泣いているのは誰?
 苦しくて痛くて辛いのだと
 何が正しいのかなんてわかりっこないと
 泣いているのは、わたし?



虚無の向こう



 森の奥深く、コキリの少女サリアの幻影が消えた後に残った扉。
 所々小さく欠け落ちた扉には、しっかりと両翼を広げ聖三角を戴く鳥――ハイラル王家の紋が彫り込まれていた。王家の紋が対称になるよう、丁度真ん中に線が入っているところを見るにこの扉は両開きらしい。
 まあ、そんなことはどうだっていい。問題はその扉がどうやったら開くのかだ。
「トライフォースを翳しても駄目となると、もうさっぱりなんだけど」
「ナビィに言わないでヨ。ナビィはもっとわかんないもん。ちんぷんかんぷんネ」
「う……、わかってるけどさ」
 かつてこの扉を起動せしめたのは、光の勇者が用いたマスターソードだったのだけれど――そんなことはリンクの知るところではないしそもそもリンクはマスターソードを持っていない。
 まさしく八方塞がりである。
 考えすぎて頭がこんがらがってきたリンクは大きく息を吐いてどさりと切株に座り込んだ。目線を低くすると鎮座する扉はより一層どっしりと構えて見え、威圧感を放つようですらある。
「……どうしたものかな……」
 何か都合のいいことが起こらないかと目を瞑り、森の声に耳を澄ませてみるリンクだったが、残念ながら世の中そう都合よくは出来ていないようだった。



◇◆◇◆◇



「……何をしているのですか、あなたは」
「うむ。パイを焼いていた。なかなか上手く出来たと思うのだがどうかな」
「ええまあ美味しそうであることは認めますが――イメージですとか印象といった言葉はご存知ないのですか?」
「殺戮や迫害で保たれる威厳ならば要らぬ」
 短く言い放たれる言葉には確かな意志が含まれている。多分何を言ったって無駄だ。まあ無意味に殺傷をして欲しいわけではないから、それで困ることもない。
(……しかしこれでは。本当に調子が狂う……)
 こんがり焼けたパイを片手に立ち上がった魔王の姿に、ゼルダは盛大な溜め息を吐いた。



「こんなのに……こんなのに城を落とされたのかと思うと情けなくて自分が惨めで仕方ありません」
「まあその気持ちはわからなくもないが……済まぬ。城に籠っているとこのぐらいしかやることがない故」
「ふんぞり返って玉座に座っていればよろしいんです」
「それではつまらぬ」
 ケーキナイフをテーブルに置き、ガノンは綺麗にカットされたパイを1ピースゼルダに差し出した。ゼルダは無言でじいっと恨めしそうにガノンを睨むが、やがてフォークを口に運び始める。
(……よくもまあ、こんなので魔王だなどと。記録に残る魔王はもっと尊大で傲慢で愚かしかったようですが)
 とはいえ本当に他にやることがなかったのだろう、ガノンの腕は確かなものだった。力の女神ディンも今の魔王の姿を見たら嘆き悲しむことだろう――大地を耕した彼女の、最も「破壊」に適したトライフォースを宿したその手で日がなケーキなんぞを焼くことに明け暮れているのだから。
(両親を殺し、城を踏みにじった時の姿とはまるで別人。何故? 何故なの?)
 ガノンの態度はゼルダの価値観を日毎に揺さぶり、壊していくようだった。悪の化身、暗黒と破壊、絶望をもたらす豚魔王。ゼルダが見聞きしてきた魔王のイメージやあの日ハイラル城を占領した横柄で禍々しい姿と眼前の男はあまりにかけ離れていた。
 知らなければ、ただの気のいい中年男にしか見えない。この落差はなんというか、ここまでくるともうむしろ恐ろしかった。
 あんまりに滑稽だ。三文芝居よりも酷い。まるで猿芝居である。
 一時などその辺の人間が影武者にされているだけで、本人はハイラルのどこかで破壊活動をしているのではないかと疑ったぐらいなのだが――残念ながらトライフォースは本物だった。
 意味もなく腹立たしい。
「……ふむ。ゼルダ、一つ話があったのを忘れていた。話しても良いか」
「お好きにどうぞ」
 ふとガノンが口を開く。退屈しのぎに話に興じようかとゼルダは先を促した。
「リンクが……フロルの仔が神の塔へ近付いている」
「……神の塔? 何ですかそれは」
「時の賢者がいる場所だ。十中八九マスターソードがそこにある。彼は間もなくここに至るだろう」
「それでは。知恵のトライフォースは」
「勇気のトライフォースと共にここへ来る」
 ゼルダはフォークを置いて口をつぐんだ。まだ顔を見たこともないけれど、"勇者"たる少年が知恵のトライフォースを集めていることは知っていた。しかしまだ三ヶ月足らずだ。だと言うのに既にその足跡はここへ向かっていると言うのか。
(わたしなんて足下にも及ばない)
 自分がのうのうと日々を過ごしている間中、彼はハイラルを駆け回り剣を振るっていたのだ。どこにあるのかもわからない欠片を探し求めて、戦っている。
「……わたしから一つ。質問をします」
「何だね?」
「やはり。彼が来たら殺し合うのですね」
「戦いは避けられぬ」
 それは何度も繰り返された問いかけだった。どうして、それでも魔王が勇者に刃を向けるのか。その答えをガノンは語らなかった。
 リンクという少年の話をする時、ゼルダにに語りかける時、ガノンは慈しむような目をする。それは超越者が下等存在を見下すような慈愛ではなく、親子の情に似たものである。
 であるのに。殺し合いは避けられないなどとのたまう。
「何故です? 何故頑なに? あなたが彼を殺したいと思っているようにわたしには見えない。それとも、それすらも演技であると言うのですか」
「昔は殺そうとした。そうすることによってトライフォースが手に入り、ハイラル王国が手に入るのだと信じて疑わなかった。何度か殺され、ある時気付いたがね。"それはハイラル王国ではない"と」
「…………」
「それはただの骸の玉座に過ぎぬ。私が欲しかったものは――風は何処にもない」
 ゼルダは何も言わなかった。
 何も、言えなかった。
「だがディンはそれでは許してくれぬ。力が有るのだから殺しあえと。慈愛など馬鹿馬鹿しいと。ついに彼女は待ちくたびれて拒否をする私から理性と自由意識を奪いおった」
「なっ……?!」
「ゼルダにとっては戯言であろうな。どう繕ったところで体のいい言い逃れにしか聞こえぬだろう」
 だがそれでも構わぬ、と仕方なさそうな声でガノンは続ける。
「知恵と勇気の女神の思惑は知らぬが。力の女神が争いを面白がっていることだけは確かだ」



