011:狭間であいを祈るきみ
「だけどあなたが本当に救いたいのって、背徳の炎、彼だけなんでしょう?」
いつかどこかの世界でユノの天秤がそう問いかけた。天使は泣き笑いでもしそうな顔で、自嘲的にそれに返答する。ええ。そうだったのかも、しれませんね。世界中の全ての人間を殺して、あらゆる罪にまみれ、与えられた神性をさえ貶めた天使がするにはその顔は人間臭すぎた。この世界で彼はもう永遠に人間にはなれないのに。人間になりたかったのかな、とユノの天秤は思考する。天使になりたい人間なんか、山ほどいるだろうに。その天使が一番なりたかったのは人間なのかもしれないだなんて。
(そんなに彼を、あいして、いたのかしら)
ユノの天秤の肉体は背徳の炎が世界でたった一人愛したおんなをルーツに造られ、それ故彼女の記憶を持っている。感情の残滓も。けれどそんなユノの天秤が天使に抱いたのは嫉妬ではなく、憐憫でもなく、ただ、純粋な敬意だった。畏怖の念にも近かった。
アイアンメイデンの中で天使が息絶える。彼は狂っていたけれど——正しい倫理を自覚したまま手を染められるというのは、それはたとえ「気が」狂っていなかったとしてもやはり「何かが」狂っているということだ——死に際の彼の表情は安らかだった。彼の魂の側には彼の妻の魂が寄り添っていた。狂気ゆえの純粋さ。天使の最後を彼女はそう評している。彼は狂わなければならなかったがために、あの狂おしいまでの純粋さを手にしたのだ。
「……悲しいぐらい、綺麗ね」
彼女の手の中に収まった彼のIDとそれを包括する魂のソースコードは天使の名に相応しく、とうめいで儚くてとても強い。ひび割れ、欠け、崩壊が起きているにも関わらず褪せない美しさがある。
「みんな、幸せになりたいだけ、か……」
でもだからって、「わたしではないだれか」のために全部を擲つのは無理だな、と言いかけて彼女は口を噤んだ。
「あなたって、もしかしてもう十分に罪深いのかもしれないわね……フレデリック」
ヘブンズ・エッジでユノの天秤が謳う。世界の墓場に魂がアップロードされ、そして滅んだ世界が「あり得た未来のレコード」として書き込まれていく。世界はまた生まれ直す。また、幾数星霜の時がめぐり、世界はまわり、今度は天使のいない世界が始まるのだ。
「でもあなたの業が深いから、世界は前に進むのね。知らないだろうけど、誇りに思っていいわ。彼という『天使』の道を最初に揺るがしたのは『第一の男』で、決定的に動かしたのは『イノ』なのかもしれないけれど、最後に天使を止めさせたのはあなたなのよ。一体どんな魔法を使ったら……わかりきってるか。体系化されていない、どんなに魔法が汎用化されたとしても理論に出来ない、最低で最悪の魔法……」
ふと彼女の前を一つの魂が横切った。既に天使によって始末されていた、壊れた世界の破片だ。魂の色はあかく、仄かな金色の光を内包している。ユノの天秤はそれをひょいとつまみ取ると軽く口づけた。そして囁く。楽園の片隅で知恵の実を囓るおんなのような顔をして。
「——昔、『アリア』をそうしたように。あなたの愛が『天使』を『人間』に壊して、そして世界を滅ぼしたのよ」
魂は何も答えない。ただ、炎が燃えるように、悲しく自らを燃やしている。
◇◆◇◆◇
世界の終わりで少女が願った。(次に私たちが出逢う世界では……)愛した天使の手を握り、自らを殺す刃を突き立てさせ、しかし涙は流さず、ただ願う。
(今度こそ、あなたが本当の幸せを手に入れられますように)
死ぬのは怖くなかった。彼の手の中だったからなのか、彼女がひとを殺しすぎて麻痺していただけなのか、今となってはもうわからないけれど、怖くはなかった。怖かったのは彼が一人で苦しみを負うこと。彼がこれだけの罰を受けながらいつまでも許されないかもしれないこと。それだけが彼女に残された恐怖だった。
