006:運命というものがもしあれば
「あ! やっほー、×××ちゃん!!」
女が手を振る。長身の整った肢体に白とベリーピンクのコントラストで彩られた長い髪、スリットの大きなロングパンツ……という出で立ちに反して、ぴょんぴょんと飛び跳ねるその仕草は子供っぽかった。まさに年甲斐もなく、とでも言いたくなる調子だが、彼女はまだ生まれて間もないどころか「産まれきっていない」。それを考えれば仕方のないことではある、のだが。
「×××ちゃん、なんだか、ひさしぶりー。えーっと、どのくらいになるっけ。最後にお話したの。確か……イノちゃんに起こしてもらって、それで…………そうだったわね。正確には、久しぶりというより、初めまして、が正しいのかしら。この確率事象の場合は」
くるくると口調が変わり、顔つきも百面相のようにてきぱきと切り替わる。アリアに似た面差しを持つその女は、今度は眼鏡のよく似合う科学者の相貌をしてそう呼びかけた。
「私をここに連れてきてくれたのも彼女のはずなのだけれど、はぐれてしまったみたい。彼女の『正体』について、まだ教えてあげない方が良かったのかしらね。尤も、今更、彼女の取った採択を覆すことは出来ないのだけれど。彼女が『魔器』としての能力を十全にふるい、この歴史の棄却を成功させたから今私はここにいる。《ユノの天秤》を人類へ還元させる、その役目を果たすために……」
「あの男」によって保管されていたアリアのコアダンプ……フラグメント化されていた記憶データを統合・ダウンロード完了することで完成が予想される素体復元ユニットである彼女は、未だ「半分」の完成度であるにも関わらず、多くの人間があらゆる確率事象で喉から手が出るほど欲しがった真実を多くその記憶回路に抱えている。これは彼女の情報復元を、「感情」や「人格」を後回しにして「機能回復」を優先して行ったことによる弊害だった。
だから彼女は——無邪気で残酷だ。聡明な知能を備えているのに、それをうまく使って他人を慮るという機能が欠如している。
彼女は欠損だらけだ。欠けた状態で外に出さねばならなくなったほど、慈悲なき啓示の行動は早かった。切り札を切り札として正しく切る前に、早期投入せざるを得なかった。
けれどそれはイノにとって一つの幸運であったし、この閉じゆく「壊れて終わってしまう世界」にとっても、最後の僥倖であっただろう。ユノの天秤に秩序を集めるために飛来した女はその右手を伸ばし、彼に手を差し伸べた。世界に選ばれ、啓示に憎まれ、それでも自らの魂に与えられた役割に抗った彼に敬意を表して。愛するものたちを裏切り、何より愛おしいものをさえ捨て、命を賭けて守ろうとしていたはずの世界をその手に掛けた青年は、彼女が差し伸べた手を見て微笑む。
「天使みたいですね。私には、お似合いでしょう」
彼女の頭上には確かにお伽話で語られる天使のように輪が浮かび上がっていたが、彼の言葉はそれを示しているわけではない。皮肉だ。彼の顔は酷くやつれていて、疲れ切っていた。当たり前だった。許されるならば、このような所業に手を染めたくはなかっただろう。
それでも彼がそれをやり遂げたのは、約束をしたから。愛した男を救いたかったから。妻だけは、自分を許してくれたから。そして何より——世界を、正義を、信じていたから。
彼の役割への抵抗は結果的に実り、本来は絶対に棄却されてはならなかった歴史は壊れて使い物にならなくなった。約束されていたその先を奪われた世界はループする。あとは、この閉じた世界を外部からつまんで抹消すれば、全てが無かったことになる。
その大それた所業の代償として、彼に与えられていた権限は摩耗し、魂は傷が付いた。彼はもう完全な「天使」ではいられない。しかしそれこそが彼を「人間」に近いものにする。採択された歴史で、彼はやっと人になることを許されるだろう。数多の世界で死んでいった彼の可能性を全てその背に負いながら。
