彼の前に神はなく。
 彼の後に人はなし。



Do not period.



 薄いカエデの色で統一された石造りの城。
 冷え冷えとして薄ら寒いその城のエントランスホールに、彼女はいた。
 美しく、誇らしく、気高く、しかしものわびしい少女だった。
「……あなたが、ゼルダ姫?」
「はい。わたしはハイラルの王女ゼルダ。あなたが旅に出るきっかけを作ってしまった愚か者です」
「そんな、愚か者だなんて自分で言わないでよ……ゼルダ姫の選択は正しかったと思うよ。現に、そこそこ上手くいったしさ」
 リンクはゼルダの右手を何の考えもなくひょいと手に取り、自らの左手を彼女のしるしにあてた。二つのしるしは共鳴して眩く光る。
「知恵のトライフォースです。ゼルダ姫に返します」
 光はすぐにおさまった。リンクのしるしは多少色を失い、ゼルダのしるしは色濃くなっていた。
「でも……びっくりした。まさかゼルダ姫が入口のそばにいるとは思わなかったから」
「あら、でしたらわたしが偽者だとは思わないのですか?」
「ううん。そんな気がしないもの。左手で感じるんだ、あなたが本物の、ゼルダ姫だって」
「そう……ですか。リンクって、変わった人なのですね」
「……まあまあ、よく言われるよ」
「ですが、一番の変わり者は恐らく魔王ですね。ああ、あんなにふざげた存在は他に知りませんわ――ごめんなさい。リンクに言うことではなかったかしら」
 魔王を評する時、急に苛立ったように声を尖らせたゼルダに若干おののいたリンクを見て、ゼルダははっとして手を当てる。
「もしかして今、わたしはその……ものすごく怒って見えました?」
「う、うん」
「ごめんなさい……ここに来てからずっとそうで……あの男のことを考えると惨めな気持ちでいっぱいになってしまうんです」
「そうなんだ……」
 姫らしからぬ所作で力ずくに握り締められた拳に恐怖を覚えつつ、リンクははたと思い立って尋ねた。
「そういえばゼルダ姫は、自由に出歩けるんだね。監禁とかはされなかったの?」
「いいえ、まったく。形式だけの軟禁でした。しかもあの阿呆魔王ときたら日がなケーキを作っては甲斐甲斐しく振る舞う始末でしたわ」
「……は?」
「お姫サマ……冗談よネ?」
「冗談であったらよかったんですけれどね」
 予想の遥か斜めをかっ飛んでいたゼルダの発言に一人と一匹は体を硬直させる。今彼女は何と言ったのだろう。魔王が――確かそれは打ち倒すべき全ての根源だと賢者達は言っていた気がする――魔王が拐った姫にケーキを焼いた?
 たしかにリンクは魔王という存在の絶対悪性に疑問を抱いてはいたがそれはちょっと……ふざけている。
「まあ、会ってみたら良いと思いますよ。彼はあなたに会いたがっていました。そして」
 ふっと言葉を止め、ゼルダは淋しそうに、辛そうに苦しそうに唇を歪める。


「最後はやはり、殺し合わなければならないのだとも」



◇◆◇◆◇



 玉座の間には鈍いひかりが差していた。
 黄昏の色にも似た異質のひかりを受けて佇むのは一つの巨躯。壮麗なのにどこが草臥れたマントを羽織る後ろ姿は紛れもない――魔王の立ち姿。



「……ここまで来てしまったのだね、君は」
「おじさん」
「砂漠以来かな、随分逞しくなった。だが目はあの時と変わらない。しっかりと先を見据える良い瞳だよ。私の前に立つ者たちはいつもその目で私を――睨んでいた」
 振り返った魔王の顔かたちにリンクは驚かなかった。心は妙に冷めきって冷静だった。
 それに内心納得していた節もあったのだ。
 確かに彼なら、たとえ魔王であったとしてもお人好しのまんまだろうと。
 そんなリンクの機微に気付いているのかいないのか、とにかく魔王は……ガノンは続ける。
「そして私はその意味に気付けない愚か者だったよ。だから恐らく今も私は、君の真意を汲んでやることが出来ない」
「……どういう、こと? 戦うってこと? 殺し合うんだって、そういうこと? ……でもね、おじさん、僕はそれを覚悟のうえでここに来た。例え相手の魔王がおじさんだったとしてもそれは変わらないよ。一度、僕がそうと決めたことである限り」
「……そうだね、君はそういう子だった。そして勇者たちは皆一様にそうだった。その意味では誰も、枠から外れることは出来ぬのやもな――」
「何をごちゃごちゃ言ってるの。はっきり言いなよ、おじさん」
「……すまない。無駄口だったか」
 酷く穏やかな物腰で、ガノンはリンクに微笑みかけすまない、と繰り返す。その挙作は砂漠でリンクに親切にしてくれた「考古学者のおじさん」となんら変わらなかった。
 リンクは漠然と思う。どうして、こんなことになってしまっているのだろう。
 賢者達は口を揃えて言っていた。魔王は危険だと。だから倒さなければならないのだと。けれど、リンクはどうしてもそんな風に彼を見ることが出来なかった。
 彼はやはり、リンクには優しいおじさんにしか見えなかったのだ。
「さて、リンク。飾らずに言わせてもらおう。君に頼みがある」
「僕に?」
「……こういうことを君に頼むのは、私としても忍びない。君に頼むのは、少し酷すぎるかもしれない。それでも私は、君に託したい」



