003:わたしではないだれか
「おまえを信じていたのに」
聖騎士団所属の頃のソル=バッドガイに向けた、それが最後の言葉だった。
まったく失望したと思ったし、そこまで彼に依存していたのだということに気がついて愕然とした。自室に戻り、シャワーを浴びることも思いつかずベッドに腰掛け、カイは十字架を手にとって沈黙する。
それはローマの激戦から戻り、幾らか経った日のことだった。そういえば、後になって思い返すとローマ現地でのことを実はあまりよく覚えていない。確か、大型ギアをなます斬りにしてぼうっとしていたところをソルに回収され、それで本部へ戻って……ずっと遠征続きで支部じゅうを転々としていたので、本部へ帰還したのは結構久しぶりのことだった、はずだ。
(クリフが好きにしろと口添えしていたにはせよ)上の命令を無視して無茶苦茶な特攻をしたカイとソルのことを、本部の人間は形だけの叱責で済ませて帰還を喜んだ。おおよその住民を待避させて敵ギア部隊を壊滅させるという成果を上げている以上、騎士団主戦力のふたりが無事であること以上に重大な規則違反などないに等しい。出迎えた本部の職員たちが口々に「おふたりが無事で本当によかった」と涙ぐんでいたのを、カイもぼんやりと覚えている。「あの日のカイ様の演説は、鬼気迫るものがありましたからね」とベルナルドが小耳に挟ませてくれて、それに、珍しくソルが頷いていた。
その日のソルはいつもよりカイに優しかった。その次の日もだ。何かにつけて「坊や」と呼ぶのを完全にやめてもらうことは出来なかったけれど、その日以来、ソルはカイをわざとおちょくったりあからさまな子供扱いをすることを努めてなくしているみたいだった。
だからなのか時々、彼は「カイ」と名前で呼んでくれるようになった。「カイ、爺さんが呼んでるぜ」だとか、「おい、カイ。そこの式にスペルミスがあるぞ」だとか。そんな、本当に他愛のないところでばかりだったけれど……。この前なんか、珍しくカイが組んでいた術式の構築を褒めてくれたのだ。彼が人を褒めることは珍しかったから、それがとても嬉しかった。掛け値なしに。
だから余計に悔しかった。
「……結局私は、あの男にとってはちらちらと視界に入ってくる、ただの子供でしかなかったのだろうな」
ようやく彼が自分を認めてくれたのだと思って舞い上がっていた。それをこんな形で裏切られ、なんの未練もなさそうな顔をしてぽいと一人で放り出され、ソルは当たり前のような顔をしていなくなった。封炎剣という、この世に二つとない神器を堂々と盗んでいったこともカイの正義感に反発して大きな怒りを買っていたが、それと並ぶくらい大きな喪失感と、それに対する自己嫌悪がカイにソルを悪し様に言わせていた。
「神器が欲しいのならちゃんと上に申請すればよかったんだ。ソルの実力なら、きちんと正式に下賜されたかもしれないし、クリフ団長がきっと取りはからってくれた。あの男はいつもそうだ。イノさんに詰問した時も……私に一言確かめたいと言えばいいだけだったのにその僅かな手間を惜しんで」
手のひらの中に握りしめられたままの十字架が、皮膚に食い込むような気がした。あまりにも強く握りしめすぎて感覚が麻痺する。顔を上げた。開け放たれた窓の向こうには満月が上り、風がカーテンを内側にたなびかせ、窓とカイとの間にありもしない幻を映し出す。
幻はソル=バッドガイの姿をしていた。聖騎士団の制服である法衣は相変わらず彼の面構えにはあまり似合っておらず、だが無骨な体躯を覆う赤色もまた、変わることのないうつくしいものであった。
ソルのかたちをした幻が口を開く。
——面倒な子守りがいなくなってせいせいするだろう、坊や?