「その表現は、正確ではないわ。天使はどちらかといえば……あなた。ああ、でも、私たちは少しだけ似ているのね。私もあなたも、由来はバックヤード。人類の未来のために造られた」
「その表現こそ、的確ではありません。私は確かにバックヤードに由来を持ちますが……人類の未来のためには、出来ていませんよ。世界の秩序のため、です。でも、驚きました。『私たち』は、その気になれば、これほど大それた……役割を逸脱したことが、出来るのだと」
「わっ、ごめんね間違えちゃった。でもでも、それって当然のことだよ? 道具は与えられた役割しか果たせないけど、×××ちゃん、イノちゃんが介入した時点でもう道具じゃなかったもん。イノちゃんより前に、×××ちゃんのこと、『人間にしようとした誰か』がいるんだよ」
「……イノさんより前に? ですが彼女は、そんなことは一言も……」
「しょうがないよー。だってイノちゃんは……そう、仕方ないの。彼女は聖戦によって生まれた規格外ID。バックヤードという森羅万象を与えられたIDが人格を形成したのは、『本当の第二インテグレート・ポイント』に干渉が入り、あなたという存在が固定されたずっと後のことだから。彼女はそのことを知らないのよ。私も、こればかりは、教えるわけにはいかないわ……」
「何故です?」
「彼との約束だから」
差し出していないほうの左手で飴玉を舐めて、彼女がかわいらしく小首を傾げる。「ないしょなのー!」と無垢な少女のようにはしゃぎたて、彼女は差し出した手でそのまま彼の腕を掴み取った。
掴んだ彼の手は荒れきっていた。彼を包む衣服も、法衣などあれほどまでに白かったというのに今は無残な血の色とその乾ききった赤茶色にどこもかしこも染まりあがっている。そして彼の目も。エメラルドの海のように輝いていた瞳は悲しげな深紅に入れ替わり、まがまがしく、さながら狂気のようで……それなのにどうしても、透き通ったままだった。
しばらく彼女は彼を掴んだままぐるぐると回していたが、やがてそれに飽きたのかぱっと離して自ら距離を詰める。破滅を選んだ「むかしは天使だったもの」をじろじろと観察し、そしてにっこりと笑い、「ねえ」彼女は言った。
彼が愛した男が愛した女の声と似姿で。はばかることなく、両手を広げ、抱擁を約束するみたいに。
「どうだった? 世界を滅ぼした気分!!」
こともなげに。
「トリックオアトリート!」と、別に欲しいわけでもないお菓子を、ねだる時みたいに。
◇◆◇◆◇
ヘッドギアが元に戻って、数日部屋に二人で籠もって話をし、それからは一日おきに二人でロンドンの街を歩くようになった。歩けるようになったので、いつまでも閉じこもりきりではなくリハビリをしよう、という主旨のもとソルがカイを連れ出した。カイ自身警察機構に移籍してからは任務以外でパリを出たことはなかったので、こうしてなんでもない日にぶらぶらとロンドンを歩くのは「観光」みたいで、わくわくしていた。
「改めて見ると、パリの街とは全く違うんですね。イギリスは支部が大きいので、書面ではよく名前を目にしますが、実際に赴くことは少ないんです。来たとしてももっと田舎で、それも応援に私が駆り出されるような事件の時が殆どで」
「そうか。俺もあんま、ここは来ねえな。デカイ額の掛かった奴らはこのあたりには滅多に近づこうとしねえ。もっと場末のパブの方が情報も引っかけられる」
「警察機構が取り締まりを強化しているから、ですか?」
「ああ、そうだ。……別にそれが悪いとか、そういうわけじゃねえよ」
最後の言葉は小声で、ぷいと顔を背けるようにしてこぼされた。警察機構の長官という立場にまで上り詰めたカイの前で「警察がうるさくて都合が悪い」とぼやいてしまったことを少し後悔しているらしい。
