009:やさしくてずるいあなたのことを
「カイさんのこと……お父さんって、呼んであげなよ」
きっと喜ぶよ、とウエディングドレスの少女が言う。少年はそれに同意しかねるというふうに首を傾げた。確かに彼はもう父親のことを見直していたけれど、でもなんだか今更そんなふうに口にするのは、ちょっと恥ずかしい気がしたのだ。
父親に殺されたことも、母親に殺されたことも、養父に殺されたことも、生まれる前に死んだことも、人間に殺されたことも、ギアに殺されたことも、啓示に殺されたことも、ヴァレンタインに殺されたことも、父母が出逢う可能性を奪われて存在する前に消されたこともない、その少年は人ならざる少女に諭されて困ったように笑った。そして至って平穏無事な顔で頭を掻く。
彼は知らないのだ。こうやって二人が言葉を交わすような確率事象に至るまで——一体いくつの世界が壊れ、潰え、終わり、死んでいったのかを。
この奇跡の世界を支える最も大きな礎となった、「棄却されるはずのなかった」一番最後の世界がどうやって滅んだのか、「わたしではないだれか」の辿った末路も、それを彼は永久に知ることはない。
全ては終わった歴史だからだ。
知られざる物語は、人知れず抹消されることで初めてその役割を全うするに至るのだから。
◇◆◇◆◇
これまでに世界は幾度か大きな「棄却」を受けてきていた。バックヤードが演算する無数の世界の可能性を、自然採択に任せず人為的に選別し直した瞬間が何度かあった。
たとえばその一つが一九九九年の「再起の日」。これにより法力が世界にもたらされ、アクセル=ロウが生きていた世界は「あるべき世界」から「あり得た世界」へと棄却されて消えた。幸か不幸かアクセルの識別IDは後に聖戦によって生まれたイノの固有IDと「本当にどうしようもない馬鹿げた奇跡の確率」で重複し、消滅を免れた代わりに過去も未来も失った暫定生命となってしまう。
そして最も大きな再選択が、「史上最悪の七日間」を経て決定された「絶対確定世界の棄却」だ。
この世界を存続させるための秩序として生み出されたカイ=キスクを、彼自身に傷つけさせることで分岐を強制的に決定付けている魂の資質を損なわせる。これにより「カイ=キスクが秩序として生まれない世界」への分岐が開かれ、閉ざされていた「人類が滅亡しない」未来へ進める可能性が提示されるはず。それが明日を生きるためにイノが提唱した仮説。
バックヤードという「天」より遣わされた秩序だったカイ=キスクはイノの提案を呑んだ。というより、呑まざるを得なかった。彼女に見せられたバビロンの有様がカイにそれを決意させる。
そうしてカイは自らが生きて来た世界を棄却させるために行動を起こし始め、彼が最も恐れていた事態に直面した。
予期されていた事態の発生は、彼が全世界に発布した「懺悔」の数日後に起こった。死体があちらこちらに散乱するイリュリア城内の第一司令室にて全世界のギア細胞を持つものへの司令塔役をこなしていた彼は一時的にそれを中断し、扉の方へ向き直る。
激しい銃声とそれを遮るような罵倒、棒か何かが空を裂く激しい音が響く。程なくしてそれらがぴたりと鳴り止むと、司令室の戸が猛烈な勢いで蹴破られ、彼が姿を現した。
「……扉は手で開けなさいと、あなたが三ヶ月の頃にそう教えたはずですが」
「今更父親面してんじゃねえ! くそが……テメェ、この期に及んでここを人間に守らせやがって。性根が腐ってんじゃねえか……?!」
「彼らが望んだことです。私は、出来れば彼らのことは優先して、辛い思いをさせる前に楽にしてやるつもりでした。しかしそうすることが忠義だと彼らは言うので……とはいえ、私に従ってくれるような酔狂な『人間』は、もう彼らが最後でした。あなたが殺したのですよ、……シン」