「そんなわけがあるか。これで騎士団は貴重な戦力を欠いたんだ。聖戦終結が長引いたら、おまえのせいだ」
——俺はせいせいしたぜ。坊やの身勝手な自己犠牲には飽き飽きだ。
「勝手に言ってろ。私は……私は。自分の正義に正直でありたいだけなんだ」
——付き合わされる俺の身にもなってみろよ。
「それはこちらの台詞だ。お前はいつも独断行動が多すぎる。そのたびに私がどれだけ苦労して……」
——ほらな。結局テメェは、俺なんかがいない方が良かったと思ってるのさ。
「違う……だけどそれでも私は、」
——何も違わねえ。俺たちは出会わなくて良かったんだ。ハナからな。
「——そんなのはいやだ!!」
子供が駄々をこねるようにわめくと、幻はそれ以上何も言わなくなった。悲しそうに目を細めて、躊躇っているようなそぶりがあった。その代わりなのか、彼がカイに向かって手を伸ばす。カイは白いグローブに覆われた無骨な指先の温度を思い出して思わず掴もうとしたが、伸ばされたカイの手が掴んだのは、冷え切った夜霧の空虚さだけだ。そこには何もない。パリの夜霧がじとりとカイの皮膚を咎めるばかりで。
「……何をやっているんだ、私は」
我に返って引っ込めた手のひらを、自嘲するようにむなしく笑ってまじまじと眺め見た。剣だこが出来てはいるものの、節くれ立っておらず美しく整った少年のやわらかなそれはソルの荒々しい指先とは全く違う。あの男に何を求めていたというのだ、カイ=キスク。指先を折り曲げると爪の触る痛みがする。もう会うことさえないかもしれないのだ。永劫に。……本当に?
ソルの指とカイの指はまったく違う。おとなとこどもを対比するように異なり、おんなとおとこを並べたようにでこぼこしている。(でも、)カイは知っていた。(この手についた色は違わない)。
人殺しの手の色。夜空にあまねく星の数ほどのギアを葬り、返り血を浴び、染み込ませてきた血の色だ。
封炎剣を宝物庫から持ち出し、追い咎めてきたカイを下したソルがその夜最後に向かい合ったのは他でもない聖騎士団団長クリフ=アンダーソンその人だった。クリフはソルの右手に握られた封炎剣を認めると老獪に笑い、「カイが泣いておったぞ」と冗談交じりに言ったが、老人は血気盛んな若き少年とは違い、咎めるような無粋さは持ち合わせていないようだった。
「坊やが? 泣かせとけよ。あいつもいつまでもガキじゃねえんだ。俺もいつまでもあいつのそばにはいてやれねえよ」
「冗談じゃ。泣きそうな顔はしておったがのう。封炎剣を持ち出したことにも相当お冠みたいじゃったが、あれはそうさな、巣立ちを恐れるひなのそれじゃ。お前さん相当懐かれておったからの」
「冗談じゃねえ。……それより、こいつだ。約束通り貰っていく。いいな」
封炎剣をコツコツと床に当てて念を押す。この老人に限ってそんなことはないだろうが、万が一心変わりでもされていると面倒だ。ソルとて、クリフに指揮された精鋭たちとまともにぶつかり合えばただではすまない。
しかしそんな心配をよそに、クリフは「好きにせい」と手をひらひら振った。
「構わん構わん。今更悪友との約束を反故にするほど落ちぶれとらんぞ。第一そいつは元々お前さんの造ったもんじゃ、お前さんが持つのに理由は要らんじゃろ? ……じゃが、一つだけ」
「あ? 何だよ」
「何故『今』なのか。その理由、ないわけではなかろう」
ソルの懐疑の眼差しを返すようにクリフの目が細められた。
封炎剣を持ち出すだけなら、極論いつでもソルにはそれが出来た。入団して三日後でも実行に移すことは可能だったし、これから半年後、一年後……と未来へ先送りにしても別段不都合はない。聖戦は今も泥沼の膠着状態にあり、急いで力を手にしなければすぐにも人類が敗北するといった状況にあるわけではないのだ。しかしソルは意味もなく大きな行動を起こす男ではないので、「親離れ」の済んでいないカイを置いてここを発つことには必ず理由があるはずだ。それを問うと、彼は「めんどくせえな」と息を吐きながらも口を開いた。
