04 なくした十字架といけすかない男

 修士論文の締め切りに怯えていたあの日が、酷く昔のように感じる。人生で一番大変な時期だった、とそれからしばらくの間は確信を持って人に話していた。卒業後に入った研究室でのプロジェクトは、確かに大変だったがやり甲斐があり、あれほど辛い思いをしたことはない。
 けれどそれも、過ぎ去った日々のこと。修士論文なんかよりずっと辛い思いを、既に幾つも重ねたあとだ。今や名もなきギアメーカーとなった男は、その時、もう戻らない遠い過去に思いを馳せていた。
「ままならないものだね、本当に」
 この世にギアと人間との長い争い、「聖戦」を引き起こした張本人である彼はそんなふうなことを呟く。この言葉をもし彼の友であり、種の一つを託した「背徳の炎」たる彼が聞いていたら、きっと顔面が潰れるまでぶん殴られていたことだろう。彼は昔から頭がいいくせに、腕っぷしも何故か妙に強くて、本当は回路を弄って故障の原因を突き止められるはずなのに、調子の悪いテレビは角を殴って復調させようとするようなところのある男だった。
 本当は聖戦など引き起こすつもりではなかった。そんなことを言ったところで、最早、世界中の誰もがあの男の言葉を信じてはくれないだろう。それだけのことを引き起こしてしまったという自覚は彼の中にもある。増え続けるギアの暴力により、人類の数は激減した。人々は住める土地を追われ、昼夜を問わず殺戮の恐怖に怯え、貧しきは更に貧し、富はごく一部に集中している。
 文明が後退したことこそ、師である第一の男が引き起こした「再起の日」が原因でありあの男の責ではないにせよ、その後、これほどまでに再進歩が妨げられてしまったのは紛れもなくあの男の招いた結果だ。ギアという天敵に生きるか死ぬかの日々を強いられた結果、人々は技術進歩を武力のみに注力させるようになった。
 戦争は確かに技術をめざましく発達させるが、平和がなければ、それを人々が正しく享受することは出来ない。二一七二年現在、通信技術はかつてのインターネット通信網並の遠隔通話を可能にしているが、それを行使出来るのは限られた人間のみ。旧文明を禁じた結果移動手段も大幅に絞られ、日常的に遠距離移動用の動力を利用出来るのは人類守護の大義名分を負った聖騎士団とごく僅かな特権階級に留められた。人々は文を主たる手段として遣り取りし、馬をおおよその移動に用いる。これでは中世と何ら変わりない。
 けれどそれでも、本当に、あの男は戦を引き起こしたかったわけではなかった。むしろその逆で、戦争を抑止するためにこそ、ギア細胞のプロジェクトがアメリカ本国に兵器利用を目的として買い取られた後も第一人者として開発に関わり続けた。あの男には自信があったのだ。自らが開発した知識共有システムを用いれば、兵器とされてしまった全てのギアに指令が出せる。それを使えば戦争を未然に防げると考えていたが、それは全て、目算の甘い机上の空論に過ぎなかったと今は言わざるを得ないだろう。
 アリアは発狂した。フレデリックともう一度会えるようにと説得したことでコールドスリープを了承させ、なんとかギア化の施術を行う前にTP感染症の治療には成功したが、その後の起動実験で慈悲なき啓示の干渉により彼女の魂は汚染されてしまい、ジャスティスは全てのギアを従えて破壊衝動をまき散らす破壊神と化した。汚染され切る前に彼女の魂のサルベージを試みたものの、約半分を取り出したところで続行を断念。アリアの魂から記憶データをフラグメント化し、いつかジャスティスをアリアに還元するため、あの男はバックヤードへ接続しそこを根城とするようになる。
 その間にギアと人類の戦いは激化し、百年近くが経った今なお、聖戦は終結の目処を見ていない。ジャスティスは既にあの男の統率の手を離れているため、あの男には、自らの手で聖戦を止める手立ては残されていない。
