007:かみさまがいつかそうしたように
「最悪ですよ」
彼が言った。彼の背には翼が生えていた。それは純白の美しい天使の羽によく似ていたが、彼自身は、自分のことをそんなふうに思ったことはなかった。
「だけどこれで世界は救われるのでしょう。……いいえ、救ってください。そうでなければ、私は。……私は何の為にこの手を再び血にまみれさせたのか、わかりませんから」
天秤が女の背後に見えている。ユノの天秤。世界の均衡を司る秤。それにコンタクトする権限を持っている彼女もまた、人ならざる生き物。
「この世界にはもう人間はひとりもいませんね」、と呟いた彼の胸の中に、それでも正義はあったのか……それは彼にしか与り知らぬことだ。
◇◆◇◆◇
「誰からだ?」
バッジでの通信を終え、身繕いをはじめたカイにソルが尋ねた。予想通り、「ベルナルドからだ」という短い返事が返ってくる。彼は上機嫌で荷造りまではじめ、この数日ですっかり懐いた孤児の少年に英語を交えながら説明をしはじめていた。少年も、明らかに強面のソルよりも優面のカイに懐いて彼には警戒を見せなくなっている。頭もさほど悪くはないようで、呑み込みもそこそこ早い。
カイが手配した施設に預けられれば、この先、少年が生きていくことに困ることはないだろう。運が良かったな、と内心でぼやいてソルも荷造りに着手をした。
ソルとの会話に、アクセルとの邂逅、そしてソルが子供を拾ってきたこと……それらの出来事を経てカイは「正義」という曖昧な言葉について、新しい定義を一つ見出したらしい。それと殆ど同時に本部からカイ=キスク宛に申請された休暇の中断要請が届いており、カイがソルと分かれるのに、これ以上ベストなタイミングもそうないだろうというぐらいの合わせ方だった。
この急な帰還要請を鑑みるに、どうやら大会のごちゃごちゃに乗じてカイを亡き者にしようとするような謀略は撤回されたらしかった。まあ、当然の結果だろう。本部にも支部にも、世界中にカイ=キスクのシンパはいる。それにカイというわかりやすい旗頭はこれからもまだ世界を回していくのに必要だ。元老院は、カイにはまだ利用価値の方が多いと踏んだようだ。
「身の振り方には今後も十分気をつけろよ、坊や」
「お互いにな。ソル=バッドガイ捕獲への懸賞金は現在は解除されているが、お前は危ない橋を渡ることが多すぎる。いつまた高額賞金首にされるかわからないぞ」
「賞金稼ぎに説教とはな。俺は俺の好きに生きる。ギアは探し出して殺す。それだけだ」
「お前らしいな。では、私も私の正義に則り、公僕として働くことにしよう。そして私はギア対策本部の最高責任者でもある。お前がギアを追う限り、また、どこかで会うこともあるだろう。……その時は」
「あ? んだよ」
「本気で戦ってくれ、ソル」
カイが少年の首元にリボンタイを結びながらそう言った。まるで格好は付いていなかったが、エメラルド・ブルーの海は、真剣な眼差しでソル=バッドガイだけを見ていた。
「……またそれか。懲りねえ野郎だな、テメェも」
「いいだろう、別に。私はお前に一度も勝ったことがないんだ。悔しいし、勝ちたいし」
「ガキかよ」
「お前から見れば、私はいつまでも子供だろう。今回のでわかった。まさかお前が、私の十倍近く年を取っているとは思ってもみなかったし」
だからと言って坊や呼ばわりを許したわけではないけれど。カイが悪戯っぽく微笑む。そういう顔をするからガキなんだ、とは、口が裂けても言えなかった。
自分がカイ=キスクという青年を……もう少年ではなくなってしまった彼を、どう思っているのか、それを定義づけてしまうのは、きっと得策ではない。
「悔しいか? 坊や」
はぐらかすように問いかけると、カイは短い金の髪を揺らして楽しそうに微笑む。
「いや、別に。おまえがなんだろうと、私にとってソルは『ソル=バッドガイ』だ。それがわかったから、もう全然、どうってことない」
「強がりだな」
「お前こそ、本当はそうなんじゃないか?」
「さあな。ったく——ヘヴィだぜ」
少しくぐもった窓ガラスの向こうの、ロンドンの空を見上げた。
この日のロンドンは、珍しくとても綺麗に晴れ渡っていた。七年前にパリでよく見た陽射しのように暖かく、わけもなく、気分が良くなる。