対するカイの方はそれを特に気にとめることもなく、相変わらずの無法者なのだなあと納得をしたぐらいだった。ソル=バッドガイが規則を破るなんてのはあまりにも日常茶飯事にすぎて今更何の新鮮味もないのだ。むしろ規則を遵守しているこの男は、少し気味が悪いかもしれない——そんなことをさえ思いながら雑踏を歩いていると、ソルが「何がそんなにおかしい、坊や」とやや不機嫌そうな調子で呟いた。
祝日であるということも手伝ってかメインストリートは人通りが多く、裏路地に比べると随分と景気がいい。あちこちから客引きの声が聞こえてきて、カイはにわかに浮き足だっていた。聖騎士団の制服も警察機構のケープも脱ぎ、私服で街に繰り出している。それもソルと一緒にだ。私用でこの男と街へ出るのは本当に珍しい。聖騎士団時代、カイが外出するときは大概が団の用事でだったから、制服を脱いで街へ出ることは滅多になかった。
「初めて坊やを街へ連れて行ってやった時を思い出すな」
ソルがなんとはなしに呟いた。ちょうど彼も同じことを考えていたらしかった。
「ああ、私が、紅茶を切らしてしまったからと」
「まさか十五にもなってはじめてのお使いをする坊やがこの世に存在しているとは俺も思ってなかった。言われてみりゃ、納得は出来たがな。テメェの周囲の人間は過保護すぎだ」
「あの頃は……私もまだ、幼かったから。でも今はそれほどじゃないと思うけれど」
「ふん……どうだかな」
ソルがぼやいた。自ら進んで執事に立候補するやつが側仕えしている時点で、カイを溺愛するやつらが今でも彼の部下としてあくせく働いているであろうことは想像に難くない。
さて話を戻すが、聖騎士団本部が存在した当時からパリはさほど治安の悪い街ではなかった。大体カイはその気になればひったくりや強盗の数人、自力で制圧出来る程度には戦闘能力を備えている。
にも関わらず、彼はソルが「そんぐらいこいつに自分でやらせろ」と口出しをしてくるまで、一人で買い物に出たことがなかった。食料品の買い出しは勿論、日用品でさえ、団の備品を使ったり、誰かがどこからともなく調達してきたものを使うことが当たり前になっていて、カイには「ものが足りないので店で買ってくる」という概念が抜け落ちていたのだ。
それを知った時のソルの顔たるや、なんとも筆舌に尽くし難い。彼は信じられないものでも見るような顔をして「テメェはお貴族様のお坊ちゃまか何かか?」と言い、唖然とした様子でカイに手を差し出そうとする数人の団員を追い払った。そしてカイの腕を引っ掴むと、「坊や、リンゴぐらい買ったことはねえのか」と神妙な面持ちで問いかけた。
しかしカイには「い、いや。実は恥ずかしながら、なくて」と答えることしか出来ない。するとソルはこれ見よがしに溜息を吐き——「買い物ぐらい出来るだろう、テメェはもうガキじゃねえんだぞ……」そう言ってカイをそのまま引き摺って行き、途中ですれ違ったクリフに何か文句を付けた後、パリの街へカイを連れて出て行ったのだ。
「だってインクもペンも、本当になくなって困ったことがなかったんだ。団には必要なものの備えはしてあったし……」
「テメェの好みの色とメーカーの新品が、決して切らされないよう、常にな。おかしいと思えってんだ」
「……それが当たり前だと思っていたから」
「今は自分で買ってんだろうな?」
「ま、まあ一応。ベルナルドにもあまり私を甘やかさないでくれと、ずっと言ってはいるんだ」
そう言ってカイは苦笑いをし、困ったように頬を掻いた。そうしている姿を見ると、とてもこの青年が若干二十二歳で既に警察長官の地位にまで上り詰め、聖戦で数多のギアを屠った英雄とは思えない。仕草はあどけなく、いつまで経っても初々しくて……恋を知る前の少女のような幼さが見え隠れしている。