「ままならぬのは、いつの世も人の定めです。神は我々をそのように創られた」
「……君の口から聖書の話を聞くのは、いつぶりかな。レイヴン」
「覚えていませんな。それより、お聞きになられましたか、背徳の炎が聖騎士団に与する……という話は」
「ああ。ここ百五十年ずっと地下で活動していたフレデリックが、今になって聖騎士団に入るなんて、一体どういう心境の変化があったんだろう。僕にはわからないな。その決断が事態を好転させてくれればいいんだけど……」
 側近の一人であるレイヴンが情報収集から戻り、あの男の前に姿を現す。神の御許に逝くことを永遠に許されない身体となった彼は、あの男の思想に賛同し、力を貸してくれる存在の一人だ。尤もあの男の協力者であるという点とその少々変わった性癖ゆえに、何度か接触した背徳の炎にはすっかり嫌われてしまっている。
「そういえば、今、聖騎士団には年若い英雄がいるのだったね」
「ああ、あの天才や神童などと謳われている少年ですね。実態は接触したわけではないので分かりかねますが、少なくとも功績をあげているのは事実でしょう。希望の少ないこの世の中ですから、期待や信望も過度に寄せられています。……それが如何しましたか?」
「いや……ふと気になったんだ。フレデリックと彼の少年との間に、何かがあるのではないかって……そうじゃないにしても、あの少年、少し気に掛かる。僕に……何か、似ている気がして……」
「あなたに?」
 レイヴンが訝しげに目を細めた。あの男には既に地上に残っている親類縁者は存在しない。彼は所帯を持たなかったし、親兄弟はとうに寿命で死に絶えている。容姿にしたって、バックヤードの知識を使って人の理を超えて生き長らえるうちに、根幹のDNAこそかろうじて同一性を保っているものの、随分と変化をきたしてしまっていた。ギアになって成長を止めたフレデリックと違い彼は緩やかに子供の姿へ向けて若返っていっており、姿形は、どこか聖書を罪としてその身に押し込められたような異形へと変わってしまっているのだ。
「法術に関する適正値の高さとか……そもそもの生まれ持った法力容量とか」
「それこそ、気のせいでは? 百年に一人ぐらいはそういった天賦の才を与えられた者も生まれ出るでしょう」
「それは確かにそうかもしれないけどね。何故だろう。生体法紋の波長が、僕と酷似しているんだ。しかも……昔の、まだ正真正銘真人間だった頃のそれではなく、今のこの……まじりものの僕のそれと……」
 けれど理由がわからない。そう言って口を結んでしまったあの男に、レイヴンも閉口してしまった。生体法紋はいわば法力波長における指紋、或いはDNA証明だ。通常血縁が近しい人間はこの波長が相似する傾向にある。法術適正や法力容量もこれに関連づけられ、生体法紋の波長が際立ってクリアなものはそのパターンに関わらず、優れた法術使いとなる可能性が高い。
 これが他人の空似で酷似までいくケースは珍しい。赤の他人同士が近しい生体法紋を持っていた場合、巡り巡って古くに袂を分かっていた遠縁の者と出会ったのだと考えるのが一般的なぐらいである。
「それに……彼を見ていると、昔なくしてしまった十字架のことを思い出してね」
「十字架、ですか?」
「ああ。件の少年は、随分と信心深いみたいだからね。僕も昔はミサとかに使ってたんだけど、フレデリックと道を違えてしまった時に神様なんかいないって思って、僕の師に譲ったんだ。何故かひどく欲しがられて……師は、今もあれを持っているのかな」
 十字架なんてもう随分長いこと見てないんだけどね。額に列聖者の如きスティグマータを浮かべた男が、皮肉るようにそう笑った。


◇◆◇◆◇


