03 玻璃の痛み、母親、知らない誰か
カイ=キスクは天才だった。類を見ないほどの、いっそおぞましいまでの、稀代の天才だった。彼の幸運はその才を疎ましく思い閉じ込めたりするような人物ではなく、思うさま伸ばして存分にふるう環境と機会を用意してくれる人物に保護されたことにあった。
「まあ、あの子はな、あまり人の腹から生まれて来たような気がせんようなところがあるからなあ」
その日、クリフ=アンダーソンが独り言のようにぽつりと漏らしたのを聞いていたのは、クリフの腹心の部下であったベルナルド、任されていたオーストラリア地区から報告のためにたまたま本部へ戻ってきていたレオ、そして催促のしつこいカイから逃げるようにして団長室で寝転がっていたソルの三人だった。
「団長、それはカイのことですか」
クリフの突拍子もない言葉に驚いて、レオが恐る恐る尋ねる。いけないことを親に勇気を振り絞って問いただすような声だった。それにクリフは明朗に笑い、ひらひらと手を振って見せる。
「ああ、母親の顔をうまく想像出来ぬと言った方が近いかの。ま、言葉のあやじゃ。誰も親なしにはこの世に生まれては来られぬ。ギアとてそれは例外ではない。何せ全てのギアには、その元となる生き物が必要じゃ」
「例外もあるぞ」
そんなクリフの態度に水を差すようにソルが呟くと、レオは更に顔を引きつらせ、ベルナルドが咳払いをした。
クリフが諫めるようにソルの方を見る。
「あの子はホムンクルスではないぞ、ソル」
「んなことは知ってる。遺伝子改良による試験管培養の子供も作れないことはないって話だ」
「そりゃ旧科学文明の話じゃろ。二百年近くも前の失われた技術じゃ。今の技術じゃあ、あの歳まできちんと欠損なく育つ人間を作り出すことは出来ん。それに国連の定めた規則で禁じられておる。やりおおせるには、旧文明の知識と設備、それに禁則をものとも思わない破綻した思想が必要じゃ。ほぼ有り得んよ。あまり子供を怖がらせるな」
「……そうだな。悪いな、爺さん」
はからずも子供扱いされたことにレオはやや気分を害したが、その場にいる他の三人の立場を考えてそれを口に出さず呑み込んだ。子供扱い以上に、クリフの「人の腹から生まれて来たような気がしない」という言葉がレオの中で引っ掛かっているせいもあった。
カイと出会うまで、レオは自分よりも優れた人間を見たことがなかったし、しばらくの間、自分よりも天才がいるという事実を認めたくなかった。そのうえ自分をこてんぱてんにのした相手は驚くほどの嬉しそうな笑顔で「これからお互いに研鑽しあっていきましょう」とか言うのだ。それが掛け値なしの彼の善意であり、決して嫌味などではないのだと理解するのに数年を要した。カイはなんというか、感覚が世間からずれていたのだ。
地元の裕福な子息が集う学校を飛び級で卒業し、騎士団に志願したレオは、年頃の子供たちというものをそれなりに見て育ってきていた。こんな時勢に学校へ通えるほどゆとりのある子供たちは、まあ大体考え方が曲がっていたり鼻につくところがあったり、そうでなかったとしてもどこかしら危機感が抜けているようなところがあったりしたが、カイにはそのどれも見受けられない。聞けば彼は学校なんか通ったためしもなく、大人たちばかりの集団の中独学で学んでいるのだという。そんな育ち方をすればまあ人の世から浮いた変な奴に育つこともあるだろう。レオはこれまで、カイの変わったところを、そのぐらいに考えていたのだけれど。
「まあ、そんな馬鹿げたことを今実現出来るとしたら、ギアメーカーぐらいのもんだろうな」
「それこそ荒唐無稽な話じゃろ。聖戦を引き起こした張本人が、どうして聖戦の抑止力になるような子供を作るもんかね」
「さあな。まあ、そうだ……馬鹿げた話だ。忘れてくれ、じいさん」
それきりソルは居眠りを始めてしまい、話は唐突にそこで打ち切られた。そのすぐ後にソルを探して団の敷地中をかけずり回っていたカイが、とうとう団長室に目星を付けてやってきたこともあり、誰かが蒸し返したりすることもない。あったことといえば、「クリフ様! そこにソルがいますね?! ……ああもう、ほら、やっぱりいた!!」と大声を出しながらどかどかと押し入ってきたカイを見て、「なんだか初めて会った時よりも随分俗っぽくなったなこいつ」とレオがぼんやり思ったくらいだ。
