天使黙示録

010:天使がいた世界のおわり



「一足遅かったな。おまえなら、もっと早くにここへ着くと思っていたのだけれど」


 石造りの聖堂を訪れたのは四年前、ディズィーの要請を受けてはじめてイリュリアへ入国した時以来のことだった。それからは、イリュリアには寄りつかないようにしていたのだ。その理由には勿論、預かったシンが極端にそれを嫌がったというのもあったが、それ以上に、ソル自身がよほどのことがない限りもうカイには干渉をしないことにしようと決めていたのが大きかった。
「ほざけ。シンをどうした」
「無力化した。シンには、私の考えは受け入れてもらえなかったので」
「坊やが、随分と言うようになったじゃねえか?」
 しかしそんな期待を裏切るように、考えられ得る限り最悪の形で「よほどのこと」が起きてしまった。ソル=バッドガイは、聖母像の前で待ち構えていた青年に吐き捨てるように言うと剣を抜く。彼の首には五年ぶりに十字架が掛かっていた。五年前にその十字架を継承したはずの相手は、ソルの視界の中には見えない。
「シンの行き先は……ディズィーか。テメェら、本気なのか」
「ああ。シンとはあまり刃を交えたくなかったから、彼女の中へ還した。だがおまえはそうもいかないな。残念だ。こんな形でおまえと決着をつけねばならないなんて」
「クソみてえな嘘ばかり上手くなれなんて言った覚えは、ねえんだがな。ったく……そんな目、しやがって……」
 カイのギアの色をした瞳を思い切り睨み付けた。昔はこの少年の目をたいそう美しいものだと思って、時には目を奪われたことさえあったものだが、今はもうそんな魅力は微塵も感じられなかった。ただ、憎らしくて悲しい。
 息子と眼球を交換した時から、こうなってしまうこと自体は可能性として確かにあり得たのだ。だがそれが原因で急激にギア化したにしては発現が遅すぎる。五年間もの間、あれだけ完璧にギア細胞の侵食を抑えていたということは、翻って本人の意志で今更ギアになることを選んだということでもある。
 効率よく個人で世界を相手に回すには、確かにギアになってしまうのが一番良かったのだろう。単純に暴力的なギアの力が手に入るだけに留まらず、ジャスティスの直系であるシンのギア細胞は司令塔として機能するための配列パターンを持っているために先日の放送で宣言した通り任意で全ギアを制御・統率することを可能にしてくれる。コントロールには尋常じゃない精神力と忍耐力を必要とするはずだが、その点についてはカイなら問題ない。そもそもが人の上にずっと立ち続けてきた男だ。指揮を執る相手が絶対服従の生体兵器に変わっただけで、むしろ謀反が起きないぶん楽になったぐらいだろう。
 問題は、何故カイが世界を滅ぼさねばならないか、にある。
「テメェは『人間』だろが。どこで狂った? どこで……間違えちまった? ああ? 言ってみろよ」
「どこで、という問いに答えるとするならば……多分最初から、だな」
「どういう意味だ」
「……知らなかったのか?」
 カイが両手を開く。めり、という布が破れる音。法衣を突き破って広がったそれに押し出されるようにして、左肩にしか付けられていなかったケープが地に落ちる。頭頂部で結わえられた長いポニーテールが両サイドの後れ毛と一緒になって、カイの顔の動きに合わせて揺らいだ。美しい仕草だった。人間離れして、と形容したくなるぐらいに。
「どうやら『わたし』は……最初から、人間なんかじゃ、なかったらしいんだ」
 カイの背から広がったのは、純白の翼だった。
 ディズィーの背から生えている両翼のように、ギアの能力が発現したものではない。自らもギアである故にソルにははっきりとそれが分かる。だが人間の体組織でもない。ではあれはなんだ。ギアでもなく人間でもないあの翼は、あれは、まるで——
「そういえば、私は昔聖騎士団で『天使』と呼ばれていた、らしいな。おまえは知っていたのか? そのことを」