カイとソルの私物が消え、がらんとした寂しい様相を取り戻した安宿の部屋を最後に一度だけ、点検を兼ねて見回した。忘れ物はどうやらなさそうだ。もうこの部屋に戻ってくることもないだろう。この部屋は、ロンドンでカイと過ごした数日間の思い出として、ソルの長い日々の中に埋没していくのだ。
「短い休戦協定だったな」
口から零れ出た声は思いの外優しくて、ソルは口にした後微妙に眉をしかめたが、幸運なことにカイはソルの百面相には気づかなかった。彼は少年の靴紐を結ぶのに精を出していて、それが終わった後、やっとソルに向き直る。その頃にはソルはいつもの仏頂面に戻っていた。
「たまには、いいんじゃないか。……ああ、そうだ。私は今、パリに住んでいるのだけれど」
それからカイは、思い出したように警察機構のケープに手を差し込んで、一枚の紙切れを取り出してソルに押しつけた。手のひらに収まるほどの堅めのの紙切れ……名刺だ。カイ=キスク、警察機構長官、ギア対策特別本部最高責任者。その下にアドレス。「なんだこれは」と言うと、「住所だ」というわかりきった返事。
「きちんと正面玄関から尋ねてくれれば、コーヒーぐらいは出せる。それからアップルパイも。練習しようかなと、思ったので」
「借家か? 前に住んでた騎士団寮は」
「とっくに解体されてしまったよ。意外と、何も知らないんだな。……なんだろう。少し嬉しい」
「ああ、そうかい。ま……気が向いたら、庭からでも入ってやるよ」
住所を一瞥すると肩を竦めてそんな気のない返事。どうせカイは忙しく仕事に飛び回っているから、急にふらりと立ち寄ったところで家を空けている確率の方がいくらも高い。だったら、勝手に中に入ってパリに立ち寄った時の安宿にするぐらいが精々だ。
そんなことを考えながら冗談めかして言うと、カイは予測していたのか、澄まし顔でぴしゃりと言い切った。
「私の防犯結界をかいくぐる手間を惜しむなら、どうか玄関のチャイムを鳴らしてくれ」
◇◆◇◆◇
「世界を滅ぼした気分、ですか。……最悪ですよ。本当に……最悪の気分だ」
彼が言った。かつてイギリスのさる女王がプロテスタントへの度の過ぎた迫害の末にブラッディ・メアリと呼ばれたように、「狂気の王」「血まみれの天使」と呼ばれるに至った青年は、しかし澄み渡った狂気の見えぬ瞳で、くたびれた声でそう言った。自らが描いた夢も理想も裏切り、魂に刻まれた使命に無理矢理反逆し、その果てにやっと世界を一つ殺した彼の最大の不幸は、あんなにじょうずにたくさんのものを殺したのに……自分の心だけは、最後までうまく殺せないことにあったのだ、と彼はもう気がついていた。いっそ心など無くしてしまえたら、気が狂ってしまって、楽だっただろうに。それさえも許されず、青年は——カイ=キスクは。
「ユノの天秤へ……預かるわ。あなたの魂、そしてそれに紐づけられた準アドミニストレータ・ID。最後に残った世界のカイ=キスクが、ちゃんと、この先へ進んで行けるように」
殺した。自分以外のたくさんのものを、悉くのものを、愛した全てのものを、殺した。今までに守ってきたものも全部殺した。
最後に浴びたのは、妻の血だった。
「ええ、よろしくお願いします。よければ……伝えてください。もし『あなた』が無様な姿を晒すことがあろうものなら……私は、化けて出るかもしれませんよ、と」
「覚えておくわ。情報プロテクトの制約に引っかかって伝えられなかったら、ごめんなさいね」
「気に病まないでください。『普通』なら、大方は引っかかるはずですから」
会話は社交辞令のように素っ気なく、彼が疲れ切っていることを如実に示している。カイ=キスクは疲れていた。生きることに、裏切ることに、殺すことに、息をすることに、涙を流すことに、血を流すことに、憑かれていた。からだじゅうの中身が全て出てしまうんじゃないかというくらいに涙も血も言葉も流したので、カイに殺されたものたちは、誰一人、彼を「血も涙もない鬼だ」とか、「悪魔め」とは、言わなかった。
その代わりに彼らはカイを天使と呼んだ。畏怖と憎悪と迫害の意を込めて。勿論そうでないものたちもいた——カイ=キスクという偶像を心底崇拝していたものたちは、神の心変わりを嘆いたり悲しんだりしたが、しかしカイ=キスクという神に殉じて御主の手で命を絶たれることを選んだ。
「イノさんが、最後は看取ってくれると、言っていたんです。あの人は因果律干渉体……この世の時空の理からは外れた存在でしょう? 一人でもそういう人がいてくれて、まだよかったのかなと今は思います。私の知るもの全てを殺すというのは……これは、思っていたよりも遙かにもっと、拷問でした。『ひとごろし』はこんなに得意だったのに」