「坊やに俺はもう必要ないとわかった。だからここにいる意味がなくなった。それだけだ」
「ほう? 何故そう思った? カイはまだ十五歳。成人にはちと早いぞ」
「俺ぁ別に坊やの保護者でも後見人でもねえ。成人まで面倒見る義理なんざハナからねえよ。だが拾った時からずっとコイツは死なせちゃならねえとは思っていた。ローマの時まではな」
「ふむ」
「……ローマの日まで、坊やはずっと、どことなく『死にそう』だった。いつ見ても、いつかクソみてえにくだらねえ理由でぽんと死んでしまいそうな感触がしていた。だから俺はあいつのそばで、あいつが死なねえかだけは見てなきゃいけないと思ってたんだ。だがあの日以来それがぴたりと止んだ。……あいつはもう俺がいなくてもやっていける」
「あいつはもう俺がいなくてもやっていける」と口にしたソルの口元は、僅かに緩んでいた。
保護者でも後見人でもないと言い切ったくせに、ソルが見せている顔は丸っきり子の成長を喜ぶ父親のそれだ。だが敢えてそれを口に出すことはせず……無用に火に油を注ぐ真似は避けたい……クリフはソルに話の続きを促す。
カイが生来的に持っていた「危うさ」のようなものが、ローマ撤退戦からの帰還以来薄まってきているのはクリフにも薄々感じ取れていることだった。今まではそれでもほんの少し地面から浮かんでいた存在、魂をかたどる「気」が、完全に地につき固定されたかのような安定感が今のカイにはある。なるほど確かに、彼はもう聖戦の終結までに命を落とすことはないだろう。ソルがそばにいなくても。
精神の面でも、すぐにとは言わずともいずれカイは立ち直り、ソルを必要としなくなる。人は慣れる生き物だ。そして子供もいつか大人になる。
「爺さん、俺がここへ来た時にカイには魂が二つあるだとか抜かしただろう」
「ああ、確かに言った。カイの魂はあの躯の中にふたつ存在し、一つは躯を大地へつなぎ止め、もう一つは所在なさげに躯の中を漂い、時にもう一つに寄り添った。悪いものではなさそうだったから放置しとったが」
「そいつは……カイの魂は、今もそんな調子なのか? ひょっとして違うんじゃないのか。ローマを生き延びたことを切っ掛けに、あの日以来」
口調は至って真面目で眼差しも厳しい。傭兵か何かにしか見えないような厳つい体つきをしているソルだが、大昔は科学者をしていたのだという話をもっと若い頃にクリフは彼から聞いている。彼の今の顔は間違いなく科学者の顔だった。だがその端々に父性に似たものが見え隠れしていて、クリフは思わず口を緩ませる。
「ああ、そうじゃ。お前さんの言う通り、カイはもう、庇護されずとも己を守ることが出来るじゃろう」
「そうか。ならいい。くれぐれもあいつを死なすなよ、じゃあな爺さん」
「あ、これ、待たんかいソル!」
クリフの肯定を聞くや否や用は済んだとばかりに踵を返したソルを、慌てたクリフが突き出した得物が引き留める。面倒くさそうにソルが振り返ると、老人はトレード・マークの巨大な包丁をしかと構えてちょいちょいと手招きをしていた。
ソルが怪訝な顔をする。今は深夜だ。ちょっと身体を動かしたいから付き合えなどと言われる時間ではない。
「じいさん、こんな夜中にんなデケエ包丁振り回したら老体に障るだろが」
「ええんじゃ、お前さんと手合わせする機会ももうそうあるまい。それにわしは今日限りで一線を退くつもりじゃから遠慮はいらんぞ」
「ああ? んじゃここはどうなる?」
「明日、正式に辞令が下る。聖騎士団の次期団長はカイじゃ」
「そういうことかよ」
思わず舌打ちが漏れる。団長役の引き継ぎには議会の承認が必要であり、どんなに相応しい人物を指名しても正式に辞令が下るまでに一週間はかかる。つまり、カイの魂が安定したことにいち早く気がついたクリフは、そろそろソルがここを出て行く頃だろうと見て先に手を回しておいたのだ。ソルは封炎剣を構えると、やれやれと首を振った。なんと気の利く爺さんだ。