「もう、黙れ! 殺してんのは……テメェだろうが……!!」
シンが叫んだ。カイの言葉は、まったく、全てへの侮辱としてシンには受け取られた。聖騎士団時代からカイをこの上なく信奉し、カイが世界を裏切った後それでもなお着いてくると誓った騎士たち、その最後の生き残りを殺すという選択をシンとて簡単に決められたわけではない。自分の身に流れる力を人殺しに使うのなんて本当はごめんだ。でも、そうするしかなかった。そうしないと、この先もっと沢山の人間が死んでしまう。
「——カイッ!! テメェ……テメェは、それだけはしねえと、思ってたのによ……!!」
シンの声は怒りに満ちていた。彼はどうしようもなく憤っていたし、憤怒の炎は実父の態度でますます焚き付けられ大きくなるばかりだ。
シンが殺した騎士たちは、最後にこう言った。
『我々はカイ様を止められなかった。けれどもし出来るのならば、あなたが、きっと』
彼らはそれでもカイを信じていたのだ。なのにこのカイの態度は、これはまるで……彼らの恩を仇で返すかのようではないか。
「もう、口で言っても無駄、だな。オレはテメェを止めるぜ。差し違えて——ぶっ殺してでもだ……!!」
愛用の旗を構え、剣を抜く気配さえ見せないカイを睨みつける。まったく舐められたものだ。この男は、「シン程度」、武器を持つ必要もない相手だと暗に言っているのだ。
だったら、目にもの見せてやるよ。そう胸中で呟いてシンは決して外すなと養父にきつく言い含められていた眼帯を初めて自分の意志で投げ捨てた。その下から出てきたのは、ギアの証とも言うべき紅の瞳。それもただ紅いだけじゃない——彼の母がその身に宿した両翼のように、圧縮されたギアの本能と能力の依り代となっている魔眼だ。
この目が、シンは好きじゃなかった。これは母との繋がりの証でもあったが、それ以上に異形の証明であり、また同時にシンの最大の禁忌であった。
でも今はそれ以上に、シンは母や養父が好んだ海色をした左目が大嫌いだ。
この瞳はカイから移植されたものなのに、そいつを倒すためにこの力を借りねばならない。
それに何より——このきれいな海色をくれたはずのカイの瞳が、今はもうちっとも、ぜんぜん、これっぽっちも……青くないのだ。
シン=キスクが、父親の性質が変貌したことに気がついたのは昨日のことだった。
父親のことはずっと嫌いだった。まるで厄介払いをするみたいに幼いうちに養父に息子を預け、その上滅多に顧みようとしなかった。いや、養父との連絡はたまに取っていたのは知っている。他人に束縛されるのを嫌う養父が法力制御の通信装置を一応手荷物に混ぜていたのは、気が向いた時に通信を拾ってやるためで、シンはあの装置が、カイ以外の相手との通信に使われていたところを見たことがない。
一体どうして、あんな最低な野郎の頼みを聞いて養父は自分を育ててくれているんだろう? シンは最初のうち、本当にそれが理解出来なかった。養父が時折話して聞かせたカイへのフォローと、その中にある情のようなもの、それが全て嘘偽りのないものなのだと気がついたのが四歳の頃。そのあたりから、ようやく、理屈ではわかりはじめてきていた。けれど気持ちは、全然それについてきてはいなかった。
シンが鮮明に覚えているのは、いつも伏し目がちで自分や母と目を合わせようともしない父の姿。そして、そんな父にそれでも尽くし、辛そうな顔で父の弁明をする母の姿……。そんなものばかりだ。
どうして、父は見たこともない他人の方が大事なのか。自分や母は、家族でも、臣民でもないのか? ——シン=キスクは、何なのか?