「無理もないわ。あなたがずっと殺してきたのは、それでも『ギア』として定義されていたから、いつも誰かが正しいことをしたんだって囁いて、気が狂っていることを隠してくれた。けれど今回ばかりはそうもいかない」
「ええ。けれど……それでもディズィーだけは、私を、信じてくれましたから」
「だけど彼女も殺したのでしょう?」
「ディズィーは、彼女は……躊躇う私の手を握り、その手に封雷剣を……ギア殺しの最たるものを持たせ、『私だけ特別扱いは、今日は、だめですよ』と微笑み、それで。最期に私の名前を呼んでくれました。ふふ……私の愛した女性は、やはり、私よりよほど強かったですよ」
「……そう。たくさんあったのね」
つらいことが。そう口には出さなかったが、女の噤んだ言葉はカイに確かに伝わったようで、彼は痛ましい微笑を浮かべる。この確率事象に飛ばされて僅かに触れたデータによると、カイ=キスクはその身に与えられていた権能とその身に取り込んだ能力を全て使い果たし、わずか七日でこの世を滅ぼしたとのことだった。神様がこの世を創世したのと同じ時間で、かみさまのようにこの世を破滅させた。
カイの思想は大多数には理解されなかった。当然だろう、カイ本人でさえ、役割に理解は持っていたものの納得はしていなかったのだ。カイ=キスクを止めようと彼の前に立った既知のものたちは皆一様に彼に問うた。「そんな顔をしてまで、やりたいの。こんなことが」。「泣きそうな顔で駄々をこねないで」。「なんと酷い顔だ。鏡を見給え」。「それがテメェの理想かよ」。「お前さん、それが本当に、やりたかった事なのかい」。「後悔だけしてますって面ァしやがって。化け物なら化け物らしく泰然としてろ、クソッタレ」。
でもカイの退路は既にどこにもないのだ。カイには「ええ。これが私の、選べる最期の答えだったんです」と応えるしかなかった。そして彼らを自ら手に掛けるしか。そうしてやるのが礼儀で、慈悲だった。せめて苦しまぬように、カイは彼らのために己を削ることを厭わなかった。
「カイ! なんで……なんでこんな!」
「馬鹿野郎が!! テメェは、『人間』だろが。なんで……なんでだ、ああ、クソッ!!」
特別強く思い、愛したものたちもカイの前に立ちふさがった。昔であれば、もっとカイが子供で、自分のことをちっとも知らなくって、弱音を吐いても許される時だったら、それでカイは歩くことをやめられていただろう。その方が幸運だったのかもしれない。でも現実は無慈悲だ。そしてとても残酷だから、カイには彼らに止めてもらえるだけの弱さが、もう、なかった。
「けれどこれで世界は救われるんでしょう?」
カイが血の色をした瞳で問う。胸元に下がった十字架——形見として預かり直して、この数日間はそれをずっと下げていた——に手を添えて、とうめいな声で。壊れてしまいそうな魂を露出させて尋ねる。「クリフ様、こうしていれば、いずれ世界は、救われるのでしょうか」。十何年か昔にも彼は同じようなことを尋ねたことがあった。その時与えられた答えは、もう、この七日間のうちに忘れてしまったけれど。
「救われるわ。少なくとも机上の計算では、救われないと、困ることになっているわね」
彼女が示した答えは単純な肯定。慰めでも労りでもなく、科学者の空論。
「それでは、救ってください。必ず。世界と歴史を。私が手に掛けた無辜の魂を」
「私も『彼』もかみさまじゃないし、あなたほど万能でもないから、救えるぶんしか救えないわよ?」
「私が万能だったためしなんて一度もありません。本当に万能なら、こんな道を選ぶ必要もなく最初から最適解を選べたでしょう」
「出自がバックヤードのフラグメントじゃ、そうもいかない、か。……ねえねえ、でも私、思ったの。あのねえ……」
口調がまた幼い少女のものに揺り動き、エネルギーを供給し存在を安定させるためのロリポップキャンディを口に含む。しばらくもごもごと口の中で転がした後、彼女はそれをある程度のところで噛み砕いてそのまま飲み込んだ。改めて彼女という存在を見てみると、その瞳には輝きがあり、からだじゅう生気に満ちあふれ、つやつやした存在感を放つ彼女はどこまで行っても場違いだった。
彼女が手を大きく広げる。ふわふわした空気を振りまいて、屈託なく無邪気に投げかける。