だが、悪くはない。ちょうど封炎剣の調子を確かめておく必要もあったし、団長として忙しくなれば、きっとカイもソルのことをすぐに忘れていくだろう。あの未来ある子供は、もっと広く、たくさんの物事を見聞きして知る必要がある。
「それじゃ、ジジイのわがままに付き合ってやる代わりに俺も一つだけ訊くぜ。カイは……『カイ=キスク』は人間か? ギアか、って意味じゃねえぞ。ギアならわかるからな」
「そりゃあ勿論、あの子は既に『人間』じゃよ。お前さんが『人間』であるのと同じようにな」
「は……勿体つけやがって」
封炎剣から炎が上がった。この剣を手に取って起動したのは一体何十年ぶりだろう? アウトレイジのコアを担うパーツでもある封炎剣は、そのブランクをまったく感じさせないほどよくソルの手に馴染んでいた。神器はそのピーキーな性能ゆえに所有者を選び、開発者本人であるソルでさえ全てが万能に使いこなせるわけではない。ソルにはこの、無骨な鈍器にも似た「封炎剣」が最も相応しい。だから宝物庫に、「あれ」は残してきた。
(封雷剣はくれてやる、坊や)
封雷剣に最も相応しいのはカイだ。あれがあれば、戦力的にもソルの抜けた穴を補えるだろう。それに魂が安定した今のカイなら封雷剣を使っても武器に振り回されることはもうあるまい。
(生きろ。そうすりゃ、いつかまた顔を合わせることもあるだろうよ)
ホールに月明かりが差し込んでいる。その光の向こうにカイの姿を思い描いてソルは思い切り封炎剣を突き上げた。剣と剣がかち合い、金属質の鈍い音を立てて弾ける。続けざまに炎。ガードされたところに、すぐさま、また炎。
踊るようにソルの炎が暴れ回る。自由で、奔放に、時に傍若無人に。かつてその炎を「野蛮で醜い」と目を逸らすように口にした少年が今まさに、同じ月明かりに男の面影を求めていることなど知るよしもなく。
◇◆◇◆◇
ギアを縫い付ける。それもただのギアじゃあない、あの、百年にもわたって人類を脅かしてきたギアの女王、生体兵器の旗頭であるジャスティスをそれは地に縫い付け、見下ろしている。
『あの時と……あの時と同じ……またしても貴様に敗れるのか……『背徳の炎』よ!』
背徳の炎と呼ばれた男はそれに応えず、踵を返してジャスティスに背を向けた。その額にヘッドギアはなく、いつもは逆立っている頭髪も降りている。ヘッドギアはジャスティスの手の下で潰されてばらばらに壊れてしまっていた。あれはもう使い物にはならない。
「……この世のギアは、一匹たりとも見逃すわけにはいかねぇからな」
『——貴様とて、ギアであろう! その額の刻印こそ、我が同胞の証。何故……何故、私の命令を聞かぬ?!』
「何故ってのは、こっちのセリフだ。テメェの言うことを聞く義理がどこにある」
『私は……壱号……完成型ギアの壱号だ。全てが完全故に、私だけが……意志を持っていた。そして……いや、だからこそ、全てのギアを指揮する力を手に入れたのだ。私の命令は絶対のはずなのだ……!!』
倒れ込んだジャスティスに、最早男を追う力は残されていない。既に巻き込んでしまった——と男は思っている——もう一人が拘束陣を完成させており、彼女は身動きがままならない状態にある。
だからなのか、ジャスティスの口はこれまでになく雄弁に開かれた。五年前の聖戦終結時、彼女が初めて敗れた時でさえこれほど雄弁に物事を語りはしなかったというのに。
おそらく彼女は動揺していたのだ。ヘッドギアの下に隠されていた刻印が示す男の素性に、今この場で誰よりも動揺しているのは間違いなくギアの女王たる彼女だった。これまでに彼女は自らの支配力を疑ったことはなかった。彼女の後に造られた現行のギア全ては従属型であり、司令塔に逆らう機能は持ち合わせていない。彼女を復活させる茶番を用意した元人間のテスタメントでさえそれは同様だった。
