008:次にわたしたちがあうときは
「失礼ですが、あなたを迎えに来ました」
彼が手を差し伸べた。少女はそれが怖くて、恐ろしくて、身構える。人間は好き。でも、一緒にはいたくない。少女が怖がっているのは、自分の力が人間を傷つけてしまうことだった。今までにも、何人か、傷つけてしまった。そして目の前の青年も恐らくは……そうしてしまう。
嫌だ。もう、そんなのは、たくさん。だからひっそりと生きていたいのに。
「どうして……放っておいてくれないんですか?」
少女は伏し目がちに、振り絞るようにそう言った。懇願しているのに近かった。お願い、来ないで、と我が身を抱きしめ、首を振る。
「あなたには大きな力がある」
けれど青年は少女の懇願を聞き入れなかった。彼もまた首を横に短く振ると、やはり手は差し伸べたまま、優しい声でそう言った。
「こんな力……欲しくなかったのに」
「同情はします。けれど、放ってはおけません」
「……どうしてですか! そうすれば、みんな平和でいられるのに!」
青年に引く気配はない。少女は顔を上げ、今度はか細い声から一転して、激情したように叫ぶ。背の羽が広がる。悪魔を象った翼と聖女を象った翼が、本体たる少女の感情の起伏に従ってうなり声を上げる。
やはり、だ。青年は手を引き、そのまま下げていた剣を抜いた。彼女はギアの力を抑制出来ていないのだ。自分自身の力を畏れ、けれどその意味も知らず、使い方もわからず、ただ闇雲に拒んでいるばかり。
「あなたは知らなければならない。……力を持つことの意味を!」
神器封雷剣を構えて異形の姿を現す少女に青年は対峙した。大丈夫だ。きっと彼女は、自らの力と向き合い、生きていける。彼の中には確信があった。彼の胸元のロザリオが跳躍に合わせて揺れる。その十字架の奥に、いつだったか聞いた言葉を思い出し——青年、カイ=キスクは剣の先に雷を宿らせた。
次に目を見開いたのは、どこかの屋根の下だった。ぱちりと開いた眼であたりを見回すと、どうやら質素な小屋の片隅、のようである。カイはベッドに横たえられ、清潔なシーツと、毛布にくるまれていた。壁際に制服とコートがハンガーに掛けて吊されている。そこでよくよく確かめてみると、カイはいつも制服の下に着ている肩を出したシャツと、それからズボンを残して衣服を脱がされているようだった。
「あの……目が、醒めたんです、か?」
カイが目覚めたことに気がつき、少女が寄ってくる。彼女は既に戦闘態勢を解いており、羽は小さめに折りたたまれて修道女のような長いワンピースに身を包んで躊躇いがちにカイの方を見ていた。カイは記憶を手繰り寄せる。自分は確か、そうだ……彼女の暴走しようとしていた力を止めようと剣を抜き、そして……
「あの、怪我が……すごかったので。一応、手当はしたんです。ごめんなさい……その傷も全部、私が……」
……負けたのだった。
並のギアとは桁違いの戦闘能力を持っている彼女に対し、単身で、しかも殺すわけにはいかないという状態で挑んだのはやはり無謀だったのか。カイはこてんぱてんにのされ、思い違いでなければかなり危ういところまで行った、と思う。彼女は過剰な防衛本能でカイを殺しそうになりながら、ごめんなさい、ごめんなさいと泣き叫んでいた。それが記憶している最後だ。
しかし今目の前で包帯を手にしている彼女は既に落ち着いており、またしばらくは、感情が昂ぶって暴走するということもなさそうだ。カイは「ありがとうございます」とにこやかに礼を述べ、続けて、思い当たった一つの可能性について彼女に問いかける。
「……私が気を失ったあと、赤いヘッドギアの男がここへ来たんですね?」
「え……ええ。そうです。その人が……私を止めてくれました。それで、見逃して、くれて。死にたがりのギアなんて知らないって……」
「あの男らしい。不器用だけど優しいんです、あいつは」