 ——天使、みたい、な。

「ああ、知ってたぜ。俺自身は一度もそんなことを思った試しはなかったがな」
「なんだ。知っていたなら、教えてくれたってよかったのに」
「思ってもねえことを口に出せるかよ。テメェは人間だ。人間じゃなきゃ……なんねえんだよ」
 自分の中に生じた感情に名前を付けられず、強引に掻き消すように封炎剣を滑らせる。勢いグランドヴァイパからヴォルカニックヴァイパー。いなされて距離を開けられたところですかさずライオットスタンプ。しかしこれも防がれてしまう。
 明らかに以前よりも強くなっている。それもギアの力ではなく本人の努力でだ。きっと王になってからも研鑽を怠らなかったのだろう。もし……ギアにならなかった彼との平和的な手合わせでそれを実感出来たら。どんなに良かったことか。
「人間じゃなきゃ、いけないだなんて。……それはただのおまえの願望だ」
「うるせえよ」
 力一杯に叫んだ。そんなことは知っている。わかりきったことだ。だが知っているからこそ許せないのだ。
「せめてテメェにはそうあって欲しいと化け物が身勝手に願った。その報いなのか? これは?」
「それは……知らなかった。おまえにそんなふうに願われてたなんて」
「言うかよ……こんな時でもなきゃあな」
「では、それは違う、とだけ訂正しておこう。私は最初から化け物だったし、おまえは化け物じゃない。おまえだけは、化け物にしない。そのためにこそ、私はこの道を選んだのだから」
 スタンエッジに重ねるようにしてカイが差し込んできた剣先をにべもなく叩き落とし、ソルはヘッドギアを外す。十五年前から、戦い方の癖が変わっていない。いつもこうだ。カイが雷を放って、そのたび、ソルがタイミングよくそれを押し返して。
 無意識のうちに繋がれたタイランレイブは、でも今日ばかりは、カイにかすりさえしなかった。正確には、当たるはずなのに、頑強な見えない壁に阻まれ、あのソルの拳がそれ以上先へ進めなかったのだ。
「何の真似だ、こいつは」
 拳を引っ込め、満身の力を込めてまた殴りつける。当たらない。何度試しても、ただ透明で堅いものに阻まれて触れることさえ叶わない。
「《絶対防壁フェリオン》。本来、元老院と聖皇庁にしか使えない……と言われている、特権法術。ソル、おまえは、では何故彼らがこんな技術を独占出来ていたのか、その理由を知っているか?」
「知るか、んなもん。いいから一発殴らせろ」
「それは彼らがバックヤードとある種のリンクを結んでいたからだ。元老院は皆再起の日からずっと生き続けている『使徒』で、現聖皇は『慈悲なき啓示』の徒。要するに、この術式はバックヤードの供給を一定以上受けていなければ行使出来ない」
「何が言いたい」
「そしてこの世界の私は、他のどの生命体よりも強力にバックヤードと結びついている。たった一つの例外——因果律干渉体の彼女を除けば、だけど。……諦めろ、ソル。今のおまえに、『わたし』というバックヤード干渉体に勝つ力はない。だから、せめて」