そのままソルを引きずろうとして、でも割と重くて、顔を真っ赤にしながらそれでも諦めないカイの顔を横から見ながら、それにしても本当に綺麗な顔をしているなあとレオは漠然と思った。女と見まがうほど美人だというよりは(いや、確かにそう思わないこともなかったのだが)、作り物めいた綺麗さだと感じていた。宗教画とかに描かれていそうな、黄金比で形作られたようなもののつくりをしている。
けれど、そんな美しさという概念を体現したような男が必死の形相で大男を引きずり出そうとしている光景は何故だか不思議とぴたりときていて、カイを天使や神の子とかではなく人間の一人なんだなと納得させるだけの何かを持っていた。カイのことを実際に天使だの神の子だのと言って崇拝している連中は、きっと彼がソルにくってかかる現場を見たことがないだけだ。
こんなに人間くさいやつが、そんなお伽話の中の登場人物みたいな存在であるわけがないではないか。
◇◆◇◆◇
イリュリア城の一室で資料を読みふけっているドクター・パラダイムをソルが訪ねたのは、カイと久しぶりに床を共にしたその次の日のことだった。ひとまずの危機が去ったので次なる課題を黄泉平坂にいる友人イズナとの連絡を取ることに定めたらしく、彼の周りにはそれに関連した書物やメモが山積みになっている。
ソルがノックもなしに室内に入ってきたことに気がつくと、それを咎めるような素振りは全く見せず、パラダイムは机から顔を上げてソルに手招きをした。
「おお、フレデリックか。君から私を訪ねてくるなんて珍しいこともあったものだ。よければそこに掛け給え、私に何か用かね?」
「ああ。テメェは確かこの前あの男のラボに同行したんだったな」
「ん? ああ、そうだとも。いや、実に興味深いもので溢れていた。くまなく設備を見て回る時間が取れなかったことが心残りだな」
「その中で何か気になったもんはなかったか」
「うーむ、何か一つが特筆して、ということはないぞ。何しろ全てが私にとっては未知の技術。ああ、ただ気に掛かったのは、メインコンソールが旧文明の技術と法力学を融和し、現代の法術による旧文明利器の再現物よりはるかにコストパフォーマンスに優れた仕上がりになっていたことだ。可能ならば分解して構成を書き留めておきたかったのだが、まあ、世界の命運が掛かっていたからな、それ以上詳しいことはわからん」
「他には」
「その他か? はて、どうだったか……」
パラダイムが首を捻る。辛抱強く考え込んでいるパラダイムの次の言葉を待っていると、数分ほどして、パラダイムが手を叩いた。
「おお、そうだった。メインのオペレータールームに行く途中でなにやら手術室や培養液の置いてある部屋を見かけたぞ。まあギアメーカーのラボの一つなのだから、培養液の十や百ぐらいあって当然だろうと、さして気に留めなかったのだが」
「培養液? ギア細胞のか」
「そこまでは見とらん。だがフレデリックやジャスティスをギアに改造したのはギアメーカーなのだろう? 培養室や手術室が備わっていること自体、別段おかしな話ではないと思うがね」
「それがギア細胞の培養液ならな」
「ふむ。フレデリック、どうやら君は今、難しい問題を抱えているようだな。……もしかして、カイのことかね」
カイの名を出されて、ソルの眉根がぴくりと動いた。
「なんでカイだと……」
「アリア殿も確かにまだ眠っている。だが、そちらに関しては、ディズィー殿がよく気に掛けているし、彼女を連れ帰ってからさほど焦った様子もない。急に私にそんなことを尋ねてくるとすれば、理由は別にあると見るべきだ」
「……なるほどな。で? インコから見て、カイは、どうだ?」
「それはどういう意味かね?」
「何かおかしなところがないか、と聞いている。近頃の異変に限らず」
「ふむ……」
パラダイムが再び唸る。しかし今度は、さほど間を置かず、再び口を開いた。
