天使黙示録

012:啓示者の兆し



「必ず、迎えに行く」


 少女が言った。まなじりには涙が浮かべられ、既に道具ではなくなった少女は心からの叫びをありったけそこに込めて妹へそう言った。定められた歴史では生まれるはずのなかった妹に、宿るはずのなかった感情をぶちまけるように、涙が頬を伝う。
 二一八七年十一月四日。ラムレザル・ヴァレンタインの宣戦布告に始まった僅か一ヶ月足らずの事件は、瞬く間に全世界へ広がってありとあらゆる名のある役者を巻き込んだ。第二のヴァレンタインの襲撃に伴うソル=バッドガイとカイ=キスクら周辺の登壇、そして予期されていなかったザトー=ONEの復活。それがアサシン組織と隠居を決め込むつもりだった組織の創始者スレイヤーまでをも引き摺り出し、投げかけられたジャパニーズの謎にファウスト医師やジョニーら快賊団が表舞台へ躍り出る。世界の因果を巡って「第一の男」と接触したアクセル=ロウはイノに連れられ「あの男」と面会し、チップ=ザナフとポチョムキンもまた己の信奉するものがため奔走する。
 エルフェルト・ヴァレンタインの回収によって一幕目は閉じられたものの、それはまだ「兆し」にすぎないのだということを誰もが痛感していた。事件は終わっていない。人類に残された猶予も、あまりない。
 カウントダウンは、まだ、続いている。


◇◆◇◆◇


「オヤジ……なあおい、オヤジ、オヤジってば! 聞いてんのか? オーヤージー!!」
「……やかましい! ラムレザルみてぇに、ちったあおとなしくしてられねえのか、テメェは」
「オヤジがすぐに返事してくれないからだろ!! あとラムは静かすぎ!」
「否定する。わたしは、たぶんふつう」
 ラムレザルはふるりと首を振ってシンの言葉を否定すると、また、すぐに窓の外へ視線を戻した。
 エルフェルトが「お母さん」——慈悲なき啓示と思しき存在に回収されてから、まだ一日も経っていない。「違う」ということを知り、感情を得た後であっただけに姉であるラムレザルの心に空いた穴は大きく、彼女はあれからぼうっと窓の外を眺めていることが多くなった。
 シンはそんなラムレザルの様子を心配してか、ちょくちょく声を掛け世話を焼いているようだったが……逆効果にはなっていないものの、それだけでは彼女をすぐに立ち直らせるというわけにもいかないようだ。
「で……なんだ。くだらねえ用なら、寝る前の鍛錬を倍にしてやる」
「マジか?! いやでも、くだらなくないってば。カイが呼んでる。軽い晩餐会みてえなのやるから、離れの方に来てほしいって。オヤジも、オレも、それからラムも」
「晩餐会だあ? んなのんきなこと言ってる場合か?」
「でも腹が減ったら戦は出来ねーじゃん。それに、カイは明日、もうカーゴシップでどっか行っちまうんだってよ。その前になんつーか……顔合わせ? っていうか、情報の整理、みてえなのしときたいって。レオのおっさんとか、ドクターも来るって言ってたぜ。あと、母さんも」
「それを先に言え」
 挙げられた名前にソルの表情がくるりと変わる。それから彼は手にしていた書類の束を机に無造作に放り投げると、「何時からだ」とぶっきらぼうに尋ねる。どことなく上向きな声の調子に「これはもしかして結構楽しみにしているのではないか」と感じたシンはきわめて明るい調子で「六時から! あと二時間!」と返答する。それに、背を向けたソルが後ろ手に右手を振って応えた。了承のサインだ。
「シン……私も行かなければ、駄目?」
 ソルが部屋を出てどこかへ行ってしまうのを見送った後、おもむろに、ラムレザルはシンの方へ振り返ってそう尋ねた。嫌がっていて欠席の意を伝えたいとかそういうわけではなく、表情からしてただ単に「自分が呼ばれるわけがわからない」ので不思議がっているようだ。
 シンは軽く息を吐くとラムレザルに歩み寄り、彼女の顔を覗き込むように少しだけ背を曲げた。
「まあ、そりゃ。カイはラムも必ず連れて来いって言ってたし、あと母さんもラムと話したいって言ってたし」
「母さん……それはあなたの、お母さんが?」
「おう!」
「何故? カイ=キスクが私を招聘するのは理解出来る。私の持つ情報はもうそれほど多くないけれど、ヴァレンタインの一体として、今後の彼の行動計画に関与するものがないとは言い切れない。けれどあなたのお母さんには、私に用事などないと思う」
「大ありだぜ。だってラムはオレの新しい友達だろ? オレがラムの話をしたら、母さん、すごく嬉しそうに会ってちゃんと話がしてみたいって言ってたんだ!」
 きょとんとした顔のラムレザルの手を握ってシンが力説する。彼女はシンの手をきゅっと握り返し、目をぱちぱちとまばたかせた。そして、シンの言葉を口に出して反芻する。
「友達……そっか、私、シンと、友達なんだ」
「そうだよ。ラムはオレの友達で、オレはラムの友達。で……エルはラムの妹で、オレの友達……」
 エルフェルトの名を出すと、彼女はこくりと頷いてシンの目を見つめ返した。思い詰めたような色が完全に消えたわけではないが、少しずつ元気を取り戻してきている。やっぱり、ラムレザルは母に会わせるべきだ。そう考えてシンは彼女に快活に笑いかけた。なんとなく理由はないけれど……母と会って話をすれば、彼女はもっと、元気になれる気がする。
「心配すんなよ。エルはぜってぇ、取り戻す。大丈夫だって、ラムにはオレもオヤジもついてるんだからさ」
 そう心から言ってやると、彼女は「ありがとう、シン」と小さく微笑んだ。