「完成型だからだ……。テメェの後に造られたシリーズは、意志を持ち得ることの無い、ある意味、真の完成型。だから、テメェの言うことを聞く」
『何……?』
「……プロトタイプがいるとは思わなかったのか?」
『!! ……そういうことか』
「ギアは、欲望で汚れた、人間たちの意志から産まれた。だから、俺たちが存在する限り、また、別の欲望を産む。今回のテメェの復活もそんなくだらねぇ意志が実現させた……」
『ではお前は……それで、ギアを……滅ぼすの……か? ……ギア……ギア・プロジェクト……何か……懐かしい……な…………遙か……以前………』
男の返答はきわめて簡潔なものだったが、それでジャスティスには十分な答えとなり得た。彼女は小刻みに震えるように微笑むと、まるで人間のように面を上げて男を見上げる。彼女は思い出していた。目の前にいる男の、背徳の炎の、在りし日の姿を。白衣を着て眼鏡を掛け、「あの男」と自分とともにシャーレの中を覗き込んでいた、青年の……。
『……そう、か。そっか……フレ……いいや……ソル。また、語り合おう。今度は……三人で』
だが、その名前を呼ぶことは躊躇われた。ジャスティスが気がついた一方で、男はその事実に思い当たっていないようだったし、ここでそれをはっきりと告げてしまえば彼がどんな思いをするのか……考えたくもない。ジャスティスは……その素体となった女は、誰よりも彼を愛していた。元々、この身体になることを受け入れたのも彼のためだった。でもあの日、意志に反してこの身は一つの島国を吹き飛ばし、それ以来……
(この身となってなお我が子を案じるのは、傲慢だろうか)
その日から、彼女はジャスティスになった。胎内に宿っていた命もまた心身ともにギアへと成り果てた母胎の中でギアへと変質し、聖戦のさなかで卵としていずこかへ産み落としたままだ。生まれてくる子供は父を知らない。例え運命の悪戯で出会うことがあっても、気がつくことさえないかもしれない。
(わたし……だめなお母さん、だった、な……)
娘を腕に抱くことも出来ない事実が、きっと自分に対する神の罰なのだ。拘束陣がまばゆい青に染まり、光が徐々に強まっていく。ギアの命が尽きようとしている。亡骸となったこの身体は今度こそ次元牢の中へ永久に閉ざされ、もう蘇ることもないだろう。
(だいすきだよ、フレデリック)
でもそれでいい。自分を殺したのが彼でよかった。そして彼が自らが殺した化け物を自分だと知らなくてよかった。出来ればもう二度と彼の前にこんな姿を晒さないで済むといいなと思う。次元牢を発動する青年と目が合い、微笑む。
(今度生まれ変わるときは、わたし、きっと……)
そして孤高たるギアの女王は、薄笑いともとれる表情を浮かべて、静かに息を引き取った。
◇◆◇◆◇
目覚めてすぐに目にしたのは、工具を手にヘッドギアを造り直している男の姿だった。身体は上等とは言い難いもののそれでもベッドに横たえてあり、衣服も清潔なものに変えられている。元々着ていた法衣は窓の横の壁に掛けられていた。酷い汚れで、もう洗っても落ちそうにない。
倦怠感と軽い頭痛が身体を支配している。横目で見た男の顔は伸び放題になっている髪で影になり、よく見えなかった。精密作業をするために強引にまとめてはいるようだったが、跳ね放題になっているためにどの程度視界への負担が軽減されているかは不明だ。
「起きたか?」
男が振り返る。髪が後ろへ流され、剥き出しになった額に刻印が浮かんでいる。頭痛に加えてめまいがした。途端、気を失うまでの出来事が奔流のように流れ、カイに覚醒を促した。