実際、彼はもう一人で随分と立派にやっていると聞くし、たまに酒場で耳に挟む「警察長官様の噂」もごたいそうなものばかりだ。やれ、またどこそこの地域で英雄が手柄をたてただの……東でギアプラントを破壊したと思えば西で犯罪組織の掃討を指揮し、世界中あちこちで忙しくしている様が、調べなくても勝手に耳に入ってくる。カイ=キスクは良くも悪くも有名人だ。たいていの賞金稼ぎには、「とりあえず敵に回さないでおけるならそうしておきたい」人間として認識されている。
間違っても「手の掛かる坊や」だなんて思わない。そんなことを思うのは、もうきっと、ソルだけだろう。
カイが果実商の軒先で足を止め、リンゴの品定めに入る。ソルはしばしそんなカイの背をぼうっと見守りながらとりとめのない思考に耽っていた。カイはリンゴの形や色をじっと見比べながら、丁々発止の遣り取りで店主と値切り交渉を交わしていく。どうやら、買い物で値切り交渉に入る程度には成長をしたらしい。
やがて交渉がまとまり、カイが懐から財布を取り出す頃になって、ふと、背後からどことなく間の抜けた声が遮った。
「ああ? あれー、ダンナと……カイちゃん!」
間が抜けてはいるが、ソルには聞き覚えのある男の声だ。めんどくせえな、と思い腕組みをしたまま威嚇するように視線だけ遣ると、やはりそこにあったのはアクセル=ロウの姿だった。ソルにとってもカイにとっても数日ぶり、か。しかしあの様子では、アクセルの方はそういうわけではないようだが……ソルは口を開くのが億劫なのでそれを黙っていることにした。
「すぐに知り合いに会えるなんて、やーったついてるぅ。二人ともいるってことは、時代としては……あのへんかな。ね、カイちゃん元気してた? ダンナとはこの前も会ったけど、カイちゃんとは俺結構久しぶりかも!」
「え? あなたは……確か……アクセル=ロウ? 先日の第二次聖騎士団選抜武道大会に出ていた……」
カイの確かめるような辿々しい声に対し、アクセルの声は底抜けに陽気でどこまでも気安い。名前を呼ばれて振り返ったカイは訝しげに眉をひそめ、そして心当たりに思い当たって腰に下げた剣の柄に手を伸ばした。赤いバンダナを頭に巻き付けてユニオン・ジャックの派手なTシャツを着た男には確かに見覚えがある。アクセル=ロウ、カイが今この街に滞在する理由となった第二次聖騎士団選抜大会の決勝トーナメント参加者だ。戦闘スタイルはロングレンジを主体とし、鎖鎌の他に炎の法術も使い……
大会そのものが有耶無耶になってしまったため彼も行方知らずになっていたのだが、こんな街中でこうも気安く声を掛けてくるとは。あまり人通りが多いところで騒ぎは起こしたくないが、何をされるかわからない。そう考えてカイが警戒の姿勢を見せると、アクセルは大慌てで両手を振り、降参の意志を見せる。
「ん? んんん? ちょ、タンマタンマ、剣抜くの待って! あちゃあ、今どこの時代かなーって思ってたけど、そこなのかあ。例の大会のすぐ後じゃ、俺たち別に全然仲良くなってないよね。それじゃ自己紹介から始めないと、ダメかな」
「……どういうことです? あなたの口ぶりは、まるで私たちが旧知の仲であるとでも言いたげな様子ですが」
「んー。話すと結構長いのよねん。つってもこんな時間じゃまだ酒場も開いてないし……そんじゃカイちゃん、お茶、奢ってくんない?」
ダンナ、あんまり協力的じゃなさそな感じだし。アクセルが困ったようにソルを指さして言う。カイはそのあまりの図々しさに逆に毒気を抜かれてしまい、「は……?」という困惑の表情を露呈した。威嚇されている状態でお茶をたかってくる相手なんて前代未聞だ。