(シン、わたしたちは、あなたに何も、教えてあげられなかった。ひどい……親ね。なんでだろう……私、自分のお母さんのこと、思い出しているの。私のお母さんも私には何も教えてくれなかったわ。だって死んでたんだもの。それを憎んだことも悲しんだこともないけれど……でも今ならわかる。きっと私のお母さんも最後は私と同じ気持ちだったんだ)
世界に残された最後の「人間」だったハーフギアが死に、世界の終わりは完成する。彼女に次の世界は訪れない。彼女は知ることがない。祈りは届くのか、願いは叶うのか、カイ=キスクが、いつかきっとどこかでは、幸せになることを許されるのか。
永遠に、でも、それで、構わなかったのだ。
「オレ、カイのこと大嫌いだったんだ」
少年が言った。いつも片目に掛けられていた眼帯が今は外されて、ギアの証が剥き出しになっていた。
「だってあいつは正義だなんだって言ってるくせにオレも母さんも守れなかったんだぜ。ガキのオレにはそうとしか思えなかった。オレはカイがいつもくたびれた顔でオレと目を合わせようともしないのを、少なくとも愛されていないせいだと思ってた。それなのに母さんがカイのことを大事な家族だって言うのが理解出来なかった。だって意味わかんねえよ。あいつが大事なのは正義っていう肩書きで、そればっかりで、結局家族も臣民も何一つ守れねえでさ……だからその反動でオヤジにはすぐに懐いた。オヤジはなんでもストレートで、偽りがなくて、力強くてかっこよかった。オレがカイにないと思ってたものの大体全部をオヤジが持ってた。カイなんか要らないって思った。イリュリアも……大嫌いだった」
ギアの本能を圧縮した魔眼は血の涙を流していて、隣に填っている父親のものだったエメラルドの瞳と比べると酷くちぐはぐで痛ましかった。だけど彼は多分自分が血の涙を流していることは知らなかった。もしかしたら、眼帯がないことさえ、気がついていないのかもしれない。
「でも、母さんがあの時カイを選んだ理由は、ちょっとだけわかる気がするんだ」
彼の口から零れてくる言葉は、珍しく一つ一つが慎重に選ばれていた。彼は実直なままだったが、少なくとも無神経に何かを口にすることは、彼女の前では、出来ないと信じていた。
「カイは長いことひとりぼっちだった。カイのこと、好きなやつは山ほどいたけど、それってみんな上っ面が好きなだけなんだ。目に見えてるカイ=キスクしか知らねえから、カイのことすごいすごいって持て囃してただけなんだ。オヤジが一度、言ってた。カイには信者は掃いて捨てるほどいるが、理解者はそういない、って。その数少ない一番の理解者が母さんで、だから母さんはカイを愛していて、カイは母さんを愛してるんだって。オレは……カイの信者じゃなかったけど、でも、理解者にもなれてなかった。カイの考える事は全然わからなかった。オレがバカなのもあるんだろうけどさ。そういうんじゃなくて……もっと、根源的なところで、オレはカイのこと、信じられなかった……」
養父が実父の手で葬られた瞬間を「みた」時に、彼はようやく、切っ掛けを得た。涙を流しながら希った父の姿を見て、心臓が張り裂けそうな心地がした。自分勝手だと思っていたのに、自分勝手だったのは彼自身の方だったのだと言われたみたいだった。
「大事なことって、なんでだろうな、いつも最後になってやっとわかるんだ。カイが世界を裏切って初めてオレはそれを知った。……カイはずっと一人で戦ってたんだ。オレと母さんが生きていける世界をつくるために。オヤジが、苦しまない世界をつくるために。ひとりで……オレ、あんなに、カイのこと、めちゃくちゃに言ったのに。カイのこと、何一つ知らなかったのに。カイと母さんがオレを抱きしめてくれた時、オレ、きっと泣いてた。カイの声は優しかった。あんな時でもカイはオレのことを本当に愛してた。嘘偽りなく馬鹿みてぇにまっすぐに……だから……だからオレ、カイのこと、だいっきらい、だった、のに」