 ——最後になる前に、その剣を捨てて、わたしをだきしめて。

「ああ、クソッ……!」
 カイが告げた。両手を広げたまま、抱擁を求める女神のように。
 カイの声はか細かった。秘めていくつもりだったものをそっと吐き出したような、まるで熱に浮かされているみたいなふわふわした感触を伴い、その言葉はソルの身体を縛り上げる。カイ=キスクの言霊がソル=バッドガイを雁字搦めにする。溺れさせ、正しい判断を忘れさせようとして、この期に及んで無垢な瞳を晒して——訴えかけてくる。
「馬鹿野郎が……!」
 耐えきれなくなって、封炎剣を背後に放り捨てた。あんな顔をされて、もう……ソルにはこれ以上は無理だ。出来ない。出来たとしても……やりたくない。
 ソルの目の前にいる「誰か」は、ソルが初めてその少年を見つけた時と同じように、幼くて愚かな子供の姿をしているようその時彼には思えた。過剰な法力の才を持ち、盲目的に正義を信仰していたその少年が飢えてほしがっていたものをソルは知っていた。だから昔は少しだけ与えてみたりもしたが、今はもう、自分がそうする必要はないと思って……距離を、置いて。
「……何年ぶり、だろう」
 だからソルはその両腕にカイを抱いた。敵意が持続出来なくなっていたからなのか、今度は防壁に阻まれることなく彼に触れることが出来た。カイの身体は、公開されているプロフィール通りなら一七八センチで……ソルと四センチしか、もう、変わらないのだ……体重も一応五十八キロはあったはずだが、もっと小さくて軽いもののようにしか思えなかった。重さがない。人間のそれじゃ、ない。
「うれしい。ソル……××、だ」
「嘘つけ。テメェはみんな……××な、だけ、だろ」
「そう……かもな。でもこの気持ちは本当だよ」
 カイの翼が大きく音を立てて広がる。それがソルを包み込み、カイを抱く上から抱擁する。
「ソル」
「ああ」
「わたしの名前を呼んで、ソル」
 こいつになら殺されてやるのも悪くないか、とほんの少しでも思ってしまったのが、この世界におけるソル=バッドガイが、破滅を逃れられなかった一つの原因だったのかもしれない。
 ソルを間近で見つめてきているカイの瞳は、今はどうしてだか、ソルが惹かれたあの海の色をしていた。エメラルド・ブルーの深く澄み渡った色。それがソルの金色に変化した目を映し出し、取り込み、揺らいでいる。
 カイは泣いていた。ますます子供みたいだと思った。だからもう少しだけ強く抱き寄せてやって、それから、彼の耳にその言葉を流し込む。
「カイ」
 その名前をソルの口から奪い取って閉じ込めようとするみたいに、カイの唇がそっとソルに触れた。
 翼がソルの心臓を抉り、喉元を抉り、彼の身体から光り輝く何かを取り出す。何かはとても小さく、しかし強い力を放っていて、その様は種に似ていた。おもむろにカイはそれを手にとって握りつぶした。ソルのまぶたがゆっくりと閉じられ、ずるり、と、力が抜けて崩れ落ちる。

 そうしてバビロンにて完全なるギアの獣となるはずだったソル=バッドガイは、カイを抱き、また、彼に抱擁されたまま人間として息を引き取った。世界の行く末を左右する一つの大きなフラグメントであったこの男の消滅によって「天使」たるカイ=キスクの魂は大きく傷付き、損なわれ、比例するように世界は加速度的に死んでいく。
 ソルが死んでしまえば、最早カイを妨げられる可能性のあるものは残されていない。そうしてカイの懺悔からきっかり七日後、世界中の全ての人間は死に絶え、世界は予定調和の終わりを迎えた。カイの魂に付与されていた準アドミニストレータIDはジャック・オーの手によってユノの天秤へアップロードされ、やがて人間として生まれたカイ=キスクを啓示から守る手立てとして、ある男の手によってダウンロードされ、彼に与えられる。
 世界はめぐる。数え切れない確率事象と試行の果てに無数の可能性が破棄され、夥しい犠牲の末に、やがて世界は限りなく低い可能性の中から「エルフェルト・ヴァレンタインが発生する」確率を採択した。
 人類が唯一、生き延びる術を得られるかもしれない、「あり得るはずのなかった」可能性を。