「そもそもだな、カイはおかしなところが多すぎて、急にそんなことを言われても難しい。まず思想だが、あれほど陰謀の渦巻く環境にいながら真っ直ぐな信念を貫き通せる人間は稀だぞ。私のギアとしての人間への偏見を変えたのは間違いなく彼だ。次に資質だが、これも言うまでもなく途轍もない。つい先日どうやらレオ殿はどちらかと言えば文系寄りの、実技は理論を飛ばして身体で動いてしまう天才型だということがわかったが、あちらの方がまだかわいげがあるだろう。カイは完璧すぎる。まあ、環境も良かったのだろうがな。それでもあんな人材は百年に一度を超える逸材だろう。家系に興味がないといえば嘘になる」
「あいつは孤児だ。親の名前も顔も知らない」
「なんと。では彼のルーツを辿ることは不可能ということか。研究者としては大変口惜しいと言わざるを得ん」
「それどころの話じゃねえよ」
パラダイムの落胆の声を、ソルの語調の強い断定が遮る。言葉は荒々しく、仄かに苛立ちをさえ含んでいた。パラダイムに対してのものではない。もちろんカイに向けられたものでも。その苛立ちの矛先は、ソル自身と、そして……あの男。
「この世のあらゆる権力を駆使しても誰もカイの親を知り得ない。……俺が今探しているのはまさにその、カイのルーツだ」
その言葉にパラダイムが息を呑んだ。
◇◆◇◆◇
ソルが連れ帰ったあの日から、アリアは一度も目を醒ましていない。彼女は城内の第一連王のテリトリーにある一室に安置されており、殆どの時間を、ディズィーが共に過ごしている。ソルもこまめに訪れてはいるが、夜遅い時間が殆どだ。アリアが眠り続けていることに誰よりも気を揉んでいるのが彼だということは周知の事実であったから、そのことに関しては誰も何も言わない。
ジャスティスからジャック・オーを用いることで素体還元された、このアリアという女性こそが母だとカイから知らされた時、ディズィーが抱いた感情は純粋な喜びと、そして幾ばくかの不安であった。ディズィーはずっとお母さんに会ってみたいと思っていた。卵の殻を破って生まれた時には既にどこにもいなかったけれど、それでもディズィーは自分の母親が誰であるのかということを薄々理解していた。自分を置いていなくなってしまったことに対する憤りなどは全くなく、ただ、いつか会うことが出来たら……と淡い期待を持っていた。
生まれて初めて目にした本物の(ジャスティスを模した粗悪な複製品などではなく)母親は、ギアの姿ではなく一人の女性のかたちをしていて、若々しく、なつかしいもので満ちあふれていた。ディズィーは彼女のそばについていたがった。シンが、水晶の中で眠っていたディズィーのそばにいたがったことと、理由は同じだ。
「私、お母さんにお話したいことがたくさんあるんです」
素敵な人と出会って一緒になったこと、元気すぎるくらい元気なかわいい男の子が生まれたこと、それからジェリーフィッシュの仲間たち、たくさんの大切な人と巡り会えたこと。最近で一番面白かったのは、恐らく、と前置きをしてソルがディズィーの父親であるのだろうと教えてくれたカイの表情だったこと。そうしたら、私たち、本当に家族ですね、とはにかんだディズィーにカイが向けた表情が、困ったように赤められていたこと……。
生まれてから九年間、触れることも出来なかった母親が目の前にいる。彼女に頭を撫でて貰えたり、抱き締めて貰えたりしたら、それはとても素敵なことだとディズィーは考えていたが、その一方で、もしうまく受け入れて貰うことが出来なかったとしても、仕方ないかな、と思ってもいた。融合する直前、ジャスティスに残されていたアリアの魂の半分は多くの人々を殺してしまった事実により発狂していたらしい、とカイから聞いている。だから彼女はすぐには目覚めないのかもしれない、とも。
それに、目が醒めたらずっと先の未来にいて、気がつかないうちに娘や孫まで出来ていたなんて、卒倒してしまってもおかしくない。
それでも、彼女はディズィーの母親だ。そんな思いと共に彼女の温かい手のひらをそっと握りしめていると、不意に部屋の戸が開いた。
「寒くないですか、ディズィー」
「カイさん」