 その日のカイは、珍しいことに少しばかり緊張していた。本日付で、敬愛するクリフ=アンダーソン団長直々の推薦により新しい団員が入ってくるのだという。聖騎士団は基本的に志願兵によって編成される組織なので、新入団員自体はしょっちゅう入ってくるものの、クリフの推薦付きなどという事態は前代未聞だ。
 一体どんな人なのだろう。クリフ団長のように、尊敬できる人なのだろうか。いやでも、昨日クリフ団長に聞きに行ったら「あいつは昔馴染みの悪友じゃ」とかなんとか言ってたから、喧嘩好きの、ちょっと怖い人かもしれない。それに団長の昔馴染みなのだから、きっとカイよりうんと歳が上なのだ。出会い頭に子供だと思ってなめられたらどうしよう。カイは思案する。あまり体格が良い方ではないうえに優づくりな顔のおかげで、初対面の相手には下に見られることが少なくないのだ。
 しかしカイも、もう守護天使となり小隊一つを預かる身である。そう遠くないうちに守護神への昇格もほぼ決まっているという話だ。ここはひとつ、威厳というか、守られる立場の子供ではないというところを見せなければ。けじめというやつだ。誰からも侮られない強い男になりたいというのが、カイの目下の目標なのである。
「これ、カイ、廊下を走るべからずじゃぞ。どうした、普段は絶対にそんなことをせんのに」
 ——などと考えていたら、通りがかったクリフ団長その人に頭を軽く小突かれて注意されてしまった。カイははっとして立ち止まり、「申し訳ありません!!」とクリフが「そんなに謝らんでもええわい」と諫めるぐらいに頭を下げた。

 クリフと共に団長室へ入ると、例の新入団員は既にその部屋の中に通されたあとだった。
 室内で待っていたのは男だった。剥き出しになった二の腕から、がっしりとした体躯であることが伺える。まだ制服が支給されていないので、カイにとってはあまり見慣れない、派手で荒っぽい印象を与える服を着て窓際に立っていた。そんな荒々しい容貌の中で、頭の上からぴょんと跳ねるアースコードのような長いポニーテールが妙に目を引く。
「すまんの、待たせとって。紹介しよう、この子が話しておったカイじゃ」
「あ、あのっ、よろしくお願いします……」
 クリフに促されるままに腰を折る。振り向いた男は厳つい顔をしており、いかにも、腕っ節自慢の荒くれ者の猛者、という体であった。緊張から多少噛んでしまったことをカイは後悔したが、次に返ってきた男の言葉で、そんなものはすぐさま吹き飛んでしまう。
「あ? なんだ、この、ひょろっちい坊やは」
 第一声がまず容姿への罵倒だったことを、この先一生、カイが忘れたことはなかった。
 カイはあまりの事態に、はじめ自分が何を言われたのかわからなくて、ぽかんとして固まってしまった。いきなりのご挨拶だ。なんというかあんまりだ。確かにカイはその容姿ゆえ侮られやすい、しかしそれにしたって、これほどまでに小馬鹿にした態度を取られたことは今まで一度もなかった。何しろカイは神童であり、天才であり、時に偶像であり、それ以上に、多かれ少なかれ、騎士団に所属している時点である程度の能力を持っていると認められていたからだ。聖騎士団は基本的に審査を用いない志願制だが、子供に限っては、才のないものは入団を認められない。未来ある命が無駄に散ることをクリフが良しとしないためである。
「今……わたしのことを……なんて言いました……?」
「だから、華奢でちびっこい坊や、こんなところで何してる。死ににでも来たのか? 坊やみてえなガキんちょが来る場所じゃあねえだろう、ここは。安全なところでかけ算でも暗唱してな」
 肩を震わせ、それでも一応の礼節は持つべきと言い聞かせてめいっぱい低い声を出してそう訪ねると、男はあろうことかカイのことを鼻で笑った。どんなに頑張ってみたところでカイの声は変声期を迎える前のそれであり、まだ愛らしいソプラノの鈴を鳴らしていることが面白かったらしい。