「あの……あなた、今の状況がわかっているんですか?」
「いやあ俺様もお茶代たかるのは心苦しいんだけどさあ、この時代の通貨を持ち合わせてないのよ」
「いえそういうことでは……待ってください。『この時代の通貨』、とは」
「やー、保管しといたつもりだったんだけど、どさくさでなくしちゃったみたい? 今持ってるの、これだけなんだよね」
そう言ってアクセルが開いた手の中から、少し手垢のつき始めた硬貨が数枚現れる。カイはゆっくりとそれを覗き込み、硬貨に彫り込まれた発行年月日を見てあからさまに不審な眼差しをアクセルに向け、彼の申し出を了承した。
アクセルが持っていた硬貨はカイも今リンゴを買おうとして懐から取り出したワールドドルのものだ。今現在最も普及しているスタンダードな通貨。そこまではいい。
おかしなのは、彫り込まれたレリーフだった。描かれていた絵柄はまったく見知らぬ「イリュリア城」という名の城で、おまけに発行年月日は「二一八六年五月二〇日」——今から六年もあとの日付だったのだ。
◇◆◇◆◇
「はあ……あなたは時空を移動する特殊体質の持ち主で、『未来の』私やソルと親しい間柄だ、と。なるほど言っていることは概ね整理出来ました」
あのあと、カイがリンゴを買い終わるのを待って彼らは結局喫茶店には行かず、ねぐらにしている安宿に戻った。アクセルの言うことはあまりに胡散臭い内容だったし、人に聞かせるような話ではないと判断したからだ。宿は安いだけあって設備のたぐいは貧弱だが、防犯用に簡易的な法術結界が施してあるためそこらの喫茶店よりは融通が効く。
買ったばかりのリンゴを切り分け、残り少なくなってきた紅茶を淹れてぼろくさいテーブルの上に並べる頃にはアクセルの話もそこそこ進んでおり、カイは曖昧に頷いてベッドサイドに腰掛けた。
「証拠は、先ほど見せていただいたコイン……。確かに……見たところ、偽造通貨にしてはよく出来すぎている。ほら話と一笑に付せるものでもないでしょう」
「そそ、カイちゃん話が早くて助かるぅ〜。この話普通はさ、やっぱ突拍子もないらしくてさあ。最初はみんなちゃんと聞いてすらくれないことの方が多いのよねん。まともに取り合ってすぐ信用してくれたの、スレイヤーの旦那ぐらいよ」
「スレイヤー……?」
「およ、スレイヤーの旦那ともまだ会ってないってこと? それじゃもしかして、あれやそれよりも前……ってことか。ねえダンナ? ……ダーンナ? 無視しないでよー、ソルのダンナは知ってるだろ、俺のこと〜」
「……坊やに説明すんのがダリィんだよ」
先ほどからソルは沈黙を貫き通していたが、アクセルが執拗に呼び続け更に肩に手を掛けてぐらぐら揺らし始めたことで、彼はようやく面を上げてすこぶる不機嫌な声で吐き捨てるように返事をした。ここ数日カイには見せたこともないような表情だ。というより、これほど剣呑な彼は聖戦期のきわめて不機嫌だった日にしか見たことがない。
だがアクセルはそんなソルの様子に気圧されることもなく、どころかぱっと顔を明るくして安堵の息を吐いた。
「あーほら、やっぱ俺様のこと知ってるじゃん、良かった良かった。だいぶ前だけど、聖戦の頃のダンナと会って話してたはずだからさ。思い違いだったらヤだなって思ってたわけ。や、それにしてもビックリ。二人で割と仲良さそうに歩いてたもんだから、てっきりあれのあとぐらいだとばかり」
「あれ……?」
「あ、詳しくは内緒ね。未来のこと、あんま話したりしたらまずいっしょ。SFのお約束的に」
未来を知って過去に干渉をすると、結果的にその未来はねじ曲げられてしまう。そうして最悪、世界は消滅する——そんなありふれたSF小説の筋書きを思い浮かべてカイはアクセルの言葉に頷いた。そう言われてしまうと、怖くてそれ以上は追求出来ない。