訪れたのは執務を終えたカイだった。もう、そんな時間なのだろうか。はっとして窓の外を見ると、陽が沈みかけ、空が緋色と紺碧のグラデーションに染まっている。「今日は早かったんですね」と声を掛けると、カイがちょっとくたびれたふうに「ええ」と頷いた。
「レオどころか、ダレルまで気を回してくれて。働き過ぎだから少し休んでろなんて、言われてしまいまして」
「まあ。でもカイさん、確かにずっと働きづめでしたものね」
「ここのあたり矢面に立っていたせいで、小さな負傷も重なっていますしね。しかし、ゆっくり養生しろとは、それに関しては、私だって他の二人に言う権利があると思いますよ」
あの二人だって似たり寄ったりの働きづめですよ、と苦笑してカイがディズィーの座る椅子の隣に腰掛ける。カイの顔には疲労が色濃く表れていて、通信越しでも、他の連王二人が気に掛けるのもやむなしといった感じだった。
けれどそれでも、連王就任を持ちかけられ、思い悩んでいた頃のカイよりはずっとマシだ。もしかして、ソルさんがそばにいるからかな。ディズィーはこっそりそう思う。あの時も、剣の打ち合いでカイは立ち直った。男の子ってそういうところがちょっと不思議だ。
「ただまあ確かに、次期聖皇が選定されるまで、その仕事を誰かが肩代わりしないといけませんからね。二人は、私にそのお鉢を回すことが、ひとまずの最善と考えているようです。そうすると、これからメディアへの露出が増えるな。そのあたりも含めての養生しろ、というか……覚悟しておけ、ということなのでしょうけど」
「やっぱり、すぐに新しい人を選ぶのは難しいんですね」
「あんなことの後ですからね。信仰の地盤が揺らいでしまっている。アリエルスとしては、あの後人類は全て死に絶えるのだから、効率よく人々を揺さぶってあとはどうでもいいぐらいに思っていたのでしょうが……ああ、そうだ。エルフェルトさんとラムレザルさんは、どんな様子ですか? 慈悲なき啓示、ヴァレンタインの母としてアリエルスが最後にソルへ託したのが、彼女たち姉妹のあとのことだったらしいんです」
「二人とも元気でとてもいい子たちですよ。今は……多分、遊び疲れて眠っているんじゃないかしら。シンも一緒です」
「それは困ったな。そろそろシンには、九九を卒業してもらいたいのに」
「あら、それは、ソルさんにダニーミサイルズでハンバーガーを食べさせて貰ってから本気を出すと言っていましたよ」
ディズィーが笑ってそれを伝えると、カイはたっぷりと溜め息を吐いて肩を落とした。ソルの大雑把な教育方針について、そろそろ我慢の限界が近づいてきているらしい。
「でも、シンもそろそろ、一所に留まっても問題ないくらい大きくなりましたしね。丁度いい機会ですから、勉学と剣術の稽古をしっかり積んでもらいますよ。こればかりは譲れません。才能だけで戦っていては、私でさえ超すことなく終わってしまう」
「じゃあ私、みなさんの分のご飯を作って待ってようかな」
「それはいい。家族皆で食事を取る時間をどこかで取りたいと思っていたんです。……それまでに、アリアさんも目覚められれば、一番いいんですけど……」
カイの手が、ディズィーが握りしめているアリアの手のひらにそっと伸ばされた。ディズィーがずっと握っていたからだろうか、成人女性の体温にしては少し高い気がする。それでも体調を崩しているといった様子はない。そのことにほっとして、眠り続ける彼女の双眸に目を移す。
「——ッ?!」
そうして彼女のまぶたを注視したその刹那、カイの左目に痛みが走った。
それに呼応するように、突如として彼女の頑として伏せられていた瞳が開かれる。鍵が開け放たれたかのようにぱっちりと開いたエメラルド色の両眼で彼女はまばたきをした。
「お、お母さん……?」
「なっ……あ、アリアさん、目が醒めたのですか?!」
なんとか痛みの過ぎ去った左目を開け、驚きと共にそんな言葉が口を突いて出る隣で、ディズィーも息を呑んで初めて見た母親の双眸をじっと見つめていた。早くソルを呼んでこなければ。そう思い、立ち上がろうとしたところを、アリアの手に腕を掴まれて体勢を崩す。
「……アスカ?」
カイの腕を強引に掴み取ったまま、アリアの唇が開かれた知らない誰かの名前を紡いだ。