「今ここにいる×××ちゃんがほんとに救いたいのって、実は、××××だけなんでしょ?」
驚くほど鋭利で容赦がなく、断罪的な言葉を。
「……ええ。そうだったのかも、しれませんね」
それに対するカイの答えは短く、自嘲に満ちていた。感情が僅かに揺らぎ、それを示すかのように背中に生えた羽が身じろぎする。ものごとが終わりを迎え出した頃から、カイの背にはもうずっとこの羽が生えたままの状態だった。仕舞いたくても消えないこの羽は「ギアの力」なのか「バックヤードの力」なのかうまく判別が出来なかったが、人々がそれでも殺戮者と化したカイを天使と呼んだその一因であった。
「あれれ……もしかしてー、聞いちゃダメだった?」
「いえ、気にしないで。それで……これでもう、私の役割は終わり、でしょうか? あなたも。あまり長くここに留まるのは危険です。私の見立てでは、崩壊は既に始まっていますから」
「だいじょーぶ! 今イノちゃんから連絡、きたから。だから……最後にお別れの挨拶、するね。それが私のもう一個のおしごとなの」
「なるほど。イノさんが用意した私の処刑人は、あなたでしたか」
「そういうこと、かな? ごめんね……じゃあね、おやすみ。バイバイ、——×××ちゃん!!」
「トリックオアトリート!」という宣告と同時に彼女の右腕が高らかに掲げられ、小さな丸い「家」がぽんぽんとその場に現れる。家の戸が開くとその中からまた、小さな丸っこい人形たちが飛び出してきた。彼らは主の命に従い、カイに飛びかかる。カイは抵抗をしなかった。抵抗をする意志もなかったし、どのみち抗っても無駄だ。バックヤードIDは既にカイの元を離れている。今のカイはID的には名残で羽が生えているだけの、ただの人間なのだ。
彼女の体が空高く飛び上がり、すぐに巨大なアイアンメイデンを抱えて落下してくる。アイアンメイデンの中にその身を取り込まれ、カイは瞳を閉じた。
もうすぐ命が終わる。それを察した時、カイはそばに寄り添うものの存在に気がついて手を伸ばし、微笑みと共に頷いて見せる。
「ええ。終わりにしましょう、ディズィー」
カイ=キスクの体を鉄処女のとげが抱擁するのと同時に、彼の魂を少女ギアの魂が包んだ。肉体をとげが突き刺し、引き裂いてずたずたにする。同時に心があたたかいものに触れ、潰れた目の奥底に少女が映り込む。
「ああ、これで、ようやく……そこへ行けるのですね。神よ、私はもう、あなたの御許へゆくことは許されないでしょう。ですから、せめて。……私を救ってくれた、私の死神の眠る地へ……妻と共に墜ちること……どうか……お許しを……」
末期の祈りを聞いたのは、はたして誰だったのか。
その時カイ=キスクは彼の生涯における最期の夢を見た。それは彼の青春の記憶だった。彼が愛した男と出会い、ロンドンで過ごしたたった数日間の日々のこと。その最中で出会った因果律干渉体の青年と、彼が教えてくれたいつか出会う少女のこと……
(そうか、アクセルは、あの時もう知っていたのか。私が……ディズィーと出会って……家族を得る、そのことを)
あの時彼はカイを人間だと言った。そして正義に正直だったとも言い、家族みんなで笑い合って……後悔している姿は、見なかった、とも。
(ふ……ふふ……そういう……そういう、こと、なんですね)
世界を破滅させたカイ=キスクは決して自らの正義に正直だったとは言い難い。それに、家族と笑い合っていた、ともあまり言い切れる自信がない。息子のシンには、結局カイは許してもらえなかった。受け入れてもらう時間も切っ掛けもなく、世界は終わる。
(あのアクセルは、彼は……私ではない『わたし』と出会っていたんだ)
その事実は、カイの魂を妻の魂と共にこの上なく慰めた。ひとつの世界が終わっても、歴史は途切れることなく続いていき、未来へ繋がっている。ここではないどこかで、「わたしではないだれか」が、正義に正直に生きて、家族を慈しんでいる。
カイはゆるりとまぶたを閉じた。これでもう、終わってもいい。「わたし」が終わっても、「私」は大丈夫だ。それが今、はっきりと、わかったのだ。
——そうしてカイ=キスクの命は幸せな夢の中で終わる。
消えるはずのなかった世界もまた彼を道連れにし、その役割を果たしてやがて死ぬ。
あとには何も、残らない。
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