「はあ、まあ、そうですね。そういうことに、しておきましょう。それでは参考までに伺いますが、あなたはどの程度の未来まで私のことを知っているんですか? ぼんやりしているぐらいで構いません。これはちょっとした興味本位なので」
しかしそこまで言われると気になってきてしまうのも事実だ。未来に差し障りない程度でいいので、とやんわり尋ねるとアクセルは少し考え込むそぶりを見せた。どうやら抵触しない程度に答えてくれるつもりらしい。
「そうだなあ、先といえば先だけど、近い未来って言えば近い……そのぐらいまでかな。俺の知ってる一番先の未来だと、カイちゃんの立場もちょっと変わって、もっと大きなものも変わって……色々。あとダンナの服も変わって。頑なにおんなじメーカーのしか着てないみたいだけどね。こだわりってやつ?」
「やかましい。燃やすぞ」
「ああ、メンゴメンゴ、勘弁してね。それであとは……あ、そうだそうだ。んーと、カイちゃん今いい人、いる?」
「え?」
「あ、まだね。それじゃ、これだけ言っちゃお。この先、いい人見つかるよ。いつだったかカイちゃんが教えてくれたんだ。『運命というものがもしあるのだとすれば私にとってのそれは一つがソルとの出会いで、もう一つは彼女との出会いだ』、って」
アクセルが笑いながら言った。
カイはきょとんとして、想像もしていなかったその言葉に目をしばたかせ、そのままソルの方を伺い見る。「将来の話」だ、カイにもそういう出来事があっても確かにおかしくはないのかもしれない。けれど身構えていなかったうえで渡されたその答えは少々突飛に過ぎて、カイの頭が理解をするまでにいくらかの時間を要した。
それに、だ。
『——恋人はいないのか? 坊や』
ついこの前ソルに尋ねられたあの言葉がぶり返す。ソルとカイが数日前にそんな話をしていたということを、目の前にいるアクセルという男はもちろん知らないはずだ。あの場に彼はいなかった。そのことを知っているのはソルとカイのただ二人だけ。
カイは僅かに呻いた。忘れようと思っていたのに、こんなかたちで蘇ってくるなんて。さいあく、と口に出しかけて噤む。アクセルは悪くない。間は悪かったけど、彼自体は悪いものではないと、話しているうちにもうなんとなく分かっている。
『運命というものがもしあるのだとすれば』
未来の自分が口にしたのだという、その言葉を胸中で反芻した。カイは運命をあまり信じたことがない。力あるものが生き残り、か弱きものから死んでいく。それが聖戦の常だった。カイは自らが生き延びてきた事実を運命だと思ったことはない。自分には力があったし、助けてくれる仲間もいた。幸運もまたその人の持てる力のうちだ。
『私にとってのそれは一つがソルとの出会いで』
けれど真ん中のこれは、まったくそうだと思った。運命なんてないと思うけれど、もしどうしてもあるのだとしたら、ソル=バッドガイという男はまさしくカイ=キスクに与えられた運命と奇跡だった。カイの命はたびたびソルに救われていて……今もそうだ……ソルの言葉はカイの道を左右する。
試しに唇の中で「正義とはなにか」と繰り返して呟いてみた。正義。カイの信じた正義と、ソルの奉じる正義。正義はひとつではない——これもまた、ソルから教えられたもの。
ソルとこの数日を過ごしてはじめて目を向けたものごと。
『もう一つは彼女との出会いだ』
そして最後のこれには、まったくもって共感を覚えられなかった。
当たり前だろう。アクセル曰くの未来の出来事だ。現在を生きるカイ=キスクには関係のないことだ。けれどいつか自分にその時が訪れるのだということさえぼんやりしていて、そんなことが起こるとは思えなかった。ソル=バッドガイと同列に並べられるほど、カイ=キスクを揺るがす女性がこの世にいるのだろうか。……ほんとうに?