やはり、そうか。それを確かめて、カイは起き上がりベッドから降りようとした。軽症とは言い難いが幸いにも身体の痛みはさほどではない。目の前の少女は自身が持つ有り余る能力を制御出来ていなかったから、恐らくソルがカイの身体にも何らかの処置を施して行ってくれたのだろう。彼の治療は大雑把だが、瀕死の人間をギリギリ生の方向へ引きずる技能にかけては、一級品だ。
もしここでカイが死んでしまったら、彼女はますます自分の力を恐れてこの森から出て行こうとしなかったに違いない。ソルの心遣いに素直に感謝して心臓のあたりに手を当て、鼓動を確かめていると、彼女がおずおずと口を開いた。
「お知り合い……なんですか?」
「ええ、まあ、腐れ縁です。あの男には助けられたり、背を預け合ったり……時折、小さく諍いもしたり。でも……良かった。これで今度は、あなたに私の話を聞いていただけそうだ」
ベッドサイドのテーブルとそこに備えてある椅子に腰を下ろした少女が、少し身構えるようにして「話、ですか」とカイの言葉を反芻した。カイはそれに頷く。
彼女には確かに法外な懸賞金がかけられており、実際そうされても仕方ないぐらいに強大な力を持っている。そしてカイはかつて聖戦の最前線にて数えきれぬほどのギアを屠り殺してきた聖騎士団の元団長。その表面的な肩書きばかりをなぞれば、カイは死力を尽くしても彼女を殺すべきなのだろう。何しろ彼女にかけられた手配は「DEAD OR ALIVE」。最悪、肉片になったとしても構わない。それが当局の出した内容だ。
けれども、彼女には心がある。人を傷つけたくない、この誰かを殺めてしまう力が嫌で……平穏無事に暮らしたいと願うやさしい心が。そんな優しい心を持つ少女を、ただギアの力をひいているというだけで殺していい理由がどこにあろうか? カイは既に聖戦当時の、ただただギアというだけで殺戮していた時から考えを違えている。ギアを狩るギアの男という存在を受け入れ、彼の正義とは、最早闇雲にギアを殺すなどというものではない。
立ち上がったカイは今一度彼女に手を差し伸べた。今、ソルとの邂逅で彼女は力を持つことの意味の一歩を知った。では、次はその先だ。第二歩を踏み出すその手助けを、せめて自分はしてやりたい。
「さあ、立ってください。外の世界があなたを待っています」
彼女は目を瞬かせ、たじろいだ。彼女はカイが最初のように手を差し出したことに戸惑いを隠しきれずにいた。自分の力で暴力的にのされ、傷ついた人間が、それにも関わらず罵倒や憎悪ではなく手を差し出してくることが、理解出来ていないようだった。
その姿にかつての己を重ね、カイは微笑む。この少女は本当に心優しい。心優しいからこそ人間が力を持つものに対して抱く畏れを想像し、人を拒む。けれど……カイは思うのだ。その想像力があるからこそ、少女はもっと世界を知っていけるはず。カイが聖騎士団に引き取られ、色々な人達に教えられ、知っていったように……彼女もまた変わることが出来る。
「どうして……なんですか?」
「たとえ望んだ力でなくても、人は自分の力には責任を持たなければならない。あなたは逃げるのではなく、自分がどんな人間なのかを伝えなければならない。……それが人として生きるということです」
「でも……私が外に出ると迷惑がかかります」
「知らなかったんですか? 人は生きるために迷惑をかけていいんです」
誰にも迷惑をかけずに生きていける人間はいない。人は生きるために他者と関わり続けねばならず、その際に衝突が絶対に生じないなんてことはまずあり得ない。だから彼女も、誰かに甘えたっていいのだ。
そう伝えると、彼女がそこではじめて、カイの手を握り返してきてくれた。彼女の手は温かかった。人の温もりのある優しい手だった。
「私……知りませんでした。……温かい、ですね」
「あなたも。……人と暮らすと、いいこともあるでしょう?」
「そう、みたいです。人として暮らすこと……か。私に……それを教えていただけますか?」
「ええ、勿論。そのために私はここへ来たのですから」