第二次聖騎士団員選抜武道大会などという胡散臭い大会を国連が主催すると聞き、警察機構長官としてはそれを無視することも出来ず自ら参加してみればそこは無法者の集まり。すったもんだの末になんとか勝ち進んではみたものの、終いには大会の形式さえ崩れて戦場と化した。人型ギアのテスタメントの暗躍、そして史上最悪のギア、ジャスティスの復活……そうだ、ジャスティスは? あの悪夢はどうなった? 抱いた疑問の答えは、目の前の男を今一度確かめたことで自らの記憶が提示してくれた。彼女は死んだのだった。今度こそ完膚無きまでに、壊されて。
それを支援したのが自分だ。ソルが叩きのめしたジャスティスを隙を見て拘束し、次元牢に葬った。既に疲弊しきっていたカイには、それぐらいしか出来なかった。
「……おまえが、私をここまで?」
恐る恐る尋ねると、ソルは工具を動かす手を止めてカイに向き直った。
「そうだ。こんな時勢だ、宿屋も病院もどこもいっぱいいっぱいだったが、坊やが着ていたソレが効いてなんとか個室がとれた。おまけにシャワーつきときた。行いってのは、返ってくるもんだな」
「……ここはどこだ。私がここにいることは、誰かに?」
「ロンドンだ。次元牢から出たどさくさでな。連絡のたぐいはまだしてねえ。メダルが動くんなら、あとでベルナルドにでも掛けてやれ」
だが今はまだ安静にしてろ、とソルが言う。口調は柄にもなくやさしい。カイは仕事の虫で、放っておけば身体が動く限り今回の件の始末や調査に出てしまう可能性があるのでどうやらそれを危惧しているらしい。
まるで保護者のような口ぶりに反発を覚え、カイはむっと唇を尖らせてみたものの、倦怠感の酷さは確かに本物だった。恐らく次元牢展開法術をを無理矢理一人で行使したことが響いているのだろう。おまけにジャスティスを拘束するほどの法術拘束陣も展開していた。能力の使いすぎだ。無理がたたってオーバーヒートしている。そういえば、熱っぽい感じがしないでもない。
「でかくなったな」
一人で百面相をはじめたカイを見たソルは微笑むと、また、父親みたいに言った。最後にソルと会ったのは聖戦終結時、ジャスティス封印を執り行った五年前だったが、あの時は戦闘が激しくて再会だのなんだのを考える余裕もなかった。それを鑑みれば、一番最後にソルとカイがゆっくりと会話を交わしたのは七年も前ということになる。七年間でカイは十五歳の少年から二十二歳の青年となった。身長も伸びた。だからソルがそのような感想を抱くのは、ごく当たり前のことなのだろうが。
「……今更そんな、保護者面をしないでくれますか」
カイの胸中に渦巻くのは不信感と嫌悪ばかりだった。努めて嫌味っぽくそう言い返してやったが、ソルの方にはまるで堪えた様子もない。そればかりか彼は「なんだ、言い返すぐらいの元気はあるんだな」とむしろどこか嬉しそうに呟くと、わざとらしく垂れ下がってきていた前髪をかきあげてカイに額を見せつけてくる。
「言いたいことがあるんなら言っていいんだぜ、坊や」
「……私はもう、坊やと呼ばれるような年を過ぎた」
「そして俺を殺したいのなら殺してもいい。尤もその調子じゃあ、無抵抗のままでも俺は死んでやれそうにないが」
「……いい加減にしないか!」
最悪だ。カイはやめてくれと懇願する代わりにかぶりを振った。頭痛がどんどん悪化していく。ソルの額にある刻印の意味がわからぬカイではない。カイは世界で二番目か三番目に多く、そのしるしを浮かべたものたちを殺してきた男なのだ。彼らは常にカイの敵で、話も通じず、殺すしかなかった。彼らはカイの怨敵であり、決して許すことの出来ぬ正義に相反する存在だった。でも、だけど。子供っぽい思考が否定の言葉を吐き連ねる。ならば目の前の男は、きっと世界で一番多くそれを殺してきたのではなかったのか。
「頭が……まだ混乱しているんだ。それじゃあ、なんだ? お前は……同胞殺しを好きこのんでやっていた、異端種だったとでも言うのか?」
「俺がギアであることは事実だから、まあ、そうなるな」
