その願いを忘れないで。 時の賢者 左手で勢いよくマスターソードを引き抜いて、光の勇者はリンクを抑えていた手を離すと体勢を整えた。剣を携えたまま整然と立つ。達観したその佇まいにリンクは心なしか身震いする。 「……。僕はあなたを納得させられた? それとも、ここで終わり?」 リンクの問いかけに光の勇者は静寂と眼差しでもって応えた。真摯な眼差しを向ける蒼い瞳が、狼のそれから懐っこい猫のものに戻る。 「……合格だよ。あの状態でよく――還ってきた」 「……じゃあ、」 マスターソードを得られるのか、という旨の言葉は続けることが出来なかった。光の勇者はただ無言で、リンクを抱き締めていた。 我が子を愛おしむ父のように。 「姫様と俺とで最後に話をさせて欲しい。そうしたら、行くんだ。ガノンの元へ」 「魔王のところへ……」 はっとしたように繰り返すリンクに光の勇者が少し不思議そうな声を出す。順当なはずのその流れは、何故か唐突な響きをもってリンクの耳に届いた。 ◇◆◇◆◇ 『わたくしが時の賢者ゼルダです』 少女――時の賢者、千年前のハイラルの王女ゼルダは幼い外見をしていた。見たところ十かそこらだろうか。しかしあどけなさなどはまったくない。しっかりと立ち、見据えている。 『光の勇者もお疲れ様でした。……でも、あれはわたくしの想像にない出来事でしたわ。すみませんが、後でどういうことなのか彼に訊きたいのでご協力お願いいたします』 「ええ喜んで、姫様。でも今は早く本題に入りましょう。そこの彼が不思議がっていますよ」 『そうですね』 あらいけませんね、と口元を可愛らしく押さえて時の賢者はすっとリンクの左手を握った。空いている方の右手で自らの左手を添えたリンクのしるしに手をかざす。 『まずは、あなたにこれを。最後の知恵の欠片です。これをあなたが信じる者の元へ』 「うん」 時の賢者の言葉とともに、しるしが今までにないぐらい美しく輝いた。勇気の器が知恵で満たされているその状況は異例ではあったが、しかしとりあえず異常はなさそうである。時の賢者はほっとして微笑み、手を離した。 知恵のトライフォースを宿したリンクのしるしは以前よりも濃くあらわれていたが、しかしその色は歴代に比べるとどうしても薄かった。まあ、仕方ないのだ。血は薄まり散り散りになり、少しずつ移っていっている。 特に知恵の力はその傾向が顕著なのだ。どうも、オリジナルが発する引力の強さがかなり強力であるらしい。 "彼女"の色は日増しに濃くなっている。 時の賢者は目をつむってきゅうっと少年の手をまた握った。剣を握って少し固くなったその手のひらは、しかしまだ暖かかった。 まだ素直な、子供のそれだった。 彼の手のひらは冷たかった。肌に感じる温度は人並みのものだったが、切り返すように感触が冷めていたのだ。 小さな少女の姿をした賢者は、目を細めて困惑している少年に言葉をかける。 『そして……もう一つ。わたくしからの、身勝手な頼みがあるのです』 「頼み?」 『ええ。ですからマスターソードはこのお話の後に』 「……うん。わかった」 時の賢者の申し出にリンクは短く頷いた。 『わたくしはどんなふうにあなたの目に映りますか?』 「……えっと……」 「俺は始め、怖い人かと思いましたよ。そんな幼いなりでその威圧感ですからね」 『酷いことを言うのですね……。それにあなたには聞いていません』 唐突な話題の振りに困ったリンクを見かねてか、光の勇者が茶化して助け船を出した。時の賢者は上品に顔をしかめ、嫌そうに彼を見る。 「まあ、そんな感じで姫様は第一印象を訊きたいんじゃないかな。君が俺に大して、見るなり早々落胆を覚えたようにね」 「ごめん……別にあなたが悪いんじゃないんだけど……」 「いや? 別に気にしていないよ。優男だからって甘く見られたり誤解されたりするのはままあることだから。油断は死に直結するっていうのにね」 さらりと笑顔でそんなことを言ってのける青年に恐怖を覚えつつ、リンクは改めて時の賢者に向き直った。幼い姿で、賢者達を統べる少女。ラウルは言った。「彼女こそが賢しい者である」と。 だけどもリンクは、不思議と彼女に親しみを感じていたのだ。いや、その表現はいささか不適切か。とにかく、彼女は決してリンクにとって遠い存在ではなかった。 ほの黒い笑顔の光の勇者の方がよっぽど遠い。 「えっと……第一印象は……なつかしい、かな? 知らないはずなのに、なんでだか」 リンクがそっとその言葉を絞り出すと、時の賢者は少し哀しそうな顔をした。 『そうですか……やはりあなたは、まだ自由ではないのですね』 「えっ?」 『あなたは後悔をしていますか』 「姫様、話が繋がっていませんよ」 光の勇者がリンクの疑問を代弁する。けれど彼女はその弁を無視し、更に言葉を続けた。 『選択を誤ってしまったと、そう悔やんだことはありますか。あの時剣を取らなければ良かったと。踏み出さなければ良かったと。……嘆いたことはありますか』 「……ううん。無いよ。お姫様を助けたいと思って、歩き出して、そしてその思いは今も変わらないから」 『そうですか……。わたくしの知っているひとは、いつも過去を見ていました。前に向き直っても、耳は後ろの音をそばだてているのです。