「ディンの忍耐が切れる前に、私の首をはねてくれ」



「――あなたは!!」
 言葉を失ったリンクの代わりに叫びを発したのは、今まで沈黙を守っていたゼルダだった。彼女は激昂してわなわなと震え、酷く性急な所作で右手を振るう。
「信じられない……!! リンクにそんな重責をのしつけて! 逃げるのですか、あなたは!!」
「……ゼルダ、姫?」
「もう少しぐらいはまともな思考を出来るものだと思っていましたわ。買い被りにすぎなかったのですね。所詮は――所詮は、自分勝手な魔王だったということですか」
「しかしこの他に取れる手段は最早残されていない」
 目を見開いて成り行きを必死で追いかけるリンクにお構いなしに、ゼルダは言を吐いた。馬鹿げてる。あまりにも馬鹿げている。
 こんなのって、ない。
 ガノンはゼルダの怒りに動じず、また不快そうに顔を歪めることもなく、ただ淡々と彼女の痛いぐらいの言葉の暴力に甘んじた。
 彼女は正しかった。そう、それは逃避なのだ。逃げているにすぎないのだ。女神の摂理から抜け出すこともままならずに、また同じ時を無為に繰り返すだけなのだ。
 その手段を選べば、確かに多少の平穏は訪れる。けれどそれは仮初めだ。
 何も、終わらない。
 何も、変わらない。
「わたしは無知です。無知で、無力です。でもわたしは"彼女"を知っているから! 王家の姫として、"彼女"に接して来たから! "彼女"がそれを望んでいなくて……もっと別の道を望んでいるであろうことはなんとなくわかります。彼女が目を醒まさなくとも!!」
「……お姫サマ……」
「そしてあなたなら、もしかしたらそれが可能なのかもしれないと……漠然と、"期待して"いました! 浅はかで愚かしい話です。百歩譲って女神に理性を奪われるという言を信じるとしても、です!!」
 捲し立てるように一気に言い切ったゼルダは、息切れして苦しそうに、けれど毅然と立ってガノンを睨んだ。数ヶ月だった。だけど信じていたのだ。
 この、阿呆みたいに優しい顔で厨房に立っていた男が本当に魔王なのならば、もしかしたらまた違う可能性があるのではないかと。
 ゼルダがきつく口を結び、もう何も言わないようだと見ると、幾らか呼吸を置いてからガノンは口を開いた。
「問題を先送りにしているだけだということはわかっているよ」
 ゼルダはもう目を合わせようともしない。その代わりに、ようよう朧気ながら話に追っ付いてきたリンクが彼に目を向けた。
 その瞳は無口で――けれど雄弁だった。
「……ねえ、おじさん。解っているのならば、なんで?」
「素直に一番痛いところを突いてくるね、君は」
 教えてよ、そうでなければ願いは叶えられない、そう語る瞳にガノンは苦笑する。昔の彼……時の勇者よりも大分真っ直ぐな眼差しでリンクは酷く純粋に問いかけてきていた。
 だから、良心が痛い。
 そんなものが残っているものかと笑われるかもしれないけど。
「私の選択はゼルダの言う通り何も解決していない。ただ後伸ばしにしているだけだ。――だが、それ程に女神の拘束は強い」
「女神の名前を使って、言い訳をするんだね」
「そう取られても仕方がないだろうな。釈明はしないよ」
「……どうして」
 あくまでも淡々と淡々と顔色を変えることなく、ガノンは答えを口にしていった。次第に、リンクの唇が歪んでいく。
 リンクも気付き出したのだ。ガノンが言わんとすることが。


「君は優しすぎる」


「魔王がどんな存在であれ、そうしなくとも良いのなら戦いたくないと、殺したくないと、そう願っていただろう?」
 だから、今ここで首をはねてほしい。
 どうせ、魔王ガノンは死ねないのだから。
 だったら、魔王が人々に害を及ぼす前に。より 大勢の幸福の為に、魔王一人の犠牲を。


 それは勇者にしか出来ないことだから。



 瞬間、静寂が広間を満たした。
「ひどいよ」
 ややあって、リンクが呆然とそんなことを言う。
「おじさんの言ってることは、ただの我が儘だ」
「重々承知の上だよ」
「僕がそれを断れないことまで、知っていて?」
「……優しい、からね、君は」
 ぽた、と涙を溢すとリンクはひどい、むごい、と絶え絶えに繰り返した。裏切られただとか、そういうわけではない。ただ呆然として頭が上手いことまわらないのだ。
 思考がぐちゃぐちゃに縺れて、答えが見つからない。
「僕はどうすればいいの」
「……卑怯な言葉だが。それは君が決めることだ」
 何のために僕は苦労をしてきたのだろう、とリンクは極小さく漏らした。何のために歩いてきたのだろう。何のために、神の剣を手に入れたのだろう。
 こんなことのためだったのだろうか。



 光の勇者には、なんと言ったんだか。



 ――僕がそれを手にすることで、少しでも世界の選択肢が増えるのならば――

 ――僕が出来ることを成すことで、みんながしあわせになれるのならば――



「……でも。でも、その選択肢じゃあ……」
 唇を噛み締め、リンクはマスターソードを握り直した。きりきりときつい音がして、彼自身の爪が手のひらに喰い込む。
「おじさんは、幸せにはなれっこないじゃないか」
 リンクは剣を振り上げた。後ろでゼルダが息を呑む音が聞こえた。



 剣が鈍く照り返し、どす黒い緑色に染まってゆく。
 理不尽に泣くリンクが握る神の剣は、ただ無慈悲に人のものではない体液を零していた。



 その後に残るのはただの静寂。



 誰も何も、喋らない。
 誰も何も、動かない。



 物語はまた堂々巡りに振り出して。
 森の少年の願いにも、光の勇者の夢にも、時の賢者の望みにも反してなんにも変わらないまま、また世界は元の通り時を刻む。
 そして誰が望んだとも知らぬ仮染めの平穏の最中で。



 影が、動き出す。




…………end of chapter4-1*The Legend of ZELDA.