「そのくせ聖騎士団に入って、ギアを殺していたのか。嘘を吐いて……騙して」
「クリフの爺さんは知ってた。知っていて、俺を誘った」
「でも私は知らなかった!!」
とうとうカイは激昂して両手をベッドに叩きつける。ソルの語り口は淡々としていて、その様がかえってカイを混乱させ、苛つかせていた。ソルはそんなカイの怒りを宥めない。ただ、残酷に優しい顔をしている。聖騎士団を抜け出す直前の彼がそうしていたのとまったく同じような。
そのせいで余計にカイの怒りはいや増していた。ソルに「捨てられた」日のことがまざまざと思い出されて苛むのだ。ソルの幻を掴もうとした時の空虚さと、自己嫌悪がぶり返していく。
それにカイははっとして、ソルに手を伸ばした。もしかしたらこのソルも幻で、全てカイの脳が疲労から見せた幻覚なのではないだろうか。この場に限っては、その方がましだと思えた。けれど伸ばした指の先には確かな肉体が質量と温度を伴って存在しており、更に非情なことにその熱はカイの手を握り返してきさえした。
「何故今になって私にそんなことを明かすんだ。何故……今になって急に、私の前に現れる。そんなことをしなければ、私は一生、お前のことを身勝手に恨み続けられたかもしれないのに」
「あの時の坊やに俺の正体なんざ言ったら、坊やは問答無用で俺を殺そうとしただろが。だが七年前の坊やは力が中途半端すぎて俺を殺すには弱すぎたし、かといって俺が手加減して生かしてやるには強すぎた。坊やを死なせるのは本意じゃない」
「戯れ言をッ……」
「だが七年経って、坊やもちっとは成長した。俺の額を見ても殺意がねえのがその証だ。……坊や。ジャスティスに言われただろう、テメェの正義は何か、みてえにな。盲従していた正義という根幹を揺らがされ……テメェは今、振り上げた拳をどこにおろせばいいのかわからねえでいる……」
事実だ。カイは押し黙った。カイの信じていた正義は盲目的で、一方的だった。人間の傲慢な「正義」。本当の正義とは何なのか……その迷いと揺らぎが今、カイの「ギアは殺さなければ」という本能じみた思考を押しとどめている。目の前の男はギアだ。でも、一年ばかりとはいえ自分の面倒を見て、時には守ってくれた彼をそれだけの理由で屠ろうとするのは本当に正義たり得るのか? それこそ、裏切りなのではないか? 彼があの日自分を捨てていったことよりも、遙かに……。
「潮時だろ。いいから養生して、悩め。それでやっぱり俺を許せねえって言うのなら好きにしろ。恨み言もなんでも聞いてやる」
「だが……お前はまた、どこかへ行ってしまうだろう。あの時のように。私を……捨てた時のように!」
「……坊や」
「もう裏切られるのはたくさんだ……」
最後の言葉は絞り出すように、嗚咽とともに零れ落ちていった。感情を制御出来ないのはきっと熱があるせいだ。身体が本調子ではないからだ。子供の頃のように泣いてしまうのは、決して、この男がここにいるせいではなくて。
ソルの金色の双眸が俯くカイを見遣る。ソルはベッドに蹲ったままのカイに歩み寄ると、大きな手のひらをカイの額に当てて強引に顔を上げさせた。涙でぐしゃぐしゃになった顔はそれでも絵画のように整っていて、エメラルドの海と同じ色をした瞳は「見ないで」と声なき糾弾をしている。
「カイ」
呼びかけると、カイは言葉にならない涙声を出して、(多分)ソルをなじった。肩に手を回して抱き寄せる。もう触れたぐらいでは壊れたりしないからこうして抱きしめてやることも出来るが、それにしてもなんと華奢な体をしていることか。
「約束してやる。お前が答えを出すまでは、俺はお前のそばにいてやるよ」
絶対に? カイがぐずりながら問う。ああ、絶対に。耳元で確かに肯定してやると、それでようやく、カイはソルの名を呼んだ。
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