過ぎ去った永遠を忘れられず、追い求めているようなひとでした。そして手の届かないかつての幸福を諦めたのに捨てることも出来ず、死んでいった。――でも、あなたはそうではないでしょう?』 だから、と小さくもらして時の賢者はリンクの手を両手で包む。彼女の手は小刻みに震えていた。 リンクは直感する。この人もまた、過去を悔やんでいるのだ。 『振り返らないでください。あなたの為したことを疑らないでください。前を見て、ゆきたい道を進んで』 「……」 『嘆かなくていい。怒らなくともいい。泣かなくっていい。あなたは、あなたです。それを忘れないで』 アナタは一人じゃないの。 ワタシがそばにいるわ。 どうかそれを、忘れないで。 唐突にその響きを思い出して、リンクはぱちぱちと瞬きをした。森で聞いた少女の言葉だ。「忘れないで」と、彼女もそう言ったのだ。 「忘れたりなんか……しないよ……」 自分は"彼"ではないのだから。 だから、忘れたりなんかするものか。 頼まれたことは、自分に可能である限り絶対にやり遂げなきゃならない。そうしなければ、リンクの気が済まない。 時の賢者の小さな手を強く握り返して、リンクは光の勇者に注目を移した。青年は視線に反応し、目でもって返事を返す。 「姫様、頃合いです」 『……ええ。そうですね。彼は、先に進まなくては』 「はい。ですからあとは――俺たちが大嫌いで愛してやまない、女神たち次第ですよ」 自嘲と皮肉を内に込めて、光の勇者は言った。 ◇◆◇◆◇ 黄金の聖三角を象った紋様が刻まれている古びた石の塚。 神の剣マスターソードが納められているそれは、高き塔の一番高い部屋の中央に安置されていた。 円形の部屋をぐるりと囲む壁に刻まれているのは六つのメダルレリーフだ。出会った賢者たちが司る紋様がいささか誇張気味の意匠でもって彫られている。 リンクは後ろに控えている光の勇者をちらりと盗み見て、だはあ、と情けない息をこっそり漏らした。 「ねえナビィ。あの人が持ってるの、マスターソードだよね?」 「うん。多分ネ。それで、リンクが今抜こうとしてるのもマスターソードだヨ」 「つまりあれはレプリカだったってことなの? 嘘だ……あんなに強かったのに詐欺だよ」 「ホントよネ……あのヒトが戦ってくれたらなんか上手くまとまると思わない?」 「いやいや、それが無理だから君にその剣を託すんだって。俺は基本的にこの塔の外には出られらないんだよ」 苦笑するように合いの手を入れてきた青年にリンクとナビィは揃ってぎょっとしたような表情をした。地獄耳だ。 ハイリア人の聴力にだって限度はあるはずなのに。 (っていうか、そんなこと考えてる場合じゃないし) リンクは余計な思考をぱんぱんと頬を叩いて飛ばそうと試みる。見守る青年が、くすりと微笑んだような気がした。 柄に手をかけ、一思いにそれを引き抜く。剣は意外なほどあっさりと石塚から抜けて、リンクの手に収まった。 紫の柄に銀の刀身が酷く眩しい。 抜き身の剣はずしりと重かった。物理的、質量的なものも勿論だが、何より想いが重かった。 何処かよく知る重みだった。 「……ぁ、」 「不思議そうな顔を――するんだね」 いつの間にか側に寄ってきていた光の勇者がそう声をかける。両手で剣を持ったまま、リンクは頼りなげに振り向いた。光の勇者は笑いもせず、またからかうこともしない。 (……憶えていることは忘れられないか) その重みを劇的にかさ増ししたのは紛れもなく、その剣を初めて魔王に突き立てた人物なのだ。そしてそれ以降魔王を討つ度にそれぞれの想いを重ねられてきた。生半可な重圧ではないはずだ。 (俺の時もそうだった) でも、その重みに耐えるのが勇者であるということの一つなのだと思う。 だから手助けはしない。 「さあ、時間がない。その剣とともにハイラル城に行くんだ。その後の道は自ずと開けるはずだから」 『わたくしたちがあなたにしてさしあげられるのはここまでです。申し訳ありません。あとは祈るのみです』 「別に……いいけど……」 もう十分すぎるほどいろいろしてもらったしね、とリンクは溜め息を吐く。ここまでの旅路にはどこか妙に作為的なところがあった。長らくそれは疑問のひとつだったのだが、ここまでくればある程度察しがつく。 多分それは、時の賢者と光の勇者が仕組んだことなのだ。二人はまんまとリンクをレールの上に乗っけて――砂漠のあたりまで予想通りだったかは知らないが――ここまで上手い具合に引っ張ってきた。 (……まあ、だったとしても僕の気持ちに変わりはないし、僕の辿った道に後悔はない、けど) 乗せられていようが何だろうが、リンクが道を選んで来たという想いは変わらない。 よほどのことがなければ、決めたことは覆さず遂げてみせる。 「かつて俺が剣を抜いた時にもらった言葉を、君に返そう」 リンクの背中を見て、おもむろに光の勇者が口を開いた。リンクはマスターソードを鞘に収めて振り返る。誰も笑ってはいなかった。 ただ、光の勇者と時の賢者の眼差しだけが目に焼きついた。 「君のゆく道に光あれ」 彼の言葉に瞬きして、それからリンクはこくりと小さく頷く。 「うん。――行ってきます」 そして蒼いワープホールの中に吸い込まれた少年の体はすぐに見えなくなった。 蒼いエーテルの行方は、知れない。 |