◇◆◇◆◇


「誰が言ったのだったかしらね。世界は巡る——なんて、言葉」
「けれど、ジャック・オー。君の観測では実際にそうなんだろう?」
「私はきちんと観測したわけではないわ。そもそも、ID《VVEX19992074878721114》の個体が発生した場合のみ、『ユノの天秤』から同一個体としての情報を素体へ復元・ダウンロードが出来るというシステムに繋がっているだけ、だから。実際に破棄された世界に立ったのはいつも『わたしではないだれか』。あの、人になりきれなかった天使みたいな彼を看取った『わたし』も、同じようにもうどこにもいないの」
 顔をすっぽりとローブで覆った男が彼女のその言い様に苦笑した。男の身の丈は子供のように小さく、また声もやや幼さを感じさせるものだ。だが言葉の調子は老成しており、なんともちぐはぐだった。
「レイヴンから聞いたよ、ジャック・オー。イノに、教えてしまったんだって?」
「……だめだったかしら?」
「僕としては、まだ時期尚早だろうとは思っていたんだ。けれど教えてしまったものは仕方がないな。彼女は因果律干渉体……彼女は、彼女だけは、あらゆる世界においてたった一つしか該当個体がない、替えの効かない存在。今更リセットは出来ないしね」
「それ、替えが効くならそうしていた、みたいに聞こえるわ。あなたがそんなだから彼女、ちょっと傷付いてたわよ。だいたい、あなたはいつも……——あれ? 何がいつも……なんだっけ? うーん、わかんなくなっちゃった」
 ジャック・オーは「まあいっか!」と明るい表情で手を叩くとロリポップキャンディを口に放り込む。男は息を吐くと、無邪気に飴玉を舐める彼女を見遣った。彼女のオリジナルとなったフレデリックの思い人も——お気に入りのキャンディを舐める時は、あんなふうな顔をしていたかもしれないなと思い返しながら。
 「ジャック・オー」——「ジャック・オー=ヴァレンタイン」。ヴァレンタインシリーズの完成形とも言える彼女は、あまりにも大きなブラックボックスを抱えた存在だ。バックヤードを由来に持つヴァレンタインシリーズの中でも唯一、ユノの天秤に直接アクセスする権限を持っており、故に彼女は「慈悲なき啓示」に対する強力なカードと成り得る。
 何しろ、彼女をアリアの素体復元ユニットとして製作したその男でさえ(彼女にある程度の情報をインストールしたのが彼だというのにも関わらず)、ジャック・オーの持つ知識の全容は知り得ないのだ。イノが「全確率事象で完璧に一個体しか存在しない世界の外側の存在」という特別なのだとしたら、ジャック・オーもまた「全確率事象において存在し得る限り必ず同質になる存在」であるという特別だった。彼女はユノの天秤に納められているメモリからコアダンプを読み取ることでこの世界に定着しているのだ。
「それで、イノの処遇ですが……どうされますか? このまま野放しにするには、彼女は権限を持ちすぎている。如何なものかと思いますが」
 感傷に浸りかけたところを、レイヴンの進言が遮る。男はその問いに「いや」と小さく首を振り、レイヴンを制するように手を伸ばした。
「今はまだ、構わないよ。彼女にしか出来ないこともある。フレデリックが『種』を所持した『オリジナル』だということと、予測されている『二一九二年十月二十六日』の実態……僕はまだ、その時間は迎えたことはないけれどね……を合わせれば、自ずと彼女の目指すものは僕の考えに近い場所へ至るはずだ。フレデリックが『戦士』を超えてその先のものに変貌してしまうのは、彼女にとっても望ましいことではないはずだから」
「……承知いたしました。では、しばらくは『啓示』の応対……というところですか」
「そうだね。彼らがキューブへアクセスすることを完全に諦めたかどうかは怪しいものだし、彼らがエルフェルトを使ってジャスティスを起動する準備が整うまで、順当に時間がない。それにジャスティスをあの形で起動されるとまずいのは、啓示以外の皆にとり等しく同じだ。きっと……君にとっても。そうだろう? フレデリック……」
 カイ=キスクと出会い、そこから運命の分岐を得て、かつてフレデリックという人間だったソル=バッドガイというギアは、今再び「戦士」たるヒトに戻った。他者と関わりを持たぬことで自らの罪を一人で払おうとしていた彼があの時エルフェルトを力尽くで取り戻そうと足掻いたのは、決してエルフェルトが「アリアの面影を持つヴァレンタインの娘」だったからではない。彼の人間としての横暴と傲慢だ。そして男は、それをこの上なく好ましい、と思う。
「あの人からの言伝もある。何にせよ、やることは山積みで時間は僅かだ。もしも仮にジャック・オーの話が疑わしかったとしても、検分する余裕さえないぐらいにね。勿論、彼女の話は事実だろう。あの人の言葉もそれを肯定している」
「……アクセル=ロウにメッセンジャーを任せた者、ですか。何者なのですか」