◇◆◇◆◇



 切株に座り込んでから一時間程が経過していた。適度に射し込む午後の陽射しは暖かく、そよぐ風は心地よい。
「……ナビィ。一つだけわかったことがあるよ」
「なあに、言ってみなさいヨ」
「このままだと多分僕寝ちゃう」
 ぺしん! と乾いた音がしてリンクは頬をさする。妖精の羽根は柔らかそうに見えるのだが、なかなかどうして勢いよく当てられるとそれなりに痛いのである。
「どうかしら。これで少しは目が覚めたんじゃないの」
「うん……一気に眠気は吹き飛んだね……」
 どっこらせ、と年寄りくさい声を出してリンクは立ち上がる。軽く尻をはたいて砂を落としていると、一瞬強い風が吹いた。
 リンクの長耳がぴくりと反応する。
「……風……」
「ん、何ヨ、どしたの」
「あっちから風音がする」
 扉とは反対の方向を指差し、一直線に駆けていく。目的のものはすぐに見付かった。
「これだ。さっきの風がこれから何か音を出してた」
「なるほど。コレ、ウィンドストーンだヨ。森に昔からある不思議な石なの。でもリンク、あの距離でよく聞き取れたネ? ハイリア人でもけっこう厳しいと思うヨ。この石苔むしてるから微かにしか音がしなさそうだもの」
「自慢じゃないけど、昔っから聞き耳をそばだててたからね」
「それは本当に自慢にならないヨ」
 うわあ、くだらないとナビィがわざとらしい溜め息と共になじるのを聞き流してリンクはウィンドストーンに耳を近付けた。
 ひゅう、ひゅぅう、という風が音となってリンクの耳をくすぐる。
「……やっぱり規則性がある。メロディだ。もうちょっと聞いてれば……」
 数分、耳を澄ましウィンドストーンの風音に全ての意識を集中する。程なくリンクはメロディを聞き取り終えた。自然とオカリナに手が伸びる。
「ええと……ここで下がって……上がって…………出来た。これが、ウィンドストーンから出ていた音だよ」
 完成したメロディを今一度、丁寧に吹く。オカリナの軽やかな音色をもってすら、その音の並びは荘厳で美しく、そして重苦しかった。
 人々か歓談しあう為の音楽では決して有り得ない、神聖ささえ感じさせる調べ。



 これは、神へ捧げる祈祷の調べだ。



「りっ、リンク、そのメロディは……もしかして」
「時の歌」
「えっ?」
 ナビィの言葉は、短い呟きに遮られた。一般人が知り得るはずもないその文字の羅列に、ナビィは不思議そうな声を出す。
「リンク、なんで知って……」
「知らないよ。……ううん、知らなかった。口をついて出るまでそんな文字の並びは聞いたこともなかったよ。そんなことよりナビィ」
「そんなことって何ヨ、大事な事じゃな――」


「どうして僕は泣いてるの?」


 振り返ったリンクの頬は、透き通った滴で濡れていた。デクの樹サマと別れた時と同じように、わけもわからなそうな面持ちで泣いている。
「デクの樹サマの時も……今もそう。唐突に、泣きたくなるんだ。意味なんかわからない、理由なんかこれっぽっちもないはずなのに、涙が止まらない」
「……そんなの。ナビィだってわかんないヨ」
「この森は僕にとってなんなのかなあ? 本当になんにも関係ないのかな。だとしたら僕はどうしてこんなに哀しいんだろう」
「リンク……」
「胸の中がぽっかりと空いてしまったような感触が撫でて通り過ぎて行くのは、なんで?」
 誰に向けるでもなく問いかける。反響すらない森の木々を一瞥し、リンクは腫れぼったい目を擦って踵を返した。
 ナビィが、慌てて彼の動きに倣う。


「……行こう、ナビィ。扉はもう開かれたから」


 切株の向こうから、扉が開く重たい音が響いた。