状況から判断するにカイに対してそう呼びかけているらしいということはわかるが、そんな名前には心当たりが全くない。カイは首を傾げる。やはり彼女は、寝ぼけているのではないだろうか。ソルがまだフレデリックだった頃の、知り合いの誰かとカイを見間違えて……。
「あの、アリアさん……」
そう思った途端、一度過ぎ去ったはずの痛みがまたずきりとこめかみに襲い来て、カイは額を押さえてその場に蹲った。
「飛鳥……? どうしたのよ。頭でも……」
アリアはそんなカイの様子を見て、また別人の名前で呼びかけてくる。その飛鳥という人物は、それほどカイに姿が似ているのだろうか。もしくは、人の見分けが付かぬほど彼女の意識が混濁しているのか。ソルがこの場にいればその真偽はすぐにわかっただろうが、困ったことに、彼の到着を待つよりもカイの消耗の方が早い。
「でも、おかしいわね。あなたこんなに長い髪だったかしら。そりゃあ前髪はずっと長かったし、フレデリックなんかはさっさとその鬱陶しい前髪を散髪しろなんてよく言っていたけど。あれ、そういえばフレデリックは? 彼はどこ? 私……最後に彼と会ったの、いつだっけ……?」
「カイさん! 大丈夫ですか?!」
一人でよくわからないことを喋り始めたアリアをひとまず差し置き、呻き苦しんでいるカイの方にディズィーが額を寄せた。ぐいと近づけられ、顔面を思い切り覗き込まれる。カイは咄嗟に左目のあたりを覆い尽くしていた自らの手のひらに感謝した。こめかみから走るこの痛みは、今も執拗に左目を刺激している。きっと今、自分の目は、充血の赤を超えて、ギアの深紅に染まり上がっているはずだ。この姿を見られるわけにはいかない。まだ……誰にも……。
「ねえ、飛鳥……」
ベッドから起き上がったアリアが、ディズィーと同じように、そばに寄ってきてカイの顔を覗き込んだ。間近で見ると、彼女の顔はディズィーの母というだけあって彼女によく似ている。どうでもいいのに、そんなことばかり思い浮かんでカイはまた呻く。
ディズィーと反対方向からしゃがみ込んで来たアリアは、カイの手のひらをディズィーの方へ押しのけ、カイの左目をじっと見た。まずい。カイはおののいて後ずさろうとするが、叶わない。どうしよう。こちら側は今この瞬間、誰にも晒してはいけないのに。必死になってなんとか青色になるよう働きかけたが、一瞬遅い。
間に合わなかったのだろう。その深い色あいをはっきりと確かめたアリアが、息を呑んだのがすぐにカイにはわかった。
「ううん……違う……飛鳥の目の色と、違うわ……。あなたは、飛鳥じゃ、ない……? でも、どうして……それならどうして、”飛鳥と同じ配列”を、う、うぅ……ああっ!!」
カイのギアを宿した左目に何かを触発されてしまったのか、彼女は赤く豊かな長髪を揺らして大きく呻いた。苦しみに耐えるように身体をよじり、何か、うわごとのようにぶつぶつと呟き続けている。その内容は判然としなかったが、単語のいくつかはカイにも聞き取ることが出来た。ギア・プロジェクト。TP感染症。フレデリック。そして……飛鳥、どうして、という、痛ましい叫び……。
朦朧としていく意識を叱咤し、カイは左目が元の青色になっていることに注力しながらディズィーの方へ顔を向けた。彼女の顔は青ざめきっていた。せめて元気づけねばと震える手のひらをしかと握りしめると、何処にも行かないでと言うように、強く握り返される。
「ディズィー、ドクター・パラダイムとソルを呼んでください、急いでアリアさんを彼らに! それから、レオに連絡するように、頼んで……」
「カイさん、カイさんはどうするんですか! あなただってこんなに……カイさん……?!」
「すまない、しばらく、仕事を……開けることになりそう、だと……ディズィー、お願いします……」
途切れ途切れに口に出したその言葉を最後に、カイは意識を手放した。遠ざかっていく世界の向こうで、愛する妻が自分の名を叫んでいる。それに応えてやることさえ出来ない自分が酷く情けない。薄れゆく最後の意識の中、カイはごめんなさい、またあなたを悲しませてしまう、という思いを噛みしめ、眠りに就いた。