少女の瞳がカイを見る。透き通った紅。ギアの証とも言える色だが、性質の違いを示しでもするかのように、他のギアや……ソルのそれとは色味が異なっている。テスタメントはもっと血のような色をしているし、ソルの色は赤茶色だ。彼女の瞳はサルビアの色をしている。愛らしく、美しい。
つい、見入っていると、彼女が「あの……私の顔に何か……?」と上目使いに尋ねてくる。カイは慌てて首を横に振った。彼女の純粋さに助けられたが、じろじろ見てしまうなんて……不躾だ。平素のカイならそんなことは絶対にしないのに。
「そういえば、名前……まだ聞いていませんでした。私はディズィー。……あなたは?」
「カイです。カイ=キスク、国際警察機構の長官を務めています。よろしければ、以後、お見知りおきを」
「はい。よろしくお願いします」
互いに名乗ったことで警戒が緩んだのか、ようやくディズィーが微笑んだ。
花が咲いたみたいな笑顔だ。
◇◆◇◆◇
「ジョニー、ジョーニィー、ねえちょっと、大変なんだってばディズィーが……あー! 噂をすれば本人!」
「こんにちは、メイさん。お邪魔しています」
「あそっか、ディズィーを送って一緒に船に乗って来てたんだ」
「ええ。私は、先に彼と話をした方が良いかと思ったので」
この船、本来は男子禁制ですし。そう冗談めかして青年が言うと、黒コートの男が「まァ、何事にも例外ってのは、つきもんよ」と飄々として肩を竦めた。
ジェリーフィッシュ快賊団の長であるジョニーと警察機構のトップであるカイの間には、対外的な「警察とお尋ね者」という関係性を超えた有る一つの協力関係が築かれている。その中核であり、切っ掛けともなった最たる存在がディズィーだ。ハーフギアの少女である彼女を、世間的に「死んだ」ことにしようと決めたカイがまず最初に協力を仰いだのが、独立浮遊国家であるツェップと、そしてこのジェリーフィッシュ快賊団だった。
カイは確かに警察機構のトップという地位を持っているが、しかし対外的に見ると動かせる権力はそう多くないのが実情だ。警察機構の上には元老院が構えており、常時あらゆる干渉を仕掛けられていると言っても過言ではない。所詮雇われ中間管理職であるカイは、A国をはじめとした各国家に対して「例の賞金首は死にました」という根回しをするのに十分な力を持っているとは言い難いのだ。
一方でディズィーを預かることになったジョニーはどこの国や公的組織にも所属していないが故の自由さと各種パイプラインを豊富に持っている。義賊である彼は人情深く、性格的に信頼も置ける。聞けばディズィーの守護者を買って出ていたテスタメントも彼とは後に親交を持つようになったのだという。ディズィーの「父親役」として、彼は願ってもない人物だった。
「それで本当なの、ディズィーが船を降りるって」
メイがジョニーに駆け寄って、上目遣いに尋ねる。彼女はディズィーを姉妹のように思っており、船員の中でも一番彼女と親しかった。彼女の決断を応援したい気持ちとは別に、引き留めたい思いもあるのだろう。ジョニーはそれを汲んでか、「まあ〜ねェ」と軽く首を振り、彼女の肩に手を置いた。
「あの子がそれを望んでるってんなら、引き留める理由もない。まそうさね、カイなら悪いようにはしないだろうさ」
「そうだけど……」
「家族の船出だ、手を振って見送ってやりな。尤も……その前に俺は一つやることがあるがね……」
「えっ? なになに?」
メイを後ろ手に制し、ジョニーが改めてカイに向き直る。これは、「来る」。カイは彼の気配の変化を察知して身構えた。ジョニーは女好きを自称して憚らず、「全人類の半分に必要とされる」とまで自らを言い切る男だ。だがその一方で団員たちのことは家族として扱い、一切、手を出すことはしないのだという。ディズィーを彼に預けた理由の一端にそれがあったのは確かだが、しかしそれは裏返せば……ディズィーもまた、彼の「家族」の一人として大切に扱われているということだ。