その答えを父はまだくれていない。でもいつかは、本気でぶつかり合って、納得出来る日が来るはずだとそれでもシンは漠然と信じていた。父への反発は、嫌悪に近かったが、決して憎悪ではなかった。
そのはずだったのだ。
「……テメェの言うことは、いつも『ごもっとも』だった。理想ばっか高くて胡散臭かったけど、間違ったことは、言っちゃいない、と思ってた。なのに……なんだよ、あれ。イリュリア連王国の第一連王様ともなれば、あんな傲慢もあとでちょっと『ごめんなさい』とかテキトーに言うだけで、許されんのか?! なあ!!」
「許されはしないでしょうね。それは既に、人々の混乱と阿鼻叫喚が証明しています。私は最初から誰にも許されるつもりはありません。そのつもりで、事を運んでいます。シンにも、ソルにも、ディズィーにも。私は誰からも謗られて当然の手段に手を染めている真っ最中ですからね」
「なに、冷静ぶってんだよ。悪いと思ってんなら……やめろよ……今からでも……」
「出来ません。……ごめんなさい、シン。一つぐらい、あなたの願いを叶えてあげたかった。でも無理なんです。私も、人間だったなら……」
けれど今シンの胸中を渦巻いて支配する感情は紛れもない憎悪だ。おきれいな顔をしたまま世界の全てを平然と裏切ったこの男が父親だというのが心底憎たらしい。信じられなかった。一番最悪だったのが、こんなことになって初めて、それでも今までは自分も父を信じていたのかと気付かされたことだった。
「やめましょう」
父が言った。首を横に振って、「もう今更、どうにもならないことです」と人間みたいな顔をして言った。その表情にカイの「懺悔」の様子がまた思い出され、旗の柄を握る手に痛いほど力が籠もる。
『全世界の皆さん。私は、今から取り返しのつかないことをはじめます。あなた方は決してそれを許さないでしょうし、私を力の限り憎むでしょう。けれど私はこれから述べることを最後まで遂行します。ですから、どうか、せめて……安らかに。私がこれから殺す全世界の皆さん——せめて死の瞬間は痛みを感じることのないように、皆殺しにします』
全世界のネットワークを一斉に乗っ取って放送されたこの「宣告」は、瞬く間に世界中を混乱に陥れた。ただでさえラムレザル・ヴァレンタインの「宣戦布告」により世界は疲弊し始めていた。その最中に、全世界の人間が期待と信頼を寄せていたイリュリア連王国第一連王その人がこう宣ったのだ。多くの人々ははじめ「手の込んだ冗談だ」と自分に言い聞かせようと必死になった。第一連王カイ=キスクと言えば、臣民を第一に考え民草に滅私奉公をする、賢王の手本のような人間として人々に信じられていたからだ。
しかしそんな逃避も長くは保たなかった。その日のうちに再び、今度はラムレザル・ヴァレンタインの死体を手に抱いた彼の放送が世界中に流され、その背後に跡形もなく生命が消し飛んだ首都イリュリアが映し出されていた。イリュリアは人口の激減した聖戦後に唯一残っている百万都市だ。あの活気にあふれた街から、普通は一日や二日でその全ての住民が消え去るなんてことは有り得ない。
そして第一連王はそんな信じがたい状況を事実だと説得するかのように、無残な、昨日は少女の姿をしていたものを腕に抱いて、議事録を読み上げるような決まり切った口調で『かつて、メガデス級のギアが、どの程度の能力をもってしてそう区分されていたか、ご存じですか?』と口にした。
『たった一体で、二時間もあれば百万都市を一人残らず殲滅出来る。その程度の能力を持ったギアを、聖騎士団は『メガデス級ギア』と呼称していました。その上メガデス級を相手に出来る人員は限られていて……通常は大隊長クラスが複数集まってやっと一体を相手取るのが限界でしたね。これは逆に言えば、メガデス級ギアが一体あれば、抵抗する手段を持たない街は二時間で焦土に出来るということでもあります。
……そして今、私は二時間あまりで首都イリュリアの殲滅を完了させました。ラムレザルを仕留めるのと並行して行ったので少々手こずりましたが……。ちなみに、イリュリアの昼間総人口は約二五〇万人ほど、です。……もう、おわかりですね?』
カイの青緑の双眸が一度閉じられた。嫌な予感しかなかった。人間一人で二五〇万人が住まう都市を二時間で殲滅するなんて不可能だ。でも、彼がもし人間ではないものになってしまっていたら? 眼帯の下の眼球が痛むのを感じてシンは歯ぎしりをする。そうしてしまったのは……もしかして、自分、なのだろうか?