何故気がついてあげられなかったのだろう。たとえばカイ=キスクは絶対に嘘を吐かないということ、家族を守るためにその身を粉にしていたこと、どれだけ自らを傷つけようと、誰かを守ることだけは絶対に止めようとしなかったこと。シンは確かに子供だったけれど、でも、あんなふうに背伸びをして見せるのならそのぐらい気がついてやれればよかったのだ。十字架を握る右手に強い力が込められて肉を抉る。カイの十字架。父親の幾千万の祈りが宿った十字架。彼の旗頭。そして彼の——墓標になったもの。
「どうして父さんって呼んでやれなかったんだろう」
この十字架は、カイが聖騎士団に拾われた時、唯一持っていたものなのだという。それを生まれた息子に躊躇いなく持たせたということの意味を、今更になって思い知る。その十字架を再び首に掛けるとき、カイはどんな心地だったのか。酷い話だ。本当に誰も救われない。
シンの独白を聞く母はそれに何も言わない。だがその代わりに、背後から突然降ってきた力強い手が、シンの手ごと十字架を取り上げた。
「じゃあ呼んでやればいいじゃねえかよ」
「おっ……オヤジ?! なんで……」
「どうでもいいだろ、んなこた。テメェは基本的に俺に似てがさつなくせにそういう細かいところだけ坊やによく似てやがる。遺伝ってやつか? 遺伝子になってまで食えねえとはあいつもいい根性してやがるな」
「ど、どういう意味だよそれ……わけわかんねえよ……」
十字架を手に取った男、ソル=バッドガイは、シンの問いには答えずじっとその手垢にまみれたロザリオを見ていた。カイ=キスクという男の一生を象徴しているみたいな形をしている、と思った。カイは磔の聖人だった。彼は結局、自分が生まれる前に定められた「くびき」から、逃れられなかったのだ。
「あいつは自分が化け物だと言ったし、まあ実際、あの羽は、人間のそれでもギアのそれでもなかった。俺の身体を一発でお陀仏にするぐらいだ。真っ当なもんじゃねえだろうな。だがあんなもんが『天使』だとは笑わせてくれる。バックヤードとのリンクだかなんだか知らねえが、あんなガキみてえなツラして、あいつは……あいつは…………」
けれど抵抗しなかったわけじゃない。あれだけ抵抗したのに自由になれなかっただけだ。
「人間だ」
呻き声を絞り出すようにその言葉を吐いた。バックヤードに鎖で繋がれた天使の最後の言葉を、力の限りに否定した。カイが化け物だと言うのなら、ではソルは一体何になる。この世に化け物じゃないやつなんか、残るのか。あれほどうつくしい魂を掲げたあれが、ただ壊れて狂っただけの道具なのだとしたら、世界には、「出来損ないの人形ども」しか、いないとさえ言える。
「俺にとっては、人間以外の何者でもない。バックヤードの力だろうが管理者権限だろうが知ったことかよ。人間か、そうでないかは、種族では決まらねえよ。心だ。心と魂が決める。それを後生大事に抱えていたあいつは、人間なんだ。それにだ。そんな、なんでも馬鹿正直で愚直で自分を省みない……そういう奴が一番救われない世界なんざ、あっていいわけがねえ。俺はそれを許さない。たとえどれほど傲慢だと謗られようとな……」
「……オヤジ」
「シン。テメェは父親が嫌いだった。よく知ってる。で……それを後悔してる。死んでも言えなかった言葉を胸に抱いてな……テメェはいいのかよ、それで。テメェの母親は、このことに関してはノーコメント、だそうだぜ。あいつは最初からカイを選んでた。然るに、ディズィーにとってはカイを選ぶことと息子を守ることは同義だったわけだ」
「お、オレは……」
「思うことがあるっていうのなら、覚えとけ。次はもう、後悔する場所もねえかもしれねえんだからな」