「カイちゃん、どしたの? なんか俺嫌なこと言った?」
アクセルが心配そうにカイの顔を覗き込んでくる。ソルは何も言わない。薄情だとは思わない。そういうやり方が、あの男の思いやりだ。
「いえ……実感がわかないな、と……」
「そりゃ、まそうだよね。そもそも、未来がどうなるかなんてわかんないし。こんなこと言ったあとでなんだけど、俺が見てきた未来とカイちゃんがここから進む未来が別のものかもしれないっしょ?」
「……じゃあ、言わないでくださいよ」
カイは唇を尖らせて肩を竦めた。アクセルがまた笑う。軽薄だけれどどこか憎めない。あの第二次聖騎士団選抜大会という修羅場をくぐって生き延びた男だ、見かけ通りの人間ではないのだろうけれど……それにしても、この憎めなさは普通じゃない。これもまた彼の武器の一つなのだろう。そうやって彼は世の中を……そして信じるとすれば時を、渡っている。
「だって、俺が何度先の未来に飛んでもカイちゃんはそうだったから。後悔してるカイちゃんには会ったことないよ。苦労はめちゃめちゃしてたけど」
「どこまで行っても苦労人か、坊やは。貧乏くじ役だな」
そこでようやくソルが口を開いた。言葉はぶっきらぼうだったが、その中にはカイへの労りがある。カイはなんとなく、触れられてもいない頭がソルの無骨な手で撫でられているような心地になった。ここ数日、よくそうされていたせいなのだろうと思った。
「真面目だかんね。でも貧乏くじってことはないんじゃあない? 家族みんなで笑い合ってて——あ、しまった。これ言っちゃダメなやつ?」
「え、その。私に尋ねられても……そもそもあなたの言葉全てが妄言か虚言かもしれない可能性はまだ高いんですよ」
「相ッ変わらず手厳しいねえ。でもオッケー、そしたら次に会う時に信じてちょーだい。きっと次にカイちゃんが会う俺は、こんな話したこと知らないけどさ。だってこの話をしてる俺はここまでに何回もカイちゃんと会ってて、いっぱい話もして、いい汗が流せる程度の試合もして、ダチみたいなのやってるわけ。カイちゃんのとこには、これからその経験をする俺が行く。……あ、そうだ、いつだったか食べたカイちゃんのアップルパイおいしかった。あんがとさん。また今度作ってよ」
思い出したようにとりとめなく話すアクセルの目が手の中のリンゴに剥けられて、それから、カイの目をまっすぐに見る。おかしな感覚がそこにあった。カイはアップルパイを作ったことがない。それに料理も、まだ練習している最中だ。この数日間でソルと自分のぶんをまかなうためにいくらか作ったけれど、カイとしてはまだ客人に振る舞えるような腕だとは思っていない。
でもアップルパイを食べて「おいしい」という彼の姿がとても鮮明に脳裏に思い浮かんだ。
「あなたは不思議なひとですね」
「あ、カイちゃんやーっと笑ったね? それはねえ、結構言われる。だからうん、そうなのかもしんない」
「ただのイカレ野郎だ。んで、そのくせ大体どこかのバーで暇してやがる」
「ちょっとダンナぁ、やっとサポしてくれたかと思ったらそれ、褒めてないでしょ」
「褒める理由がねえだろ。出てくるたび時空跳躍のエネルギーが欲しいから無理矢理にでも付き合えだのなんだの……まあ、あんだけ目の前でブッ飛ぶのを見せられてりゃ、少なくとも一般人じゃねえってのは納得するしかなかったがな。あのヤバい医者みてえに転移法術が使えるってワケじゃねえだろ。そうはとても見えねえ」
「……ダンナ、前から思ってたけどカイちゃんの前だと俺の扱いいつもより酷くない?」
「気のせいだ。テメェに親切にしてやる義理はいつでもねえからな」
だから扱いが変わることがそもそもない。言外に言い切ったソルの顔に、しかし敵意はなく、穏やかだった。ソルがこんな顔をするなんてという驚きと共に、「ならば彼はきっと本当に時の旅人なのだろう」という思いが強まる。
とすればカイは近いうちにアップルパイを焼けるようになるし、この先年を重ねても苦労が絶えない人生を送ることになるのだろう。ということはソルとの縁はそうそう切れないということだ。ソルなしにして、苦労の絶えない人生なんてあるとは思えない。
そしていつかは大切な女性に出会い、アクセルにそのひとを紹介する。
(……ふわふわしている)
アップルパイを焼いている自分を想像してから、続けて伴侶を得た自分というものを想像しようとして失敗した。まったくちっとも思い浮かんではこなかった。アップルパイは知っているものだが、カイの伴侶は知らないものだ。だからかと思ったが、違うような気もする。もっと根底にあるものがカイの想像を邪魔している。