「『父親』として、まさか『娘』をタダでやるわけにはいかないだろう。アンタのことは信用してるが、それとこれとは別ってな。軽くお手並み拝見と行こうじゃないの」
「あ、ああ……やっぱりそうなるんですね……」
ジョニーが刀の柄に手を掛けたのを見て、カイもまた封雷剣を構えた。この後、ディズィーがそう望んでいるのでテスタメントにも挨拶をしようという話になっているのだが……果たして自分は生きて帰れるのだろうか? ちらりとそんな思考が脳裏を掠めてカイは慌てて首を振った。この程度を乗り越えられないのならば、自分にその資格がなかったということ。
「ちょ、ちょっと〜! やるんなら、甲板出てやってよね、ジョニー!!」
二人が構えたのを見て、メイが慌てて叫んだ。ジョニーは「あ、そうね、わかってるよ」と彼女をあやすように返事をするとカイを甲板へ誘った。
手合わせは思ったよりも長引いた。最初はメイだけが間に立って審判をしていたのが、次第にぞろぞろと船員たちが集まり、そのうちに当のディズィー本人もやってきてギャラリーが大所帯になったことでジョニーも気が乗ってきたのか、彼は非常に気分良さげにカイとの試合を楽しんでいた。
一方でカイの方はというと、ディズィーが出てきたことでますます無様な姿は晒せなくなり、これがなかなか苦戦した。いくら殺す気で来ているわけではないといってもジョニーは居合いの達人。手を抜いて相手が務まる男ではない。
結果はそこそこの善戦。「よーし、許した!」と彼の口から口笛と共に「お許し」が出た時には、文字通りほっと胸をなで下ろしたものだった。
「そっか……ディズィー、ホントに行っちゃうんだ……」
「お引っ越し、するだけですから。また遊びに来ます」
「うー、寂しいなあ……。でも……ディズィーが決めたことだもんね。ボクのわがままで困らせるわけにも、いかないか」
メイが半ば涙ぐみながらディズィーとの別れを惜しんでいる。近頃カイの家へ通う頻度が上がり、その時間も長くなっていたとはいえ、それでも彼女はここへ帰ってくるという前提があった。それももうなくなってしまうのだ。メイが寂しがるのは尤もだった。
カイはジョニーと並んでその様を遠巻きに眺めている。すると、ふと思い立ったように手を叩いて、ジョニーが藪から棒にはっきりとした声でわざとらしく口を開いた。
「そんでお前さんたち、どこまで進んでるわけ? 孫の顔は早めに見せてちょうだいよ」
「ジョニーさん?!」
「い、いきなり何を言い出すんですか貴方は!!」
「まっ……孫?! ちょっとジョニーそれどういうこと?! ディ、ディズィーが……ディズィーが遠くに行っちゃう〜!!」
たった今、彼女が遠く……カイの住まうパリへ引っ越すことを了承したばかりじゃないかという野暮な突っ込みはひとまず置いておいてジョニーはサングラスの下でにやりと目を細める。グッと親指を突き出し、赤面して慌てるディズィーとカイにウインクをする。
「ん? 何って、俺様は元々反対してなかったからね。ディズィーにそれとなく聞いてみてもそれらしい返事がなかなか返って来なかったもんだから、あのお坊ちゃんが手を出せるはずもなかったかなんて、多少がっくりしたことはあったがね」
「お坊……ま、まさかそれでですか?! ディズィーさんに『ふつつかものですが』とか、私に言うように仕向けたの!!」
「そんなこともしたっけねえ……」
「あ、そうでした。そういえばその時、カイさんに『使い方が間違ってる』って言われたんです。ジョニーさん、本当はあの言葉、どういう時に使うものだったんですか?」
「ん〜? いーや、結局のところお前さんが言った言葉はなーんの間違いもなかったのさ。あれでいいの」
そして豪快に笑う。ジョニーがどうあってもはぐらかすつもりだと感じたディズィーは素直に質問の相手をカイに変え、「ねえ、カイさん、どうなんでしょう」と困ったように尋ね返した。