十字架が再びシンの首に掛けられる。手垢でくすんでいた十字架は、いつの間にか綺麗に磨き上げられていた。ソルが磨いたのだろうか? でも彼の手には布などないし、彼の着ている衣服では……見た限り、汚れが移ってもっと酷くなってしまうだけのような気がする。なんで汚れが消えてるんだ? シンは首を捻り、そして頭をもたげた。答えはすぐそこにあった。
「どこ……行くんだ?」
無数の光が、球形を描いて淡く輝いている。それらは皆一様に天上を目指し、上昇していっているのだ。シンの首に掛けられた十字架の中からも光は生まれ出ていた。命の泉へ還ろうとするように、とめどなく、無限に。
「こいつらは」
「坊やが殺し、坊やがために死んだやつらだ」
ソルが言った。口調は淡々としていた。
「死者の霊魂、ってやつか?」
「そうだとも言えるし、そうではないとも言える。『死んで分かった』ことだが、俺たちの存在は、永久に繰り返される演算処理の上で発生したボトムアップAIの試算に近い。それがマザーコンピュータに類するものに回収されている。そして演算はまったく異なるパターンでは発生せず、徐々に細部を変更して行われ続ける。よって、大半のIDは次回以降の演算でも使用される。あれらは坊やの信じる宗教に則って言えば確かに死者の霊魂だ。だがそれよりは、もう幾らかシステマチックだな。まさかバックヤードこそが演算してる側だとは、これに生きてるうちに気がつけないようじゃ俺もまだまだだってことか」
「難しくてわかんねえよ」
「簡単に言えば、テメェにはまだチャンスがあるってことだ」
十字架がつまはじかれた。十字架を繋いでいたはずの細い鎖が弾け飛んで天高くへそれを連れて行ってしまう。
ソルの手がシンの頭を撫でた。
「だからシン、覚えておけ。これから何もかも忘れてしまうだろうが、テメェが父親に抱いた感情だけは刷り込んでおけ。父親に言いたくて言えなかったその言葉を、次こそは後悔しないで済むように」
……ような、気がした。
頷こうとして顔を上げた時にはもうそこにはソルの姿はなかった。ただ、無数の光たちがほうぼうに上へ上へと上っていくばかりだ。もしかしてソルが現れてシンの十字架をひったくり、難しい言葉を連ねたことそのものが幻だったのではないか? シンはとりあえずそう疑ってみたが、ソルに取られるまでは首に提げていたはずの十字架ももうどこにも見あたらない。
ならばきっと、ソルが言ったことは、彼がシンの前に現れて助言をくれたことは、夢じゃないはずだ。そう考える事にして彼の言葉をなぞる。
その時になってようやく、十字を切る仕草を今までに一度もしたことがないことにシンは気がついた。
◇◆◇◆◇
白昼夢を見ていたような気がした。
ほんの一瞬だったが、意識が飛んで揺らいだ。シンは慌てて眼帯をしていない方のまぶたを擦り、聞き耳をそばだてる。すぐそこの部屋では、ドクター・パラダイムの計らいによってようやくの再会を果たした両親が抱き合い、特に父などは聞いている方が胸焼けしてきそうな愛の言葉を彼の妻にこれでもかと注いでいた。
白昼夢の内容はうまく思い出せなかった。ぼんやりしてとろとろして、ミルク色で、曖昧だ。それにたぶん、父の気障ったらしい台詞が右耳から入ってきて左耳へと抜けていくせいもある。冷静になって息子の立場から聞いてみると、ちょっと、気恥ずかしい。
(そりゃ母さんは美人で慎ましくて優しくてちょっとおっとりしてるところもかわいくて最高の奥さんだろってオレでも思うけどさ)
父が母のことを嘘偽りなく心から一番に愛しているということがわかるのは、まあ喜ばしいことだ。一時は父はもしかして妻子をなんとも思っていないんじゃないか? と疑ったことさえあったから(それに関してはあとで養父にしっかりと訂正されたけれど)、母を抱き締めて囁いているのは、まあ、いいんだけど。
(それにしたって——その台詞はちょっと、ベタすぎないか? カイ)