邪魔者の正体はすぐに思い当たった。それはカイの自らへの定義だ。カイ=キスクが自らをカイ=キスクたらしめると認識して信じているもの。カイ=キスクとはこうであるという不文律、それがカイが「人間みたいな」幸福を享受している姿を「違う気がする」と言って見せてくれないのだ。
たとえば、カイ=キスクはギア殺しの英雄であること。
それから、自分の「正義」に、盲従だった、ということ。
それなのに、その事実はどうしてもひっくり返らないし消えてなくなってもくれないのに。
「でも、私に」
「うん」
「愛せるのでしょうか。誰かを」
——愛していいのでしょうか。こんなわたしが。
カイの声は振り絞るようだった。あまりにも多くのギアを殺してきた自分は、必要とあらば、人のかたちをしたものをいくつでもちゃんと殺すことが出来る。殺すのが怖くて剣が握れないだなんてことは一度もなかった。カイ=キスクは生まれついてそうであったように殺人者の動作を心得ていたから、自分はギアを殺すために生まれてそのためだけに生きているのだと思って聖戦を生き抜いてきた節がある。今でも時折そうだ。ジャスティスが停止したからもう滅多にギアなど見かけないのに、それでも、自分の生きる理由をそこに求めようとすることを、完全には止められない。
「出来るでしょ。カイちゃん、血も涙もある人間なんだもん」
するとアクセル=ロウは、そんなカイ=キスクの声なき言葉をまるで全て知っているとでもいうような顔をしてあっけらかんとそう言い切った。
そこでやっと思い当たったが、彼は多分、ソルがギアであるということを知っているのだった。そしてカイがギアであると知りながらソルを殺さないで、街に出かけていたことも。
「俺も好きな人いるし。あ、めぐみってんだけどこれがもう本当にいい女でさあ……写真見る? 俺、こんな体質だからいろいろなものをなくしちゃうんだけど、めぐみの写真だけは絶対になくさないの。このロケットペンダントの中に入ってるんだけど」
「写真……ですか」
「ん、そうそう。いいよ、大事な人の写真、一枚でも持ってるとさ。頑張れる気がしてくるっていうかさー。カイちゃんも……」
彼が持って見せてくれたロケットにカイが手を伸ばした瞬間、アクセルの饒舌に動いていた舌が急に止まった。彼は「うええ」と思いっきり嫌そうな声を出しながらしかめっ面をし、ソルの方を仰ぎ見る。ソルは「またかよ」というような顔をして「やれやれだぜ」と首を振った。アクセルも「ですよねえ……」と項垂れるばかりだ。
「アクセル?」
この様子は、尋常ではない。カイはアクセルの背をさすろうと手を伸ばした。でもその手は彼の身体に当たらなかった。
すかすかと通り過ぎて、空を撫でるばかりだ。
「これは……あなた、身体が透けて」
「うん、やばいこれ。トびそう。ダンナと同じ空間に留まりすぎたってことなんかねえ……なんだよもうイジワルだな。めぐみの写真を見せるのはダメってことなんかね……」
「とびそうって」
「だから散々言ったじゃん。俺様ってば望まずしてタイムトラベラー。時間跳躍は、俺の意志とは関係なく起こるんだよね。これまでの経験則から言って大きなエネルギーが発生するか……あのヤブ医者は同一存在が近づくとブレるかもみたいに言ってたけど……」
ヤブ医者……? と新たな疑問も抱いたが、そんな些末事を尋ねる余裕はなさそうだった。アクセルの身体はがくがくと震え、足下から徐々に薄く透き通っていって、そして粒子のようになって消滅していく。カイは必死に頭を回した。身体はもう掴めないけど、しかし彼の言葉はまだ耳に届いている。意思疎通が出来る。ならば聞きたい。一番大事なことを、今、カイを狂おしく悩ませていることを、未来を知るのだという彼に——
——正義のことを。
「アクセル、一つだけ!」
周りを気にすることもなく叫んだ。これは今ここで聞かなければいけないと本能ががんがんに警鐘を鳴らしている。「なに、カイちゃん!」答えるアクセルの声も結構必死で、でもそれを気にしている場合でもなくて、カイは更に叫ぶ。
「未来の私は、正義を持っていますか。それとも……変わってしまったのでしょうか?」
アクセルが瞬きをした。それからすぐににやりと笑い、親指を突き立てて見せてくる。
「カイちゃんは、自分の正義に正直だ。ずーっと!」
その言葉を最後に、アクセルの姿は部屋からぱっと消えていなくなった。種も仕掛けもない手品みたいに、最初からいない人だったみたいに。
でも彼が食べかけていたリンゴが床に落ちていて、これが夢ではないのだということをカイに教えてくれていた。
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