◇◆◇◆◇


 二一七五年の聖戦終結以来、二一八〇年の第二次聖騎士団選抜武道大会や翌年の高額ギア賞金首発生の件など、一部の界隈を賑わせる話題こそあれど、世界的な規模にまでふくらみ、一般人をも脅かすような出来事はそうそう起きなくなっていた。警察機構などの活躍や賞金稼ぎのシステムによって概ね世界の自治は保たれ、加えてイリュリア連王国という巨大国家の誕生により堅牢たる態勢はもはや揺らぐこともないだろう、と人々は平和に飼い慣らされて油断をし始めていた。
 そこに突如として起きたのが二一八六年の連王国首都イリュリアの強襲——後に《バプテスマ13》と呼ばれるようになった事件だ。イリュリア城内部まで侵入を果たした謎の敵勢力は一時期あの第一連王をさえ封印し、首都を混乱の渦に陥れた。
 幸い事件は早急に解決して収束を見たものの、首都が被った被害は甚大で、非常にセンセーショナルな出来事として世界中に取り沙汰されるに至る。
 そして翌年一〇月二一日、十二時十二分に旧日本跡地から発布されたラムレザル・ヴァレンタインの「宣戦布告」、それに端を成したバビロンの大事変、セントエルモと同時にイリュリアに現れた謎の巨大生命体……
 世界は今、再び選択の時を迫られている。いつのことからか、人々の間ではそうまことしやかに噂されるようになっていた。