シンが腕組みをして父のベタベタな言葉を反芻している間にも、父の腕に抱かれた母は「髪の毛、随分と伸びましたね」なんてとんちんかんなことを言っている。いやそれはオレも思ったけど。シンは胸中で溜め息を吐いた。すげえ伸びたなって思うけど。確かソルが隠し持っていた二人が聖騎士団に所属していた頃の写真では、カイは肩にもつかないぐらいのさっぱりした短髪だった。それが一時は腰よりも長くなるぐらい伸ばされていて、ばっさり切り落とした今になっても肩より長いポニーテールなんだから、伸びてるんだけど。
(ん? あれ? そういやあれ、どのくらいで伸びたんだ? ヴァレンタインがイリュリアに攻めて来た時はまだ肩よりちょっと長いぐらいだったよな……人間の髪ってどのくらいで伸びるんだっけ。オヤジはよくわかんねーし、かといってオレは三日に一回散髪必須だし、そういや知らないな)
首を捻ったが上手い答えは出てこなかった。そんなシンの思考を遮るように、ちょうど父が少し早口で「ここの所、切っても切ってもすぐ伸びるようになってしまって。ちょっと困ってます」と母に答える。それにしてもなんてもったりして、元気がないんだろう。一年ぶりの再会のはずだ。なのになんでこんなに、静かなのか。
「——はぁーあ! 元気が足りねえな、せっかくの再会なのに!」
とうとうしびれを切らして、書棚の影に隠れて聞き耳を立てるだけのつもりだったシンは大幅な路線変更を決定した。もう両親にここにいることがばれたって構わない、上等だ。そこにいないはずだった第三者の声をききつけて、「シン……?」と母がシンの立っている方に顔を向けて驚いたような声を出す。母親のあの可憐な声で名前を呼んで貰うのは、とてつもなく久しぶりのことのように感じられた。
「シン、貴方、本当にシンなの?」
「……そうだよ。見違えただろ? 二年前から八十センチは伸びたからな」
「立派になって……お願い、こっちへ来て、もっとよく見せて?」
「いや。オレはいいよ」
にべもなく母の申し出を断ると、彼女がぽかんと口を開けて呆気にとられたような顔をする。まさか断られるとは思っていなかったみたいで、何か悪いことをしたのだろうかと思案するような表情でさえあった。
「……え?」
「母さんとカイがそうしてるのって、『これが最後になるかもしれないから』なんだろ? だったら、オレはいい。オレたちは絶対にこの危機を乗り越える。これが最後なんて微塵も思わない。それに母さんは絶対にオレが守る。だから、今はカイ………あ!」
そこでシンは口を一端噤む。思い当たる言葉があったのだ。左腕を後ろ手に回して頭をぽりぽりと掻いた。なんだか照れくさい。けれど今言わなくては。ずっと言いたかった言葉だ。ずっと……いつから?
『カイさんのこと、お父さんって呼んであげなよ』
『だからシン、覚えておけ』
『きっと……喜ぶよ』
『次こそは後悔しないで済むように』
記憶の中のエルフェルトの顔に誰かの声が被る。低い、大人の男の声だ。馴染んだ声。でも誰の……いや、そんなことは、今はどうだっていい。
それよりもっと大事なことがある。
「へへ……これがエルの言ってた、言いたくなる時、ってやつだ」
「……?」
「だから、母さん。今、この時は甘えてくれ。……父さんに」
言葉は、ごく自然にするりと喉から零れ落ちた。気負いも厭みもなんにもなくて、つるつるして素直だ。カイが目を見開き、ディズィーが嬉しそうに頬を赤らめる。つられてシンもにこりと笑って見せた。そうしているとどんどんと「やっぱり抱き締めてもらいたいかも」という気持ちが膨らんできたけれど、そんな子供みたいなことを今更ねだるなんてありえないという思いが勝ち、シンは照れ隠しをするように「父さんのこと、その、見直したぜ?」とそっぽを向いて唇を尖らせた。
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