 しかもそのあと本当に子供にそうするように頭をぽこぽこ撫でてくるので、カイは忍耐が限界に達し、頭を撫でられているまま今にも泣き出しそうな顔で勢いよくクリフの方へ振り返った。
「く……クリフ様!! わたし、もう、我慢がなりません!! なんなんですかこの失礼極まりない男は!!」
 流石にこれはカイがかわいそうだと思ったのか、クリフがやれやれと息を吐く。そして屈辱に打ち震えるカイの頭から男の手を引き離すと、溜め息混じりに男に言い含めた。
「これ、ソル。そんなに食ってかかるこたあないじゃろが。カイはこう見えて何人もの部下を預かる小隊長じゃぞ。ま、確かにちいとばかり幼いのは事実じゃが」
「クリフ様!!」
「小隊長? この坊やが? どう見たってジュニアスクールのお子様ぐらいの……」
「わたしは十四歳です!! 今年の秋で十五になります!!」
「……やっぱりジュニアスクールの年頃じゃねえかよ」
 男——ソルと言うらしい——は心底面倒くさそうな顔をして手持ちぶさたになった手で頭をぼりぼりと掻きむしった。
 カイはといえば、頬をぷうと膨らませて、全身全霊でソルへ威嚇を繰り返している。初顔合わせでこれじゃあ失敗したかのう、とクリフは困ったように肩をすくめる。これからの騎士団を若いものたちに任せて行くにあたって、この二人には、どうしても上手くやって貰わねばならない。カイを守れるほどの腕利きは、クリフの知る限りこの世に二人といないのだ。
「まあ、お前さんからしてみればどんな人間も小童じゃろ。カイにばかりそれほど辛辣に当たる必要もあるまい。で、本題じゃが、お前さんにはカイの補佐を頼みたいんじゃ。端的に言えば、カイの面倒を見てやってくれんかの」
「い……嫌です!! こんな男に!!」
「断る。こいつとはどう足掻いてもそりが合いそうにない」
「そういうわけにもいかん。このあたりは、お前さんに約束したものを渡すにあたって織り込み済みの条件じゃ。頼んだぞ、ソル」
 にこりと有無を言わせぬ笑みを浮かべ、クリフはソルの反論を押し切った。それからカイの両肩をぽんと掴み、ぐずるややこを宥めるようにしてよしよしと諫める。カイがクリフのなだめすかしには特にいやそうな素振りを見せずに甘んじているのを見てソルは僅かに顔をしかめたが、実年齢はともかく、若く見えるソルと比べてクリフはどう見ても老齢のおじいちゃんなので、そのあたりを追求することはやめた。
「チッ……しゃあねえな……」
「頼むから仲良くやっとくれ。ああ、そうじゃ。ひとまず形式上は、ソルはカイの部隊に入って貰う手はずになっておる。一応上官じゃ、カイのことをきちんと尊重してやっとくれ。カイも、あまりソルに突っかからんようにな。ソルの方がお前さんより幾らも修羅場を潜ってきとる。……これ、カイ。まだ納得いかんのか。この決定は団長命令じゃ、撤回はせんぞ」
「で、でもクリフ様、この男の言うことに同意するのは非常に腹立たしいのですが、とてもじゃないですけど、うまくやっていける自信が……」
「なんじゃそんなこと。この時間なら修練場のAフロアが空いておるな。手合わせでもして、それからもう一度考えてみると良い。汗を流したら敷地内の案内でもしてやっとくれ。ソルの部屋は一〇八号室じゃよ」
「一〇八……わ、わたしの向かいの部屋じゃないですか?!」
 カイががくりと膝を突いた。どうにも、第一印象はお互い最悪中の最悪、にしかならなかったらしい。


 手合わせはカイの惨敗に終わった。生まれて来てこの方、味わったこともないような屈辱的な敗北だった、とその日カイは日記に記している。負け知らずとまでは言わないが、カイは相手に圧倒的な差をつけることはあれど、圧勝されてプライドをへし折られるような経験はしたことがなかった。