「まずは皆、集まってくれて礼を言う。晩餐会、と言うには些かささやかにすぎるかもしれないが、楽しんでもらえると嬉しい」
 第一連王の管轄するセクションの中でも、彼のプライベートの用向けとして割り当てられた離れの一室で、第一連王カイ=キスクその人がワイングラスを片手にそう述べる。テーブルの上にはずらりと料理が並び、シンはカイの前置きもそぞろに食欲に意識を集中させはじめていた。何しろシンはここ数年の間殆どをソルとの流浪の賞金稼ぎの旅に投じている。賞金首を捕まえられなければ食事はそこらへんの野ウサギを丸焼きにするのがせいぜいで、これほど豪勢な食事にはそうそうありつけないのだ。
 いや、日本でラムレザルを捕獲してからのここ一ヶ月ほどは確かに豪華なものを食べてはいた。だがそれとこれとは話が別だとシンの本能を強く揺るがす一品に彼は目を奪われてしまったのだ。即ち——四年ぶりに見た、母の得意料理に。
「つもる話も確かに多いが、まずは食事にしよう。シンが待ちきれないようだし。今日の料理は厨房を貸し切って私とディズィーで用意した自信作だ、是非とも冷めないうちに食べてもらいたい」
「やっぱ母さんの——って、カイも作ったのかよ?!」
「コイツの飯の腕はなかなかのもんだ。そもそもディズィーに料理そのほかの家事を教えたのも大体はカイだからな」
「マジかよ……オレぜんっぜん出来ねえ……」
 口では落ち込んだような事を言いながらも、手はしっかりと皿に料理を盛りつけている。その様にディズィーがおっとりと微笑み、そうしてカイに笑いかけた。
 しばらくすると、一通り料理を物色し、何種か皿に盛ったレオがカイとディズィーの方へやって来て軽く右手を挙げた。彼は今日いつもより大分多い仕事を回されていたはずだが、この席には定刻通りにやって来てくれた。つくづくいい友を持ったものだ——などとカイが考えているうちに彼が口を開く。
「おい、カイ。何故か今日に限って俺にばかり仕事が集中していると思ったらこのためか」
「ああ、悪かったなレオ。そのぶんいつか私の方で多めに仕事を貰い受けよう」
「いや、奥方と久方ぶりの再会だったんだろ。今回はまけといてやる。その代わりと言っちゃなんだが、厨房を貸し切る時コックたちはどんな顔をしていたのか教えてくれ。少し興味があるな」
 自ら厨房に立とうとする国王なぞ、世の中にそうそう存在するものではない。特にカイは連王就任以来、仕事に忙殺され食事を作るどころか運ばれた食事をろくに摂らずにいたこともしばしばだったのだ。そんな彼がいきなり厨房に押しかけて使いたいからあけてくれなどと言ったら、どうなるか。レオの言わんとすることを察してカイが苦笑した。やはり思った通りだったらしい。
「いや……しかし。お前に未公表の奥方がいて、子供もいる……というのは確かに聞いてはいたが……驚いたぞ。尤もここ数日はもっと驚くようなことが立て続けに起こりすぎて、正直何がなにやらだが」
「ああ、まったくだな。しかもこれから先も驚き続けて休む暇がなさそうだというのだから、勘弁して欲しいものだ。……しかし、ようやく、お前にもディズィーとシンをきちんと紹介出来た。これは素直に喜ばしい」
「ま……出自が出自だしな。元聖騎士団の俺には尚更ほいほい言えたもんじゃないだろう」
 カイの妻であるディズィーを一瞥し、背後でラムレザルとあれが美味しいだのこれが良かったと盛り上がっているシンに視線を移してレオが言った。聖騎士団とは、つまりギア殺しの精鋭集団だったもの、だ。ハーフギアの妻と、クォーターギアの息子を心構えが出来ていない状態で紹介などしようものなら、最悪その場で殺し合いになる。
 しかし今回の一件を経てカイは、レオがギアという存在に対して柔軟な対応を取る姿を垣間見た。ディズィーやシンは今回カイたちの側に立って十分以上に活躍しているし、そうとなればもう隠す理由もない。
「お前を疑って試すような真似をしたのは、悪かったと思っているよ」
「気にするな、俺もこの数年でようやくいくらかは丸くなったところだ。しかし……羨ましい。実に。俺も早いとこ、姉上以外の親しい女性が欲しい…………あー、いや、オッホン。なんでもないぞ。それより、気になっていることがあるんだが……」
「うん? なんだ?」
「ライル隊のことだ。例のバックヤード空間に突入して生還した彼らが、昨年バプテスマ13でお前が直接指揮を執った隊に所属していたという話はしたな」
「ん? ああ、そうだな」