『私はギアです』
カイが目を見開いた。今度はもう、それはあの美しいエメラルド・ブルーの海の色をしてなかった。鮮血のような紅色。そのなまなましい色合いが、シンの恐怖を半ば肯定する。
『ジャスティス直系の細胞を保持していますので、恐らく並のメガデス級よりは、高い能力を持っているかと思います。とはいえ一人で世界中を飛び回るのは厳しい。そこで、たった今、全世界の休眠していたギアを起動し、私の制御下に敷きました。ああ、それから……オーパスも指揮下に入ります。元老院及び聖皇庁の方々におかれましてはそれをお忘れなきよう』
カイのそんな言葉を、最後までシンが聞き届けることはなかった。途中で足が勝手に動き出してイリュリアの方へ走り出していた。
認めたくはないが、今のカイはギアだ。これは紛れもない事実。それを彼の変わり果てた瞳の色だけでなく、シンの脳内にがんがんに響き渡ってくる信号のようなものが如実に示している。「人間を殺せ」という、とても強力な指令が。
いつだったか母に言われた言葉を思い出した。かつて、母のそのまた母であった「ジャスティス」は、全てのギアを統率することが出来たのだと。そしてその母の血を引く自分たちと、母よりも前にギアとなった養父だけがその絶対的な司令塔の指示に強制されずに動くことが出来る、特殊な存在なのだと。
自分が父を止めなければ。そんな思いばかりがシンの頭を独占し、身体を動かす。人間にはもうあれは止められない。ギアも、みんなあれに逆らえない。だったら自分がやるしかない。
そう自分に言い聞かせて、ここまで来たのに。
「私が憎いですか、シン?」
「ああ。心の底から、反吐が出るほど、憎い。テメェの血がオレに流れてるって思うと泣けてくるぜ。オヤジが……オヤジがオレの本当の父親なら、よかった。テメェなんか、何の関係もない赤の他人ならよかった。なのによぉ……なんで……なんで、なんでッ……!!」
問いかける父の顔は、やはり、人間じみている。全世界に向けて人類皆殺しを宣告した時のあの事務的な冷酷さなんかどこにもなく、子を想い未来を憂う人間の顔をしている。信じられなかった。信じたくなかった。得物を握る手に力は籠もるのに、それを振り上げられない。
いっそ心までギアになっていてくれれば楽だったのに。そうすればこんな戸惑いもきっとなかった。あれはもう人間じゃない、だから止めないと、という決意が揺らいでいく。
「テメェを殺そうとするのが、こんなに怖ぇんだよぉ……!!」
——コイツを、殺せねえ。
そんな感傷がシンの心を掻き乱した。圧倒的な力量差が本能的に身を竦ませたというのも、多分少しはあったのだと思う。けれどそれ以上に強くシンの身体を支配したのは今更のようにわき上がってきた父への慕情だった。化け物を殺すのは簡単だ。悪党をぶちのめすのも。でも今目の前にいる男は、「そのどちらでもない」。人類をたった一人で皆殺しにしようとするやつなんて「化け物」で「悪党」に違いないはずなのに、うまくそういうふうに認識出来ない。
「何故って……多分ですけれど、私も、あなたに易々と殺されてあげるつもりはありませんから。あなたは今恐怖を感じているはずです。あいつの教育は大雑把だったようですが、どうやら生きるために必要な本能に関してはきちんと鍛え上げていたようだ」
「そういうんじゃ……ねえよ……! オレが……オレがテメェを止めなきゃ、いけないのに! じゃなきゃ母さんも……母さん……? あれ……? そういえば、母さん、は……?」
そこでシンはようやくそのことに思い至った。母ディズィーは首都イリュリアでカイと共に暮らしていたはずだ。最後に会ったのは四年前だけど、母が父を見限って側を離れたとか、逆に父が母を追いやったとか、そんなふうには思えない。もしそうであれば養父が何もシンに教えてくれないはずがない。
ならば母は、今どこに? カイは全てのギアを指揮下に置いたと言っていたが、ディズィーは司令塔の指示に強制されることがない特殊なギア。ならば既にカイが殺したのか? それとも……まさか……
その可能性に思い至ったまさにその時、シンの身体を背後から何かが刺し貫いた。
「……マジかよ。うそ、だろ……」
衝撃と同時に、がはっ、と嫌な音を出してシンの口からごぽりと血がこぼれる。シンを貫いたものは、生体組織だった。正面のカイはやはり剣を抜いてすらいないし、司令室に備えられていた防衛システムか何かが襲ってきたわけでもない。ギアの強靱な再生能力で一命は取り留めたものの、気が遠くなっていくような心地を覚える。何故ならば……生温かく、肉の厚みを持ったその「何か」の正体に、シンには心当たりがあったからだ。