「文献や書類の上では、彼は『第一の男』と呼ばれている。だが実際に会ったことのある者は、この世界には僅かしか残されていない。バルディウスがフレデリックに敗れてから、続けて更に二人もこの世を去った。今や彼の素顔を見たことがあるのは、私とクロノスだけだろう」
「……『第一の男』?! ではまさか……!!」
「そう。人類で史上初めてバックヤードへのアクセスを成功させ、あの再起の日を予言した数学と物理学の天才。後に聖皇庁を発足し法力を実用化させるに至った二十一世紀最大の功労者であると共に、最悪の罪人……僕がかつて師事したひとだ」
 レイヴンが息を呑んだ。「第一の男」——《オリジナル・マン》。不死者のレイヴンもその存在のことは呼称でしか知らない。先日イノが連れてきたアクセルがもたらした伝言は、アクセルが口にするだけで勝手に複雑な暗号に変換され、レイヴンが仕える男にしか理解出来ないようにプロテクトが掛けられていたが……なるほど、あんな馬鹿げた芸当も、「第一の男」の仕業であるというのならば納得がいく。
「あの人は、恐らく僕よりも遙かに多くの情報を握っている。ユノの天秤から高位IDを取り出すなんて、俄には信じ難いことだけれど……彼なら確かに可能だろう。……レイヴン。僕はね、バックヤードに多く接続しているから、僕が生きて来た世界以外にもっとたくさんの確率事象が存在していて、演算しては廃棄され、またそれを繰り返していることは理解している。けれど僕という存在は所詮この世界に固定されたものだ。ジャック・オーのように他の世界の同一個体とリンクしたり、イノのようにその垣根を跳び越えていくことは出来ない」
「しかし……それは、ジャック・オーとイノが規格を外れているだけです。その方がイレギュラーだ」
「そうだね。でもあの人なら多分、覗き見ぐらいは出来るだろうし、したはずだ。だってそうだ……あの人はIDを取り出した挙げ句この世界の然るべき存在に付与したと言っていた。ユノの天秤から権限を取り出せただけでも驚きだが、もっと常軌を逸していたのは、その権限を本来付与されるはずだった『然るべき存在』が彼には分かっていたということだろう。
 だから僕はこう考える。あの人ほどの存在が今まで息を潜めてきたのは、勿論、彼に何か考えもあったのかもしれないが……どちらかと言えば世界、バックヤードのアドミニストレーション・システムの方に例外処理を適用されたからなんじゃないかな? でも、そんな彼が僕にあんなメッセージを送ってきたということは、表舞台とまでは行かずとも、もうすぐ顔を出す準備が整う、ということなのかもしれない」
 第一の男からのメッセージを反芻し、彼は微笑む。フレデリックと接触したあの少年……今はもう、青年という域も超えたのだったか……が、あれほど危うい力を持ちながらそれでも幾度もの危機を乗り越えて生き続けている理由もこれではっきりした。
「イノは……彼女はもう、気がついたかな。或いはもうそろそろ、かな? 歴史の改竄と修正を誰よりもたくさん行ってきたのは確かに彼女だ。けれど、二一七三年のローマで歴史の巨大な分岐が発生する理由……そしてエルフェルト・ヴァレンタインが生まれるこの世界だけが、人が明日を掴める可能性を持っているその理由。それらを知らねば、彼女は永遠に単なる魔器のままに留まってしまう。僕は出来れば、そうでないといいと願っているんだ。……本当に」
 かつて天から遣わされた人の形をした秩序であったものは、自らの使命を裏切り己に傷を付け、それでも人の可能性を信じることで「天使」をやめた。
 かつて一人の少女は、自らに意味はなく、だから全てのものに意味はないと物語った。けれど彼女は意味を知り理由を知り、己の性質を書き換えた。
 この二つの事象は、アイデンティティは書き換えられるということの証明でもある。イノを人ならざるものへと留めているのは、他ならぬイノ自身なのだ。
「さて……せっかく、ここまで来たんだ。僕としても、失敗は許されない。《絶対確定世界》……この到来、いや、再来だけは絶対に防ぐ。悪いけど、フレデリックにはもう少し付き合って貰わないと」
 背徳の炎という業を背負ってしまった友のことを思い、「あの男」は天を仰ぐ。自分は既にフレデリックに殺される理由も、アリアに殺される理由も、十分に持っている。けれどその時は今ではない。
 ジャック・オーがアリアの復元素体であることを知り、フレデリックはジャスティスがアリアであったことを知った。病で死んだと思っていた恋人が歪な形ではあるが生きていたこと……そして、その息の根を一度ならず二度止めたのが自分自身であることを……。
 願わくば、三度目が彼らの間にもたらされぬよう。あの男は静かに祈った。それぐらいの願いを抱くことは、昔彼らの親友だった自分にも、許されて欲しい。
 それを望むことが恐るべき傲慢なのだと知っていて、なお。






back ・  main ・  next