甲板に女性クルーたちがずらりと並んでいるこの状況でその質問に答えねばならないのは、カイにとってはなかなかに厳しいものがある。しかし真剣な顔で尋ねてくるディズィーを無碍にすることなど、カイには出来ようはずはない。彼は三秒ばかり逡巡した後、覚悟を決めて大きく深呼吸をした。そして彼女の腰に手を回し、そのまま両手で腰の高さまで持ち上げてみせる。
「それは……女性が嫁入りに際して、言う言葉なんです。ちょうど……今のディズィーさんのように。でも、今、改めて言う必要はありませんよ。私はもう、貴方がまったくもって至らぬ女性などではないということを、十分すぎるぐらい、知っていますから」
抱きかかえられた体勢のまま、ディズィーが頬をかあっと染める。甲板にクルーたちの黄色い声が響き渡った。この船を取り仕切る長である男も、「今日だけは主役を譲ってやるぜ」と満足そうに腕組みをして二人を祝福する。
そして間もなく、カイ=キスクとディズィーは結婚した。ディズィーには籍がないために内縁の妻を娶るという形にはなったが、カイはディズィーただ一人を愛し、そしてすぐに息子までを授かった。
彼らは幸せになれるはずだった。人々に祝福され、時には様々な困難に見舞われながらも協力してそれを乗り越えて生きていけるはずだった。
カイ=キスクが「天使」でさえなければ。
彼が、バックヤードに紐づけられた「完全なる世界の秩序」でさえなかったならば。
……それが「この世界最後の七日間」が訪れる五年前のことだ。
◇◆◇◆◇
「少し、昔を思い出していました」
どうかしましたか、という夫の問いかけに振り返ってギアの少女が言った。まともな人間が見れば、「どうかしていない方がおかしい」状況の上に彼らは立っていたが、彼女の答えはそのことではなく彼女自身の思案の内にあったらしい。昔ですか、と夫が言えばそうです、と首を縦に振る。彼女は下腹部に手を這わせ、柔らかく撫でると、微笑んだ。まるで今しがたに最後の都市バビロンを跡形もなく消し去った当の本人だとは信じられないぐらいに綺麗な笑顔だった。
「私たちが魔の森で出逢った日のこと……それに、結婚の報告をジョニーさんにしに行った時のこと。あの時のカイさん、かわいかったな。あんなふうに楽しそうなカイさんは……なかなか、見られませんでしたから」
「そ、それは……だって、あんまり情けない姿は見せたくないじゃないですか。貴方には……」
「ふふ、知ってますよ。でも私、どんなカイさんでも、大好き。シンにも……本当は、知って欲しかった。貴方のことを……もっと、ちゃんと」
「ディズィー……」
「あの、でも勘違いしないで欲しいんです。私はカイさんと結婚してから、後悔をしたことは一度もありません。今も。これからも、ずっとそれは変わりませんよ」
彼女はやはり微笑んだままだった。口調は確からしく、それがまったくもって嘘偽りのない言葉なのだとカイに伝えてきている。耐えきれず、彼女を腕の中に抱き寄せた。カイの身体は今や汚れていないところがないというぐらいに血にまみれていたが、ディズィーはそれを気にせず彼の抱擁を受ける。彼女も既に血だらけだった。少し前に新しく彼にしつらえてもらった服も、可愛らしくて気に入っていたのだけれど、今はもう元の色がなんだったのかわからないぐらいにどす黒い。
「私、カイさんと出会えて幸せでした」
「ディズィー、いいんです、貴方は私を罵り……憎悪し……呪って当然だ」
「出来ません。結婚した時からずっと決めていました。私だけはカイさんの味方でいようって。あの時私に手を差し伸べてきてくれたあなたを、世界中の全てが敵になっても、信じて一緒にいようって」
「そのために……そのために、貴方は自分の心を裏切って、あんなに誰かを傷つけることが嫌いだったのに!」
「はい。私の力で誰かが傷つく姿は、出来れば、見たくないです。でもそれ以上に……カイさんを、一人に、したくなかった」
わたし、わがままですね。彼女の言葉がカイの心臓に落ちていく。だけどジョニーさんや、メイさんが言っていました。女の子は、一つぐらい、わがままでいいんだって。