「なんでだよ…………母さん……!!」
振り向いた先に答えを確かめて、シンには泣き笑いをするみたいな声しか出せなかった。ビンゴ。大正解だ。こんな予想は、出来るならば一生当たらないで欲しかった。
自分を刺し貫いているものの正体は、大好きな母の、その背から生えている翼だった。右の翼、死神のかたちをした「ネクロ」だ。左の「ウンディーネ」も、シンを逃すまいとして翼を広げ、牽制を仕掛けてきている。
「カイを庇うって言うのかよ……」
聞きたくなかったが、シンは尋ねなければならなかった。彼女の目は正気そのもので、無理矢理、ギアとしての力を使わされているようにはとても見えなかった。
「はい」
母の答えは短く簡潔だった。シンは深い絶望を覚え、一縷の望みを託してどこかに彼女が偽物であるという証拠を見出せないかと目を凝らしたが、記憶との相違は衣服が異なっている——今の彼女はシンが四年前まで見慣れていたようなあの修道女に似た黒いワンピースではなく、活動的な丈の短い衣服に身を包んでいた——ぐらいで、どう足掻いても彼女は正真正銘の本物だと判じざるを得ない。
その現実があまりにも辛くて、シンはこんな時でもなければ、「母さん、似合ってるぜ」とか言ってあげられたのに、と場違いなことをほんの一瞬だけ考え、首を横に振った。
「……理由は」
「シン、私はあなたの母であるのと同時に、カイさんの妻です。……ずっと前から決めていたの。もし他の誰がカイさんの敵になっても、私だけは一緒にいてあげたいって」
「それで……母さん……母さんまで……オレを……オレたちを! 裏切んのかよ!!」
「私のこの気持ちをシンが裏切りだと感じるのなら、そうです。……シン、本当は人間は、全部、殺さないといけないの。だけれど私もカイさんもシンだけは殺したくない。……でもシンは、どうしてもお父さんの気持ちは、受け入れることが出来ないのね」
「当たり前だろ……! 人間全部殺そうとか、正気の沙汰じゃねえよ!! ワケもわからねえではいそうですかなんて言えるかよ。いや……例えワケを説明されたって、ぜってぇ、オレはカイの側にはつかねえ。オヤジだってそう言うはずだ。だからそいつだけは、天地が引っ繰り返ってもありえねえ……!!」
「わかりました」
ディズィーが頷き、ネクロがシンの身体から引き抜かれる。そのままバランスを崩してどさりと崩れ落ちようとしたところを母に受け止められた。心臓の音がした。ディズィーもやっぱり、人間のままだ。シンの知ってる優しい母親のまま……なのにどうして、自分たち家族はこんなことになってしまっているんだろう?
カイがディズィーに抱かれているシンの元へ歩み寄ってくる。身体がうまく動かない。頭の中に、「動かないで」という父と母に似た声が充満していてそのせいで身じろぎも出来ないのだ。カイが手を伸ばしてくる。はね除けたかったけれど、ざらつくふたつの声のせいでやっぱり出来なかった。
そして、カイがディズィーごとシンを抱きしめる。
「シン」
「カ……イ……?」
「信じてもらえないでしょうけれど、私はあなたが生まれた時からずっと、一日たりとも、あなたを思わなかったことはありません。あなたを愛しています。シン、私たちの、大切な……」
まぶたが奇妙に重たい。そんな場合ではないはずなのにとろとろとした眠気がシンを包み込み、微睡みへ誘おうとしてくる。思えば母と父に抱きしめてもらったのは、随分と久しぶりのことだった。本当に、もしもこんな時じゃなければ……たとえば世界が滅びはじめていて、父が人々を殺していて、母がそれを支えていて、そんな時じゃ、なければ。
「あんたのこと……一回ぐらい、父さんって、呼びたかったかも、しれなかった、のに」
カイがシンの額に口づける。そして同じ場所に手のひらを当て、法術を発動した。複雑な法術陣が展開されシンを包み込む。
変化は目に見えてすぐに現れた。カイの法力に包まれたシンの肉体は、そのまま淡い光に溶けて見る間に収縮していく。やがて光が親指大の大きさになるとそれはディズィーの下腹部へと吸い込まれるようにして消えた。
シンは母親の胎内へ還ったのだ。それがシンを生かしたまま無力化するためにカイが選べた、一番優しくて、狡いやり方で……最善で最悪だった。
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