「で……本題はここからだ。通常の人間は自我が圧壊し消滅してしまうとされるバックヤードに放り込まれたにも関わらずライル隊が生還したのはバプテスマ13当時に第一連王カイ=キスクの加護を受けていたから……そういうふうに見解がまとまったものの、その『加護』とやらの正体がサッパリだ。それが分かれば、今後敵と渡り合っていくのに有用だと俺は考えている」
 その言葉を受けて、カイの顔色が目に見えて変わった。
 変化を見せたのは、カイだけではない。それまではドクター・パラダイムと世間話をしながら食事を喉に放り込んでいるだけだったソルが耳ざとく会話を聞きつけ、カイをひと睨みしたかと思うとずかずかとこちらへ寄ってきたのだ。ディズィーが控えているのとは逆側のカイの隣を陣取ると、ソルは腕組みをし、「続けろ」と顎をしゃくり上げた。
 あまりにもふてぶてしい態度だったが、レオはそれに反目してマイ辞書を取り出すこともなく「あ、ああ」と頷く。ソルもかつて聖騎士団に所属していたことがあるので顔見知りといえばそうだったということに加えて、ソルの異様なプレッシャーがレオを従わせていた。
「だから……そのだな、カイ、お前が彼らに与えた『加護』ってのは結局なんなんだ。手順が分かれば俺にも出来るもんなのか?」
「いや、それは保証しかねる。私の考えが正しければ、ライル隊に施した加護というのは即ち12法階の外にある特殊法階を用いた術式のことで、当時イリュリアを襲いに来ていたヴィズエル及びそのマスターであるヴァレンタインには特殊法階でしか対抗が出来なかったため見よう見まねでやったんだ」
「マジか……俺はてっきりインコ経由で術式そのものを教えられたのかとばかり思ってたぞ。……カイ、ありゃ見よう見まねでやりましたで即時応対出来るモンじゃねえ。シンどころか俺でさえ生粋のバックヤード住民らしいイズナの手助けがあってやっとだった。パターンが変則的すぎて解析に時間がかかる」
「え……そうなのか? なんだか……妙に馴染む感じがして。割と、簡単に……」
 割り込んできたソルの言葉に応じるようにカイの手が空中に陣を描き、簡単な法術が展開される。その出来の良さにソルが顔をしかめた。カイが発現させた特殊法階で形作られた小さなサーヴァントが持つ法力エネルギーは、カイの言葉通り見事に彼の魂の波動のようなものに馴染み、それでいてこの世のどの法術にも属していない。
「……? なんだ、こりゃあ。こんなコードは見たことがない。しかも……アクセス不可コード、だと?」
「位相変化を常に起こしている、既存の術式ではディスペル不可能な特殊なコードで編んでいるんだ。当時、確かに私は直属の騎士団達にこれと同系統のコーティング術式を施している。加護の正体は、これだろう」
「で……何故それがあるとバックヤードの圧力に耐えられる?」
「それは……」
「——特殊法階ってのが、つまるところバックヤードの術式そのものだからだ。情報レベルが同等である故に相殺が起こる。……二〇一六年提唱のソウルシンカー理論は知ってるな?」
 言いよどんだカイの言葉をソルが遮る。レオは相変わらず気圧されたように「あ、ああ」と答えた。ソウルシンカー理論……人の魂をコード化し媒介にするなどの方法でバックヤードに接続を試みる理論だ。だがそのあまりにも馬鹿げた設計思想と非現実的な要求法力・技術に当時の法術学会は「お伽話」「夢物語」のレッテルを貼ってそれを却下、文献に記されるのみになった……という、ある意味で有名な理論である。「机上の空論」の言い換えとしても有名だが、二十世紀に提唱されたガイア理論程度の注目は浴びていた。
「要するに技術としての要求値が高すぎる。コイツが言う『簡単』とかいう言葉は信用出来ねえ」
「あー、それは同感だ。うむ……マイ辞書に後で書き加えておくとするか。ということはつまり『加護』の行使はカイにしか出来ないということだな。……ちなみになんでカイには簡単なんだ」
「知るかよ。生まれつきだろ」
 そう、恐らくは、生まれつきのもの。ソルは内心で独りごちる。天賦の才と言うのもばかばかしいぐらいの、生まれ持った性質や体質に相応するものがカイにそう感じさせているのだ。
 たとえばディズィーが生まれつき都市を丸ごと抹消出来る「ガンマレイ」の撃ち方を知っているように、或いはシンが物心ついたときには父親の奥義に迫るほどの黒い雷を出せたように、残酷なぐらい確かに「生まれつき」というものは存在する。
(そういや、昔クリフの爺さんが言ってたな。カイには魂が二つある、とかなんとか)
