立たし気に答える。
「私が聞いた限りでも、実は初めから姫様は魔王と組んでいて全て茶番だったのではないか――などとのたまう輩が幾人もいました」
 ふざけた話です、と忌々しそうに吐き捨てる老婆をリンクは気遣う。でも、それだけ聞いたのなら確かにそう思えなくもない。老婆がそうではないと断言出来るのは恐らく彼女がゼルダ姫の乳母だからだ。長年側に仕えてきて、その性格を熟知していたからだ。
 「初めから仕組まれていたのではないか」という発想それ自体は仕方のないものに思えた。
「でも僕は、ゼルダ姫の潔白を信じるよ。……だって、本当に手を組んでいたのならわざわざトライフォースを八つに分ける必要がないもの」
「後で姫自身に戻ってくる仕掛けだったのかもしれな――」
「おじさんは、黙ってて」
 空気を読めていない横槍を入れてきた男を低い声で睨めつけて、リンクは老婆に向き直る。リンクの意見は別に老婆を慰める為に言ったものではなく、ごく単純に彼の本心からの思いだった。
「僕はゼルダ姫にお会いしたことなんか勿論ないし、こんな辺鄙なところに住んでいるから噂を聞くことすら殆どない。でも、この国がこんなに豊かなのはきっと国を治めている王様やお姫様がいい人だからだと思うんだ。そして実際その通りだから、インパさんはゼルダ姫を信じられるんでしょ? 僕はそれで十分だと思うよ」
 そして現実問題――本心からの思いほど、純粋な思いほど強く誰かの心を動かすものも少ない。別にリンクはそういったことまで考えていたわけではなかったけれど。
 元より彼は、それほど深いというか、策略じみた思考をする子供ではないのだ。
「誰かがゼルダ姫を疑ったとしても、僕たちみたいな別の誰かがゼルダ姫を信じていれば、それで十分。――誰か一人を信じられるだけで、人は寂しさを乗り越えることが出来るから……」
 ね、そうでしょ、と屈託のない笑みを見せてそう言い切ったリンクに男も老婆も酷く驚いて、そして"何か"を感じた。それは男にとっては子離れの淋しさであり、老婆にとっては暖かな希望の予兆であった。
 老婆はがさごそとスカートの内ポケットを探って、小さな包みを一つ探し当てた。それを恐る恐る取り出す。何かとても大事なものなのだろう。そして同時に恐ろしいものなのだろう。手が震えている。
「少年。あなたにならこれをお見せできる――姫様が私に託されたものです」

 老婆が包みをリンクに手渡した瞬間、それは起きた。



 運命を信じずとも。
 歴史を冒涜しようとも。
 神を否定しようとも。

 必然という名の呪いから逃れることは、赦されない。