 ソルの実力はぬきんでていた。彼は、これまでカイが見たこともないくらい暴力的かつ一方的に事を押し進めた。これに比肩する戦いぶりは、崩壊しかけた戦線を独力で支え抜いたクリフの後ろ姿ぐらいのものではなかろうか……というのが素直なカイの感想だったが、感情がどうにも邪魔をしてそれをうまく認めたがらなかった。
「……シャワーは、こちらです。大浴場もあります。今なら人も少ないでしょう。使うのでしたら、どうぞ」
「贅沢な設備だな。おい、坊や、怪我は。腕が攣ってたりは? 必要なら身体ぐらいは洗ってやるが」
「子供扱いしないでください! この程度で身体が攣るほどやわな鍛え方はしていませんので!!」
「……強情だな」
 クリフに頼まれた「面倒を見てやってくれ」という文言をどうも履き違えているのではないかといった調子でソルが尋ねてくる。そんな、子供の世話をしてくれというわけではないのだ。カイはもう十四歳だ。そのくらい、一人でちゃんと出来る。
 しかしソルは気遣ってやっているのに解せぬといった調子で首を傾げ、カイの薄汚れてしまった法衣を掴みぶらりと彼ごと持ち上げた。
「成長途上の身体は無理をしすぎると後に響くぞ。健やかに背を伸ばしたいのなら……」
「うるさいな。毎日栄養に気を遣っていますし、睡眠もきちんと取って、必要な量の運動をしています。もう背が伸びきった人は放っておいてくださいませんか」
「……コンプレックスなのか? まあそのうち伸びるだろ。まだまだ伸び盛りじゃねえか、十四なら……」
 溜め息と共にひょいと地面に降ろされ、彼はすたすたと脱衣場に向かって行ってしまう。体中の汚れを落としたいのは本心なので、仕方なくカイも彼の後を追った。
 脱衣かごの前にカイが立った時には、まるで脱ぎ捨てるような速さで衣服を落としたソルが既に最後の一枚をかごに放り入れて生まれたての姿になっているところだった。思わず正面からそれを直視してしまい、赤面と共に固まる。男らしいと形容するに相応しい鍛え上げられた肉体。無駄なく筋肉が盛り上がり、彼の無愛想さと相まって、これでもかと逞しさを押し出している。
 浴場へ消えていく彼の背をぼんやりと見送り、それから思い出したように服を脱いで自らの肢体を眺め、カイは落胆と共にがくりと肩を落とした。
「華奢、か……」
 確かにあれと比べられてしまうと、そう言われても仕方ないような気がして、より一層嫌気がした。持っている者には持たざる者の気持ちがわからないのだとは、カイの法術の才を妬んで幾度か言われたことのある言葉だが、その言い回しが、彼と自分との間にはしっくりときていた。一刻も早く、あの男に追いつきたい。そう強く思って拳を握る。あの男に子供扱いされなくても済むように。あの男の隣に、肩を並べられるくらい強く……。
「あんなに子供扱いされたのは、流石に初めてだな……」
 カイと手合わせをして、それでもカイを幼子のように言う者は今までにいなかった。カイの実力はそれぐらい高かったし、まず引けを取ることもない。だからカイは自分の実力をある程度正確に理解しているつもりだ。今回の場合、あの男が強すぎたのである。
「……一緒にいれば、私ももっと、強くなれるのだろうか」
 脱いだインナーをぎゅっと握りしめてまぶたを伏せると、連鎖的に先ほど見たばかりのソルの裸体を思い浮かべてしまって、カイは思わず情けない声を上げた。
「うう……で、でも、ほんと、心配です……ぜったいあんな男とはわかり合えない……一生かけても……」
 ばくばくと嫌に大きな音で鼓動を鳴らし始めた心臓を必死に抑えてシャワーの方へ走っていくと、「滑って転ぶなよ」という声が飛んでくる。カイはかちんときて抗議してやろうと口を大きく開いたが、そこから出てきたのはなんだか妙に上ずって跳ねた声だったもので、ソルには「おいおい大丈夫か坊主」だなんて言われてしまい、本当に散々だった。ろくな日じゃない。