「私を選んでくれたのが、カイさんでよかった」
「ええ」
「シンが生まれてきてくれた時は、何よりも嬉しかった」
「私もです」
「だから、苦しまないで。私の気持ちは、ずっとカイさんと一緒ですから」
「けれどディズィー、」
「ずっと一緒です。さあ、カイさん。手を——とって」
ディズィーの左手がカイの右手を持ち上げ、彼女の右手に握られていた封雷剣を持たせる。この世に残った最後の神器。封炎剣もその使い手も亡き今、世界に存在する中で最も強きギア殺しの刃。そして世界で一番たくさんのギアと人の血を吸った凶器。カイ=キスクという「天使」の「狂気」が剣のかたちをしたようなそれを、ディズィーは彼の利き腕に握らせる。
「やめてください」
カイは震える声で彼女の手を押し戻そうとしたが、叶わなかった。彼女の細腕のどこからこんな力が出ているのかというほど強い力でそれが拒まれている。
「出来ません。わたしには」
それでいよいよ、カイの声は情けなくも怯えを露呈させた。必要があれば何でも殺せると思っていた。ギアも、人の形をしたギアも、人そのものも、必要だったから今日までにたくさん殺せた。この瞬間まで一度も震えは起きなかったし、躊躇うこともなかった。例外になりかけたたった二人も……カイが愛した男は躊躇する時間を与えてはくれなかったし、息子は、ずるい逃げ方だとは思ったが、つらい思いをさせる前に母親の胎内へ還元した。
「だめです。私だけ特別扱いは、今日は……だめですよ、カイさん」
だけど最後に一つだけ、と彼女が言う。小鳥が歌うように、さえずるみたいに謳う。封雷剣の鈍い刀身にふたりの瞳が映り込んだ。ディズィーのサルビアの赤とカイの鮮血の紅が銀色の中に溶け、交差し、交わる。
「私たちが……『罪ありきGEAR』なのだとしたら、それを定めたのは、誰なんでしょう? ううん……違う、かな。カイさんが……カイさんがこんな結末を選ばなければいけないように世界を創ったのは……だれ? 『慈悲なき啓示』? それとも……」
「……わかりません。ある人は、神の如き力を持った、森羅万象なのだと言いました。けれど本当のことは誰も知らないんです。一つだけ確かなことがあるとすれば……それは、この結末を選び取ったのは真実私自身であり、それ以外の何者でもないということ」
カイの瞳が涙で潤む。血の涙を流すみたいに、あかい瞳から水が流れる。人のかたちを真似て造られた秩序が、世界の理が天より遣わしたものが誰より人間らしく心を慟哭させている。ディズィーは思う。このひとは確かに、人ではないものとしてこの世に生み堕とされたのかもしれない。けれどそれは、本当に人間ではないことの証なのだろうか。人間か、人間じゃないかは、人という種族として生まれたか否かだけで決定されるのだろうか?
「愛しています、ディズィー」
彼女はそれを、違う、と思う。
だから封雷剣を握らせた彼の手を思い切り自分に向けて突き立てさせた。
ディズィーにとって、カイは人間だ。誰がどんな意図でどのような形に創造したかなんて全く関わりなく、ディズィーが愛したカイ=キスクという男は、人間だった。紛れもなく。どこまでも確かに。たとえいつ、どのような世界でも、彼の正体が人であろうとギアであろうと天使であろうと関係ない。
だから彼は少女を愛せた。
(……次に私たちが出逢う世界では)
そして人であったからこそ、彼は世界を滅ぼさなければならない。
(今度こそ、あなたが本当の幸せを手に入れられますように)
いつかどこかの世界で、カイ=キスクが人として未来を歩んでいくために。
血飛沫が上がった。結果的にこの世界で最も多くの人間を殺したギアとなった少女の血は、彼女が愛しそして皆殺しにした、人間と全く同じ色をしていた。
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