 随分と昔に忘れ去ったはずの言葉が今更のように脳裏に蘇った。気属性を独学で修めていたあの老人が、その力で見抜いたことだ、事実は事実のはず。
(ローマ以降危なげなく見えたから気にしてなかったが、ここに来てそれが重みを増す、か。こいつがバックヤードに異常なまでに親和性が高いのは、もしかすると……いや……まさかな……)
 ローマあたりで融合して安定したものと思っていたが、もし今も、「馴染んだだけで変わらずにふたつ、カイの中に存在している」のだとしたら。
(通常、魂は生き物に一つしか宿らない。同一存在でない以上、どれほど近しい魂でも、必ず相反してしまうからだ。アサシンの影野郎なんざいい例だ。奴は結局一度、魂が二つ体内にあったせいで死んだ。本能的に肉体の主導権を取り合ってしまったせいで)
 となると……最早、カイが魂を二つ抱えていてなお健常者のように十年以上も生き長らえていることには、奇跡も天文学的確率も全て飛び越えたおぞましい理屈が絡んでいるからだと考えるのが自然だ。カイの魂に相反を起こさない魂など、一つしかあり得ない。——カイ自身の魂、だ。
「カイ」
「どうした、ソル」
「あんま馬鹿なことは考えるんじゃねえぞ。いくらテメェが法術に長けていようと、『人間』であることには変わりねえ。無理をすればすぐ死ぬんだ。……お前は死ぬな。お前が死ねば、旗頭を失った人類は路頭に迷い、第二の聖戦勃発でさえ夢じゃあなくなる」
「随分と買いかぶってくれるな。だが、忠告は肝に銘じておこう。それに私もまだ死ぬ気はないよ。やるべきことが頂上が見えないほど山積みだ」
 そう言ってカイは、繰り広げられる話に口を出さないようにしつつも不安そうな表情を見せていたディズィーの腰を抱いて寄せ、「だいじょうぶですよ」と言うように彼女の額に口づける。レオが思い切り苦虫を噛み潰したような顔をほんの一瞬だけしたことをソルは見逃さなかったが、口には出さなかった。どちらかといえばレオに同情していたからだ。
「もう少しギアの立場が認められて、私が妻子を公表出来るようになったら……シンに弟妹を、と思わないわけじゃないし」
「あー……そりゃまあ気の長い話だ。頑張ってくれ、うん」
「その前に、シンには友達が増えたみたいだけど。ああ……そうだ、それではこのまま少し本題に入っても構わないかな? ドクターも、こちらへ」
「ん? 私かね? 向こうの二人は、良いのか第一連王よ」
「ええ、今は熱中しているようですから、水を差してまでのことではありません。今後の皆の動向について、軽く整理をするだけですから」
 ドクター・パラダイムが話に加わったことを確かめてカイが指を折って説明をはじめる。まず、カイは明日にはカーゴシップでイリュリアを発ち、オペラハウス——元老院がかつて根城にしていた施設——に乗り込み、可能ならそこでツェップとコンタクトを取る予定であるということ。ドクター・パラダイムとディズィーは城の守りの要として原則イリュリアに残って貰うこと。レオはツェップ経由で連絡を取れるようにしたうえで、独自裁量で自由に動いてほしいということ……
「それで、ソルは……お前は私が何か口出しをして聞く男じゃないからな。お前の動向に関しては私の方はノー・プランだ。今のところは。通信だけ取れるようにしておいてくれ。ただ」
「あ? なんだ」
「シンと……それからラムレザルを連れて行ってくれ。尤もこの二人は、きっと自発的にお前についていくと言うと思うけれど」
「また俺がガキの子守りか」
「お前が一番、エルフェルトに近い。なんとなくみんながそう思っているんだよ」
 カイの振り向いた先では、ラムレザルがシンが勧めた料理を頬張って咀嚼していた。リスのように頬を膨らませながらシンの話に相づちをうち、嚥下すると何事か答えてシンに笑いかける。たった二週間ほど前、彼女はあの時確かに「心を知らないヴァレンタインの人形」だった。でも今はもう、どこにでもいる、妹のために涙を流すような……ふつうの少女だ。
 彼女が「人間になる」という事象が一体どれほどの僅かな確率の上に成り立っている奇跡であるのかということをこの場の誰一人として勿論知り得ない。しかしその時皆が、少年と少女を見遣って思っていた。
 だから——絶対に、誰にも世界は……人間は滅ぼさせない、のだと。






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